防衛室長である不知火カヤの手元には、新たなデータファイルが届けられていた。
草(スパイ)として放っているFOX小隊――今回はFOX2・ニコによって再構築された、
対象『タグ』に関する中途報告書である。
前回の不確実な断片情報に比べれば、今回の報告の精度は天と地の差があった。
端末のトップにはタグの詳細な背格好、身体的特徴、そして何より、鮮明な『顔写真』が添付されている。テキストデータには、ニコによる分析が添えられていた。
『対象は少し前まで、写真や監視カメラに映ることを大変警戒する様子がありました。
しかし最近になってあまり気にしなくなったようで、個人情報が多少は入手しやすくなっています。推測ですが、身分を隠す必要性が無くなったと考えられます。この件に関しては――』
そこから先にもいくつかの考察が整然と並んでいたが、カヤのヤギめいた瞳孔は、それらの文字列を完全に無視した。彼女の意識は、添付された一枚の顔写真のみに強烈に収束していた。
ガンッ、と革張りの椅子が後ろに弾き飛ばされる鈍い音が響く。
カヤは突如として立ち上がり、早歩きで執務室のドアへと向かった。
ドアノブに手をかけ、物理的なロックが確実にかかっていることを、ガチャ、ガチャと二度、執拗に確かめる。さらに手元の端末を素早く操作し、本日の予定表を再チェックした。
空白、今日の来客予定はない。仮に誰かが来るとしても、新たな報告書を携えた部下くらいのものだ。
完全に閉ざされた安全な空間であり、自身の今の姿を誰も見ていないことを確かめると、カヤは喉の奥でわざとらしく「ゴホン」と咳き込んだ。
防衛室長らしからぬ取り乱した己の振る舞いを上書きするように、強引に呼吸の乱れを整える。
足取りを落ち着かせて執務机に戻り、再び椅子に腰を下ろしたカヤは、顔写真が表示された端末を両手でしっかりと握りしめた。
画面の縁を掴む指先が、白く鬱血するほどに強い力が込められていく。
ガラスの向こうからこちらを見つめ返す、死んだ魚のような瞳と、造形品のごとき鉄面皮。
その輪郭を食い入るように見つめながら、カヤの薄い唇の隙間から、熱を帯びた吐息が長く漏れ出した。
「間違いないです」
静まり返った執務室に、熱に浮かされたような囁きが落ちる。
「あの時お会いした顔と、一切違いがありません」
冷徹を自認する彼女の胸の奥で、決して他人に悟られてはならない昏い熱が、音もなく燃え上がっていた。
始まりは滑稽なものだった。
防衛室の執務机の上には、キヴォトス全土の治安に関する最新のレポートが、紙媒体と電子データで山のように積まれていた。
カヤはカップをソーサーに置き、一つのファイルに視線を落とした。
タイトルには『特別手配犯 狐坂ワカモの動向調査に関する中間報告』と記されている。
連邦矯正局――各学園では手に負えない凶悪な生徒たちを収容し、文字通り『矯正』するための巨大施設だ。
そこからの脱走に、史上初めて成功した囚人――通称「七囚人」は、各学園の治安維持機関にとって最大の脅威である。
その一人である「災厄の狐」こと狐坂ワカモを収監するために、当時機能していたSRT特殊学園が多大な労力を払って奔走したことは、カヤの記憶にも新しい。
指が、タブレットの画面をスワイプする。
(連邦生徒会長が失踪して数週間後。打つ手を失ったリンは、機能不全に陥ったサンクトゥムタワーの制御権を回復するため、あの人があらかじめ外部から招聘していた大人を用いてシャーレを始動させようとした。そこにワカモが介入してきた、と)
当時の混乱はカヤにはその後である。とっても苦々しい記憶だ。
結論から言えばタワーの制御権は回復し、シャーレは『先生』と名乗る大人の下で稼働を始めた。ワカモはその混乱の中で再び姿を消した。
「解せませんね」
眉根を寄せ、低く呟く。
あれほど破壊と混乱を撒き散らしてきたワカモが、あの一件以来、ピタリと大規模な破壊活動を沈静化させているのだ。小規模な暴行傷害や器物破損は起きているものの、本来の凶悪性からすれば文字通りの小康状態と言っていい。
(自身で制御できない破壊衝動に、あるがまま従っていたワカモがなぜ急に牙を収めたのか。
何らかの事件の準備期間か、あるいは……)
防衛室長としての危機感が、カヤにその原因の徹底調査を命じていた。
そして今、目の前にはFOX小隊を総動員して集めさせた、ワカモの小康状態の『真実』が記された報告書が開かれている。
カヤは深く息を吸い込み、報告書の核心部分である『動機推測』の項目へと視線を移した。
『対象(狐坂ワカモ)の活動沈静化の主要因について』
『シャーレ着任時に発生した武力衝突において、対象はシャーレの顧問である【先生】と接触。
その際、対象は先生に対して強烈な好意――俗に言う「一目惚れ」を発症したものと断定される』
『以後の対象の行動原理は、破壊衝動から「先生へのストーキングおよび接触の試み」へと完全にシフトしており――』
「……は?」
防衛室長らしからぬ、素っ頓狂な声が漏れた。
カヤの細い瞳孔が限界まで収縮する。視線が、文字列を何度も往復した。『一目惚れ』『好意』『ストーキング』――凶悪犯の動向調査書には絶対に記載されるはずのない、ピンク色の幻覚のような単語の羅列。
「…………っ!?」
カヤの端正な顔から、数秒の間にスッと表情が抜け落ちた。
信じられないものを見たという純粋な驚愕に唇を開き、ふざけた報告を上げてきたという怒りから眉を吊り上げる。
しかし、提出者欄に連なるFOX小隊の精鋭たちの名を確認して紛れもない現実だと悟った瞬間、彼女の表情は完全な呆然へと凍りついた。
そして最後に行き着いたのは、七囚人と恐れられるほどの脅威が、色恋沙汰という陳腐な病で牙を抜かれた事実に対する、強烈な嘲笑だった。
「ふ、ふふ……っ。あははははっ!」
両手で顔を覆い、肩を震わせて笑い声を上げる。
「七囚人……災厄の狐が一目惚れ? 大人に? 馬鹿馬鹿しい。本当に、心底馬鹿馬鹿しい!」
笑い声は次第に険しいトーンへと変わり、報告書のタブレットを投げ捨てようと腕を振り上げ――直前でハッと我に返り、おそるおそるデスクの上に戻した。
「どれほど凶悪な力を持っていようと、所詮は感情に振り回されるだけの子供……。
そのような不確定な要素に、このキヴォトスの治安が脅かされていたとは、反吐が出ますね」
嘲笑を浮かべたまま、椅子に深く背中を預けた。
その時――カチャリ、と厚い扉の向こうでラッチの擦れる音が響いた。
廊下を通り過ぎる誰かの足音が、静まり返った部屋に小さく届く。
カヤの肩がビクリと跳ねた。ハッと息を呑み、執務室のドアへ視線を突き刺す。
(鍵が、開いている……!?)
施錠を失念していたのだ。
もし今の、百面相のように表情を崩して大笑いする姿を、部下や他の室長に見られていたら?
冷やりとした嫌な汗が、白い背筋を伝い落ちる。完璧な為政者としての仮面を、下世話な報告書ごときで崩してしまったという失態。
カヤは弾かれたように立ち上がり、早歩きでドアへと向かうと、ドアノブの物理ロックを二度、
執拗に確かめた。さらに壁面のモニターフォンを素早く操作し、着信時に自分の顔が即座に映らないよう『映像オフ』の初期設定を上書きする。
扉に背中を預け、カヤは深く息を吐き出した。
(今度から一人で報告書を読む際は注意しましょう。特にあのシャーレ絡みの情報は、私の感情を不快なほどに揺さぶる)
防衛室長の心に、先生という『大人』と、その周囲で狂い始める生徒の情念が、予期せぬノイズとして深く刻み込まれた瞬間であった。
シャーレの躍進と数々の問題解決はキヴォトス全土のインフラと治安を安定させ、結果として連邦生徒会が抱える過密な業務に確かな隙間を生み出していた。
毎日深夜、あるいは徹夜にまで及ぶのが当たり前だった残業は確実に減り始めている。
最近では各室長たちが「いかにして部下を定時退勤させるか」という、かつてなら考えられなかった贅沢な悩みを抱える程度には、組織全体に余裕が生まれてきていた。
そんな折、定例会議の席で首席行政官である七神リンから、一つの提案が出されたのだ。
「各室長は、積極的に休日を消化してください」
書類から顔を上げたリンの言葉に、会議室は一瞬の静寂に包まれた。
連邦生徒会の首脳陣が土日でさえも登校して業務に当たっていることは周知の事実である。
『責任者が休んでいないのに、下の者が気兼ねなく休めるわけがない』――それがリンの言い分だった。
(なるほど、一理ありますね。上の者は常に下の者の模範となるべきです)
カヤは、個人的な趣向と為政者としての美学からその意見に素直に賛同した。
だが、同時に実務家としての懸念も即座に口をついて出る。
「趣旨には大いに賛同いたしますが、リン行政官。各室長が一斉に登校を控えるような事態は避けるべきでしょう。何か不測の事態が起きた際、意思決定権を持つ者が不在では、組織防衛上あまりに脆弱です」
その指摘に、他の室長たちも揃って頷いた。キヴォトスの情勢はいつ何時急変するか分からない。トップの一斉不在による初動の遅れは、そのまま連邦生徒会の失策に直結する。
「ええ、無論です。ですから、各部署のリスクを考慮した上で、休暇を分散化させるローテーションを相談したいと思います」
リンの手元から配られた端末に、各室の業務負担と管轄領域を可視化したスケジュール表が展開される。会議はそのまま、いかに組織の即応性を損なわずに休暇を割り振るかという、相談の場へとすみやかに移行した。
そして協議の末、カヤの休暇は平日に設定されることになった。
土日は大人達との会合、裏のコネクションの維持・構築が立て込んでいる。
他部署との不在リスクを相殺し、防衛室としての監視網に穴を開けない最適な空白地帯を探った結果、平日に振替休日を充てることこそが、彼女にとって都合の良い着地点だった。
そして迎えた、平日の昼下がり。
D.U.の市街地。普段の白い連邦生徒会の制服とは違う、派手さを抑えた清楚な私服に身を包んだカヤは、つばの広い帽子を目深に被って街を歩いていた。
組織のリスク分散という建前を盾にして、カヤがこの平日の時間帯を選び取ったのには、誰にも明かせない個人的な理由があった。
――連邦生徒会長と二人だけで行った、あの裏通りの喫茶店。
あそこへもう一度足を運ぶのなら、可能な限りあの時と似た状況で訪れたかったのだ。人でごった返す休日の騒々しさではなく、街がほどよく落ち着きを取り戻している平日の静けさの中でなければ、あの人が残した気配を正確になぞることはできない。
だが、せっかくの休日だというのに、彼女の手には飾り気のないタブレットがしっかりと握られていた。
街のショーウィンドウや流行りのスイーツよりも、D.U.の治安維持データや各自治区の動向報告書に目を通さずにはいられない。それは実務に追われる権力の奴隷に染み付いた、悲しい習性だった。
目的の喫茶店へ向かう道すがら、昼時の路上カフェが並ぶ一角に差し掛かった時のことだ。
雑踏の中に溶け込もうとしているが、規則的な円陣を組んで遠巻きに周囲を警戒するヴァルキューレ警察学校の生徒たちの配置に、カヤの目が留まる。
(あの警護の陣形……対象はシャーレの関係者ですか)
円陣の中心。パラソルの下で、氷の浮いたコーラグラスの水滴を指先で拭いながら、一人無言で
待機している背広姿の男がいた。
その異様な佇まいを認めた瞬間、カヤの足は目的地の喫茶店を忘れ、吸い寄せられるように彼が座るテーブルへと向かっていた。
その日、カヤは見つけたのだ。
『超人』の後追いも碌にできないリンたち凡庸な官僚でもなく、不可解な奇跡で生徒を導く
シャーレの『先生』でもない。
『先生』の後ろに控えている、もう一人の大人――『タグ』という存在を。
そうして強固に二重施錠され、外部からの通信映像もシャットアウトされた防衛室の現在。
不知火カヤは、タブレットの画面に映る無骨な男――タグの顔写真から、どうしても視線を外すことができずにいた。
指先で画面の冷たいガラスをそっとなぞる。胸の奥で、心臓の鼓動が驚くほど早く、強く波打っていた。
(……本当に、滑稽ですね)
薄い唇を自嘲気味に歪める。少し前、一目惚れで牙を抜かれたテロリストを腹の底から嘲笑していた自分が、今や全く同じ熱に浮かされているのだ。
あの狐を笑う資格など、今の自分にはどこにもない。
小さく吐息をつき、タグに関する報告書の文字列へと視線を戻した。
依然として彼の出自は深い謎のベールに包まれているが、先生とは別のベクトルに基づいて行動していることは、数々の事象が証明していた。
カヤとしては、先生という男は極めてウェットな人物という評価である。悪く言っているわけでも、褒めているわけでもない。
ただ紛れもなくわかっていることがある――この男とはソリが合わない、断言できる。
対して、タグとは手を組めるという不可思議な直感が働いていた。
(なぜ、私はこれほどまでに彼へ惹きつけられるのか)
ふと、懐かしい情景が脳裏をかすめる。
それは中央にそびえ立つタワーの主であった『連邦生徒会長』との、ささやかな記憶。
多忙な実務の合間を縫って後輩のカヤを連れ出し、誰もいない裏通りの喫茶店で悪戯っぽく笑っていた彼女の顔。
『あのね、カヤちゃん。人はね……自分に無いものに惹かれるものなんだよ』
よくわからない呪文のような羅列で頼んだ甘ったるいホットドリンクを傾けながら、語ってくれた他愛のない与太話。
当時は「また変なこと言いだしている」と半信半疑で受け止めていたその言葉が、今になって胸の奥深くに鋭く突き刺さってくる。
(私は、この仏頂面をした男の『何か』に、自分には無いものを見出したということなのでしょうか)
細い瞳孔が、画面の中の暗い瞳と交錯する。
万人が理想とする完璧な秩序を目指す自分。対して彼は、緑の騎兵という暴力を行使して、過程ではなく結果を追求する男。
(共通点、あるいは反面的な部分が見つからない――あの人の話を、ちゃんと聞いていればよかったな)
明確な答えなど出ない。ただ一つ確かなのは、彼の写真を見るたびに動悸が早まり、彼が新たな結果を残すたびに、どうしようもない熱が全身を支配するという事実だけだ。
カヤはタブレットを胸に強く抱き抱え、そっと目を閉じた。白く細い喉が小さく上下し、熱い呼気がこぼれ落ちる。
常に冷徹であれ、を目標として完璧な防衛室長として振る舞ってきた自分の顔が、いま熱に浮かされて赤く染まり、伏せられた睫毛の隙間から潤んだ熱を覗かせているなど誰が想像できるだろうか?
胸に抱きしめた冷たい板の感触にすがるその呼吸は、もはや為政者のそれではなく、想い人の影に焦がれる年相応の少女であった。
手元に引き寄せた白磁のティーカップに口をつけ、琥珀色の液体を喉へ流し込む。
かつてカヤがこの部屋で常飲していたのは、カフェインさえ摂取できればいいという理由で選ばれた、泥のように苦いブラックコーヒーだった。
だが今の彼女の手元にあるのは、美しい装飾が施された新品のティーセットと、湯気を立てる紅茶である。
(んー……トリニティ産の茶葉というのは、種類が多すぎて困りますね。まあ、価格帯である程度棲み分けがされているのは分かりやすくて助かりますが)
カップをソーサーに戻し、舌の上に残る香りを分析する。今口に含んだのは、トリニティの中産階級向けに広く流通している茶葉だ。
ほどよい渋みと苦味は悪くないが、後味として鼻に抜けるフルーツのフレーバーが少々人工的すぎるきらいがある。生徒会の同僚や部下たちに出す分にはこれで十分だろう。
しかし舌の肥えた、もしくは高級品種を飲み慣れた大人を相手にするには底が浅い。
(これに加えてゲヘナ産、百鬼夜行産、そしてキヴォトス外から輸入されたもの……色々と試してみたせいで、ストックが自分ひとりで消費しきれない量になってしまいました。身内相手に消費することにしますか)
手元の手帳に、茶葉の産地と評価を細かくメモしていく。先日、他組織との会合の席で試験的に
紅茶を振る舞ってみたところ、存外に紅茶を好む者が多かったのはカヤにとっても収穫であった。
(コーヒーよりも紅茶を好む権力者が多いという事実に気づけただけでも儲けものです。この程度の些細な気配りで好印象を掴めるのなら、安い投資です)
口角を上げて打算的な笑みを浮かべる。だが――コーヒーから紅茶へと嗜好を切り替えた真の理由は、そのような政治的実利などではない。
『対象(タグ)は、トリニティ総合学園の桐藤ナギサから振る舞われた紅茶を甚く気に入り、日常的に消費するようになった模様』
FOX小隊からの報告書に記されていた、そのたった一行の情報。
それを知った翌日、カヤは愛飲していた大量のコーヒー豆を「もう不要ですから」とあっさり部下に押し付け、自室のコーヒーメーカーを撤去した。
そして高価なティーセット一式を自費で新調し、トリニティの茶葉カタログを取り寄せて、独学で抽出理論を学び始めたのだ。
本来であれば、その筋の人間に学びを乞うべきである。が、まとまった時間を作るのが困難な昨今、隙間時間に学ぶのが精々であった。
(誤解のないように言っておきますが、これは決して浮かれた感情によるものではありません。
交渉相手の嗜好に合わせるのは、ごく自然であり、最良の手段です)
誰に言い訳をするわけでもなく、内心で強硬に自己正当化の論理を組み上げる。
そう遠くない未来、タグがこの防衛室を訪れる機会は劇的に増える。その時、完璧な紅茶を提供できれば、彼の自分に対する評価は確実に上がるはずだ。
これはあくまで、自らの野望のための布石なのだ、と。
(ええ、そうです。すべては理想のため)
熱を持った自分の頬をごまかすように、再びティーカップを取り上げてゆっくりと紅茶を口に含んだ。冷徹な仮面の裏側で、いつか彼とこの紅茶を向かい合って飲むという、甘くささやかな願望が確かに息づいていた。
防衛室の応接テーブル。
向かい合って座る連邦生徒会首席行政官の七神リンは、カヤが自ら淹れた紅茶を一口だけ口に含むと、ことりとティーカップをソーサーに戻した。
「残念ですが、劣りますね。茶葉の種類に詳しくはありませんが、それでもシャーレで淹れていただいた一杯に比べると、です」
オブラートに包まない、行政官としての容赦のない評価。だが、その言葉を受けてもカヤの表情に落胆の色は浮かばなかった。
手元のカップを手に取り、琥珀色の液体を口に含む。トリニティから取り寄せた最高級の茶葉を使っているのだ、不味いはずがない。
「劣る理由を、具体的に聞いてもよろしいでしょうか?」
カップを置き、淡々とした声で問い返した。リンは眼鏡のブリッジを押し上げ、何かを指摘しようと口を開きかける。
「お湯を沸かす際は――」
だが、そこまで言いかけて、リンはふと自嘲気味に言葉を切った。
少し考え込むように視線を伏せ、小さく首を横に振る。
「……いえ。素人の私が、見よう見まねの知識で知ったような口を利くのは適切ではありませんね。失礼しました、今の言葉は忘れてください」
「見よう見まねでも構いません。欠陥があるのなら、私はそれを修正するだけです」
「それでは根本的な解決になりません。マニュアルの表面だけをなぞっても、本当に美味しい紅茶は淹れられない。……そう仰っていた方がいますから」
リンの言葉に、カヤはわずかに眉根を寄せた。
完璧な為政者を目指す彼女にとって、手順(マニュアル)を否定されるのはあまり心地の良いものではない。だが同時に、独学の限界を感じていたのも事実だった。
カヤが黙って内心で計算を巡らせていると、リンはふと妙案を思いついたように顔を上げた。
「もしよろしければ、紅茶の道に詳しい方をご紹介しましょうか?」
「紹介、ですか?」
「ええ。その方は紅茶の茶葉から歴史、そして完璧な抽出理論に至るまで、極めて深い造詣をお持ちです。貴女が本当に美味しい紅茶を淹れたいと望むのであれば、これ以上ない適任者かと」
カヤの細い瞳孔が、わずかに見開かれる。
個人的でささやかな願望。それを叶えるための最短ルートが用意されたというのなら、断る理由はどこにもない。
「……なるほど。首席行政官がそこまで推薦されるのであれば、間違いのない方なのでしょうね」
カヤは仮面の裏に渦巻く熱を悟られないよう、あくまで実務的なトーンを取り繕って頷いた。
「わかりました。そのお話、喜んでお受けいたします」
「承知しました。先方へは私からアポイントを取っておきましょう」
リンは満足げに頷き、冷めかけた紅茶をもう一口だけ飲んでから席を立った。
先刻までの気まずい空気など最初から存在しなかったかのように、カヤは無機質な表情で防衛室の端末に向き合っていた。
画面に映る通信ステータスは『完全暗号化』を示し、耳元に装着したイヤーカフからは、微かな
電子ノイズだけが漏れ聞こえている。
「長期間の任務、ご苦労さまでした、FOX1。連邦生徒会内でSRTの閉校を主導していた連中も、これで少しは身の程を知ったことでしょう。実に鮮やかな手際でした」
カヤの唇に、薄い笑みが浮かぶ。
かつてSRT特殊学園の廃止に手を貸した複数の生徒達――深夜の移動中や私邸で退路を塞がれ、文字通り『警告』を叩きつけられた連中の怯えきった顔を思い浮かべると、暗い愉悦が湧き上がる。
だが、レシーバーの向こうから返ってきた声は、氷のように平坦だった。
『私たちは与えられた命令を遂行したまでです。感傷も私怨もありません』
FOX小隊隊長、七度ユキノ。
一切の感情を削ぎ落としたその声には、カヤの労いを喜ぶ色など微塵も含まれていなかった。
『けん制作戦の完了は報告の通りです。次の任務は?』
「そう焦らないでください、しばらく派手な動きは控えてもらいます。これ以上生徒会中枢を刺激して、余計な調査委員会でも立ち上げられたら面倒ですから」
カヤは指先でデスクを軽く叩き、事務的な声音で続けた。
「当面の間は、あなた方にセーフハウスを提供してくれているコマツダ重機の要望に従ってください。ある程度の抗命権は契約上認めていますが……ほどほどにしてくださいね? 彼らの機嫌を損ねて、追い出されては困るでしょう」
『了解した』
短く冷ややかな返答とともに、通信は一方的に途絶えた。
プツリと切れた微弱なノイズを聞き流しながら、カヤはイヤーカフを外し、再び手元の書類へと視線を戻した。
キヴォトス有数の重工業機械メーカー、コマツダ重機――いくつかある組み立て工場の最深部、油圧オイルと重油の匂いが染み付いた区画。
巨大な油圧ショベルや装甲建機の部品が山積みにされた一角の、頑丈なスチール製コンパートメントが、現在のFOX小隊の潜伏拠点だった。
「――通信終了。当面、大規模な作戦行動はないようだ」
通信機から手を離したユキノが告げると、部屋の隅のパイプ椅子に腰掛けていたクルミが、あからさまに不快そうな舌打ちを鳴らした。
「あっそ。今度は重機屋の使い走りをやれってことね」
「まあまあ、クルミちゃん。そうカリカリしなさんな」
簡易ベッドの上で毛布にくるまり、スマホを弄っていたオトギが気の抜けた声を上げる。
「雨風がしのげて、防衛室の裏金で武器も弾薬も調達してもらえるんだからさぁ。あーあ、でもコマツダが差し入れてくる弁当、揚げ物ばっかりで肌が荒れそうなんだよねぇ……」
「そういう問題じゃないでしょ!」
クルミが苛立ちを隠さずに立ち上がった。
「連邦生徒会の腰抜け生徒どもを脅迫して回った次は、企業のトラブルシューター? これじゃ裏社会の脅迫屋と変わらないじゃない! 私たちはSRT特殊学園よ。こんな泥臭い汚れ仕事をするために訓練を受けてきたわけじゃないわ!」
「クルミちゃん、声が大きいよ……」
棚に積まれた整備キットの点検をしていたニコが、苦笑混じりに振り返る。
「気持ちは分かるけど、今の私たちは籍のない幽霊部隊なんだから。正規の予算も学園のバックアップもない以上、住居も設備も、コマツダ重機とのパイプなしには維持できない。防衛室長との関係を保つためにも、向こうの顔を立てるのは必要なコストと思って」
「分かってるわよ、そんなことくらい」
正論で返され、クルミは面白くなさそうに腕を組んで壁に背を預けた。
重機工場の奥から響く鈍い地響きと、換気扇の低い唸りだけが部屋を満たす。
空気を変えるように、ニコが手元の情報端末を軽く掲げてみせた。
「まあ、泥を啜るにしても、防衛室長がどこまで本気で私たちを復権させる気があるのかは……見極める必要がありそうだけどね。ほら、これ」
画面に映し出されていたのは、先日ニコが防衛室へと提出した調査データ――『タグ』と呼ばれている人物の個人ファイルだった。
「この件の追加調査、防衛室長からものすごく念を押されたよ。連邦生徒会での閉校主導派への工作よりも、こっちの進捗のほうが気になってるんじゃないかってくらいにね」
「少しばっかりキヴォトスの規格から外れた機動兵器のパイロット一人に何か秘密でもあるわけ?」
クルミが眉をひそめると、オトギがベッドからぬっと顔を覗かせてニヤリと笑った。
「へぇ~、あのカヤ室長が男の人の身辺調査にご執心ってわけ? あの堅物にもそういう人間らしいところがあったんだねぇ。……それともクルミちゃん、先を越されて悔しかったりする?」
「は? あんた、今なんつった?」
クルミの眼光が一瞬で険しくなり、拳がピキリと鳴った。
オトギはスマホを放り出し、よっこらしょとベッドから立ち上がると、首をコキリと鳴らしながら薄笑いを浮かべる。
「ちょっと表出ようか?」
「ふん。ちょうど憂さ晴らししたくなったのよね」
二人は一切の躊躇なく、素手のままコンパートメントの重い扉を乱暴に開けて外へと出て行った。
数秒後、鉄骨の通路から『ドゴッ!』という生々しい打撃音と、鈍いステップの摩擦音が響き始める。
「いいの、放っておいて?」
ニコが呆れたように扉の向こうを見やり、肩をすくめた。
デスクの前に佇んでいたユキノは、止めに入る気配も見せず、静かに目を伏せたまま言った。
「鬱屈をこれで少しでも晴らせるならかまわないさ。互いに一線は超えないだろうしな」
「二人が鬱屈するのも理解できるかな、って」
ニコの呟きに、ユキノは視線だけで応じた。
「けん制任務の本質が、茶番ということを理解しているからか?」
問われたニコは、答えの代わりに黙って小さく頷いた。
FOX小隊が完了させた任務、連邦生徒会幹部への『わからせ』――深夜の私邸や移動路を急襲し、物理的な恐怖を叩きつけたけん制作戦。
端的に言えばそれは、首席行政官・七神リンと、防衛室長・不知火カヤの間で結ばれた一種の茶番劇に過ぎなかった。
そもそも、SRT特殊学園の突然の閉校は、リンにとっても寝耳に水の事態だった。
連邦生徒会長の失踪という未曾有の混乱の中、閉校を強引に推し進めた原動力――それが他ならぬ自分自身の取り巻きによる『連邦生徒会へのクーデター防止の一環』という独断専行であったと知らされた時、リンが浮かべた表情は想像に難くない。
自身の預かり知らぬところで部下が暴走し、連邦生徒会が保有する貴重な実働戦力を解体してしまったという失態。
防衛室長として手中に収める予定であったはずの暴力装置を理不尽に奪われたカヤには、当然ながら復讐の権利があった。
だが、カヤは即座にそれを振りかざすような真似はしなかった。
彼女はあの手この手で、失態に苛まれるリンを慇懃に揺さぶり、そそのかしたのだ。
「リン先輩を無視して策動した方々には、組織の規律を取り戻すためにも『仕置き』が必要ではありませんか?」と、直接言葉には出さず、冷え切った微笑みを浮かべて問い詰めた。
首席行政官としての建前と、身内の暴走に対する責任の狭間で激しくもがき苦しんだ末――リンは、カヤによる『仕置き』を黙認した。
そしてカヤはその執行の報酬として、リンから『SRT特殊学園の再校』という言質と確約をもぎ取ったのである。
リンにとっては、この仕置きが結果的に正しかったという証明は後に果たされる――『エデン事変』において、シャーレの先生が銃撃されるという形で。
もしもあの時、SRT特殊学園が存続していれば。令状無しにキヴォトス全土に即応展開できる彼女たちが先生の護衛についていれば、あのような事態は防げたのではないか?
その痛恨の後悔は、今なおリンの夜を幾度となく悪夢で苛み続けている。
そんなことは露知らぬFOX小隊にとって、敵討ちとなる作戦行動が、政治家たちの辻褄合わせのために仕組まれた汚れ仕事でしかないという事実は、苦かった。
「ま、お互い様だけどね」
外から響く『ドゴォッ!』という重い衝突音を聞きながら、ニコは乾いた息を吐いた。
「私たちは学園を取り戻すために非正規行為に走り、行政官は失態を埋めるために防衛室長の囁きに耳を傾けた。……綺麗な正義なんて、案外ないものね」
「……」
ユキノは静かに頷き、手元の端末の明かりを落とした。
分厚い防音扉の向こうでは、なおも二人の少女が、言葉にできないやるせなさを拳に乗せて叩きつけ合っていた。
外の鉄骨通路から響いていた荒々しい打撃音とステップの音が、やがてぷつりと途絶えた。
勝敗など、始める前から分かりきっていたことだ。
オトギもまたSRTのエリートであることに疑いはないが、クルミはそこに更に輪をかける存在――過酷極まる『レンジャー資格』を有する者だった。
不眠不休の行軍、泥水と飢えに耐えながら任務を完遂する、六十日近い極限の選抜・養成試験。
それを突破したクルミに、純粋なフィジカルのぶつかり合いで狙撃手のオトギが勝てる道理など端からなかった。
互いに顔面や腕には派手な打撲痕を作り、埃と汗にまみれてボロボロになってはいたが、クルミの腰と膝は一切砕けていなかった。彼女の重心は寸分もブレではいない。
対して完全にスタミナを使い果たして地面に伏せているオトギを、勝者であるクルミはしっかりと背負い上げた。
「重いわよ、オトギ。弁当をパクパク食べ過ぎじゃないの?」
「うぅ……無理ぃ……クルミちゃん、手加減って言葉知らないの? 全身が全部悲鳴上げてる」
「喧嘩を吹っかけてきたのはあんたでしょ。次は手加減なしで肋骨へ叩き込んであげるわよ」
「ひどい、仲間に対する情操教育ゼロだよ……」
減らず口を叩き合いながら、クルミはブーツの先でコンパートメントの鉄扉を無造作に蹴り開けた。
――だが、その足が、敷居を跨いだ瞬間にピタリと凍りついた。
背中でうめいていたオトギも、一瞬で息を呑む。
部屋の中に満ちていたのは、先ほどまでとは比較にならない、肌を刺すような重苦しい沈黙だった。
スチールデスクの傍らに佇むユキノ。
その白皙の左頬には、くっきりと鮮烈な手のひらの痕――強烈な平手打ちを喰らった打痕が、痛々しく赤く浮き上がっていた。
そして、その目の前に立つニコ。
いつもの温和で飄々とした笑みは、跡形もなく消え失せていた。
振り抜いた自身の右手を微かに震わせながら、今まで誰も見たことのない、氷点下まで冷え切った瞳で隊長を射抜いている。
「――次にその言葉を口にしたら、貴方の小隊長の資質に関して疑いあり、と小隊の中で動議しなきゃいけなくなるわ」
吐き捨てられた言葉には、刃のような厳しさと、張り裂けそうな激情が滲んでいた。
叩かれたユキノは、唇の端に滲んだ血を拭うことすらせず、ただ静かに視線を床に落として口を閉ざしていた。
開け放たれた扉の前で、クルミとオトギは立ち尽くすことしかできない。
行き場のない状況、薄汚い茶番劇、すり減っていく誇り――鬱屈していたのは、表で拳を交えていた二人だけではなかったのだ。
「事情、聞いてもいいやつ?」
痛む体を引きずりながら、オトギがクルミの背からずり落ちるようにしてパイプ椅子に腰を下ろした。
クルミは汗を拭いもせず、ただ警戒するように唇を結んでニコとユキノ、二人を交互に見つめている。
「…………」
重苦しい沈黙の中、ユキノがゆっくりと息を吐き、静かに顔を上げた。
「私が話そう。――要約すればな、SRTはなるべくしてこうなったのではないか、とな。望まれて閉校した、と」
「それ、口にしたらダメでしょ」
クルミが即座に、鋭く吐き捨てた。
だが、ユキノの瞳には後悔の色はなかった。感情を削ぎ落とした、あまりに冷徹な観察者の眼差しだった。
「だが、考えずにはいられない。……そもそも、閉校処分が、こうも安易に進むものであろうか、と」
ユキノの思考は、どこまでも論理的だった。
連邦生徒会長が失踪したのが三月。そこから混乱が収まらないうちに手続きが開始され、わずか半年後の九月には正式に閉校令が発令された。
独自の自治区を持ち、強大な権限を有していた学園の解体としては、あまりに異常なスピードだった。
本来であれば数年単位の議論や学園法に基づく法廷闘争、各学園間での利害調整が必要なはずの事案が、まるで最初から敷かれていたレールの上を滑るように片付けられたのだ。
「私は、SRTの内部にも、閉校を望む者がいたと思っている」
「あ、ごめん。私も今、猛烈にユキノのこと張り倒したくなった」
クルミの全身から、先ほどの殴り合い以上の殺気が立ち上る。
それを制するように、オトギがひらひらと手を振った。
「まあまあ、クルミちゃん落ち着いて。最後まで話を聞こうよ。……ニコ、衝動的にやったのはわかるけど、話は全部聞いたの?」
「ええ。あなた達の試合、随分と長かったからね」
ニコは冷え切った声のまま、デスクの端に視線を落とした。
オトギは首の骨を鳴らし、真顔に戻ってユキノを見据える。
「悪いんだけど、もう一回順を追って話してよ。……正直言うとさ、私もユキノの考えを無下に否定できない程度には、心当たりがあるからさ」
「心当たりって……オトギ、あんたまで何言ってんのよ」
狼狽するクルミに、ユキノが淡々とした口調で事実を突きつける。
「そもSRTを構成している生徒は、希望入学だけで全員補えるようなものじゃない」
「そうなの?」
クルミの問いに、ニコが苦々しく頷いてみせた。
不自然なのだ。開校して一年足らずの学校に所属する自分たちFOX小隊が、キヴォトス全土を揺るがす数々の凶悪事件を制圧し、あれほどの戦果を叩き出せたのは、偏に完璧なバックアップ体制と情報網、そして高度な装備の補給があったからだ。
――だが、歴史もない新設校に、どうして最初からそれほど熟練した支援人員や補給網が揃っていたのか?
「つーまーりーは、引き抜きなんだわ」
オトギが乾いた笑みを浮かべ、指を一本立てた。
「連邦生徒会長はあの手この手で、キヴォトス全土からエリート――特にクルミちゃんみたいな、レンジャー資格を持ってるような連中を始めとした優秀な生徒を、各自治区から強引に引っこ抜いてきたわけ」
「さらに言うとさ、SRTって生徒数不明なんだわ」
パイプ椅子に深く腰掛けたオトギが、腫れた頬をさすりながら何気ない調子で爆弾を落とした。
「公的な生徒名簿より、明らかに在校生が多いんだよね」
狭いコンパートメントの空気が、さらに一段階凍りつく。
クルミが眉根を寄せ、怪訝そうにオトギを睨みつけた。
「あんたがいつか言ってた、他校に潜入活動してる生徒がいるって話でしょ? 特務機関なんだから、多少の非合法な諜報員くらい――」
「多少どころじゃないって話」
オトギは軽く首を横に振り、指を折って数えてみせる。
「個人的な知り合い同士でのやり取りでわかるほど、潜入先が複数の学園自治区に跨がってる時点でヤバいでしょ。いったい何人が他校に潜り込んでて、何人がそのバックアップに回されてるわけ? ……おまけにさ、自分の古巣に潜入しろって言われた奴までいるのよ」
その瞬間、部屋の温度が完全に氷点下まで叩き落とされた。
クルミの唇が半開きになり、デスクの横に立つニコは目を見開いたまま固まっている。
そして隊長であるユキノですら、わずかに目を見張り、息を呑んでいた。
三人全員の顔に、はっきりと――『そんな話、まったく知らない』という衝撃の色が張り付いていた。
古巣への潜入。
それはつまり、他校から「適性がある」と見込まれて引き抜かれた生徒が、今度はかつて共に過ごした母校の仲間たちを欺き、裏切り、その腹の内を探るスパイとして送り戻されたということだ。
連邦生徒会長の直轄という美名の下で行われていた、あまりに冷酷で、底の知れない諜報工作。
「オトギ、それは……」
絞り出すようなクルミの声に、オトギは乾いた笑みを浮かべ、自嘲気味に両肩をすくめた。
「信じられないよねぇ。でも、そういう裏任務を押し付けられてた子たちからすればさ……飼い主だった会長が消えた途端、真っ先に何を思うかくらい、想像つくでしょ?」
――こんな学園、潰れてしまえばいい。
オトギが言葉にしなかったその一言が、重い鉄塊のように全員の胸へ落ちてきた。
先ほどユキノが口にし、ニコが激昂した『SRTの中に閉校を望む者がいた』という推論。
それが単なる隊長の弱気や妄執ではなく、目を背けようのない現実の歪みとして、形を成す。
「といっても、ごく少数だと思うけどね、このパターン」
重苦しい空気を破るように、オトギが腫れた指先で鼻の頭を掻いた。
「ほら、ワイルドハントみたいに秘密主義が横行してる学校は、そうするしかないってわけ」
「逆に聞くけど」
クルミが呆れと苛立ちの混ざった視線をオトギへ向け、眉間を寄せる。
「どうやってその秘密主義の学校から、生徒の引き抜きなんてやったのよ」
「それが出来てしまうのが、連邦生徒会長という人間だった。――それだけのことだ」
静かに腕を組んだユキノが、低く重い声で遮った。
他校の自治権を無視した恫喝か、抗えない弱みを握った交渉か、あるいは本人の心を搦め捕る甘言だったのか。手段は何であれ、あの失踪した生徒会長にはそれを成し遂げるだけの権力と、底知れない政治力があった。
「――それで、引っこ抜いてやらせることが古巣のスパイ!?」
クルミが奥歯を噛み締め、スチールデスクを拳で叩いた。鈍い金属音が室内に響く。
「人の心無さすぎない!? かつての仲間を欺いて、母校の裏を覗き見させるなんて……そんなの、命令された生徒がどんな気持ちでいたか……!」
「『人情家の仮面を被ったマキャベリスト』」
淡々と告げられたその言葉に、クルミの口が止まった。
声の主はニコだった。冷え切った瞳で全員を見渡している。
「うちの調査部が、試しに連邦生徒会長の過去の政策と行動パターンを人物解析した結果がそれ。生徒一人ひとりに寄り添う慈愛のリーダーを演じながら、盤上の駒を配置するためなら情も倫理も躊躇なく切り捨てる……そういうおぞましい怪物だったのよ、あの人は」
乾いたニコの言葉が、コンパートメントの鉄壁に反響し、重く沈んでいく。
自分たちが忠誠を誓い、その再建のために泥を啜っている『SRT特殊学園』という組織。
その根底にあったのは、無垢な正義などではなく、キヴォトス全土を手中に収めようとした一人の為政者による、冷酷極まる支配のシステムでしかないという事実だった。
行き場のない事実に、全員が言葉を失っていたその時だ。
「変な話だけどさ」
オトギが、微かに震える声で切り出した。
「SRT特殊学園そのものを愛していた生徒って、誰もいなかったんじゃないかなって」
その一言に、他三人の心臓が、まるで冷水を浴びせられたかのように強く跳ねた。
誰も、何も言い返せない。その無言を肯定と受け取ったかのように、オトギは腫れた頬を歪めて自嘲した。
「創始者からして、この学園のことを使いやすい道具の一つとしか思ってなかったんだよ。
……自分で言ってて寒気がしてきた。そうだね、愛される要因なんて何も、ないんだ」
「そんなこと……!」
弾かれたように声を上げたのは、クルミだった。
拳を握り締め、オトギを、そしてニコやユキノを縋るように見回す。
「愛してないわけないじゃない! じゃなきゃ私達、どうしてこんなクソッタレな生活に耐えてまで、学園を取り戻そうとしてるのよ!」
「でも、クルミちゃん」
ニコが、痛みを堪えるような悲しげな声で諭す。
「私たちには、他の学園の子たちが持っているような『歴史』も『伝統』もなかった。ただ能力だけを基準に集められて、最高峰の装備を与えられ、命令された任務をこなすだけの機関。……普通の生徒が学園に抱く『愛校心』とは、根本的に違うものだったのかもしれないね」
「それは……」
クルミが言葉を詰まらせ、俯いた。
そこに、ユキノの静かで、ひどく硬質な声が落ちる。
「私たちは、正義を執行するための銃だ」
自分自身に言い聞かせるような、切実な響きだった。
「銃が、自らを生み出した工房を愛する必要はない。ただ研ぎ澄まされ、振るわれるべき場所で役目を果たす。それこそがSRTの存在意義だ」
「じゃあ、隊長」
オトギが、ユキノを真っ直ぐに見据えて問い返す。
「工房が閉鎖されて、引き金を引く主もいなくなった今の私たちは……いったい、何を取り戻すために戦ってるの?」
ユキノの唇がわずかに動き、しかし、何の言葉も紡ぎ出されなかった。
誰も答えを持っていなかった。自分たちが命を懸けてきた組織の器が、最初からただの空洞であったという事実に直面し、四人は深い虚無の底へ突き落とされていく。
すべてを共有した上で、オトギが天井の配管を見上げながらぽつりと呟いた。
「じゃあ、やめる? 再校目指すの」
問いかけは、あまりに軽妙で、しかしこの場にいる全員の急所を突くものだった。
だが、その言葉の余韻が消え切るよりも早く、三つの声が間髪を容れずに重なった。
「それはない、かな」
ニコが淡々と、しかし即座に首を横に振る。
「あり得ない」
ユキノが白皙の顎を引き、迷いの欠片もない眼差しで断じた。
「それだけはないわね」
クルミが鼻を鳴らし、乱暴に腕を組んでみせる。
三人三様の、一切の躊躇のない即答。
張り詰めていた重苦しい空気がふっと抜け、顔を見合わせた四人の唇から、誰からともなくクスリと小さな笑いがこぼれ落ちた。
顔面を腫らしたオトギとクルミ。平手打ちの痕を赤く残したユキノと、まだ手のひらに熱を残しているニコ。
客観的に見れば、あまりに無様で、傷だらけのボロボロな姿だ。それでも、互いの瞳の奥に灯る光だけは、寸分も揺らいでいなかった。
創設者の思惑がどうあれ。
組織の成り立ちが、どれほど冷酷な権謀術数の産物であったとしても。
過去のことに関して思うところは多々あれど――。
「正義を果たすことに、後悔はない」
口に出さずとも、それが四人の共通した結論だった。
たとえ学園という器が最初から空洞であったとしても、任務の果てに救い出した市民の安堵の顔や、キヴォトスの治安を維持してきた結果は紛れもない真実だ。
何より、この四人で背中を預け合い、幾度もの死線を越えてきた記憶だけは、決して誰の操り人形でもない。
命を削るような過酷な訓練を耐え抜いた日々も、誰かの日常を守り抜いたという自負も、自分たちが流した汗と血の記憶も、決して偽りではない。
たとえ利用され、泥を啜り、地下の片隅で日陰者として扱われようとも、彼女たちが信じ、胸に抱き続ける誇りまで奪える者など、この世界のどこにも存在しないのだから。
「さて」
ユキノが唇の端の血を指先でぬぐい、凛とした隊長の声で息を吸い込んだ。
「まずは、救急箱が必要だな。ニコ、手当てを頼む」
「はい、今手当てしますね」
「痛くしないでよね、ニコ」
「自業自得でしょ、オトギのは」
いつもの憎まれ口が、狭いコンパートメントに再び戻ってくる。
薄暗い重機プラントの底で、傷だらけの狐たちは、再び自分たちの進むべき荒野を見据えて立ち上がっていた。