呪術廻戦スピンオフ 3年J組 五条先生 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
「――ああ、皮肉なものだね。一着の布地が、これほどまでに世界の解像度を歪めてしまうなんて」
教壇に立つ五条悟は、漆黒のスーツという名の「社会の縮図」を纏い、冷徹な静寂を振り撒いていた。その静寂は教室の壁を超え、高専全体を覆う巨大な檻となって波及していく。
高専の廊下では、伊地知潔高が震える手で眼鏡を拭き直していた。
「信じられません。五条さんが、あんなに……あんなに『まとも』な格好で、書類に不備がないかチェックしている。怖い。怖すぎます。あの人が全裸で走り回っていた頃の方が、まだ予測可能な絶望でした。スーツを着た五条さんは、もはや論理という名の暴力装置だ」
彼の胃壁は、かつてない規律という名のストレスによって、音を立てて崩壊していた。
一方、校庭では禪院真希が呪具を握り直し、教室から漏れ出る異様な重圧を睨みつけていた。
「チッ、胸糞悪いな。あのバカが正装なんて似合う格好しやがって。だが、おかげで呪術総監部の連中が青い顔してやがる。五条悟が服を着たということは、人類に宣戦布告をしたも同然だ、だとさ。皮肉だね、全裸の方が平和だったなんてな」
そこには教師を演じる怪物の、完成された虚無が横たわっていた。
さらには、実在せぬはずの親友の幻影さえもが、その漆黒の背中に囁きかける。
「……悟。君は結局、そこに行き着いたのかい。非術師(猿)の理という名の、最も薄汚れたベール。君が全裸でいたのは、彼らを憐れんでいたからではなかったのか? 君がそのスーツのボタンを留めるたび、君の魂が窒息していく音が聞こえるよ。実に見苦しい、最高の喜劇だ」
「先生、もういい。もうやめてくれ」
伏黒恵が、耐えきれずに立ち上がった。
彼の影からは、主人の不安を反映した式神たちが、今にも暴走せんばかりに溢れ出している。
「スーツ姿の先生を見て、京都校の学長は腰を抜かし、冥冥さんは『スーツの仕立て代を請求できない恐怖』で投資先を変え、猪野さんはなぜか泣きながらネクタイを買ってきました。世界が、先生の『正しさ』に耐えきれずに軋んでいる。お願いだ、いつもの、あの救いようのない露出狂に戻ってくれ!」
「恵。戻れと言うのは、僕に自由という名の絶望を再び背負えと言うことかな?」
五条はカフスボタンを弄りながら、感情の死滅した瞳を向けた。
「悠仁。君の中の宿儺が、先ほどから内側で『不快だ、今すぐその布を切り刻め』と喚いているよ。呪いの王ですら、僕のこの完璧な社会性には耐えられないらしい。ねえ、可笑しいだろう? 悪を自称する彼らが、僕の善行(ネクタイ)に怯えているんだ」
「あはは……先生……。俺、難しいことはわかんねーけど。今の先生、すっげー寂しそうに見えるぜ。ほら、そのスーツ、パチンコ屋の景品のハサミで切ってやろうか?」
虎杖悠仁のその言葉に、一瞬だけ、五条の無下限が揺らいだ。
それは完璧に仕立てられた絶望に生じた、唯一の「ほつれ」だった。
「……。悠仁。君のその、台無しにする力。ああ、それこそが僕をこの、退屈な正解から救い出してくれる、唯一の虚式なのかもしれないね」
五条は、スーツの胸ポケットから伊地知が用意した白紙の始末書を取り出し、それを丁寧に、そして残酷に引き裂いた。
その破片が雪のように舞う中、彼は一度も笑うことなく、ただ正しくそこに立っていた。