代わりに色々キャラや展開をじっくり考えられました。
地下通路は、異様なほど静かだった。
チェルノボーグの地下研究区画は本来、凍結装置の駆動音と機械設備の振動が絶えず耳にまとわりつく場所のはずである。だが今、通路に満ちているのは冷たい空気と、靴底が床に触れる乾いた音だけだった。
壁面を走る配管には薄い霜が張り、照明は白さを失って青白く沈み、わずかな点滅が視界の端で不安を増幅させる。
案内役のレユニオン兵は振り返らない。ただ歩き続ける。
アーミヤたちは、来た道とは違う方向へと進んでいた。
「妙だな」
Aceが低く言い、壁際へわずかに身体を寄せた。
無防備な場所ではない。
どこかで視線が交差したような錯覚があるのに、銃口の金属音がしない。
「占領下の都市の中とは思えねぇ」
アーミヤは答えなかった。
街は無人のように見えるのに、無人ではない。
チェルノボーグの住民も、駐在軍も、まだ見ていなかった。
だが外縁から続いたあの”見ている”圧が、この地下にも薄く張りついている。それは敵意というより、統制――あるいは、命令が行き届いているという感触に近かった。
通路が折れ曲がり、さらに冷えた空気が肌を刺す。
やがて霜の張りついた扉の前で案内役が止まる。
扉の縁には白い結晶が浮き、触れれば砕けそうなほど薄い氷膜が重なっていた。
「ここだ」
「中にいるのは?」
「スノーデビル小隊、指揮官」
短い言葉。
ロック解除の電子音が鳴り、重い金属扉がゆっくり開く。
空気は冷たく、呼気が白くなるほどで、壁際には同じ白いコートの兵が二名、まるで影のように立っていた。スノーデビル小隊、氷気を纏う術師。彼らは武器を構えていないが、ここにいるだけで脅威になり得る種類の存在だった。
中央には椅子が一つ置かれており、その背もたれに軽く身体を預けるようにして、白い髪の少女が静かに座っている。
Aceが声を発する。
「フロストノヴァか」
フロストノヴァは、レユニオンを構成する幹部の一人。
冷徹な指揮官にして、戦場を氷結のアーツで圧倒する戦士でもある。
灰色の瞳が、ゆっくりとこちらへ向けられる。
そこにあるのは憎悪でも侮蔑でもなく、冷たい距離と、それでも相手を測る意思だった。
「ロドス」
声は静かで、怒号の類ではない。それは相手の名を確認する通告に近い。
「待っていた」
アーミヤは一歩前に出た。
氷の圧は冷たいが、彼女は怯えなかった。
怯えてしまえば、ここで交わるはずの言葉が凍りつく。
「私たちに、何の用があるのですか」
フロストノヴァは瞬きを一度だけしてから答えた。
「ロドスは感染者の救済を目的とする」
それは問いではなく断言だった。
アーミヤは迷わず頷く。
「はい」
短い沈黙が落ちた。
スノーデビル隊員の足元に霜が広がり、空気がわずかに鳴る。だがフロストノヴァの表情は変わらない。その沈黙は拒絶ではなく、判断の時間だった。
「ならば、敵対は必要ない」
同時に理解する。これは善意ではない。
フロストノヴァは“敵対を避ける”という目的のために、必要な行動を選んでいる。
アーミヤは胸の奥で、言葉にならない違和感を抱えたまま、彼女の沈黙の“残り”を読む。焦り。時間。どこかで何かが、急速に崩れ始めている。
「救出に手を貸そう」
アーミヤの瞳が揺れた。救出に手を貸す。
敵視されていてもおかしくない人物からの言葉としてはあまりに異質だ。
「……どうしてですか」
フロストノヴァは答えなかった。
視線をわずかに逸らし、そして、表向きの理由だけを口にする。
「ロドスとの無駄な軋轢は避けたい」
それが表向きの理由。
だが、その言葉の奥にあるものを、アーミヤは感じ取る。
「あなたは……」
問いかけかけて、止める。
フロストノヴァの瞳は静かだ。
だがその奥に、わずかな焦燥がある。
時間。急いでいるのは、誰か。
Aceが肩をすくめる。
「ずいぶん親切だな」
フロストノヴァは小さく首を振った。
「レユニオンにも、ロドスを知る者はいる。合理的だ」
やがて彼女はゆっくりと立ち上がった。足音がほとんどしない。氷の上を歩くような静けさ。
Aceの声が一段低くなる。
「で、俺たちに何をさせるつもりなんだ?」
「今は、まだ何も必要ない」
フロストノヴァは即答する。
「ただし、ここでのやり取りは無かったことに」
「レユニオンは一枚岩ではないようだな」
Aceが言う。それにアーミヤが言葉を続ける。
「それは、裏切りにはならないのですか」
「ならない」
一拍。
「私は、レユニオンだ」
言い切る。だがそこに狂信はない。
目を瞑り、天井を見上げる。
「そしてタルラを、信じている」
フロストノヴァの視線が止まる。
短い答え。
「信じている。だが――」
そこで言葉が止まる。
続けない。続ければ、核心になるから。
アーミヤは理解する。
この少女は敵ではない。
そして、いずれ来たる事態に備えているのだ。
「私たちは、戦うために来たわけではありません」
アーミヤが言う。
「守るためです」
フロストノヴァの瞳が、わずかに揺れる。
氷が、微かに砕ける音。
「……そうか」
それだけ。肯定も否定もない。
だが信頼は、そこで成立した。
言葉にしないまま。
フロストノヴァは背を向けた。
「ついてこい、会わせてやる」
それだけを残し、氷の気配は静かに収まった。
アーミヤはその場で息を吐く。冷気の中で、呼気が白く伸びる。
彼女は理解していた。
フロストノヴァは敵ではない。
少なくとも今、この瞬間は。
Aceと顔を合わせ、ひとまずは信用することを了解する。
「こっちだ」
フロストノヴァのいた部屋から離れるほど、空気の冷たさは薄れ、代わりに薬品の匂いと金属の熱が混ざった、医療区画特有の乾いた空気が漂い始める。
扉の前でフロストノヴァが止まった。ここには霜がない。
取っ手に指の跡が残り、使われている扉の重みがある。
「ここだ」
ロック解除の音が鳴り、扉がゆっくり開く。
室内は広い医療区画だった。
白い照明。医療機器。簡易の診断端末。
中央にはベッドが置かれ、その傍らには人影が一つある。
そして、そのベッドの脇に立つ赤い外套に戦慄する。
タルラ。
レユニオンの象徴。聖火の主。救済の担い手。
たった数年で台頭した感染者組織、レユニオンの実質的トップ。
炎は出ていない。だが空気が、わずかに歪んでいる。
地下なのに、ほんの少しだけ温度が高い。
寒さの中で、それが逆に異物として際立つ。
加えて、ベッドに横たわる人物がいる。
白い衣服。焦点の合わない瞳。
まだ身体が覚束ない姿勢。
それでも自分の身体を保ち、こちらを見ている。
ドクター。
アーミヤの息が止まった。
呼びたい。駆け寄りたい。
けれど一歩踏み出す前に、Aceの手が肩に置かれる。
「待て」
それは制止ではなく、守りの判断だった。
フロストノヴァを伴ってこの場にいるが、ロドスはまだ侵入者だ。
あまりにもタイミングが悪い。事態は最悪の方向へ向かっている。
タルラは振り返らないまま言った。
「来たか」
声は平坦だった。
怒りも侮蔑もない。ただ状況を確認する音。指導者の声。
この人物の判断ひとつで、ここは戦場になり得る。
タルラはゆっくり振り返る。赤い瞳がアーミヤを見据える。
そこにあるのは感情ではない。観察と決断。
相手を敵として扱う冷たさではなく、相手を測る冷静さに近い。
「
あまりにあっさりした言葉に、部屋の空気が一瞬止まる。
フロストノヴァが眉をひそめる。
「なんだと?」
「ロドス・アイランドとは、すでに交渉済みだ」
アーミヤの耳が揺れる。
「交渉?」
「別働隊」
タルラは淡々と言う。
「重装の騎士を連れた小隊だ。名前はニアール」
名前が出た瞬間、話が現実に接続される。
別のルートで、すでに話はついている。
今ここにいる自分たちは、何も知らされていなかった。
「彼女たちは合理的だった。不要な戦闘は望まない」
アーミヤは静かに返す。
「それは私たちも同じです」
タルラは頷かない。
だが否定もしない。その沈黙が、了解の形をしている。
ドクターは椅子に座ったまま、ぼんやりとこちらを見ている。焦点は完全には合っていない。それでも、アーミヤを“誰か”として捉えていることは分かる。アーミヤは胸の奥で、熱いものが一瞬こみ上げるのを噛み殺した。
「おまえたちは救出対象を連れて帰還する」
タルラは言う。
「そしてレユニオンは、ロドスを歓迎しよう」
それは異常なほど簡潔だった。
歓迎という言葉が、女傭兵を介したものとは矛盾している。
それがますます、目の前にいる人物の謎を深める。
アーミヤは、そこに言葉になっていないだけの重みを感じていた。
単には冷たいと表現できない瞳。
その視線はまるでこちらの胸中を覗いているかのようだ。
その空気をフロストノヴァの言葉が破る。
「どういうつもりだ、タルラ」
「取引が成立した。それだけのことだ」
タルラは一歩退く。
ドクターとアーミヤの間にあった距離が縮まるように感じた。
「次に顔を合わせるときは」
タルラの声が少しだけ低くなる。
歩み寄る足音が鮮明に聞こえた。
「協力者として会えることを願っている」
敵意はなく、あるのは宣言。
アーミヤは静かに答える。
「……私も、そのように願います」
タルラはそれ以上言わず、横を抜けて部屋を出ていった。
赤い外套だけが静かに揺れ、扉の向こうへ消える。
彼女が去った後の空気は、むしろ冷たく感じられた。
「すまない、私はタルラに聞かねばならないことがある」
フロストノヴァも同じように立ち去る。
残された部屋で、アーミヤはゆっくりドクターへ歩み寄る。走れば簡単だった。けれど今は走れない。ここで自分が崩れてしまえば、きっと彼はさらに遠くなる。
「……ドクター」
名前を呼ぶ。
ドクターは瞬きを一度し、ゆっくり口を開いた。
声は掠れている。長い眠りの痕跡が喉に残っている。
「君は」
言葉を探すように少し首を傾ける。アーミヤは息を止めた。
名前が出ないなら、それでもいい。忘れていてもいい。
生きているなら、それでいい。
だがドクターは、思ってもいなかった言葉を落とす。
「寒そうだった」
アーミヤは一瞬意味が分からず、目を瞬いた。
「え?」
ドクターはゆっくり続ける。
「さっきの人」
タルラのことだ。
「寒そうだった」
Aceが小さく笑う。
「変わってるな、あんた」
だがアーミヤは笑えなかった。
彼はまだ状況を理解していない。それでも、人を見ている。敵でも王でもなく、ただ一人として。そこに、ロドスが欲しかったものの核心がある。
アーミヤは深く息を吸い、静かに言った。
「……帰りましょう」
ドクターはゆっくり頷く。立ち上がろうとして身体がわずかに揺れたが、医療オペレーターがすぐ支え、Aceも反射的に距離を詰める。担架を出そうとする声が上がりかけたが、ドクターは首を横に振った。
「歩ける」
それは強がりではない。確認のような声だった。
自分が自分であることを確かめるように、彼は一歩を出した。
地上へ出た瞬間、霜の匂いが肺を満たした。
冷たさは痛みに近い。それでも地下の乾いた冷気とは違い、ここには確かに「外」の気配があった。
崩れたまま取り残された街の輪郭が、薄い霧の幕の向こうでぼやけている。住民の声はない。窓は閉ざされ、看板はそのまま、路面の轍だけが新しい。
だが無人ではない。
屋上の影、鉄骨の上、建物の隙間。視線が刺さる。
撃たれない――というより、撃たないことが統制されている。
その違いを理解したとき、アーミヤの胸に不安が残る。
逃走ではない。許可された撤退。
そしてその思惑の中心に、赤い外套の女がいる。
「全員、遅れるなよ」
Aceが低く言い、視線だけで周囲の高所をなぞる。
盾はない。武装は最低限。だが護るべきものは増えている。
中央を歩くドクターは足取りこそ覚束ないが、意識は途切れていない。時折、道の端に残った焦げ跡や、凍りついた水溜まりを不思議そうに眺め、そのたびにアーミヤの胸が痛む。
(覚えていない。でも、生きている)
その現実が、救いであり、刃でもあった。
交差点を一つ曲がったところで、前方から影が現れた。
重装の装甲。白を基調にした鎧。
大楯を携えた騎士が、静かに歩み寄ってくる。
ニアール。
距離が縮まるにつれ、彼女の視線がアーミヤとドクターに向かい、わずかに安堵が滲んだ。だが笑わない。戦地の顔のまま、必要なことだけを告げる。
「合流できてよかった。ドーベルマンが待っている」
彼女の背後で、別の影が動く。
角から姿を現したのはドーベルマンだった。
冷静な眼差しで周囲を確認しながら、こちらへ歩いてくる。
「状況を報告しろ」
声は短く、鋭い。
アーミヤは息を整え、簡潔に答える。
「ドクターは確保。生命反応は安定していますが、記憶喪失のようです」
「記憶喪失だと?」
ドーベルマンの眉がわずかに動く。
疑念というより、状況の異常を測る反応だった。
そのままで視線を細め、ニアールを見る。
「交渉の内容は?」
ニアールが短く息を吐く。
「こちらから切り出したのは撤退経路の確保と、救出対象の返還。レユニオン側の指導者は、条件なしで返還を認めた」
「条件なし?」
ドーベルマンが繰り返す。
「表向きは、だが」
「どういうことだ」
「レユニオン側の意向で、通信越しにケルシーが交渉した」
ニアールは言葉を選んだ。騎士らしく、しかし曖昧に濁さない。
その言葉に、空気が一段冷える。視線の圧が増したように錯覚する。
アーミヤが口を開こうとしたとき、ドーベルマンがそれを止めるように手を上げた。
「ケルシーは?」
その名前が出た瞬間、ニアールの表情がわずかに変わった。疲労と、ある種の納得が混ざる。
「ケルシーは、事前に接触されていたようだ」
アーミヤの胸が跳ねる。
「事前に?」
ニアールは頷く。
「レユニオンが我々の作戦を察していたのかはわからないが」
「いつの間に……」
ニアールが続ける。
「“敵対の回避”を第一に、レユニオン側もそれを望んでいると」
「望んでいる?」
「少なくともケルシーはそう判断した。交渉内容はわからないが」
ニアールはそう言いながら、視線をアーミヤへ向けた。
地下で技術者が言いかけて飲み込んだ言葉が、脳裏によみがえる。
(彼女は、急いでいる)
アーミヤは唇を噛む。
フロストノヴァの瞳の奥にあった焦燥も、同じ方向を向いていた。
Aceが武装を再び身に着けながら言う。
「ひとまずは見逃してくれるんだ。これに乗じて離脱といこう」
ドーベルマンが周囲を見回し、即座に判断する。
「陣形を再構築。最短経路でランデブーポイントへ向かう」
指示が飛ぶ。隊員が動く。
それだけで空気が少し整う。秩序は人を落ち着かせる。
アーミヤはドクターの横に寄り、腕を支える位置を確かめた。
ドクターは空を見上げ、何かを思い出そうとしているような顔をするが、すぐにそれを諦めたように目を細める。
「……寒い」
小さな声。アーミヤが頷く。
「はい。でも、もう少しで帰れます」
ドクターはゆっくりと息を吐く。
「帰る?」
「ロドスへ」
その言葉に、ドクターの目がわずかに揺れる。
完全には理解していない。けれど拒まない。
ニアールが先頭に立つ。ドーベルマンが側面を固め、Aceが後方に回る。
隊列は短く、密に動き出した。
角を一つ曲がる。
遠くの建物の上に、赤い外套が一瞬だけ見えた気がした。
アーミヤは振り返らない。振り返れば、また言葉が必要になる。
ただ前へ進む。
外縁に近づくにつれて、風が強くなる。
瓦礫の間から吹き抜ける強風が体を揺らす。
それでも隊列は崩れない。
「この先に、ロドスの輸送機が待機している」
誰かが低く言う。
振り返れば、チェルノボーグは静かにそこにある。
撃たれないまま、追われないまま、見送られている。
その静けさが、不気味だった。そして同時に、ひどく重かった。
ドーベルマンが立ち止まらずに言う。
「帰艦後、ケルシーに話を聞かねばならんな」
アーミヤは小さく頷く。
救われたのではない。ただ、まだ壊れていない。
ロドスの小隊は撤退を完遂した。
戦いは起きなかった。だが、その代わりに。
交差した線は、確かに結ばれてしまった。
タルラの言葉が、まだ耳に残っている。
思い付きのオリキャラが次回登場予定