雪は白ではなかった。
採石場から吹き上げた粉塵が混じり、灰色に濁っている。
狭いテントに横たわる男の体温は、雪よりわずかに高い程度だった。
少女は男の手首を握っていた。
脈は弱いが途切れてはいない。呼吸は浅く、不規則。発汗量は多い。意識は混濁状態。
まだ死亡には至らないと、そう判断した。
泣く必要はない。
泣いたところで監視官は動かないことを、幼くして
採石場で生きるには、感情よりも合理性が、残酷さが有効だった。
未成年のグループにおける最年長だったために、年にそぐわぬ責任と判断を強いられてきた。
男は成人男性。
筋力は平均以上、採掘効率も良好。
感染は進行しているが、即時致死ではない。
失うのは損失だ。合理的に考えれば、救う価値はある。
だから少女は立ち上がった。
周囲にも、同じように衰弱した者たちが集められている。
強い風がテントを揺らして、バタバタと鳴っていた。
やがてテントの入り口が開き、雪を反射した光と、二人分の人影が見えた。
その片方は、採掘場を襲撃した兵士の一人であろう。
もう一人、そのシルエットだけで少女の目的である人間であると直感した。
龍の角、腰に下げた剣、そして次第に、赤い外套が視界に入る。
その赤は雪の背景で異様に鮮明だった。
この人が、レユニオンのリーダー、タルラなんだ。
ふと、龍と
ずっと少女の周りには自身と同じ立場の人間と、
恐怖を行使し、自分たちを服従させる人間の二種類しかいなかった。
他者による支配への恐れは、麻痺して久しい感情であった。
リーベリの少女は、初めて”支配者”と呼ぶにふさわしい生き物を見た。
少女にはその感覚を忠実に示す表現を、まだ持っていない。
敢えて言うならば、高貴な存在、と表現したかもしれない。
決して、自分のような者が触れられるような存在ではない。
それだけを、たった一瞬の目線の邂逅が思い知らせた。
見つめあっているという事実に気づくまで、数秒、世界は静寂だった。
すぐに目を伏せる。だが二人分の足音が、着実に近づいていた。
『お前、何見てるんだァ?』
過去の鮮明な記憶が、その体を震わせた。
痛い目に遭った後から、同じミスを犯したことなどなかったのに。
早く、強くなる鼓動。浅い呼吸に口が乾く。
どうか私のもとに来ないでくれ、と切実に祈った。
だが足音は止まらない。
革靴が雪を踏む音は、採石場の監視官のそれとは違っていた。
急がず、威圧もせず、ただ確実に近づいてくる。
少女の前で足音が止まる。
恐る恐る顔を上げる。
タルラは少女の前に膝をついた。
距離が縮まる。炎の匂いがする。
それは焼け焦げた匂いではなく、冬の焚き火の匂いだった。
それとは対照的に冷たい手が、小さな手に触れて、優しく握る。
先ほど感じた恐れにも似た感情とは違い、明確に慈しみが感じられた。
「君のことは、ほかの子どもたちから聞いた。タルラと呼んでくれ」
「タルラさま……」
少女は一瞬だけ迷い、しかし名乗らなかった。名は交渉材料にならない。
少女は思考する。今、交渉を成功させなければならない。
「敬称はいらない。私は君と同じ、みんな同胞なんだ」
合理性を提示しなければならない。
喉の渇きを無視して、言葉を整える。
「彼は成人男性で、採掘効率は平均以上。感染進行は見られますが、即時致死ではありません。決してレユニオンへの損失は小さくないはずです。ですから、」
言葉は淀みなく続く。
監視官に対してそうしてきたように。
だが、最後に。
「どうか、父に救済をお与え、ください」
その一言だけ、計算外だった。彼女にとってはあまりにも多くのことが、短い間に起こりすぎた。
だからほんの少し、殺していた”自分”というものが目覚めたのかもしれない。
少女は視線を上げなかった。
「私は彼に、救済を与えることはできない」
はっきりと告げられる、残酷な宣告。
自分のせいだ。胸の奥で何かが凍りつくようだった。
しかし、熱を帯びる言葉はそれで終わりではなかった。
「私が触れれば、彼は立ち上がるだろう」
「かつてのありように、痛みは薄れ、しばらくは自らの足で歩ける」
少女の胸がわずかに熱を帯びる。
「だが、そのかわりに、残された時間は縮むかもしれない」
「数週間。あるいは数日。もしかすると、数時間で」
少女は息を止める。
「何もしなければ、彼は衰弱の中で、より長く君のそばにいられる可能性がある」
残酷な均衡。
タルラの目は逸らされない。
「立って、生きる時間を選ぶか。横たわったまま、長く共にいる時間を選ぶか」
━━それは、君たちで決めるんだ
監視官は、選択肢を与えなかった。ただ奪った。
だが今、目の前の存在は選ばせる。責任ごと。
少女は父を見る。
長い時間は有効だ。別れの準備もできる。
穏やかな死は、苦痛よりはましだ。
だが、胸の奥が拒む。
少女は拳を握る。
掌が熱い。
「聞こえるか」
男の瞼がわずかに震える。
「立って、燃えるように生きるか。娘のそばで、静かに時を待つか」
沈黙。長い、長い数秒。
やがて、男の指が微かに動く。
少女の手を掴む。弱い力。だが、引こうとする。
歯を食いしばるように、立ち上がろうとする。
粉塵による肺疾患と鉱石病の進行は、男の声を奪っていた。
だが、言葉はなくとも、その意思はまだ燃えていた。
少女は理解する。合理ではない。選択だ。
涙は出ない。
ただ、事実として告げる。
タルラの瞳がわずかに柔らぐ。
「ならば、共に背負おう」
その言葉と同時に、空気が変わる。
炎は上がらない。爆ぜもしない。
だが、確かに熱が走る。
男の呼吸が整う。胸が大きく上下する。
焦点の合わぬまま、しかし確かに、娘を見る。
少女の胸の奥で、灯りが弾ける。
熱。掌が温かい。
雪が触れ、溶けるようだ。
少女は父の手を強く握る。
やがてその男の命は四日で尽きた。
四日間、彼は立っていた。
支えられながらも、自らの足で歩き、
他の救出者に手を貸し、水を運び、夜には娘の隣で眠った。
そして自分の知りうる限りのことを伝えた。
娘にとって、ほとんど忘れられていた声で、できる限りのことを。
あの選択は誤りではない。
父は、横たわったまま衰弱していく時間を選ばなかった。
立った。四日間、燃えた。
それで十分だ。
ある日の朝早く、空に明かりが入り始めた頃。
テントの入口が静かに開く。
タルラだった。
足音が近づくのには気づいていた。
だから立派に、胸を張って待っていた。
タルラは少女の前に膝をつく。
やがて、赤い外套が少女の肩を、腕がその体を包みこんだ。
父よりも一回り細い腕だった。
だが、まるで父がそうしてくれたような感覚を覚える。
「今日だということを、知っておられたのですか」
一拍。
「彼の魂は、戻ってきた」
少女の呼吸が、ほんの僅かに止まる。
「……戻った?」
「私はほんのすこし分けるだけだ。
役目を終えた魂は、すべて私のもとに還ってくるんだ」
胸の奥の熱が、強く脈打つ。
タルラの指が、少女の胸元に触れる。
「その魂たちは私に多くのものを託す。
だから━━父君の記憶も、すべて私のうちにある」
まるで神のようだ、と少女には感じられた。
「すまない、本当ならばこうなる前に伝えるつもりだった」
なぜ謝りなどするのか。
生きる時間、温もり、外の景色、父の声、最後の思い出たち。
そして、共に過ごした他の子供たちの未来。
『すべて、あなたに与えていただいたものです』
『どうして私に、あなたを責めることができるでしょう』
『もう両手に抱えきれないのに、愛を、私にお与えになられるのですか』
『私には、何もお返しできるものはないというのに』
多くの言葉がその胸中を駆け巡ったが、どれも言葉にはならなかった。
その代わりに、涙が流れ出て止まらなかった。
その様子は、さらにタルラをうろたえさせる。
しかし、少女はその涙をせき止める術を知らない。
本当はもっと言いたいことがあるのに、嗚咽がそれを邪魔する。
少女はこれまで、泣くことを必要としなかった。
採石場では、涙は価値を持たない。だが今は違う。
胸の奥にある熱が押し上がる。
抱きしめられたまま、少女は初めて声を漏らした。
その日の午後、火葬が行われた。
採掘場付近の凍土は固く、土葬は困難だった。
だがレユニオンは、死者を放置しない。
感染者の死体は粉末となり、新たな感染の苗床となる。
そんな風になる前に、せめてもの弔いを済ませなければならない。
逝った者、残された者も、どちらにとってもそれが最善だろう。
「こっちがまだ空いている、こっちに積もう」
白い装備の戦士たちがその準備を着々と進めていた。
男の身体は静かに横たえられ、雪の上に組まれた簡素な台に乗せられる。助からなかった者、戦いに命を賭した者たちがまとめられていった。
少女はその傍らに立っていた。赤い外套が隣で揺れている。
タルラは何も言わない。ただ、手を差し出す。
そして少女は迷わず、その手を握る。冷たい。
だが、奥に熱がある。火が灯される。
ただ手を薪に向けて、かざすだけで炎が生じた。
乾いた薪が軋み、やがて激しく炎が立ち上る。
炎が男の輪郭を包み、四日間、自らの足で立った身体が赤に溶けていった。
少女は目を逸らさない。採石場で、いつも死は突然だった。
名もなく、数えられずにただ消えた。だが今は違う。
火がある。見送る時間がある。意味がある。
タルラの手が、わずかに強く握られる。
「……怖いか」
少女は首を振る。
「いいえ」
嘘ではない。悲しい。だが怖くはない。
炎の中に父の記憶があると知っている。
私ともう一人、父がいたことを覚えていてくれる。
火が高く上がる。
その瞬間、少女の掌が熱を帯びる。
少女は小さく息を吸う。
やがて炎は落ち着き、灰だけが残る。
「レユニオンはもうすぐここを去る。行く当てはあるか?」
「ありません」
空は薄く赤い。
少女は最後まで立っていた。
タルラの手を握ったまま。
「なら、私たちと来ないか?いろんなことを教えてくれる先生もいるんだ」
答えはわざわざ思案するまでもなかった。
かつて住んでいた場所はもう覚えていない。
わずかな家族も、残るのは血のつながりもない採石場の仲間たち。
「いつ去ってくれてもいい、ただみんなが大きくなるまででも」
「ついていきます。あなたに、あなたがいる限り。ともに生きます。」
この人は神ではない。
人々と同じ目線で、同じ道を共に歩む一人の人間だ。
選び、ともに背負う。そして人の心に光を灯す。
灰はまだ温かかった。
風が吹くたび、細かな火の粉が宙に舞う。
少女は最後までその場を離れなかった。
手は、まだ握られている。
赤い外套の内側は、静かに温かい。
タルラは何も言わない。
慰めも、約束も、誓いも。
ただ、そこにいる。それで十分だった。
少女は灰を見つめる。父の輪郭はもうない。だが、失われた感覚はない。
胸の奥で、確かな熱が揺れている。タルラの手から、自分の手を離す。
逃げるようにではない。自らの足で。
そのまま一歩、前へ出る。
背筋を伸ばし、視線を落とさず、静かに頷く。
誰に向けたものでもない。だが、確かな意思表示。
タルラはそれを見る。
何も問わない。だが理解する。
その瞳に、迷いはない恐れもない。
支配への怯えもない。あるのは、選択の後の静かな確信だけ。
そして、わずかに頭を下げる。深くはない。
服従の角度ではない。同行の意思。
共に歩くという、黙した宣言。
タルラの目が、ほんの僅かに細められる。
承認。
それ以上の言葉は交わされない。
風が吹き、灰が舞う。もう空は薄く赤い。
少女の掌の熱は、消えない。
それはもう、誰かから与えられた火ではない。
自ら選んで抱いた灯りだ。
「さあ、もう行こう。ルーンリット」
「はい」
それから幾年かが過ぎた。
レユニオンは各地を転じていた。
焚き火の数は、あの頃より増えている。
かつて一人の掌に宿った灯りは、いまや複数の胸の内で揺れていた。
魂を分け与えられた感染者の中でも、アーツ適正の高い者は炎のアーツを扱えるようになっていった。
遊撃隊「盾」が防衛線を張り、戦士たちが、静かに位置を取る。
その中央に整然と並ぶ、小さな一隊。
号令はない。合図もない。ただ一斉に、前へ出る。
倒れた仲間の肩に触れ、
凍えた指先に熱を移し、
敵の足元だけを焼く。
かつて灰の前に立っていた少女は、
今やその列の中ほどにいる。
背は伸び、視線はまっすぐだ。
掌の熱は、あの日と変わらない。
変わったのは、数だ。
隣にも、同じ揺れ。
その隣にも。
誰かが腕章を巻く。
赤い糸で縫われた、小さな炎の印。
誰かがそれを見て、頷く。
呼称は自然に生まれる。
ただ、そう呼ばれ始める。
――聖火。
それを否定する者はいない。
誇示もない。誓約もない。炎が揃う。
赤い外套が遠くで揺れる。
視線が交差する。
言葉は交わされない。
だが理解はある。
灰の朝から続く、静かな連鎖。
少女は、ほんの僅かに顎を引く。
深くはない。服従ではない。同行の意思。
その動きに合わせるように、一隊が揃って前へ進む。
炎にあてられた雪は灰色に溶けていく。
だが、その上に残る足跡は微かに温かい。
灯りは消えていない。
分けられた火は、増えている。
それはもう、ひとりのものではない。
選ばれた者のものでもない。
自ら名乗り、
自ら灯し、
自ら並ぶ者たち。
聖火部隊。
その名は、誰の命令でもなく、彼ら自身によって定着した。
そしてその列の中央で、
かつての「アッシュライト」は、何も言わずに立っていた。
そろそろタルちゃんの人間性が大丈夫か心配になってまいりました