最初に異変に気付いたのは、医療班でも、参謀でもなかった。
記録係のルーンリットだった。
彼女は「数」を信じる人間ではなくなった。数は便利だが、真実そのものではない。数は、嘘を吐くときに必ず歪む。
だから彼女は、毎日の記録に小さな癖を持っていた。会議の議事録と同じくらい、寝台のそばの沈黙も書き留める。呼吸の間。瞳の揺れ。汗の出方。指先の温度。
昏睡時間、増加傾向。
最初は三十分ほどだった。その次には一時間。
呼吸は安定、脈は乱れない。鉱石病の進行も見られない。
体温も平常。なのに、意識だけが深く沈む。
「疲労だ」と医療班は言った。
「当然だ」と参謀は言った。
「聖下は聖下だ」と部下は言った。
彼らの言葉のどれも、間違ってはいない。
だが、どれも足りない。
ルーンリットは報告書の末尾に、余白のように書き足した。
――蓄積の兆候あり。
それは断定ではなかった。断定するには材料が足りない。
だが、書かないで済ませるには重すぎた。
その紙を折り、胸の内側へ仕舞った。誰に見せるべきか、迷っていたからだ。
結局、彼が向かったのは重装の男のもとだった。
鉄の軋む音がする。
鎧の継ぎ目がわずかに擦れ、皮革が鳴く。そこにいるだけで、空気が硬くなる。
パトリオットは机に地図を広げ、指で線をなぞっていた。補給路、哨戒の交代、陣地の延伸。国家を生かすのは奇跡ではなく、こうした線の連続だ。
「用件、は」
鉱石病によって喉も患っている彼の声は低く、特徴的に区切って話す。
ルーンリットは紙束を差し出した。
「タルラ様の件です」
パトリオットは受け取らない。視線だけを寄越す。
「数値上の異常はありません。しかし、分与のたびに意識消失時間が延びています」
「何時間、だ」
「昨日は六時間を超えました。間隔もほんの少しずつではありますが…」
鎧の指が地図の一点で止まる。たったそれだけで、返答の速度が変わったことが分かる。
「他に、変化は」
「目覚めの直後には、発言の遅滞。視線の焦点のずれ。まれに、他者の口調が混じります。……本人が気付いているかは不明です」
そこで初めて、パトリオットは顔を上げた。
特徴的な白い仮面の奥、目があるだろう赤い光が刺さる。
冷たいのではない。熱を出さないだけだ。
「削れている、のではないな」
ルーンリットはわずかに息を呑む。
彼の言葉は推測ではなく、確認だった。
「……はい。むしろ、重くなっているように見えます」
「蓄積か」
それは独り言のようだった。
そして、その言葉の後に続く沈黙が、最も重い。
パトリオットは地図へ視線を戻し、淡々と言った。
「報告は、受けた。もう行け」
追い返された。
だがルーンリットは、追い返されたとは思わなかった。
あの男は動く。動く時が来たと判断すればためらわない。彼の沈黙は、拒絶ではなく準備だった。
三日後。
タルラは目覚めなかった。
医療班は診断を繰り返した。呼吸、脈拍、瞳孔反射、発汗、体温。どれも異常なし。血液検査も、鉱石病関連の指標も大きな変化はない。
彼らは困惑を隠せず、最後には「疲労による深睡眠」と書いた。
だが、その紙は誰も納得させなかった。
奇跡が眠っている。
その事実は、想像以上に重い。
陣営を満たすのは沈黙ではない。
沈黙のふりをしたざわめきだ。
「力が尽きたのでは」
「呪いだ」
「裏切りか」
「タルラが起きないなら、レユニオンは誰が動かす」
噂は早い。噂ほど兵站を壊すものはない。
食糧の配分、交代の規律、監視の集中。どれも噂ひとつで崩れる。
その時、パトリオットが前に出た。
言葉は短い。
「持ち場を、守れ」
怒鳴りはしない。脅しもしない。
ただ、命令を出す。命令とは、混乱した集団にとっての呼吸だ。
人々は散り、仕事へ戻る。噂が完全に消えたわけではない。だが、噂が形になる前に押し潰された。
国家は機能を止めない。
少なくとも、止めないように見せなければならない。
夜。
重装の影が寝台の傍らに立つ。
タルラは静かに横たわっている。呼吸は規則的で、汗もない。まるで、眠っているというより「沈んでいる」。
タルラの瞼がわずかに動く。だが目は開かない。
彼女が夢を見ているのか。抱えた魂と対話しているのか。
あるいは、沈んだ意識の底で“耐えている”のか。
パトリオットは観察する。
戦場での僅かな違和感を思い返す。
歩幅。判断の間。
視線の焦点。言葉の速度。
それらは致命傷ではない。
だが積み重ねれば、致命に変わる。
奇跡は兵站にならない。
奇跡は継続性を持たない。
国家を支えるには、奇跡を制度へ変換せねばならぬ。
彼は理解する。
これは疲労ではない。分与の結果だ。
削れているのではない。
抱えすぎた。救った数だけ、背負った。
彼は、眠る顔を見下ろしながら考える。
国家が一人の意志に依存しているのは、脆い。
だが国家が一人の意志によって立っているのも、また事実だ。
矛盾ではない。現実だ。
そして軍人は、現実と戦う。
パトリオット、本名をボジョカスティ。
彼は世界に名を轟かす伝説的軍人であった。
サルカズという種族の中でも、十王庭の名を持つ部族の出身である。
彼はかつて、二人の王に仕えた。
伝説であり戦神と謳われたナハツェーラーの王ネツァレム、
そしてウルサスの皇帝。
彼はウルサスの軍人だった。
国家に忠誠を誓い、民を守るために刃を振るった。
だが唯一、家族を守れなかった。そして息子をその手にかけた。
二百年余りを生きた彼の中には、数えきれない後悔が眠る。
だから彼は言葉では動かない。
レユニオンに身を置いたときも、彼は理想に酔ってはいなかった。感染者の解放という言葉にも、怒りの演説にも、心は揺れなかった。彼が見ていたのは、指揮官としての資質、そしてその理念だった。
タルラは炎を振るい、奇跡のように人を救った。だが彼が警戒したのは、そこではない。奇跡は戦術にはなるが、国家の基盤にはならない。奇跡に依存する体制は、いずれ崩れる。彼はそれを知っていた。
それでも彼が彼女を認めたのは、別の理由だった。
彼女は、自分を最優先にしなかった。
分与のたびに消耗し、意識を失い、それでも回復を待たずに次の命令を出した。己の損耗を前提に、他者へ資源を回した。治療より先に子供の食糧を確保し、護衛より先に避難路を整えた。
彼女は、失敗を他人に押し付けなかった。
作戦が不調でも、補給が遅れても、彼女は状況を責めなかった。自分の判断として受け止め、修正し、次へ進んだ。言い訳をしない指揮官は、軍人にとって唯一信頼できる存在だ。
彼女は、復讐を目的にしていなかった。
ウルサスへの怒りはある。だがその炎は、滅ぼすためではなく、救うために向けられていた。復讐は組織を短命にする。救済は構造を生む。彼はそれを理解していた。
そして何より、彼女は絶対者になろうとしなかった。
進言を退けない。反論を処罰しない。自分の限界を知っている。自分が壊れる可能性を理解し、それでも前に立つ。
覚悟がある。
壊れると分かっていて、それでも進む覚悟。
その瞬間、彼は結論した。
――この者は、奇跡ではない。
責任を背負う指導者だ。
ならば自分は前に立つ。
彼女が炎なら、自分は盾になる。
認めたのは、強さではない。
背負う姿勢だった。
だからこそ彼は従い、支え、そして必要とあらば止める覚悟を持つ。
忠義とは盲信ではない。
主の過ちすら背負うことだ。
パトリオットは、タルラを王としてではなく、
責任を負う者として認めた。
それが彼の答えだった。
そのはずだった。
目覚めは、音もなく訪れた。
タルラの瞼が震え、ゆっくりと開く。
焦点が合うまで、わずかな時間がある。
その間を、パトリオットは見逃さない。
彼はすでに傍らに立っていた。
「何時間ですか」
目覚めて最初の言葉は、それだった。
「三日だ」
即答。
タルラは天井を見つめたまま、小さく息を吐く。
「……」
「なぜ続ける、分与を」
タルラは答えるまでに、ほんの一瞬だけ迷う。
「救えるからです、ミスター・パトリオット」
その声が、わずかに二重になった。
低く、掠れた響きが、彼女の声の奥に重なる。
聞き間違いと断じるには、あまりにも明確だった。
――燃やせ。
炎が、寝台の周囲でわずかに揺らぐ。
一瞬。
タルラの瞳孔が縦に細まる。
赤が、濃くなる。
「代償がある」
パトリオットの声は変わらない。
「承知しています」
今度は、単音だった。
だが彼は見た。
今の一瞬を。
見なかったことにはしない。
「沈むぞ」
「沈むならば、どこまでも沈みましょう」
言い切る。だがその言葉の端に、わずかな違和感が残る。
「━━大尉」
そのとき、パトリオットは信じられないものを見た。
そして、彼女から発された言葉に耳を疑った。
「あなたは報われるべきだ。槍も鎧も捨てて、家族と平穏に…」
「何を、言っている」
大尉という呼び方、それはウルサス軍時代の階級だ。
共に軍を去った部下たちのみが、そう呼ぶ。
タルラの声は柔らかかった。
今まで聞いたことのない調子だった。
労うように。諭すように。
あるいは、見送るように。
「あなたは、あのときも退かなかった。だから多くが死んだ」
空気が凍る。
その“あのとき”を、タルラが知るはずがない。
「”それ”は、私たちのすべてが背負うものです」
それは帝国軍の撤退戦。部隊を切り離し、本隊を生かす決断。
大尉だった彼が下した命令。
レユニオンで、誰にも語っていない。誰にも言っていない。
「……誰の、記憶だ」
「あなたは、罰を受けたと思っている。違う。あなたは、生き残った」
その声音は、彼女ではない。だが完全に別人でもない。
誰かの残滓。分与された魂の断片。
あるいは、救われた誰かの記憶。
「やめろ」
パトリオットの声が、初めて強くなる。
槍を手に握り、タルラと正面から向き合う。
パトリオットは理解する。これは疲労ではない。集積だ。
声が混じっている。
彼女の中に、彼女以外がいる。
数秒の沈黙。タルラは彼を真っ直ぐに見返す。
死んだ者たちの魂が、その力の主を蝕むのならば、決断せねばならぬ。
感染者たちの怒りが、かつてあった彼女を消し去るのならば。
静かにその切っ先が、タルラに向けられる。
タルラの瞳が揺れる。人の物ではない。
これは副作用か、それともこの力が本体か。
踏み込めば届く距離。
「
槍先が、さらに半寸だけ前に出る。
討ち取れるかどうかではない。
討つべきかどうか。
「答えろ」
重い声。
その瞬間、瞳の重なりが揺らぐ。
そして、彼女は微笑んだ。
「━━父よ、なぜ私にはあなたのような立派な角がないのだ?」
複数だった視線が、ひとつに収束する。
槍は動かない。
やがて、パトリオットはゆっくりと穂先を下げる。
次の瞬間。
彼女は瞬きをする。
そして、静かに眉を寄せる。
「……何だ」
声は、元に戻っていた。
「私は何かを、言いましたか」
沈黙。
パトリオットは、数秒だけ彼女を見つめる。
「何も」
嘘ではない。だが、真実でもない。
タルラは首を振り、額を押さえる。
「起きてすぐは、ときどき記憶が混じります」
小さく呟く。
「壊れると分かっていて、進むか」
「壊れるつもりなどありません」
答えは迷いない。
その瞬間だけは、完全に彼女だった。
パトリオットは槍を戻す。
だが心中では確定している。
侵食は始まった。
死者の怒り。
救われた者の祈り。
背負った魂の重さ。
それらはやがて、閾値を越える。
そのときは――
今度は迷わない。
その一文を、彼は心中で静かに確定する。
テントを出ると、夜気が肺を刺した。
雪は止んでいる。
だが空気は重い。炎の余熱がまだ漂っていた。
入口の影に、フロストノヴァが立っている。
腕を組み、壁にもたれ、視線だけを寄越す。
そばには、ルーンリットがいた。
「……父さん」
問いではない。確認だ。
パトリオットは足を止めない。
「確認した、必要だった」
短い応答。
フロストノヴァは視線を細める。
「殺すつもりだったのか?」
「止める、つもりだった」
それが答え。
フロストノヴァは小さく息を吐く。
白くならないほど、冷たい。
「違いは?」
「まだある」
即答。
その即答が、彼女の眉をわずかに動かす。
「……中の話、聞いた。あれはなんだ?」
「分からぬ」
珍しく、不確定な答え。
フロストノヴァは顔を上げる。
「父さんは、タルラを認めている。だが、信用はしていない」
わずかな沈黙。
「信用している。崩れる可能性ごと」
静かな応酬。
フロストノヴァは一歩踏み出す。
「私は、見捨てたくなんてないんだ」
「分かっている」
「でも父さんはそうじゃないんだろう」
「違うな」
パトリオットは正面から娘を見る。
「同じだ」
その声は硬いが、否定ではない。
フロストノヴァは一瞬だけ視線を逸らす。
「……本当にタルラが壊れたら」
言葉が止まる。
その問いは重い。
部下としてではない。
仲間としてでもない。
父に問う、子の問い。
パトリオットは答える。
「そのときは、私が決断する」
殺す、とは言わない。
救う、とも言わない。
ただ決断する、とだけ言う。
それが軍人の誓いであり、処刑者の影だった。
しばらく沈黙が続く。
風がテントの布を鳴らす。
やがてルーンリットが言う。
「……ならば私が、この炎でお守りいたします」
「そうするが、いいだろう」
「はい」
短い合意。
パトリオットが歩き出す。
背に向けて、フロストノヴァが最後に言う。
「でも」
足が止まる。
「壊れる前に、止める方法を探す」
振り返らずに、彼は答える。
「探せ」
そして付け加える。
「私も、探している」
夜は深い。
炎はまだ消えていない。
だが三人は知っている。
次に揺らぐときは、
もっと大きい。
そのとき、レユニオンの命運は試される。
アークナイツのストーリーを読んでからずっとやりたかった。
パトリオットパッパ呼び。