シャーレの主である先生が、西のブラックマーケット方面への出張に出てから、すでに数日が経過している。
エレベーターのインジケーターが、音もなく上昇を続けていた。
静まり返ったミレニアムのオフィスとはまるで違う重苦しい気圧の変化を、ユウカは耳の奥に走る微かな違和感として感じ取っていた。
液晶パネルの数字が最上階のフロアを示すと同時に、重厚な金属扉が滑らかに左右へと開く。
広がるのは、手入れの行き届いた毛足の長い絨毯と、間接照明の沈んだ琥珀色に照らされたエントランス。
D.U.の上位十位に数えられる超高層ビルの最頂部。
表向きのフロア案内には存在せず、キヴォトスの上流階層や裏社会の有力者だけが出入りを許される、完全会員制のVIPバーがユウカとノアの目的地だった。
「私がここに来るのは久しぶりね」
エントランスに足を踏み入れた途端、ユウカは周囲の冷たい視線を浴びて、隣を歩くノアへ小声で問いかけた。
セミフォーマル以上のドレスコードが厳格に課されているはずの空間に、二人は白を基調としたミレニアムの制服姿のまま立っている。
施設内には、スーツに身を包んだ屈強な男たちが要所に隙なく配置されており、天井には死角を完全に排除するよう配置された監視カメラのレンズ群が、無機質に二人を捕捉していた。
ユウカは、自分が清廉潔白で無垢な生徒であるとは口が裂けても言えない身だ。
ミレニアムという巨大な学園の屋台骨を支えるため、表沙汰にできない資金の流れや非合法な金融取引は当然のこととして、個人活動の延長として闇金や人身売買にも手を染めている。
いわゆる『社会のドブ浚い』をするために、自分自身がドブに浸かってきた――結果、自分がその一部であるという自覚がある。
「ユウカちゃんの担当だと、ここに用があるのは一年に一回か二回くらいだものね」
対して、ノアの足取りには微塵の淀みもなかった。
慣れた足取りでクロークの手前まで進むと、制服の腰元から愛用の大型ハンドガンを迷いなく抜き取った。
そのまま、受付脇に控える武器預かりを担当する警備員へ、慣れた手つきでグリップを向けて差し出す。
ユウカは一瞬だけ虚を突かれたが、慌ててその所作を真似るように、ジャケットの内側から二挺のサブマシンガンを引き抜いて同じように警備員へ預ける。
この空間で唯一重装備が許された人物――防弾ベストとフルフェイスヘルムを纏った警備員は、ノアの銃を手慣れた手つきで受け取り、セーフティとスライドの噛み合わせを素早く確認した。
「相変わらずとんでもないカスタムだな、ノアの獲物は。……本来ハンドガンは預かる必要は無いのだが、お前の獲物は例外だ」
男はユウカに聞かせるように呟くと、次にユウカが差し出した二挺の銃へと視線を落とした。
両手でそれぞれのフレームを支え、マガジンを抜いて薬室を確かめる。作業柄、沈黙を嫌うように男が口を開いた。
「細腕に似合わぬ獲物、しかしよく使い込んでいる。整備、清掃もマメにやっているな」
ノアの銃を一瞬で通したのに対し、入念に時間をかける警備員の態度は、暗にノアの銃を数え切れないほど預かってきた実績の証左だった。
身軽になったユウカは、男のグローブで覆われた指先を見つめながら、改めて同級生の現状に思いをはせる。
自分と同じようにミレニアムの影として裏社会に深く関わっているとは知っていたが、この領域におけるノアの浸透ぶりは、ユウカの想像を遥かに超えている。
そうして二人は武器の預かり証を受け取り、エントランスを抜けて磨き上げられたウッドカウンターの奥へ進む。
ワイシャツの上からベストを着込んだ初老のスタッフが、磨いていたワイングラスから視線を外し、こちらに向ける。この店を裏から任されている雇われ店長だ。
男はノアの制服姿を捉えると、持っていたグラスを置き、怪訝そうに眉根を寄せた。
「今日は『仕事』の日じゃないはずだが。仕事衣装の手配も聞いていないぞ」
裏社会での契約や取引を余すことなく記録する公証人として彼女が呼ばれる際、店側には彼女の体型に合わせてオーダーメイドされたいくつものドレスが、事前に搬入されるのが通例だった。
その搬入も無しに現れたノアに、店長が不審を抱くのも無理はない。
「驚かせてすみません、店長。今日は仕事ではなく、客として招待されて伺いました」
ノアが落ち着いた声音で会釈を返す。
店長はわずかに目を細め、カウンターの端末に手を置いた。
「招待客用のQRコードはあるか?」
「はい、こちらです」
ノアの手慣れた動作に合わせるように、ユウカもあらかじめ表示させておいたスマートフォンの画面を差し出した。
二つの端末がカウンターの光学リーダーにかざされ、ピッと短い電子音が連続して鳴り響く。
端末の画面に表示された照合結果を一瞥した店長は、短く息を吐き出すと、端末を通じて『客二名、予約確認』と記帳する。
「確認した。個室の行き方は、説明しなくていいな?」
「はい、把握しています。ありがとうございます」
ノアは小さく微笑み、ユウカに目配せをして歩き出した。
カウンターを横目にして、幾何学模様の壁紙で覆われた奥の個室へと進む。
進む途中、複数の防音扉を一枚くぐるごとに、外の気配が薄れ、静寂の深度が増していく。
通路のクランクを曲がった先で、待ち構えていた二人の警備員に進行を遮られた。
「IDの提示を」
警備員の声に従い、ノアとユウカは学生証と先ほどのQRコードを提示する。携帯型の端末から放たれる青い光が二人の顔と全身をなぞり、照合完了の緑ランプが点灯した。
さらに数メートル進んだ先、厳重なセキュリティゲートの前で二度目のスキャンを受ける。
武器をすでに預けているため金属反応での警告こそ鳴らなかったものの、生体スキャンを行うゲートの威圧感に、ユウカの背筋は自然と強張った。
すべての検問を無言で通過し、ようやく二人は、幾つかある分厚い鋼鉄の扉の前の一つに辿り着いた。
防弾、防音、そして防爆の基準を軽々と満たしているその扉は、油圧シリンダーの重厚な存在感を放ちながら、静まり返った通路に威圧的に立ちはだかっていた。
防音扉の前に立ったノアは、迷うことなく右手を伸ばした。
分厚い鋼鉄の表面に打ち付けられているのは、重厚な真鍮で鋳造されたライオンの顔――クラシカルなドアノッカーだった。
油圧と電子ロックで固められた最新鋭の防壁に、あまりにも不釣り合いな意匠。ノアはその環を指先でつまみ上げ、軽やかに二度、ノックを落とした。
カツン、カツンと硬い金属音が通路に反響する。
「ちょっと、ノア。それ、意味あるの?」
思わずユウカが小声で突っ込みを入れた。
完璧な防音が施されたこの扉の前で、外側から真鍮の環を打ち付けたところで、室内に音が届くはずがない。無意味なパフォーマンスにしか見えなかった。
だが、ノアは悪戯っぽく微笑みながら首を横に振った。
「実はこれ、最新式のセンサーが仕込まれたハイテク端末。ノッカーの衝撃を圧電素子が拾って、室内のスピーカーへ電子音として中継する仕組み……って店長から教えてもらいました」
「無駄に凝りすぎていて、私には理解できないわ」
ユウカが眉間を押さえて溜息を漏らした直後、扉の奥でカチリと油圧ラッチの外れる低い重低音が響いた。
密閉されていた気圧が微かに抜け、分厚い扉がゆっくりと内側へと引き込まれていく。
漏れ出てきたのは紅茶とコーヒー、二つの香りが混ざり合った独特の空気だった。
外の殺風景な通路とは一線を画す、豪勢なアンティークの調度品で満たされた広いVIPルーム。深い色合いのペルシャ絨毯が敷き詰められたその空間の中央に、三人の人物が腰を下ろしていた。
ユウカの視線が、部屋の中央、革張りのアームチェアに座る長身の少女を捉えた瞬間、その瞳が大きく見開かれた。
漆黒のストレートヘアを背に流し、一切の甘さを削ぎ落とした冷徹な美貌を湛えた人物。
「リオ、会長……っ」
新学期が始まってわずか一ヶ月、四月を迎えてから突如として姿を消し、どれほど手を尽くしても行方を掴めなかったミレニアムの生徒会長――調月リオだった。
何ヶ月もの間、残されたセミナーを守り、不在の穴を埋めるために奔走してきた感情が一気に溢れ出し、ユウカは思わず駆け寄ろうと足を踏み出した。
だが、その足は二歩目でピタリと凍りついた。
室内を満たす冷え切った空気と、リオの両脇に座る二人の同席者から向けられた視線が、ユウカの全身を縫い留めたのだ。
一人は、優雅に陶磁器のティーカップを指先で支えている少女――桐藤ナギサだ。
なぜミレニアムの行方不明の生徒会長と、トリニティの頂点に君臨する彼女が、このような裏社会の密室で顔を突き合わせているのか?
思いつく理由はいくつかあるので、不自然ではない。だが先日コユキが引き起こしたクリスマスカードに関わる事件のこともあって、ユウカの心中にすこし怯みが生まれる。
そして、もう一人。
ソファの端に深く腰掛けている姿を視界に捉えた瞬間、ユウカの心臓が早鐘のように跳ね上がった。
仕立ての良い漆黒のスリーピース・スーツに身を包み、寸分の狂いもなく締められた黒いネクタイ。
大人の男性と思しきその体躯の首元から上に乗っていたのは、生身の人間の顔ではなかった。絶え間なく蠢き、輪郭を曖昧に揺らす不気味な黒煙――顔を持たぬ異形の闇。
キヴォトスの生徒でもなく、先生でもタグでもない、正体不明の怪異。
ユウカの記憶の引き出しをどれほど高速で検索しても、その異形が何者であるのかを特定する情報は一切ヒットしなかった。
(あの人は誰なの……)
失踪した自学園の生徒会長、他校の最高権力者、そして正体不明の不気味な異形。
およそ同じ空間に会するはずのない三者が、静かに一つのテーブルを囲んでいるという常軌を逸した現実に、ユウカは喉を詰まらせる。
隣に立つノアもまた、ユウカと同じ種類の警戒を胸の内に抱えているようだった。
優雅に紅茶の湯気を楽しむナギサには儀礼的な会釈を向けたものの、その視線は即座に逸らされ、ソファの端に座る異形の人物へと真っ直ぐに向けられている。平時は穏やかな笑みを絶やさない彼女の瞳に、隠しきれない不審の光が宿っていた。
すると、沈黙を守っていた異形が、仕立ての良いスーツの袖口を引いて小さく身じろぎをした。
首元の黒煙が静かに蠢き、聞き覚えのない慇懃な声が室内に響く。
「やはりこうなりますか。仕事柄付き合いのあるユウカさん、そして記憶力に長けたノアさんまで私を認識できない、と」
その言葉に、ユウカは驚いて隣の少女へと視線を向けた。
「知り合いなの、ノア?」
「いいえ。初対面です」
ノアは躊躇うことなく即答した。
一度見聞きした事象を寸分の狂いもなく脳裏に刻み込む、完全記憶能力の持ち主――その彼女が一切の迷いを見せずに言い切ったのだ。
それはすなわち、生塩ノアという生徒の記憶において、目の前の人物と交差した事実が過去に存在しないことを意味していた。
蠢く黒煙の奥で、異形が困惑したようにわずかに肩を落とす。
その様子を横目で窺っていたナギサが、手にしていた磁器のティーカップを静かにソーサーへと戻した。硬質な陶器の音が、張り詰めた室内に小さく落ちる。
「信じられないとは思いますが、その方は黒服のおじ様です」
「黒服さん!?」
ユウカの喉から、素っ頓狂な声が裏返って漏れ出した。
「黒服様、ですか? ですが……私の記録にある黒服様とは、所作も、纏う雰囲気も、決定的に一致しません」
ノアが眉を寄せ、両腕を抱え込むようにする。
その頑ななまでの否定を聞き、黒服は両手を軽く広げて、大げさに溜息を吐き出した。
「やれやれ。ナギサさんだけでなくユウカさんとノアさんにまでそう断言されてしまうとは、改めて面倒ですね、これは」
ナギサ自身、彼が名乗り出た当初は全く納得していなかった。
だが、彼が私有財産として提示してきた莫大な株券や金融商品の数々――そして何より、上流階級としての付き合いの中でナギサと黒服の間で交わされた密約を一字一句間違わずに諳んじてみせたことで、認めざるを得なくなったのだ。
困惑するユウカたちの前で、ソファーに深く腰掛けていたリオが、組んでいた足を静かに組み替えた。
「間違いないわ。信じがたいかもしれないけれど、その男は正真正銘、黒服よ」
感覚や印象に流されることのない、セミナーの生徒会長が彼女だ。
黒服が持ち込んだ独自の暗号鍵の構造、複数の『社会のドブ浚い』の細かい内容、そして過去契約の照合という正確な数学的検証を経て、彼が黒服本人であるという結論を論理的に導き出していた。
もっとも、その厳密な証明を終える前は、このリオでさえ悪質な偽物による冗談と断じて、彼に銃口を向けていたのだが。
ゴホン、と黒服の襟元から湧き出る黒煙が、低く震えた。
大げさに一つ咳払いを挟むと、彼は組んでいた両手を解き、困惑に固まるユウカとノアへ向けて、穏やかに掌を向けた。
「私自身の証明に関しては、一度横に置きましょう。今日、ユウカさんとノアさんをここへご招待した理由は他でもありません。貴方がたセミナーのトップであり、ミレニアムサイエンススクールの生徒会長であるリオさんを、長期間にわたって拘束することになってしまった件に対する釈明と謝罪のためです」
その言葉に、それまで澄ました顔で紅茶を嗜んでいたナギサが、微かに眉を下げて申し訳なさそうな表情を浮かべた。
彼女のその態度から、ユウカは瞬時に察する。リオが何ヶ月もの間姿を消していた背景には黒服さんだけでなく、ナギサも深く関わっているのだと。
「まず前提として、今回の事態に関してリオ会長には一切の過失がありません」
黒服が淀みない口調で場を仕切ると、ナギサもまたカップをソーサーに置き、静かに言葉を引き取った。
「端的に申し上げれば、私と黒服のおじ様がそれぞれ抱えているクライアント同士の騒動に、彼女が巻き込まれてしまったのが原因なのです」
「騒動、ですか……?」
思わずユウカは疑問の声を漏らしたが、直後、その喉元に何とも言えない苦い重圧がのしかかった。
(う、やりづらいなぁ……)
視線の先にあるナギサの顔を見つめながら、ユウカは心の中で深々と溜息をもらす。
問題児コユキが、よりによってアリウスの生徒を手引きして引き起こした騒動により、トリニティに多大な迷惑をかけたのはつい先日だ。
あの時、ナギサの寛大な政治的配慮がなければ、ミレニアムとトリニティの間でどれほどの外交問題に発展していたか分からなかった。ユウカにとって、ナギサは最も頭が上がらない相手の一人となったのだ。
自然と、ユウカとノアの視線がアームチェアの主へと向かった。
二人の無言の追及を受け、リオは少しだけ視線を天井のシャンデリアへと逸らした。
「おおむね、黒服とナギサさんの言う通りよ。ただ、どうしてこうなってしまったのかは、私にも少々説明がつかないのだけれど」
天下の調月リオの口から出たとは思えない、要領を得ない曖昧な弁明。らしくないその言い淀みに、ユウカとノアの眉が八の字に曲がった。
「立ち話で済む内容ではありませんね。お二人とも、どうか座ってください」
黒服が穏やかに告げると、豪勢を極めた調度品の中で異彩を放つ、一見すると素朴な真鍮の呼び出しベルへと指を伸ばした。
チリン、と澄んだ金属音がVIPルームの静寂を震わせる。
直後、分厚い扉が音もなく開き、燕尾服を着こなしたドロイドのルームボーイが滑らかに入室してきた。直立不動で頭を下げるボーイに対し、黒服は滑らかな手つきで指示を出す。
「軽食を用意してください。長時間の会談になりますから、冷めても美味しくいただけるものを。それと、ユウカさんとノアさんにお飲み物を」
ルームボーイが静かに一礼して退室すると、黒服は背筋を伸ばし、蠢く黒煙を二人の少女へと向けた。
こうして、ミレニアムの生徒会長がキヴォトスの表舞台から一時的に姿を消すに至った、奇妙な経緯の口火が切られることとなった。
ソファに腰を下ろした黒服は、どこか居心地悪そうに身じろぎをすると、小さく息を吸い込んだ。
普段の慇懃で計算高い響きは影を潜め、この男にしては極めて珍しい、苦々しさと困惑が入り混じった湿っぽい声音で口火を切る。
「えーと、ですね」
そう前置きした黒服は、スーツの内ポケットから折り目の正しい純白のシルクハンカチを取り出した。
そして、絶え間なく蠢く黒煙の額とおぼしきあたりに当て、にじみ出た脂汗を吸わせるように二度、三度と丁寧に拭う。
その生々しい動作を目の当たりにして、ユウカとノアは思わず息を呑んだ。
(あの人……汗なんてかくんだ)
(黒服様が、脂汗を拭われるなんて)
冷酷なビジネスマンという言葉を、そのまま形にしたような男が気まずそうに汗を拭っている、という奇妙な光景に二人が呆気にとられる中、黒服はハンカチを畳みながら言葉を続けた。
「長年セミナーには、トリニティのティーパーティーが仲介役となり、外部や裏社会の様々な案件をお引き受けいただいていました。最近では私もその仲介役として一口噛ませていただいております。
特にリオ会長には、常人では処理しきれない数々の大型案件を完璧にこなしていただいた。おかげでナギサさんと私は仲介人として鼻が高かったのですが……その、クライアント側からとんでもない話が持ち上がりましてね」
黒服の黒煙が重苦しく揺れる。ユウカとノアは背筋を伸ばし、事の成り行きをじっと待った。
「お得意様の大口クライアントの一人が、その……リオ会長を、個人的に召し抱えたいと言い出したのです」
その言葉を聞いた瞬間、ユウカとノアは顔を見合わせ、わずかに胸を張った。
ミレニアムの最高権力機関であるセミナーの頂点にして、万能の代名詞たる調月リオ。
その圧倒的な開発力と知性を目の当たりにすれば、巨額の報酬を積んででも手元に囲い込みたいと願うのは、経済界の人間として極めて真っ当な反応に思えたからだ。
だが、得意げに頷く二人の生徒に対し、黒服は首を小さく横に振った。
「ええ、ええ、普通ならお二人もそう思われるでしょう。卓越した手腕を持つリオ会長を自社の中枢に据えたいと望むのが真っ当な発想です。出来ることなら私がお願いしたいくらいですからね。ただ、今回に限っては全く別でしてね」
二人から怪訝な視線が注がれる中、黒服は喉の奥を鳴らし、ひどく言いにくそうに言葉を落とした。
「クライアントは女として、欲しがったのですよ」
その瞬間――ガシャンッ、と耳を劈く硬質な衝突音が、静まり返ったVIPルームに響き渡った。
ユウカの肩が大きく跳ね上がる。ノアも少し腰を浮かせてしまっている。
見れば、ナギサの指先が白くなるほど強く震えており、手元にあった磁器のティーカップがソーサーに置かれている。先ほどの衝突音の正体はカップとソーサーがぶつかった音である。
会話の最中に聞き苦しい音を立てるという、ナギサらしくない所作であった。
「失礼」
ナギサは氷のように冷え切った声で短く吐き捨てると、青筋が浮かびそうなほど険しい眼差しで、視線を虚空へと突き刺した。
先ほどまでの優雅な笑みは微塵も残っておらず、その端正な横顔には、凄まじい嫌悪と激怒が張り付いていた。
「そういう人物が一人だけなら、ええ、私も適当にはぐらかして終わらせられたのですよ」
黒服は両手を軽く広げ、呆れ返ったように黒煙を揺らした。
当時はまだ彼自身は、本来の目的を取り戻す前――ゲマトリアとしてキヴォトスの閉じた箱庭を弄んでいた時期である。
しかし、いくら実験に傾倒していたとはいえ、極めて優秀な知性と実行力を誇るリオを、目先の私欲に狂った豚のような権力者の雌にするなど、商売としても研究としても論外であり、一笑に付してあしらう程度の話だった。
だが、問題はそこで終わらなかったのだ。
ナギサが、磁器のように冷え切った表情のまま、低く鋭い声で後を引き取った。
「――私のほうで抱えているクライアントからも、まったく同様の申し出がありました」
その声音に込められた氷点下の殺気に、ユウカとノアは思わず背筋を粟立たせ、内心で顔を見合わせた。
(うわぁ……本気で怒ってる)
怒るのも当然だった。トリニティとミレニアムの政治的・経済的な協調関係に基づき、様々な『社会のドブ浚い』を一手に引き受けてくれている他校の最高責任者を、クライアントから都合のいい便女にしたいと要求されたのだ。
気品と格式を重んじるティーパーティーのホストにとって、それは生徒の尊厳を泥靴で踏みにじるに留まらず、上流社会の一員の面汚しとしか言いようのない、度し難い侮辱であった。
平時のナギサであれば、そのような無礼千万な輩は、警告の後に社会的・経済的に叩き潰して排除していたはずだった。
しかし、当時の彼女には足枷が嵌められていた。
――エデン条約。
ゲヘナとの歴史的な和平条約の締結を前に、トリニティ内部には猜疑心と謀略の暗雲が立ち込めていた。
誰が味方で誰が裏切り者かすら判別できず、自身への暗殺の可能性に怯えながら、疑念に狂って補習授業部を立ち上げていた時期。
当時のナギサの精神状態は、下限をさらに突き抜けて底の底にまで擦り切れていたのだ。
「すぐにでも断るべきでした。しかし本当に申し訳のないことに、当時の私は安全策を取ることしかできませんでした」
ナギサは伏し目がちに呟くと、絞り出すような吐息を落とした。
当時のナギサは決定的な返答を避け、のらりくらりと時間稼ぎをする牛歩戦術を取らざるを得なかったのだ。
エデン条約の根回しに追われて折衝に割く時間が皆無だったことも理由の一つだが、何より当時の極限状態の精神では、この下衆な案件に対して冷静な対応を保てる自信がなかったからである。
「そしてここで、さらに救いようのない問題が起きましてね。……その、クライアント同士で内紛が勃発したのです。本当に、穴があれば入りたいほどお恥ずかしい話なのですが」
黒服の狼狽は、ここに至って完全に限界へと達していた。
普段の計算高い不気味さは跡形もなく崩れ去り、折り畳んだハンカチを両手で握りしめながら、絶え間なく蠢く黒煙を情けなく震わせている。
「リオ会長の所有権をめぐって、クライアント同士が争いを始めたのですよ。ええ、まだ手に入ってもいないのに、捕らぬ狸の皮算用を始めたのです」
沈黙が、重く個室を支配した。
ユウカとノアの瞳から、完全に光が消え去っていた。
(え……?)
(私たちは、一体何を聞かされているの?)
キヴォトス最高峰の計算力と記憶能力を誇る二人の明晰な頭脳が、あまりのくだらなさと理不尽な俗物ぶりに処理を追いつかせられず、完全な停止状態に陥っていた。
シリアスな裏社会の陰謀や、世界を揺るがす危機を覚悟して黒服とナギサの言葉を拝聴している二人の耳に飛び込んできたのは、肥え太った豚どもによる醜悪極まりない身内争いの顛末。
縋るように、二人の視線が当事者の生徒会長へと向かった。
視線を一身に浴びたリオはといえば、組んだ両手を腰の前に置いたまま、革張りの背もたれに深く体重を預けていた。
あのリオ会長が、虚空の一点を見つめながら、全身からもうどうにでもなれという感情を放ち、完全な無我の境地に逃避していた。
先ほど、彼女がどうしてこうなったのか説明がつかないと要領を得ない言葉を漏らしていた真の理由が、二人とも理解できた瞬間だった。
ここに至って、黒服とナギサの意見は完全に一致した。
このままリオがミレニアムの表舞台に立ち続ければ、暴走したクライアントたちによる拉致や直接的な武力衝突といった最悪の事態に発展しかねない。
事態を収拾するための絶対条件として、リオには外部との接触を断って完全に雲隠れをしてもらい、その間に黒服とナギサが介入して、クライアントの内紛を沈静化させる――それが、二人が取った解決策だった。
しかし、その解決策は遅れに遅れる形となった。
ナギサが、事態の収拾に本腰を入れられるようになったのは、夏も終わりの気配を見せる九月に入ってからのことだった。
エデン条約締結会議への攻撃、古聖堂の崩壊、そしてアリウス自治区での戦闘――命の危機と学園の瓦解に直面していた当時のナギサに余力など一片も残されていなかったのだ。
結果として四月から夏にかけての数ヶ月、黒服一人で暴走するクライアント達の手綱を引き続けるという、不毛極まりない孤軍奮闘を強いられる羽目になった。
そして、エデン事変の混乱がようやく収束し、ナギサが今度こそ終わらせましょうと介入に乗り出した途端、今度は黒服の側に前代未聞のトラブルが発生した。
あの異世界の兵士――タグとの会合を経て以来、なぜか黒服は、他者から『黒服』であると認識されなくなってしまったのだ。
黒服自身はその原因を理解しているようだったが、銀行口座の権限や裏社会への発言力は著しく麻痺し、仲介者としての機能は完全に停止した。
ナギサやリオ自身が、目の前にいる異形が本物の黒服であると証明し、麻痺した決済ルートを再構築する作業だけで、さらに膨大な時間を浪費することとなった。
かくして肥え太った豚どもによる醜悪な縄張り争いに巻き込まれた調月リオが、ようやく長い長い雲隠れ生活から解放されるに至ったのは――雪がちらついてきた十二月に入った頃のことであった。
「というわけなのですよ」
黒服が深々と頭を下げ、ナギサも同様に頭を下げた。
目の前のテーブルの上で繰り広げられた八ヶ月間に及ぶ壮大な茶番の全貌を聞かされ、ユウカとノアは、ただただ深い虚脱感の中に立ち尽くすしかなかった。
銀のトレイに乗せられた軽食がテーブルの中央に並べられると、給仕のボーイは物音一つ立てずに一礼し、油圧扉の向こうへと姿を消した。
皿の上に美しく盛られているのは、薄くスライスされたローストビーフのサンドイッチと、色鮮やかなスモークサーモンのカナッペ。
長時間の密談を見越した黒服の言葉通り、空気に触れて冷めても油脂が固まらず、旨味が損なわれないよう細心の配慮が施された特注の品々であった。
コーヒーカップの縁を指先でなぞりながら、黒服は蠢く黒煙の奥から、静かに言葉を紡ぎ出した。
「改めて、お三方に断言しておきましょう。今回のクライアントが引き起こした一連の騒動につきましては、今後一切、ご心配には及びません」
その声には、先ほどまでの狼狽は微塵も残っておらず、かつて裏社会を震え上がらせた実力者としての重厚な響きが戻っていた。
「私どもの手によって、関係した主導者たちは頭を冷やしていただきました。次はありませんよ、と言ってあります」
「ええ。私自身の誇りにかけても保証いたします」
ナギサが冷え切った紅茶の残りを飲み干し、静かに言葉を継いだ。
「ミレニアムの皆様にご迷惑をおかけした落とし前は、すでに我が校の息のかかった機関を通じて徹底的に清算させました。法的な観点からも、裏社会の掟の上でも、これ以上の火種が燻る余地は万に一つも存在しません」
二人の保証を聞き、ユウカとノアは小さく息を呑んで頷いた。
そして、そのやり取りが一段落した絶妙な合間を見計らい、ナギサが自分の額に手をかざす。
「少々、熱が籠りすぎたようです。外の風に当たりたいのですが……黒服のおじ様、テラスの方へ案内していただけますか?」
「おや、それは良い思いつきです。私も少し、夜景を眺めながら頭を冷やしたいと考えていたところでした。……ではリオ会長、ユウカ様、ノア様。どうぞごゆっくりとお過ごしください」
二人は示し合わせたように同時に腰を上げ、軽く会釈を残すと、足音もなく部屋の出入り口へと向かった。
分厚い防音扉が低い油圧駆動音を響かせて開き、二人の姿が通路の向こうへ消えると、再びカチリと硬いラッチが噛み合って密閉される。
残されたのは、調月リオ、早瀬ユウカ、そして生塩ノアの三人だけであった。
外の気配が一切届かない、完璧な静寂。
天井の豪勢なシャンデリアが放つ無機質な光が、アンティーク調の革張りソファと絨毯を沈んだ色合いで照らし出している。
誰も言葉を発しないまま、数分もの時間がただ緩慢に流れていった。
四月から十二月まで――実に八ヶ月以上もの長きにわたり、ミレニアムの頂点にぽっかりと空いていた空白。
その不在の理由が、まさかこのような裏社会の下劣な応酬と政治的失策による泥沼劇であったなど、誰が予想できただろうか。
ユウカは膝の上で両手を強く握りしめ、爪が手のひらに食い込む感覚をじっと耐えていた。
脳裏を過るのは、リオが姿を消した直後から始まった、悪夢のような日々の記憶である。
何の前触れもなく主を失った生徒会室。
毎日のように山積みにされていく決済書類の束、各学園の自治組織や、関係各社から届く不審と詰問の公文、予算の割り当てを巡って怒号が飛び交う各部活との折衝。
さらには、最大の頭痛の種である黒崎コユキが引き起こす突発的なトラブルの数々。
そのすべてを、ユウカはノアと決して多くはないセミナーのスタッフと共に、自身の細い肩で受け止め、押し潰されそうになりながら今日まで支え続けてきたのだ。
夜遅く、静まり返った執務室で一人、主のいない中央のデスクを見つめるたびに、胸の奥底から湧き上がってきたのはドス黒い怒りと悔しさだった。
どこで何をしているのか。
どうして、一言の連絡も寄越さないのか。
無責任にすべてを放り出して、帰ってきたら絶対に許さない。
そんな呪詛のような文句ばかりをノートの端に書き連ね、身勝手に研究でもしているに違いないと決めつけ、憎悪に近い苛立ちを募らせていた。
だが、突きつけられた現実は、あまりにも無情で理不尽なものだったのだ。
耐えかねたように、ユウカの肩が小さく震えた。
彼女は深く息を吸い込み、逃げ場を塞ぐように両膝を揃えると、正面に座る漆黒の長髪の少女へ向けて、絞り出すような声を落とした。
「その……会長のこと、何一つ知らずに。ただ、ずっと文句ばかり考えていました。すみません」
唐突に落とされた頭と、あまりにも正直すぎる謝罪の言葉。
隣に座っていたノアが、呆れたように小さく肩をすくめた。
「ユウカちゃん。それ、わざわざ口に出さなくてもいいのに」
「だって……事実だし。私、本当にずっと怒ってたから。何も知らずに、勝手に悪者にしてたのは私だから」
ユウカは顔を上げず、頑なに頭を下げ続けた。
彼女の生真面目さと几帳面さは、他人の不正を許さないと同時に、自分自身の過ちや不条理に対しても一切の妥協を許さない刃となって己を縛り付ける。
そんなユウカの痛々しい姿を目の当たりにして、リオは、組んでいた足を静かに解いた。
完璧な合理主義者であり、ミレニアムの全知を自負する生徒会長。
しかし、他者の剥き出しの感情や誠実な謝意を向けられた時、それをどのように処理すべきかについての計算式を、彼女の頭脳は持ち合わせていなかった。
リオは居心地悪そうにわずかに視線を泳がせ、喉の奥を整えるように小さく咳を落とした。
「頭を上げなさい、ユウカ。……謝る必要など、どこにもないわ」
感情を削ぎ落とした、いつもの平坦な声。
しかしその響きには、普段の威圧感とは異なる、どこかぎこちない戸惑いが滲んでいた。
「責任を追及するのは合理的よ。理由がどうであれ、結果として私はセミナーの業務を長期間にわたって放棄し、貴方たちに過大な負荷を強いたのだから。文句を言われる筋合いは、十二分に私にあるわ」
ユウカはおずおずと顔を上げた。
視線の先にあるリオの顔立ちには、春先に見た時と変わらない美貌があった。
だが、その瞳の奥には、セーフハウスでの孤独な潜伏生活がもたらしたであろう、隠しきれない疲労と影が微かに沈んでいるように見えた。
二人の間に、再びぎこちない沈黙が落ちる。
何を話せばいいのか、何から確かめればいいのか、互いに言葉の糸口を見出せないまま、視線だけが交錯した。
沈黙を破ったのは、やはりユウカの口から飛び出た、短く不器用な問いかけだった。
「怪我は、なかったんですか」
「ないわ。黒服の手配したセーフハウスの防護基準は完璧だった。外部からの物理的接触は一切遮断されていたもの」
「ご飯は、ちゃんと食べてたんですか」
「ええ。カロリーと栄養素が完全に計算されたミールキットが、毎日指定時刻に配達されていたわ。健康上の問題は発生していない」
「会長って料理が出来たんですね……では痩せてないですか」
「体重の増減はプラスマイナス三百グラムの範囲内に収まっているわ。体重計のログが証明している」
「数字の話を聞いてるんじゃないです……っ!」
思わずユウカの声が尖った。
理屈とデータで感情の輪郭を塗り潰そうとするリオの悪癖に、かつての日常と同じ苛立ちが込み上げてくる。
だが、眉を釣り上げたユウカに対し、リオは言い返すでもなく、ただ困惑したように唇を真一文字に結んで視線を逸らした。
その無防備な横顔を見た瞬間、ユウカの胸に刺さっていた刺々しい棘が、すっと抜け落ちていくのを感じた。
どれほど過酷な事態に巻き込まれようと、どれほど不条理な目に遭おうと、調月リオという人間はどこまでも合理的であるが、それしかできない人なのだ。
ユウカは深く息を吐き出すと、少しだけトーンを落として言葉を重ねた。
「ちゃんと眠れてましたか」
「ええ。六時間の睡眠時間を確保するようにスケジューリングしていたわ」
「悪夢とか、見ませんでした?」
「夢は記憶の整理プロセスに過ぎないわ。内容に意味はない」
「嘘ばっかり。会長、昔からストレスが溜まると寝言が増えるじゃないですか」
「そ、そんな非科学的なデータは記録されていないはずよ」
「私が覚えてるんです。去年の合宿の時、寝言で難しい数式をブツブツ呟いてたくせに」
「ユウカ……」
リオが少しだけ眉をひそめ、困ったように少女の名を呼んだ。
まるで母親に幼少期の失敗談を暴露された子供のような、微かな居心地の悪さがその横顔に浮かんでいる。
そのやり取りを、隣のノアは手にしたティーカップを傾けながら、一切口を挟まずに静かに眺めていた。
ノアの透き通るような紫色の瞳が、二人の一挙手一投足を、網膜の奥の絶対的な記憶領域へと淡々と焼き付けていく。
ユウカがどれほどリオを心配していたか。
夜遅くのオフィスで、ため息をつきながら冷めたコーヒーを煽っていた彼女の横顔を、ノアは誰よりも鮮明に覚えている。
そして同時に、リオがどれほど不器用な形でミレニアムを守ろうとしていたかも、彼女の卓越した知性は察していた。
二人の間に横たわる言葉の不器用さは、互いが互いを深く尊重しているからこそ生じる摩擦なのだ。
完全記憶能力を持つ記録官として、ノアはこの瞬間に余計な調停の言葉を差し挟むことが、どれほど野暮で無粋であるかを完璧に弁えていた。
ただ静かに微笑みを湛え、二人の不器用な対話を温かな記録として刻み続けることこそが、今の自分の役割であると知っていたのだ。
リオは一度短く息を整えると、アンティークチェアのひじ掛けに置いた指先をトントンと規則正しく叩いた。
話題を自身のプライベートから、本来の領分である実務へと強引に引き戻すための所作だった。
「留守中の、セミナーの状況はどうだったのかしら」
その問いかけに、ユウカの背筋が反射的に伸びた。
会計としての職業病が、瞬時に脳内のタスクリストを展開する。
「どうだったかも何も……大混乱でしたよ。会長の決裁印がないせいで、他校との共同プロジェクトはすべて一時凍結。各部活からは予算の執行が遅れているって連日怒鳴り込まれるし、特にエンジニア部なんて、会長の承認が下りないのをいいことに未承認の試作型工作機械を建造、学園の敷地内で実験し始めるし……」
「ウタハたちね。彼女たちの暴走を止めるのは、平時でも骨が折れるわ」
「それだけじゃないです! コユキがまた余所様のセキュリティを隅から隅まで突破して、その内容を懇切丁寧にメールにして送りつけるし、ゲーム開発部が廃部の危機だって騒ぎ立てたり……もう、ノアがいなかったら完全にパンクしてました!」
ユウカが堰を切ったようにまくし立てる。
積もり積もった数ヶ月分の苦労話が、早口な弾丸となって個室の空気を震わせた。
そして、一息ついたユウカは、ふと思い出したように手元の端末を開き、特定のプロジェクト項目を呼び出した。
「そういえば会長。新しく校有特許として登録された新技術の件です」
ピク、とリオの眉が微かに跳ね上がった。
「新しい駆動システム、マッスルシリンダー。それを動かすための斬新な燃料、ポリマーリンゲル液に関する件ですが、関係各部の尽力もあって無事に実証試験をクリアしました。ロイヤリティ配分も正式に承認され、すでに我が校の口座には巨額な特許収入が振り込まれ始めています」
「そ、そう……。それは素晴らしい成果ね」
リオの声が、わずかに上ずった。
ユウカはその不自然さを敢えて指摘せず、怪訝そうに眉根を寄せて端末のグラフを指差した。
「ただ……奇妙なことがあるんです。初年度に生産が予定されていたマッスルシリンダーの全ロットが、特定のダミー会社を経由して根こそぎ買い占められているんですよ。一体どこの誰が、これほど莫大な資本を投じて人工筋肉を独占しているのか……現在、セミナーの全力を挙げて購入ルートを徹底的に洗っているところなんです。なにせ合法的とはいえダミー会社を通して購入だなんて、よからぬ考えしか思いつきませんので」
その言葉が落ちた瞬間、リオの背筋が目に見えてビクッと跳ね上がった。
アームチェアのアームレストを掴むリオの白い指先に、鬱血するほどの強い力が込められる。
内心で吹き荒れる冷汗を必死に覆い隠すように、リオは喉を小さく鳴らし、テーブルの上の冷めた紅茶に手を伸ばして一口啜った。
全ロット買い占めを指示した張本人は、他ならぬ調月リオ自身である。彼女のある計画に必要なファクターとなったからだ。
リオは心臓の激しい警鐘を必死に抑え込み、努めて無表情を貼り付けながら、平坦な声を取り繕った。
「市場の歪みは、技術の革新性が高すぎるがゆえの過熱現象かもしれないわ。……追跡調査は慎重に行いなさい。私の方でも、心当たりがないか調べておくわ」
「ええ、お願いします。本当に、会長がいない間に不審な資金移動が多すぎて頭が痛いんですよ」
二人のやり取りを見続けたノアは、吹き出し笑いを抑えようと懸命になっていた。
ユウカが小さく溜息をつき、端末を一度テーブルの上に伏せた。
そして、少しだけ表情を改め、真剣な眼差しをリオへと真っ直ぐに向け直した。
「それから……もう一つ。Hubのことです」
その単語が出た瞬間、先ほどの慌てふためきとは打って変わり、リオの表情からすべての動揺が消え失せた。
冷徹な瞳の奥に、深い、途方もなく重い感情が宿る。
歴代の長たちが管理を投げ出し、複雑怪奇なコードの迷宮と老朽化の根本的な改善を行えなかったミレニアムの工作機械、Hub。
新任の長として整備日誌に幼い悪態を書き殴り、絶望に打ちひしがれながらも、最終的に自らが生徒会長の座を手に入れ、予算と権限のすべてを掌握してまで「必ず私が直してあげる」と悲壮な覚悟を誓った、彼女の聖域そのもの。
「整備記録の日誌、見ました」
ユウカの声は、静かだった。
「会長が不在の間……Hubが外部のハッキングにより原因不明の過負荷と暴走の危機に陥りました。でも、先生とシャーレの皆さん、ミレニアムの多くの生徒たちが力を合わせて、Hubを最悪の結末から救い出しました。……会長が、あのシステムに対してどれほど並々ならぬ想いを抱えていたか、遺されていた日誌を通じて、私も知りました」
リオは両手を膝の上で固く握りしめたまま、静かに目を伏せた。
セーフハウスに届いた報告書で、Hubに起きた顛末を目にした時の衝撃は、未だ彼女の胸の奥で鮮烈に脈打っている。
ユウカは、リオが無責任だと一言も言ってはいない。しかし、リオ自身の心の奥底では、いつかそう責められるのではないかとずっと怯えていたのは間違いなかった。
リオはゆっくりと顔を上げた。
その瞳は微かに潤んでいるように見えたが、彼女は決して涙を零すことはしなかった。
ただ、一人の不器用な少女として、真っ直ぐにユウカの瞳を見つめ返した。
「Hubの件、すべて報告書で読んだわ」
低く、震えを押し殺した声だった。
「私が守るべきだったものを、私が不在の間に、貴方たちが守り抜いてくれた。……ありがとう、ユウカ。本当に、心から感謝しているわ」
「っ……!」
一切の計算も、データによる誤魔化しもない、魂の底からの感謝の言葉。
それを受け止めたユウカは、胸が詰まり、息を呑んだ。
会長がどれほどHubを大切に思っていたかを知っているからこそ、その言葉の重みが、これまでの八ヶ月間の苦労と孤独を、すべて肯定して洗い流していくようだった。
「お礼なんて……いいんです。私は、セミナーの会計として当然の仕事を全うしただけですから」
ユウカは伏し目がちに呟き、照れ隠しのように指先でスカートの裾を弄った。
その横顔を、ノアは優しく目を細めて見つめていた。
完全記憶能力を持つ書記官の網膜に、二人の少女の魂が交錯したこの至高の瞬間が、何物にも代えがたい永遠のデータとして刻み込まれていく。
リオは静かに息を吐き出すと、背筋を伸ばし、本来の生徒会長としての威厳をわずかに取り戻して見せた。
「近いうちに……正式にセミナーの執務室へ戻るわ。山積みになっている未決裁の書類も、私がすべて目を通して処理する」
「近いうちって、いつですか」
すかさずユウカが、鋭い眼差しで追及する。
「明日ですか? それとも明後日ですか? まさかまた『追って連絡する』なんて言って誤魔化す気じゃないでしょうね!」
「安全保障上の観点から、残務処理と周囲の環境確認が必要なのよ。非合理的な拙速は避けるべきだわ」
「いいえ、逃がしません! 明日の朝一番とは言いませんから、せめて今週中にはスケジュールを確定させてください! カレンダーの共有リクエスト、今すぐ送りますからね!」
ユウカが猛烈な打鍵音を響かせながらスマートフォンの画面をタップし始める。
その徹底した事務処理の速さに、リオは気圧されたように目を瞬かせ、やがて小さく諦めたようなため息を漏らした。
「善処するわ」
「善処じゃ困ります! 『確定』です!」
譲らないユウカの剣幕に、ノアがトレイからサンドイッチを一つ取り、そっとユウカの手元へ差し出した。
「はい、ユウカちゃん。熱狂的なスケジュール管理も結構ですけれど、少しお腹を満たしてからにしましょう? 冷めても美味しいそうですから」
「も、もう……ノアまで調子いいんだから……」
ユウカはぶつぶつと小言を漏らしながらも、差し出されたサンドイッチを受け取り、小さく口を開けて齧り付いた。
上質な牛肉の旨味と、ピリッとしたマスタードの風味が口いっぱいに広がる。
空腹だったことを思い出したのか、ユウカの表情が微かに和らいだ。
リオもまた、促されるように皿の上のカナッペへと手を伸ばした。
指先でつまみ上げ、小さく口へと運ぶ。
サクリとしたクラッカーの硬質な歯ごたえと、サーモンの塩気が舌の上に落ちる。
「悪くない味ね」
リオの呟きに、ユウカがもぐもぐと口を動かしながら、少しだけ得意げに返した。
「そりゃそうですよ。あの黒服さんが、わざわざ冷めても美味しいものをって指定して用意させたんですから」
「そう。……彼も、随分と気の利く真似をするようになったものだわ」
八ヶ月という長い歳月が刻んだ溝は、この短い時間ですべて埋まるわけではない。
リオが抱えているであろう、これからの巨大な課題や、マッスルシリンダーの買い占めに隠された真意を、ユウカもノアもまだ正確には知らされてはいなかった。
だが、少なくとも今この瞬間、三人の間に横たわっていた冷たい断絶は、確実に消え去っていた。
VIPルームの分厚い防音扉の向こうでは、キヴォトスの夜が静かに更けていく。
先生が遠く西へと身を投じているその裏側で、ミレニアムを率いる三人の少女たちは、不器用ながらも確かな絆の糸を、再び手繰り寄せ始めていた。
セミナーの三人を残して辞した個室の防音扉が閉ざされた瞬間、黒服の肩から小さく重い息が漏れ出た。
二人が案内されたのは、フロアの外周部に設けられたテラスであった。
一見すれば、そこは手入れの行き届いた豊かな観葉植物の緑が揺れ、足元には柔らかな照明に照らされたウッドデッキが広がる、自然豊かな空中庭園に見える。最高級の会員制クラブに相応しい、贅を尽くした寛ぎの空間そのものであった。
だが、夜空を仰ぎ、あるいは眼下に広がる摩天楼の光芒へと視線を凝らせば、誰もが奇妙な違和感を覚えるはずだ。
高層階特有の強烈な夜風はどこにもなく、葉の一枚すら微動だにしない。広がる夜空の境界には、わずかな光の二重屈折が走っている。――そう、頭上から四方に至るまで、その空間は分厚い透明の防壁によって完全に囲い込まれていたのだ。
ヘリボーン強襲や数キロ先からの対物狙撃を光学・物理的に遮断するための、強固極まる積層防弾ガラス。自然を模した優雅な庭園の正体は、外界から完全に隔絶された巨大な透明の箱であった。
その透明な壁の前に立ち、眼下の夜景を見つめていたナギサが、静かに振り返った。
彼女の手元には、いつもあるはずの白磁のティーカップがない。両手を胸の前で静かに重ね、ただ佇んでいるその姿は、普段の優雅なお茶会の主とはまるで異なり、剥き出しの政治家としての冷徹な鋭気を放っていた。
「三人きりにして差し上げたのは正解でしたわね。リオ会長も、あの二人の前でなければこぼせない本音というものがあるでしょうから」
「ええ、まさにその通りです。ノアさんもユウカさんも、彼女の不器用な誠実さを理解できる聡明さを持っています。時間を置けば、然るべき落としどころを見出すでしょう」
黒服は懐から取り出した高級な麻のハンカチで、仮面の額にあたる黒煙の境目を軽く拭った。
だが、安堵の息を漏らす余裕は与えられなかった。
彼が抱く焦燥は、リオたちへの申し訳なさとはまた別の、遥かに底の知れない冷たい刃となって、すでに喉元へと突きつけられていたのだ。
「それにしても、大人の欲望というものは、本当に浅ましく、そして底が知れませんわね」
ナギサの口調は穏やか極まりない。
しかし紅茶という小道具を介さないその両目は、逃げ場のない黒服を正確に射抜いていた。
「トリニティとミレニアムの隠された裏のライン。そのラインにぶら下がってきた大口の資産家たちが、示し合わせたかのように同時に暴走し、セミナーの会長を所有しようと泥沼の内紛を始めた。……黒服のおじ様、貴方は先ほど、彼らの浅ましい独占欲が原因だと仰いましたわね?」
「ええ。お恥ずかしい話ですが、事実としてその通りでして」
「ふふ、否定はいたしませんわ。彼らの下衆な一面に関しては、私も無縁というわけではありませんでしたから。ただ、少しだけ都合がよすぎるのです」
ナギサは一歩、黒服の方へと歩み寄った。
「先生から伺ったことがあります。貴方と同じ組織に属していた、一人の女性の存在を。……私の大切な人を騙し、ゲヘナをそそのかし、支配したアリウスをもってエデン条約を灰燼に帰そうとしたベアトリーチェ」
透明な箱の中の空気が、急速に凍りついていく。
「彼女はあの時期、トリニティ内部の政治的対立を利用し、私を限界まで人間不信へと追い込もうとしていました。周囲のすべてを疑い、猜疑心に苛まれ、孤立無援のまま自壊するようにと。例えば……クライアントたちが急にリオ会長へ執着し始めた時期と、ベアトリーチェが暗躍し始めた時期。恐ろしいほどに一致しているのですわ。まるで誰かが、私とリオ会長の連携を断ち、私がエデン条約へ注ぐべきリソースを奪い去るために、ピンポイントで火種を投げ込んだかのように」
黒服の胸の奥で、苦い鉄の味が広がった。
(彼女は、あの売女と私の間にラインが繋がっていたことを、先生のツテから正確に把握している……)
ナギサは決定的な証拠を握っているわけではない。通信記録や密談のログまでを掴んでいるわけではないのだ。
しかし、状況証拠は完全に外堀を埋め尽くしていた。
そして何より――ナギサの疑念は、寸分の狂いもなく事実であった。
エデン事変の前、ベアトリーチェは確かに黒服へ裏工作を求めてきたのだ。
ミレニアムとトリニティの裏の繋がりを掴んでいたあの女は、ナギサを心理的にさらに追い詰めるため、彼女が仕事を仲介していた資産家たちを直接・間接の手段でたぶらかし、リオを標的に仕立て上げた。策略家としてのあの女は確かに有能であり、俗物どもを意のままに操ってみせたのだ。
そして同胞であった黒服に対し、リオ会長の騒動に関して可能な限り調停をサボタージュしろ、と要求してきたのである。
(ええ、ええ……彼女の本当の目標――『忘却』する前の彼女が本当にそこを目指したかったとは思いませんが――そこに到達しさえすれば、私への借りや迷惑料などいくらでも踏み倒せると踏んでいたのでしょう)
自身が上位の絶対者へ至りさえすれば、現世の負債も貸し借りもすべて紙屑にできるという、あの売女の傲慢な計算。
だが、その身勝手な企てが破滅した今、残された負債のツケは、こうして黒服の目の前に突きつけられている。
「黒服のおじ様? ずいぶんと押し黙っておいでですが」
ナギサの透き通るような声音。
「まさかとは思いますが……おじ様が、あの女の陰謀に歩調を合わせ、意図的に火消しを遅らせていた、などということはございませんわよね?」
その瞳の奥には、黒服でさえもゾッとさせるものが揺蕩っていた。
彼の額を流れる汗は、もはや体裁や演技の類ではない。
「ナギサさん。貴方の慧眼には、恐れ入るばかりです」
黒服はゆっくりと頭を下げた。
「当時、私の側で情勢の読み誤りと、ある種の機能不全があったことは認めざるを得ません。結果として貴方に過度な心労を強いる形となったことについて、弁解の余地はありませんよ」
決定的な言質は与えずとも、非を全面的に呑み込んだ黒服の態度に、ナギサはわずかに眼差しを緩めた。
これ以上、過去の暗部を抉り立てるつもりはないのだろう。ここからは取り立ての段階に入ったのだから。
「結構ですわ。過ぎ去った嵐を論うほど、私も暇ではございませんから」
ナギサは胸元から手を下ろし、ふっと薄い笑みを浮かべた。
「ただ、貸しが一つ増えたことだけは、双方の共通認識としておきましょう。――今後、何かあった時には、相応の誠意を見せていただきますわよ、黒服のおじ様」
「ええ、ええ……重々、肝に銘じておきましょう」
黒服は深々と頭を垂れながら、密閉された透明な壁の向こうに広がる夜景を見つめた。
かつての同胞の悪辣さと、自らが放置したツケ。それらを清算し終えるには、まだ相当な誠意が必要であることを、彼は苦々しく噛み締めていた。
テラスにおいて、同業の二人がかつての清算を交わしている頃。
防音扉によって外界のしがらみから完全に切り離されたVIPルームの個室では、残されたセミナーの三人が緩やかな時間を共有していた。
黒服が手配したオードブルを口に運びながら、ユウカはふと咀嚼の動きを止めた。
先ほどまでのわだかまりが解けた安堵感とは別に、ある決定的な矛盾が彼女の計算回路の中でエラーを吐き出し始めたのだ。
「四月からセーフハウスで幽閉状態だったんですよね、会長」
ユウカは手元のフォークを皿に置き、正面に座るリオを真っ直ぐに見据えた。
「ええ、そうよ」
リオが静かに頷く。ナギサや黒服によって保護という名目で外界から隔離され、通信の自由すら奪われていたという経緯は先ほど聞いたばかりだ。
「なのにどうやって、セミナーの予算を横領したんですか?」
「ストレートに聞いてきたわね」
リオは手にしていたグラスを置き、微かに目を眇めた。感傷的な余韻など一瞬で吹き飛ばす、あまりにも直球すぎる実務的な問い詰めである。
「この場ではもう追及しないつもりだったんですが、今の話を聞いて新しい謎と、信じたくない真実が浮かび上がってきたので、どうしても確認がしたいんです」
外界との通信も物理的な接触も絶たれた幽閉状態で、ミレニアムの厳重な予算管理システムから巨額の資金を動かすことは不可能だ。
もしそれが為されていたのだとすれば、あらかじめ仕込まれた悪辣な自動化アルゴリズムが存在するか、あるいはセミナー内部に協力者がいたかという最悪の二択しか残されていない。
ユウカの表情には、会計としての切実な戦慄が浮かんでいた。
「ユウカちゃん」
隣に座るノアが、困ったような微笑を浮かべてユウカを窘めようとする。
黒服とナギサの計らいによってようやく成立した和解の場で、また予算の説教を再開するのは無粋ではないかという、書記としての穏健な制止であった。
だが、現在のユウカにとってそれはミレニアムの財政と自分たちの胃壁に関わる死活問題である。
「ノア。ここでちゃんとはっきりさせておかないと、またどこかでセミナーの予算が蒸発するわよ」
「それは……」
「最近ノアが悩んでいる口内炎の原因、これ以上悪化するのを回避したくない?」
連日の激務と、消えた予算の帳尻を合わせるための果てしない残業。そのストレスと過労の蓄積によって引き起こされた、ノアの隠れた不調。
ユウカに痛烈な事実を突きつけられ、ノアの顔から優雅な微笑みがスッと消失した。
数秒の静寂。
ノアは姿勢を正し、一切の感情を排した氷のような真顔でリオへと向き直る。
「会長。ちゃんとお話ししてください」
和やかな休戦協定は終了である。
両脇を固める有能な後輩たちから逃げ場のない追及の視線を浴び、リオは密かに小さな溜息を吐き出すしかなかった。
だが、焦りや逃避の感情よりも先に、彼女の胸の内に湧き上がってきたのは静かな好奇心であった。
四月からの長い間、失踪した自分の穴を埋めるためにセミナーの会長代理という重責を背負い、ミレニアムのトップとして激動の日々を奮闘し続けた早瀬ユウカ。彼女がいかなるロジックを以てこの物理的な矛盾に切り込むのか、その成長の軌跡を少しだけ試してみたくなったのだ。
多大な苦労を強いてしまった身でありながら、そんな確認を望むのはいささか贅沢すぎる欲求だろうか。
「あなたはどう結論づけたのかしら、ユウカ」
リオは逃げることなく、むしろ先を促すように静かに問い返した。
ユウカは一つ瞬きをして思考を整理すると、自らの考えを述べる上で絶対に成立していなければならない大前提を口にする。
「会長。ヒマリ先輩には居場所を完全に捕捉されていた、という私の考えは合っていますか?」
その真っ直ぐな問いに、リオは淀みなく頷いた。
「ええ、その通りよ」
トリニティの首脳であるナギサと、裏社会の仲介者である黒服。二人の大人が万全を期して用意した、物理的にも電子的にも外界から完全に遮断された絶対のセーフハウス。
しかし、あの病弱で自称・全知の天才ハッカーにとって、それらの防壁は時間稼ぎ以上の意味を持たなかった。明星ヒマリは、数日という時間こそ要したものの、リオが潜伏していた極秘の座標を自力で完全に探り当て、あろうことか監視の網の目を縫ってバックドアを開通させていたのである。
ヒマリの介入という大前提の裏付けを得たユウカは、脳内で組み上げた推測のピースを一息に並べ立てた。
「ということは、ヒマリ先輩はもとより、チヒロ先輩も最初からグルだったんですね?」
「どうしてそう思うの?」
「辻褄が合わないからです。過去、チヒロ先輩は私に会長の足取りを掴むための追跡プロトコルを渡してくれました。ですが、ヒマリ先輩がすでに居場所を特定してバックドアまで開通させていたのなら、あのプロトコルはまったくの無意味になります」
ユウカの声音には、騙されていたことへの怒りよりも、論理のパズルを解き明かした探求者の確信が強く滲んでいた。
ヴェリタスの副部長である各務チヒロが、何の意味もない無駄なプログラムを組むはずがない。であれば、あれは追跡を装った精巧なダミーだ。行方不明の会長を捜索しようと焦るユウカたちを誤誘導し、安全圏から徒に時間を稼ぐための、悪意のない遅延行為であったとしか考えられない。
自らの残したダミーの軌跡を完璧に暴いてみせた後輩の指摘に、リオは悪びれる様子もなく、ふっと柔らかい笑顔を見せた。
その反応こそが、ユウカの推論に対する何より雄弁な肯定であった。
傍らでそのやり取りを聞いていたノアの脳裏に、数ヶ月前の光景が一切の劣化なく鮮明にフラッシュバックする。
追跡プロトコルが入ったストレージを手渡すチヒロの仕草。その時の不自然な間の取り方。そして何より、チヒロがユウカに向けていた、どこか奇妙な視線。
記録媒体のように過去の事象を再生したノアは、当時のチヒロの振る舞いに感じていたノイズの正体を、ここに至ってようやく完璧に理解した。
「なるほど。あの時のチヒロ先輩の視線には、そういう意味が含まれていたのですね」
ヴェリタスのトップ二人がかりで、ミレニアムの会長代理を煙に巻いていた遅延工作だったわけである。
ノアは小さく息をつきながら、納得の合点をした。
しかし想定外が一つあった。それはユウカが膨大なダミーデータを捌き切り、確かに横領の全貌へと迫っていたことだ。
そして今、ヒマリという全知のハッカーの介入が裏付けられたことで、ユウカの中でバラバラだった事象が一本の太い線として繋がり始める。
「となると、Hubの一件を除けば、現在のミレニアムの大きな流れはすべて、会長とヒマリ先輩、チヒロ先輩の三人による談合に基づいて作られたものということでいいんですね?」
淡々と、しかし確信に満ちたユウカの告発を聞き、リオはわずかに目を丸くした。
やがて彼女は降参したように肩の力を抜き、感嘆の息を漏らす。
「こういう言い方は失礼かもしれないけれど、ユウカ。貴方は完全に私の想定を超えているわ」
「誉め言葉は素直に嬉しいですけど、話を続けさせてもらいますね」
真っ向から称賛を受けたユウカは少しだけ照れくさそうな笑顔を浮かべたが、すぐに小さく咳払いをして、元の冷徹な監査官の顔へと引き戻した。
彼女は指を一つずつ折りながら、三人の天才たちが裏で構築したであろうシナリオを言語化していく。
「まず、会長が大人たちのトラブルに巻き込まれた結果、外部との接触を断って隠遁を余儀なくされた。そしてヒマリ先輩は、その極秘の潜伏先をすぐさま発見した」
ユウカは一つ目の事実を確認し、次いで二つ目の指を折る。
「しかし、状況を整理したヒマリ先輩は、今すぐ会長を解放しても事態は泥沼化するだけだと結論づけた。相手がトリニティや裏社会の資産家どもであれば、技術と諜報が専門のヒマリ先輩やチヒロ先輩が直接介入して解決するのは不可能ですからね。だからこそ、会長を行方不明扱いのまま放置し、事態を静観することを選んだ」
「ええ、その通りよ」
「とはいえ、キヴォトス三大学園の一角であるミレニアムで、トップの不在が長期間続くことは致命的です。かといって正式に会長職を誰かに委譲するような手続きを取れば、裏で争っている大人たちに会長の現状という無用な隙を与えることになってしまう」
ミレニアムという巨艦を動かし続けるための、ギリギリの政治的判断。
ユウカは自らの胸に手を当て、真っ直ぐにリオを見据えた。
「そこで、先輩たち三人は密かに一計を案じた。残された私を、ミレニアムの会長代理相当にまで権威を高めることで、トップ不在の不安定な学園を強引にまとめ上げようとしたんです」
横領の隠蔽、追跡プロトコルという名の遅延工作、そして自分に対する過剰なまでの裁量の集中。
そのすべてが、早瀬ユウカという神輿を担ぎ上げ、ミレニアムを崩壊させないための壮大な盤面操作であったのだとすれば、すべての辻褄が完璧に合致する。
「ここまで、私の推測に間違いはありますか?」
「一つだけ訂正させてほしいの」
リオは伏せていた視線を上げ、どこか居心地の悪そうな色を帯びた瞳でユウカを見つめた。
自らの謀略を完璧に見破られた敗北感というよりは、完璧であったはずの計算式に思わぬ誤差が生じていたことを認める、学究肌特有の困惑が微かに滲んでいる。
「貴方にそこまで過大な負担がかかる想定ではなかったわ。よほどの物理的圧力でもない限り、ミレニアムに危機は訪れないと思ったのよ」
「負担の想定、ですか」
「ええ。ミレニアムの行政機構は各部活動の高度な自治と、自動化された情報処理プロトコルによって極めて頑健に設計されている。最終責任者たる生徒会長の決済印が存在しないという形式上の瑕疵を除けば、日々のルーチン業務や予算の執行、定期監査はすべて既存のシステム通りに正常稼働するはずだった。ユウカ、貴方の卓越した実務能力をもってすれば、日々の決裁を淡々と代行するだけで組織は機能する――私のシミュレーションでは、貴方がそこまで摩耗するような事態には陥らないはずだったのよ」
淡々と並べ立てられるその弁明は、論理の筋道こそ通っているものの、現場の生々しい混乱や心理的重圧を完全に度外視した机上の空論そのものであった。
数字の上では回るはずの業務であっても、人間が動かしている以上、トップ不在という心理的不安は現場の歪みとなってすべて実務担当者へと押し寄せる。それを平然と「計算外の誤差」として語るリオの言い分には、いかにも彼女らしい独善的な甘さが色濃く残っていた。
だが――ユウカの思考回路を強く刺激したのは、その身勝手な言い訳の内容よりも、リオが発した「ミレニアムに危機は訪れない」という言葉であった。
(危機……? 何か不自然さを感じる)
帳簿の数字と論理の整合性に異常な嗅覚を持つユウカの直感が、言葉の端に潜む微かなノイズを捉えていた。
リオの口調や目線には、単なる学園組織の機能不全を案じているだけではない、もっと別の、不可視の巨大な厄災――自分たちが預かり知らぬ「別の危機」を想定し、極秘裏に対処していたかのような異質な気配が滲み出ていたのだ。
もちろん、それが具体的に何を意味するのかまでは、今のユウカに推し量る術はない。
だが、リオがこの失踪劇の背後で、学園行政の維持とは次元の異なる何らかの防衛線を引き、それに対応しようとしていたのではないかという疑念が、胸の奥深くに小さな澱のように沈殿する。
しかし、ここでその不審点に飛びついて脱線してしまえば、せっかくここまで整然と組み上げた論理の骨組みが散らかってしまう。この件は後で徹底的に問い詰めるべき案件だと判断し、ユウカは冷徹にそれを思考の棚へと追いやった。
ユウカは一つ静かに息を吸い込み、姿勢を正してリオの目を見据える。
「実際、たしかに今の今までミレニアムは、数々の大きな問題を前にしてもなんとかやっていけました」
声音に余計な怨嗟や棘を混ぜることなく、ユウカは客観的事実だけを淡々と紡ぐ。
「組織を空中分解させることなく、今日まで正常な学園運営を維持し続けられたのは紛れもない事実です。ですから――結果論ではありますが、リオ会長のその判断自体は正しかったと判断します」
「そう言ってもらえると、助かるわ」
「ですが――それとこれとは、話が完全に別です」
ユウカは卓上に置いたままだったフォークをそっと脇に寄せ、鋭い眼差しでリオを射抜いた。
「先輩方による談合の構図は理解できました。ですが、最初の疑問に対する技術的な答えがまだ残っています。外界から完全に隔離されていたはずの状況で、一体どうやってセミナーの自動監視網をすり抜け、巨額の資金を動かしたんですか?」
追及の手を緩めないユウカに対し、リオは静かに問い返した。
「私が持っている個人資産や、保有している特許権から得られるパテント料を使えば済む話ではないか――そう考えているのでしょう、ユウカ」
「当然です。会長の個人資産だけでも、並の学園なら数十年分の年間予算に匹敵する額があるはずですから」
「ええ。けれど、もしも私が自分の名義でそれらの口座やパテントを動かせば、一体どうなると思う?」
リオの静かな問いかけに、ユウカは「あ――」と短く息を呑んだ。
金融と会計のプロフェッショナルであるはずの自分が、あまりにも初歩的な盲点を見落としていたことに、言われて初めて気づいたのだ。
暗号資産の送金ログ、金融機関へのアクセスポイント、為替スワップの経路――どれほど高度に暗号化を施そうと、実在する巨額の資産を動かす以上、金融市場という巨大なネットワークのどこかに必ず微小な物理的痕跡が残る。
リオの身柄を狙い、セーフハウスの極秘座標を血眼で探している下衆な大人たちが蠢く現状において、自らの口座を動かす行為は、敵に向かって自らの居場所を知らせる狼煙を上げるようなものだ。
金融の力学を熟知しているユウカだからこそ、その致命的な危険性に即座に思い至り、ぐうの音も出なくなっていた。
ユウカの沈黙を確認したリオは、淡々と種明かしを続けた。
「身動きが取れない中で、どうしても工面しなければならない資金があったの。その調達手段に頭を悩ませていた折、バックドアを開通させて接触してきたヒマリにその事情を相談したのよ。そうしたら――あの天才ハッカーが、呆れるほど悪辣で合理的な資金調達案を提案してきたのよ。『貴方の個人資産が動かせないのなら、ミレニアムの公的予算を迂回させて動かせばよろしいではありませんか』とね」
「ミレニアムの公的予算を……」
「学園の公的予算であれば、外部からの追跡はミレニアムが誇る世界最高峰の電子防壁に完全に遮断される。追跡できるのは内部監査だけよ。ヒマリがセーフハウスとの極秘回線を中継し、チヒロがダミー口座の隠蔽とログの遅延工作を引き受けた。チヒロは貴方に追跡プロトコルを渡して時間を稼ぎつつ、裏ではヒマリの指示に従って資金洗浄のスクリプトを走らせていたのよ。もちろん、彼女は横領の件を除けば、心から貴方の業務を助けていたけれどね」
信じがたい共謀の構図を突きつけられ、ユウカは呆然と呟いた。
「グルだとはわかりましたけど、そこまでしていたんですね……。先輩達の関係を、私、甘く見ていました」
「主義主張が違うことでセミナーとヴェリタスという敵対関係であることは事実だけど、それだけが人の関係を決めることではないわ。――そこは減点ね、ユウカ」
「はい……」
形式主義に囚われていた自身の視野の狭さを突かれ、ユウカは素直に項垂れるしかなかった。
その時、これまで静かに二人のやり取りを見守っていたノアが、静かに口を開いた。
「なるほど。私達に何一つ相談しなかったのは、大人達に尻尾を掴まれたくないからだということは理解できます」
ノアの声はどこまでも穏やかであり、感情的な棘など微塵も含まれていなかった。
しかし、彼女が向ける透き通った紫の瞳の奥には、すべてを記録し続ける少女ならではの、言い逃れを許さない静謐な真剣さが宿っていた。
「ユウカちゃんや私が急に不審な巨額資金を動かせば、周囲の耳目を集めてしまいますし、大人たちに会長の居場所を探る足がかりを与えてしまう。合理的なリスク管理という観点で見れば、完全に正しい判断です」
ノアはそこまで淡々と理屈を肯定した上で、リオの目を真っ直ぐに見据えた。
「けれど――ヒマリ先輩やチヒロ先輩に比べて、私たちはそんなに頼りないですか、会長?」
その言葉は、まるで冷たい刃のようにリオの胸の隙間を刺し貫いた。
「頼りないなどと……思ったことは一度もないわ。むしろ逆よ」
「では、どうして何も教えてくださらなかったのですか。泥を被る役目を、どうして先輩方三人だけで抱え込んでしまわれたのですか」
ノアの静かな追及に、リオは唇を噛みしめ、言葉を失った。
完全な記憶能力を持つ少女だからこそ、自分が「蚊帳の外」に置かれていたことの論理的必然性を誰よりも理解している。理解できてしまうからこそ、セミナーの一員として、同じ組織を背負う仲間としてリオに頼りにされなかった事実が、寂しさと悔しさとなって胸の奥に澱んでいたのだ。
「貴方たちを信頼していないのではないの。貴方たちを、こんな泥沼に巻き込むわけにはいかなかったのよ」
「私たちは、そこまで脆い子供ではありません」
ノアの涼やかな反論に、リオはそれ以上何も言い返すことができなかった。後輩を守るための配慮が、同時に彼女たちの誇りを傷つける結果になっていたのだと、突きつけられたからだ。
重苦しい沈黙が落ちる中、ユウカが小さく息を吸い、再び会話を引き取った。
「では、その動かされた巨額の資金は、一体どこへ消えたんですか? 何のために使われたんですか?」
ユウカが重ねて踏み込んだ問いに、室内の空気がふっと冷え切った。
先ほど感じ取った「ミレニアムへの危機」という言葉の異様な重み。学園の平常運行とは明らかに次元の異なる、不可視の防衛線の気配が再びユウカの背筋をかすめる。
リオは手元のグラスを見つめたまま、静かに首を横に振った。
「それについては……今はまだ話すことはできないわ」
拒絶の言葉は淡々としていたが、その声音には後輩を突き放す冷徹さではなく、重苦しい業を一人で背負い込もうとする頑なな意志が宿っていた。
「ただし、セミナーの帳簿に穴を開けたまま放置するつもりはないわ。幽閉されている間、以前から頭の中にあったいくつかの未発表のパテント構想を形にして、そのまま新規に特許申請できるようにまとめた仕様書があるの。それを新たにミレニアムの校有特許として登録して、今回の補填に充ててちょうだい」
調月リオが直々に書き上げた新規特許となれば、そこから生み出されるロイヤリティは計り知れない。一見すれば差し引きゼロ、いや、むしろトータルで見れば学園にとって大幅なプラスとなる提案であった。
しかし、ユウカはその提案に対して何も答えなかった。先ほどのダミー口座の種明かしによって、彼女の頭脳の中ではどうしても解けなかったもう一つの疑念が、確信へと変わっていたからだ。
「先ほどお話しした、マッスルシリンダーの初期ロットを買い取った資金と、その現物はどうしたんですか?」
ユウカの鋭い指摘に、リオはわずかに目を細め、静かに首を振った。
「その件に関しては後日、話すわ。今ここで触れると、話が散らかってしまうもの」
それ以上は一切の追及を許さないという、一線が引かれた。
リオは一拍だけ間を置くと、静かに言葉を継いだ。
「それにユウカ、先ほどは近いうちに執務室へ戻ると言ったけれど、訂正させてちょうだい。私が今向き合っている問題が完全に片付くまで、まだしばらく表舞台には戻れないわ。セミナーの運営は、引き続き貴方たちに託すことになる」
室内を満たす張り詰めた沈黙。
ユウカは手元を見つめ、思考を巡らせていた。
使途を頑なに秘匿するリオの姿勢を、これ以上無理にこじ開けることは不可能だ。譲渡される新規特許によって数字の上での帳尻はいずれお釣りが来るほど合わされることになり、会長が独断で動かした資金の背後には、自分たちがまだ触れることすら許されない巨大な脅威が存在している。
先ほどは今週中にも戻ってくるよう無邪気に迫ってしまったが、目の前の先輩が背負っているものの重さは、そんな日常のスケジュールで測れるような代物ではなかったのだ。
やがて、ユウカはゆっくりと息を吐き出した。
彼女の表情から冷徹な監査官の険しさが消え、年相応の、しかし確固たる覚悟を湛えた後輩の顔へと戻っていた。
「わかりました」
ユウカは背筋を伸ばし、真っ直ぐにリオを見据えた。
「Hubの件もそうでしたが、会長はこれまで、私たちが到底想像もつかないような巨大な難題を、常に一人で成し遂げてきました。ですから――きっと今度の難題も、成し遂げてくださると信じています」
「ユウカ……」
不意を突かれたように、リオの瞳が揺れた。
厳しい詰問や、あるいは失望の言葉を予想していた彼女にとって、それはあまりにも無垢で、あまりにも真っ直ぐな全幅の信頼そのものであった。
ユウカは微かに微笑み、胸に手を当てて言葉を紡ぐ。
「ですから――その難題が終わったら、その時はちゃんと、ミレニアムへ帰ってきてくださいね」
「ええ。お待ちしていますよ、会長」
隣に控えるノアも、穏やかな慈しみを湛えた笑みを浮かべて頷いた。
背負い込んだ孤独な決断の重さと、向けられた純粋すぎる信頼。
その混じり気のない祈りは、後輩たちからの、あまりにも痛切な贈り物であった。
胸の奥に鋭い痛みが走るのを覚えながら、リオはただ短く息を呑む。
「ええ……ありがとう、二人とも」
絞り出すようなその返答を聞き届け、ユウカとノアは丁寧に一礼すると、静かにVIPルームの防音扉を押し開けて去っていった。
重厚な防音扉が重々しい油圧音を立てて密閉され、ユウカとノアの足音が完全に消え去った個室。
静寂が支配したはずのその空間の扉が、わずか数分と経たずに再び静かに引き込まれた。
姿を現したのは、ヴェリタスの副部長である各務チヒロと、彼女が静かに手押しする車椅子に乗った特異現象特捜部の部長――明星ヒマリであった。
普段、学園内で彼女が乗り回している全機能搭載の自走式ハイテク車椅子の姿は、そこにはなかった。
通信遮断、電磁パルス防壁、外部ネットワークへの侵入ポート、果ては自衛用の高圧電流ギミックに至るまで、キヴォトス最先端の電子兵器そのものと言ってよい彼女の愛機は、要人警護と暗殺・盗聴の完全排除を至上命題とするこのVIPバーのセキュリティチェックを通過することが許されなかったのだ。
その代わりとして店側から恭しく提供されたのは、年代物のウォールナット材と上質な黒革で設えられた、クラシカルな手押し式の最高級車椅子であった。
下肢が不自由であり、自律神経の不調から極度の冷えと体温調整の難を抱える彼女の膝元には、店側の配慮によって最高級のカシミアで織られた毛布が隙間なく掛けられている。室内の空調も、彼女が入室した瞬間に最適な設定温度へと静かに調整されていた。
「まったく……私の至高の知性を乗せて走るべき愛機を取り上げ、このような旧態依然とした木と革の塊に押し込めるなど、文明に対する冒涜にも程がありますわ」
ヒマリは手元で毛布の端を整えながら、不満げに形の良い唇を尖らせた。
だが、その声音には本気で憤慨している風はなく、背後で車椅子を押すチヒロもまた、呆れたように薄く息を吐き出すだけにとどめている。
「文句を言わないの、ヒマリ。この店の規約は最初から分かっていたでしょう。外部への通信ポートを一切持たない純粋な機械でなければ持ち込めないのは、裏社会の社交場として当然の防犯基準よ。それに、空調もブランケットも完璧に手配してくれたんだから、相応のVIP待遇じゃない」
「まあ、このブランケットの肌触りと、運ばれてきたロイヤルミルクティーの美味しさだけは、及第点をあげてもよろしくてよ」
尊大に小さく頷いたヒマリを乗せ、チヒロは車椅子をテーブルの正面――先ほどまでユウカとノアが座っていた席の真向かいへと滑らかにつけた。
チヒロ自身も椅子に静かに腰を下ろし、冷えたグラスを指先で弄ぶリオへと視線を向ける。
ミレニアムの生徒会長、特異現象特捜部部長、そしてヴェリタスの副部長。
学園の最高峰の知性が、外界から切り離された密室で一堂に会した瞬間であった。
ヒマリは運ばれてきた磁器のティーカップを細い指先で持ち上げ、湯気を微かに揺らしながら、正面のリオをじっと見据えた。
「リオ。可愛い後輩二人と直にお話をした上でもう一度問いますが……どうでしたか? 私には、ユウカちゃんもノアちゃんも、『洗脳や催眠』の傾向や、『思想誘導や不審な思考経路』を強制されているようには、爪の先ほども見えませんでしたけれど」
単刀直入な切り込みであった。
リオがユウカとノアをこの場に呼び出した真の目的。それは単なる業務の追認や横領の釈明だけではなく、二人の精神状態に対する極めて異常な疑念を、自らの目で直接検証することだ。
そしてその客観的な判定に万全を期すため、リオは店側の許可を得て個室内の有線インターホン回線を隣室へ繋ぎ、待機していたヒマリとチヒロにも、先ほどまでのユウカたちとの対話をリアルタイムでモニタリングさせていたのである。
チヒロもまた、腕を組んで静かに頷いた。
「私もヒマリと同意見よ。四月以降のユウカとノアのバイタルデータ、通信記録、セミナーの決済ログを徹底的に精査してきたけれど、精神干渉や認知の歪みを示す兆候は完全にゼロだった。二人は紛れもなく、自分自身の意志と論理で思考し、激務に耐え抜いていただけよ。貴方の疑念は、杞憂だったのではないかしら、リオ」
二人の友人から突きつけられた客観的事実に対し、リオは表情を変えなかった。
彼女は手元のグラスを卓上に置き、ホログラム端末に指先を滑らせる。空中に展開されたのは、膨大なタイムラインと、網の目のように複雑に絡み合った人間関係の相関図であった。
「――私はシャーレに関わる大人たちを一括りにして、全員が精神干渉を行っていると主張しているわけではないわ」
リオの声が、静まり返ったVIPルームに低く響く。
彼女はまず、相関図の一角にある異世界の兵士――『タグ』の項目を指し示した。
「たとえば、先生の護衛として現れた『タグ』。彼に関しては、私は疑っていないわ。彼のこれまでの活動期間の短さと、実際の活動内容を照らし合わせれば、余計な自己主張をせずプロフェッショナルとして淡々と任務を遂行する彼のスタイルが、いわゆる『秩序』に属するタイプの人間と相性が良く、関係構築が上手いのは極めて自然だからよ。……もっとも、無秩序の極みであるはずのコユキに対する彼の対応については、少し疑わしい点があるけれどね」
「あー……まあ、あの二人の奇妙な関係については、私も不思議だなとは感じているわね」
チヒロが苦笑混じりにリオの意見を肯定する。
次にリオは指先を滑らせ、相関図の中央に位置する人物――シャーレの顧問『先生』のアイコンを強くタップした。
「しかし、『先生』に関しては明らかに疑わしいわ。私から見ると、彼の人間関係の構築プロセスはあまりにも『時短』すぎるのよ」
リオは冷たい光を宿した黒い瞳で、ヒマリとチヒロを交互に見据えた。
「本来、心理学的な信頼の醸成には、反復的な相互作用と一定以上の物理的時間の蓄積が不可欠だわ。もっとも――ミレニアム内部において、貴方たち二人が先生と関係を深めた流れについては、まだ論理的な説明がつくの」
リオはまず、車椅子の上のヒマリへと視線を向けた。
「ヒマリ、貴方が先生に信頼を傾けるに至ったプロセスは自然と判断しているわ。デカグラマトンの預言者たるケテルが第一ブレイクスルーを果たした際、先生は貴方の独善、もしくは暴走ともいえる選択を、肯定した上でそれを全面的にバックアップしたわ。さらに次に現れた預言者ホドの件では、対話という手段を用いて、Hubを自らの意志でミレニアムへと帰還させている。そうした合理的な実績と知的な対話を経ている以上、もし私が貴方と同じ立場であったとしても、先生に信頼を傾けるのは妥当だと判断するわ」
「ふふ、全知たる私の審美眼を認めるのでしたら、最初からそう仰ればよろしいのに」
満足げに胸を張るヒマリから視線を移し、リオは隣のチヒロを見た。
「そしてチヒロ。貴方に関してはやや関係の深まり方が早すぎるという不自然さはあるけれど、貴方の持つ面倒見の良さや、現場の不始末を放っておけない苦労人気質が、先生の行動様式と共鳴する部分があるのは理解できるわ。そういう形で共感し、関係を深めることもあるのかもしれない、とは思っているの」
その生真面目な分析を聞いた途端、ヒマリがティーカップ越しに悪戯っぽく目を細め、くすくすと忍び笑いを漏らした。
「あらあら、ずいぶんと的確なプロファイリングですこと。要するに『問題児たちの尻拭いに追われる苦労人のお母さん同士、傷を舐め合うような連帯感が芽生えた』と分析されているわけですわね、チーちゃん?」
「誰がお母さんよ。私はただ、セキュリティ上の窓口として最低限のサポートをしているだけでしょうが。人の気も知らないで茶化さないでちょうだい」
ジト目で頬を引きつらせるチヒロと、優雅に笑うヒマリ。
しかし、リオはその軽口には一切乗らず、氷のように冷徹な声で本題へと切り込んだ。
「けれど――ユウカとノアに対しては、話が全く違うわ」
リオの鋭い語気に、室内の空気が再びピンと張り詰めた。
「ユウカはいわゆる『グレートマザー』、もしくは『オカン気質』とでも呼ぶべき献身性を持っているとはいえ、本質は数字と規律に厳しい監査官よ。しかも私が不在の今、彼女は睡眠時間すら削ってセミナーの激務に忙殺されている。それほど多忙を極めている彼女に、外部の大人と一から深い信頼関係を構築するような物理的時間は、どう計算しても存在しないはずだわ」
リオはさらに言葉を重ね、相関図に映る白い髪の少女――ノアのアイコンを睨みつけた。
「そして、何より不可解なのがノアよ。彼女は本質的に孤独な人間にならざるをえない。完全記憶能力というその特質上、他者との認知のズレという苦しみは元より、よからぬ考えを持つ組織からは常に狙われ続けるという宿痾を抱えて生きてきた彼女が、他人に心を開いて気を許すというのは、とても難易度が高いことなの。なのに……彼女は今、あの先生に対して明確に『信頼』をしている」
リオの白い指先が、わずかに強く握りしめられた。
「私というポテンシャルと立場がある人間でも、彼女の信頼を得るのには数年かかったわ」
その言葉に、ヒマリが何か茶化すような笑みを浮かべて口を開きかけた――まさにその瞬間、リオは鋭い視線でヒマリを射抜き、先手を打って言い放った。
「――ヒマリ、私は悔しいからこう言っているわけではないのよ。人間関係の構築プロセスとして、あからさまに不自然さを感じるからよ! 通常の時間経過を無視して心の防壁を無力化する『精神干渉』や『認知誘導』でも働いていると仮定しなければ、この極端な時短現象は説明がつかないわ。だからこそ、先生たちが西のブラックマーケット方面へ出向いて不在の今、その影響圏から切り離された二人に思考誘導の残滓がないか、直接確かめる必要があったの」
「なるほどね。私やヒマリではなく、あの二人に限定して精神干渉を疑った理由はよく分かったわ。……で、実際に直接向き合って、結果はどうだったの?」
チヒロが静かに問いかける。
リオはわずかに目を伏せ、唇を微かに引き結んだ。
「何一つ、不審な痕跡は見当たらなかったわ。二人は完全に正常な自我を保ち、私に対する怒りも、学園を守るための論理も、すべて彼女たち自身の頭脳から出力されていた」
「そうでしょうとも」
ヒマリは我が意を得たりとばかりに頷き、優雅にカップをソーサーへと戻した。
「当然の結果ですわ。リオ、貴方はユウカちゃんの『物理的な時間』と、ノアちゃんの『孤独の壁』を計算式に組み込みましたけれど、一つだけ決定的な変数を見落としています。生徒たちが先生に惹かれるのは、精神干渉などという安っぽい手品によるものではありません。このキヴォトスで、大人が大人としての責任を引き受け、傷つくことを恐れずに自分たちを守ってくれた――その確かな誠実さの前では、時間の長短も、孤独という高い壁も、いともたやすく飛び越えられるというだけのお話ですわ」
息詰まるような沈黙が、個室を満たした。
ヒマリが語る「大人の誠実さ」という概念は、リオがこれまで構築してきた合理性の体系には存在しない異物であった。
その張り詰めた空気を解きほぐすように、チヒロが静かに口を開いた。
「ヒマリの言いたいことはよく分かるわ。けれどリオ、あなたの抱く危機感そのものを、私は完全に否定するつもりはないの」
中立を守り続けていたチヒロの言葉に、二人の視線が集まる。
チヒロは自らの端末を軽く叩き、第三者としての冷静な視点を提示した。
「先生のあの異常なまでの人心掌握の早さが、キヴォトスの既存の勢力図を根底から塗り替えつつあるのは紛れもない事実よ。もしも万が一にでも、彼がミレニアムやキヴォトスに対して敵対的な意図を持っていた場合、すでに主要な学園の防衛網は心理的に無血開城させられているに等しい。セキュリティの責任者として、最悪の可能性を想定し、裏付けを取り続けるリオの慎重さは、組織を守る上で決して間違ってはいないわ」
「チーちゃんまで、そんな……」
「最後まで聞きなさい、ヒマリ」
チヒロはヒマリを手で制し、リオへと向き直った。
「けれどね、リオ。確たる証拠もないまま、疑念だけで味方を敵に仕立て上げるような行動を取れば、それこそミレニアムを破滅に導くわ。エンジニア部がシャーレのスコープドッグを囲んで、目を輝かせながら徹夜で整備をしている姿を見たことがある? ユウカが文句を言いながらも、先生の無茶な請求書を必死に精査して帳尻を合わせている姿を見たことがある? あの子たちの信頼は、決して偽物なんかじゃない」
チヒロの眼差しには、現場を支え続ける実務家としての温かさと、冷徹な理性が同居していた。
「検証を続けるのは構わない。けれど、一人で暴走して彼らと敵対するような真似だけは絶対にやめなさい。それはミレニアムの生徒たちの心を裏切る行為よ」
二人の友人からの真っ向からの反論、そして提案。
だが――調月リオの強固な殻は、それでも微動だにしなかった。
「善意や誠実さなどという不確定な感情論を、学園の未来という変数に組み込むことはできないわ」
リオは感情を完全に押し殺した声音で、冷ややかに告げた。
「先生がどれほど善良に見えようと、どれほど生徒たちから慕われていようと、客観的な正体が不明である以上、最悪のシナリオを想定して備えるのが生徒会長としての私の義務よ。……それに、貴方たちに対応してもらっているデカグラマトンの件や、先生に対する疑念とはまた別に、ミレニアムにはもっと根本的な『破滅の危機』が刻一刻と迫っている」
「デカグラマトンとは別の破滅の危機……ですって?」
ヒマリが訝しげに目を細め、次いでハッとしたように呆れ混じりの吐息を漏らした。
「私たちがデカグラマトン対策の極秘予算として迂回させた資金の減りがやけに早いと思いましたら、そういうことでしたか」
全知を自称する天才ハッカーといえど、浮世離れした研究者気質のヒマリは、七面倒な金勘定、緻密さの塊である財務の重みに対してはどこか呑気で浅い感覚しか持ち合わせていない。そうでなければ、いかに非常時とはいえ「公的予算を横領して調達すればいい」などという、会計担当者が聞けば卒倒するような暴論を気軽に提案できるはずがなかった。
予算の残高が不自然な速度で目減りしていくのを把握していながら、「まあ、リオのことですもの、機材のスペックを奮発しているのでしょう」程度に甘く見積もっていた自身の迂闊さに、ヒマリは今さらながら苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。
だが、リオはその呆れ声には答えず、ただ静かに視線を逸らした。
孤独な戦いではあるが、こんな危険なことに誰も巻き込みたくないというのがリオの本音である。
その為ならば理解されないことも、憎まれることも、すべては計算のうちであった。
ヒマリはリオの頑なな態度を見つめ、深々と大きな息を吐き出した。
「本当に……貴方という人は、どこまでも救いようのない石頭ですわね。そうやって一人で世界の重荷を背負い込み、他者を遠ざけて破滅的な計算に溺れていく……ユウカちゃんが去り際に遺した言葉の重みが、貴方のその強固な胸郭の内側には、ミリ単位も届かなかったのですか?」
ユウカの遺した言葉――『きっと今度の難題も、成し遂げてくださると信じています。ですから、終わったらその時はちゃんと帰ってきてくださいね』。
その無垢な祈りを思い起こさせられ、リオの指先がピクリと痙攣した。
胸の奥に走った痛みを、彼女は鉄のような意志で押し殺す。
「届いたわ、痛いほどにね。だから私はあの子たちをこんなことに巻き込みたくないの」
「私たちは?」
チヒロのその言葉に、リオは後輩たちには見せたことのない困り顔で答える。
「ごめんなさいね、チヒロ。借りにしておいてね」
「せめてそこは『借りでいい?』って聞きなさいよ、まったく」
「ありがとう」
「ちょっと待ってください、私のほうは嫌ですよ!」
「貴方は逆に、私に返す借りを一つ消せたでしょう……どの借りをなかったことにする? 私がクライアント所有のビルの一つに滞在していた時の件とか」
「ヴッ」
天才にあるまじき呻き声と共に、チヒロの訝しげな視線がヒマリへと向けられる。
「ふふ……」
そこで嫌だ、と言わない友人を持てたことにリオは最大の感謝を示した。
誰も傷つけず、すべてを計算通りに終わらせる。
そのために自分がどれほど冷酷な怪物になろうとも、結果としてミレニアムが救われるのであれば、それで構わない――それが、調月リオという少女が選んだ、あまりにも傲慢な正義であった。
「話はこれで全部終わり。今日は急な呼び出しに答えてくれて助かったわ」
リオはそれ以上の対話を拒絶するように立ち上がり、背を向けた。
これ以上何を言っても無駄であると悟ったチヒロは、静かに溜息をつき、ヒマリの車椅子のグリップを握り直した。
「行きましょう、ヒマリ。こうなったらリオが梃子でも動かないのは、前から知ってるでしょ」
「ええ……本当に、頑固で困った会長ですこと」
ヒマリは吐き捨てるように呟きながらも、去り際に一度だけ、リオの孤独な背中を悲痛な眼差しで見つめた。
やがて、滑らかな車輪の回転音とともに、二人は防音扉の向こうへと去っていった。
静寂が、再び部屋を支配した。
広大なVIPルームには、もはやリオ一人しか残されていない。
結局のところ――シャーレの先生が持つ、異常な求心力の秘密を解き明かすカギは何一つ手に入らなかった。
彼が精神干渉を行っていないのだとすれば、彼は一体何者なのか。なぜ、あれほどまでに生徒たちの心を容易く掴み取ってしまうのか。謎は深まるばかりであった。
卓上に残された、氷の溶けきったカクテルグラス。
後輩たちから向けられた純粋すぎる信頼と、仲間たちから突きつけられた正論の重み。
それらすべてを背負いながら、自らは誰にも理解されない暗闇の中へ、たった一人で歩を進めなければならない。
調月リオは誰もいない密室で、グラスに歪んで映った自分の白い顔を見つめ、押し殺すように、深く重い溜息を一つ吐き出した。
それは、孤独であろうとする少女が吐き出した、夜の闇よりも暗い溜息であった。