救済の灯火に、子守唄を   作:2ndラスタ

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角の生えてる種族とか、尻尾が生えてる種族は寝るときどうしてるんだ…


02. 魂の還る処

 ウルサスの冬の寒さは、そこに生きる者たちの骨まで凍てつかせる。

 それを私たちは身に沁みて、知っている。

 降る雪も、積もる雪も人が前を進むことを拒む。

 だからこそか、たった短い間だけ、それは私たちが歩んだ後を遺してくれる。

 

 感染者たちの寄る辺であり、団結を目指していた私たちにはまだ力がなかった。

 極寒の環境で、すべての者に十分な物資を調達することはできない。

 去っていく者もいた。そのたびに悔しさを覚えるばかりだった。

 

 日が沈み、雪と風が視界を遮る。口の中に吹き込む強風が思い通りに息をすることさえ許さない。

 仲間の報告を受けたとき、制止を振り切って走り出していた。

 

 『教師がまだ帰ってこないらしい。まあ、よくあることだ』

 『子供たちもかわいそうにな』

 『タルラ、監視隊の残党が東のほうに』

 

 一人で行かせるべきじゃなかった。

 

 「アリーナ」は、感染者となってから、私と最も長い時間を共にした人間だった。

 私に従った部下は多い。私の言葉に熱狂した者も多い。私の名を旗にして、敵に刃を向けた者も。

 だが、アリーナは違う。

 

 彼女は私を見上げない。

 その代わり、私の横に立った。歩幅を合わせ、私の進む方向を見て、時に顔をしかめ、時に笑った。

 

 私が理想を語れば、彼女は具体を問う。

 私が怒りを語れば、彼女は対象を問う。

 私が「敵」を語れば、彼女は「味方」を問う。

 

 そういう人間だった。

 

 立ち止まったそのとき、目にした光景が自分の想像の産物なのか、本物なのかがわからなかった。

 倒れた影と、赤い染み。

 それが現実でも、偽物だったとしても、そこにあるべきではなかった。あってほしくなかった。

 

 彼女は、私が私でいるために必要だった。それが自尊心の話なのか、あるいは倫理の話なのか――今となっては判別がつかない。

 

 

 「アリーナ、死なないでくれ」

 

 足元にある雪が、炎に触れて溶けていく。ずっと覆われていた土色の地面に、水たまりを作りながら走った。

 今度はアリーナの体を背負って、来た道をそのままなぞった。

 今はただ背中に感じる消えそうな灯火のぬくもりだけが、まだわずかな望みを抱かせた。

 

 これだけはわかる。

 

 底なしの絶望ならば、立ち止まることもできただろう。

 だが暗闇に、どんなにもわずかな希望があれば、人はその身を焦がすことができる。

 

 もし、このたった一つの願いが叶うならば、そのためにこの体を灰にもできる。

 だが、たった一つの願いを、この大地に朽ちた人々の誰もが抱いていたのだろう。

 

 その願いを誰に祈る?神だろうか。そのような神がいるのなら、この世の理不尽はこんな風には放置されてはいないだろう。

 平穏を願って私を頼り、去っていった者、亡くなった者。ならば私は彼らを裏切ったのだろうか。

 

 

 

 息が、弱い。

 

 背中越しに感じるぬくもりが、少しずつ遠ざかっていく。

 足を進めるたびに熱と冷たさが擦れる感覚が耳の奥で増幅され、世界の輪郭が薄れていく。

 走ることに意味があるのか。辿り着いたところで何が変わるのか。

 そんな疑問は、今は許されない。

 

 許してはいけない。

 

 私は走った。

 足跡が消える前に、己の足で己の行いを証明するように。

 そうしなければ、彼女は本当に消えてしまう気がした。

 

 「アリーナ……」

 

 いくら名を呼んでも返事はない。それでも呼ばずにはいられなかった。

 

 名を呼ぶことが、繋ぎ止めになると信じた。

 だが、信じたものはしばしば裏切る。

 

 背中の重さが、変わったように感じた。

 

 単に体が脱力したからではない。

 抱えた肉体の重さとは別のものが増えたのではないか。

 

 言葉にするなら、積もる。雪のように、静かに。

 

 私は立ち止まった。

 歩けば歩くほど、背負うものが増えていく。

 そんな錯覚に耐えられなかった。

 

 息を吸う。

 肺が凍る。

 

 

 そして

 

 白いはずの息の向こうに、別の景色が混じった。

 

 村だ。

 

 見覚えがある。私のものではない。

 そこに漂う冷たさが、私の知っている冷たさと違った。

 

 私たちはウルサスの冬を知っている。骨まで凍てつく寒さを知っている。

 

 それでも、これは違う。

 

 これは――小さな身体が覚えた寒さだ。

 

 薄い衣服の隙間から入り込む風。床から這い上がる冷気。

 手足の感覚が薄れていく恐怖。空腹で視界が狭くなり、思考が鈍る鈍い痛み。

 

 私は、それを「見た」のではない。「思い出した」のでもない。

 

 私は、知ってしまった。

 

 私はそこにいた。

 私は小さな身体で震え、息を殺し、誰かの足音を待っていた。

 

 ――違う。

 

 私は、アリーナだった。

 

 気づいた瞬間、吐き気がこみ上げた。自分が崩れる感覚がある。

 世界が二重になり、私の輪郭が剥がれていく。

 

 私は私だ。

 私はタルラだ。

 

 そう言い聞かせる。だが、その言葉は薄い。

 薄い布のように、冷気を防げない。

 

 景色は次々と変わる。

 

 感染を自覚した日の恐れ。

 言葉の意味より先に、距離が生まれる。

 その事実が、私の中に沈む。

 

 私は感染者の痛みを知っているつもりだった。

 この世界が私たちに何をするか、理解しているつもりだった。

 

 だが「望んで感染した私」と「決して望まなかった感染者」は根本的に違う。

 違いを、私は今、内側から叩きつけられる。

 

 これは罰だろうか。それとも、救いだろうか。

 

 どちらでもない。

 

 ただ、起きた。

 

 背中に彼女を背負って私は走っていたはずだった。

 そして今、私は背中に彼女を背負ったまま、彼女の中に落ちている。

 

 どれほど滑稽な話だろう。

 

 ――いや。

 

 滑稽ではない。

 重い。

 

 重すぎる。

 

 「タルラ」

 

 声が聞こえた。

 

 背中からではない。

 雪原の向こうからでもない。

 

 私の内側からだ。

 

 私は返事をしようとして、声にならない息を吐いた。

 返事をしてはいけない気がした。

 返事をすれば、私は本当に境界を失う。

 

 「聞いて」

 

 声は淡い。だが、拒めない。

 

 私は聞いた。聞くしかなかった。

 彼女が私を見た日の記憶が流れ込む。

 

 私は炎を纏っていた。熱を持つ言葉を吐いていた。

 群衆はそれに惹かれ、目を輝かせた。

 

 だが、彼女は違った。彼女の目は冷たかった。

 警戒していた。測っていた。

 

 ――この人間は、どこまで本気か。

 

 私はそれを知って、胸の奥が軋んだ。

 私は、見られていた。

 

 アリーナは私を「人間」として見ていた。

 理想の象徴ではない。救いの旗印でもない。

 ただ、燃えやすい危うい人間として。

 

 そして――恐れていた。

 私の炎が、いつかすべてを焼くことを。

 敵ではなく、自らの信念すら焼くことを。

 

 私は、否定したかった。私は正しい、と。

 私は感染者を救うために燃えるのだ、と。

 

 だが彼女の恐れは、私の言葉で消えない。

 恐れは理屈ではない。恐れは体験の上にある。

 

 彼女は、私が怒りに任せる瞬間を見ていた。

 私が「敵」と名付けたものを、躊躇なく焼く瞬間を見ていた。

 そしてそのたびに、彼女は一度だけ遅れて息を吐いた。

 

 止められない。

 止めても止まらない。

 

 そう理解した上で、なお隣に立った。

 

 ……なぜだ。

 

 答えが来る。彼女の中にあった答えは、単純だった。

 私は信じられないほど単純な願いを見た。

 

 暖かいスープが飲みたい。雪のない道を歩きたい。

 誰かに名前を呼ばれたい。死にたくない。

 

 革命でも、勝利でもない。壮大な理念でもない。

 それでも、それが生きるということだ。

 

 私はその願いを、後回しにしてきた。

 いつか勝てば、と。いつか救えれば、と。

 その「いつか」が来る前に、彼女は死にかけている。

 

 私は、背中の重さを思い出した。

 肉体の重さではない。積もる重さ。

 

 「タルラ」

 

 声がまた呼ぶ。

 

 「どうか憎まないで」

 

 それは命令ではない。懇願だ。拒めない弱さがある。

 弱さは、しばしば強さよりも重い。

 

 私は歯を食いしばった。怒りが込み上げる。

 敵への憎しみ。世界への憎しみ。奪われ続けたことへの憎しみ。

 

 だがその怒りに、別の温度が混じる。

 

 恐れだ。

 アリーナの恐れ。

 そして、私自身の恐れ。

 

 アリーナは怖かったのだ。私が止まれないことが。

 燃えることでしか前に進めないことが。

 燃え尽きた後に、何も残らないことが。

 

 それを私は、見ないふりをしてきた。

 彼女は見ていた。見て、怖がって、それでも隣にいた。

 

 理解してしまった。

 私はアリーナを理解していたつもりだった。

 同志だと思っていた。怒りを共有していると思っていた。

 

 違う。

 

 私は、感染者の怒りだけを見ていた。

 彼女の恐れを見なかった。彼女の希望を聞かなかった。

 彼女の小さな願いを、踏み越えてきた。

 

 理解とは、赦しではない。理解は逃げ道を塞ぐ。

 

 燃やすたびに、彼女の恐れが私の内側で息をする。

 進むたびに、彼女の問いが私の内側で立ち上がる。

 「それでも、あなたは壊すの?」

 

 私は返せない。返せないまま、走らなければならない。

 

 私は足を動かした。雪が割れる。足跡ができる。

 すぐに雪がそれを埋めようとする。

 それでも、足跡は遺る。短い間だけ。

 

 私は背負っている。

 アリーナの身体を、時間を、問いを。

 

 これは力ではない。制約だ。

 私は自由になったのではない。

 縛られたのだ。

 

 だがその縛りを、私は払えない。

 払えば、彼女が二度死ぬ。私は、二度目の死を許さない。

 

 だから私は、炎を纏ったまま進む。

 ただし、以前と同じ燃え方ではない。

 

 私の炎はまだ燃えている。さらに勢いを増して。

 けれど私は、もう戻れない。

 

 彼女の全てを知ってしまったからだ。

 恐れながら、希望を抱きながら、私を選び続けたという矛盾を。

 その矛盾が、ただの綺麗事ではなく、生きるための形だったことを。

 

 私は理解した。

 私が強くなるために、彼女が死んだのではない。

 私が正しくなるために、彼女が死んだのでもない。

 

 ただ、彼女は死んだ。

 そして私は、彼女を内に残した。

 

 冬は終わらない。だが、炎の色は変わった。

 その変化が何を生むかを、私はまだ知らない。

 だが少なくとも――私は、憎しみだけではいられない。

 

 まるで夢の中にいたような感覚から目を覚ます。

 倒れこんでいた体についた雪を払う。

 

 そばにいる、家族だった亡骸の髪に軽く触れた。目を閉じてやるまでもなく、それは眠っていた。

 熱が冷めていき、先ほどの光景を思い出す。あれは私の中の魂が、私に語りかけたのではなかったのだ。

 

 既に燃え尽きた魂は、その中にある記憶だけを残してゆくのだ。

 あれは私への、最後の最後に生者に託さんとする、たった一つの望みだったのだ。

 私は彼女がいなくなって、ようやく彼女のことを理解したんだ。

 

 だがきっと私は幸福な方だったのだろう。

 感染者の多くは、家族の顔も、その思いも知れずに、無念の中に死んでいく。

 

 アリーナの魂は今や、私の中にあるのだ。

 わざわざ口にするまでもなかった。

 

 ━━見ていろアリーナ、私は誓う。お前の望みまでも、灰にはしない。

 

 

 

 

 拠点の外れで、私は見張りをしていた。

 

 火の匂いが薄く漂う。誰かが薪をくべたのだろう。

 それでも寒さは変わらない。寒さは人の努力を笑う。

 冷気を操る私のアーツは、私自身の熱も、他者の熱も奪い去ってしまう。

 

 この力は、兄弟たちを守り、私たちスノーデビル小隊の象徴だった。

 ある日、炎のアーツを使う黒い角を持つ、龍の女に出会った。

 これまでの砕かれることのなかった氷は、初めて遭遇した拮抗する熱によって破られた。

 

 感染者の団結、それを掲げて我々に接触したあいつには随分と手を焼かされた。

 やがて、行動を共にしていた遊撃隊「盾」と同じく、今ではレユニオンと呼ばれている集団に属した。

 

 だが仮にも我々を団結させるはずのリーダーが、どこかへ走り去ってしまったというのだ。

 報告を聞いた限りでは、東の村に向かったのだろう。

 犠牲というものを許容できない性分なのだ。度々このようなことはあった。

 

 通信は繋がらない上に、いつまで経っても帰ってこない。

 見張りという名目で、のこのこ帰ってきたら文句を言ってやるつもりだった。

 ウルサスの監視隊相手に後れを取ると思っていないが、万が一の事態ならば出撃するようにする必要もあった。

 

 性懲りもなく、勧誘しようとしていた時のように、いつも通りに「来るなら来い」と思っていた。

 だから私は、彼女が近づけば分かるはずだった。

 見なくても分かるはずだった。

 

 見張り台の影から視線を向けると、タルラが歩いてきた。

 

 一人だ。

 誰も連れていない。

 怪我人を抱えているわけでもない。荷物もない。

 

 それなのに、重い。

 

 重い、というのは、私の感じ方だ。

 彼女の肩が沈んでいるわけでもない。歩き方が崩れているわけでもない。

 

 近づくにつれて、違和感が増す。

 

 彼女の目が落ち着いている。落ち着いているというより、沈んでいる。

 沈みながら、焦点は合っている。

 

 疲労ではない。負傷でもない。

 何かを失った顔でもない。失ったならもっと荒れる。

 

 これは――抑えている顔だ。

 

 抑え込む必要のあるものが、内側で鳴っている。

 それを鳴らしたまま、外側だけ静かにしている。

 

 私はその手の静けさを知っている。

 氷が割れる前の静けさ。雪崩が起きる前の静けさ。

 最も危険な種類の沈黙。

 

 「帰ったのか」

 

 私が声を掛けると、タルラは足を止めた。

 止め方が、きれいだった。勢いを殺しすぎない。余韻を残す。

 普段なら、そんな余裕はない。

 

 彼女は私を見た。

 

 目はいつも通りだ。

 火の色の目。

 

 「フロストノヴァ、見張りか」

 

 私は頷いた。

 それ以上の返答は要らない。私は状況を聞きたいのではない。

 

 「お前、変だな」

 「変わったつもりはない」

 

 私は視線を彼女の手に落とした。

 火を出す手。命令を出す手。

 いつもなら、指先が微かに忙しい。燃える前の兆しがある。

 

 今日は、静かだ。

 ただ、私を見ている。

 

 見ているだけなのに、私の背筋が冷えた。

 彼女の炎が、どこに行ったのか分からないからだ。

 

 炎が消えたのなら、まだいい。

 消えることは死だ。死は分かりやすい。

 だが炎が“消えていないのに見えない”のは、最も分かりにくい。

 

 氷の下の水のように。

 見えないまま流れて、ある瞬間に割れる。

 

 「ただ、どんな理由があっても、立ち止まる気がないだけさ」

 

 私はその言葉を聞いて、ようやく納得した。

 危うさが鳴りを潜めたのは、収まったからではない。

 制御できたからでもない。

 

 危うさが“形を変えた”のだ。

 燃え広がる火ではなく、芯の火に。

 

 それは、静かだ。

 静かだからこそ、長く続く。

 長く続くからこそ、取り返しがつかない。

 

 私はタルラの横に並んだ。肩が触れない距離で。

 

 「せめて燃え方を変えるべきだな、お前は」

 

 命令ではない。助言でもない。

 ただの結論だ。

 

 タルラは答えなかった。

 答えないまま、歩き出した。

 

 歩幅は一定。いつものように背中はまっすぐ。

 そして、音だけが静かだ。

 

 危うさは消えていない。

 ただ、鳴りを潜めただけだ。

 

 私はその沈黙を見送った。

 焚火の光に向かっていく背中が、いつか割れる氷に見えた。

 

 




エンドフィールド工業、時間泥棒すぎる
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