呪術廻戦スピンオフ 3年J組 五条先生 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
放課後の教室を吹き抜ける風は、昨日よりも少しだけ夏に近い匂いがした。
五条悟は教壇に立ち、いつものアイマスクではなく、透明なレンズの眼鏡をかけていた。その手には、呪具ではなく、キンキンに冷えた一本のラムネ瓶。ビー玉がカラリと鳴る音が、静まり返った室内に不自然なほど涼やかに響く。
「……先生。何なんですか、その 僕は今、炭酸の泡越しに世界を愛でる清涼飲料水のCMキャラです みたいな顔。しかも背景、術式で 教室の彩度 を30パーセントくらい上げて、無駄にノスタルジックにしてますよね。眩しくて黒板の文字が読めないんですけど」
伏黒が、いつになく低い、しかしどこか落ち着かない手つきでシャーペンを回す。そのペン先が、ノートの隅に無意識に小さなハートのような曲線を描きかけていた。
「恵。いい質問だね。今日は 呪い を払う話はやめよう。……君たちは知っているかい? 呪術師にとって、世界で一番回避不能な攻撃。それは、放課後の夕暮れ時、不意に視線が合った瞬間に放たれる 100パーセントの純度を持った微笑み だよ。これには 無下限呪術 だって、0.2秒のディレイが発生する」
五条はラムネの瓶をかざし、ビー玉の向こう側にある黄金色の空を覗き込んだ。
「ちょっと先生! 急にそんな、ソーダ水の泡が弾けるみたいな甘いこと言わないでよ! 私が用意してたハンマー、カバンの中で 出番まだ? って震えてるじゃない! 誰が放課後の廊下で、すれ違った瞬間に袖が触れて あ……ごめん って言うだけのことに、人生の全エネルギーを注ぎ込む展開を期待していいって言ったのよ!」
釘崎が、顔を林檎のように真っ赤にして、机を激しく叩く。だがその叩き方は、いつもよりずっと力が弱く、彼女の指先には、昨日買ったばかりの桃色のネイルが恥ずかしそうに輝いていた。
「アハハ! 釘崎、それってつまり 勇気の一歩 を踏み出したいってことだろ? わかるなあ。オレなんて、こないだ土手で一緒にアイス食べてた時、相手が 悠仁くん、一口食べる? って差し出してきただけで、黒閃を出す時よりずっと全身の神経が研ぎ澄まされたもんね。……あの時、アイスの冷たさよりも、自分の顔が熱いことの方が怖かったわ」
虎杖の屈託のない、しかし真っ直ぐに核心を突く言葉が、教室の温度をさらに数度押し上げる。
「悠仁、お前は本当に……。無自覚に情緒の領域展開をするな。……先生、結局何が目的なんですか。さっさと帰らせてください。この、胸の奥がざわざわするような空気の中に居続けるのは、特級呪霊に囲まれるよりずっと体力を削られる」
伏黒の嘆きに、五条はラムネの最後の一口を飲み込み、ビー玉をカランと鳴らした。
「恵。恋っていうのはね、最強の僕でさえ 予測不能 な、世界で一番美しいバグなんだ。相手の瞳の中に、今の自分がどう映っているか。その一瞬のまたたきを確認するために、僕たちは命を懸けて戦う時よりもずっと、喉を乾かして、情けないほどに言葉を失う。……いいかい、今日の宿題は、術式を一切使わずに 帰り道、誰かの隣を歩く時、その人の歩幅に合わせて呼吸をしてみること。 言葉はいらない。ただ、夕日が作る長い影が重なるその瞬間の、0.5秒の沈黙を全身で味わってごらん」
五条は立ち上がり、窓辺に置かれた一輪の青いガーベラにそっと触れた。
「心の不可侵を解いて、誰かを自分の内側に招き入れるのは、呪いを祓うよりずっと勇気がいる。でもね、その震える指先が触れ合う直前の、あの 静寂 こそが、僕たちがこの不条理な世界で守り抜くべき、唯一の宝石なんだよ。……さあ、最高の放課後を使い切っておいで」
「「「「……初めてまともなボケ(?)を言ったのに、甘酸っぱすぎて胸が張り裂けそうだわ!!!!!」」」」
教室から逃げ出すように、しかしどこか名残惜しそうに廊下へ消えていく生徒たちの背中を、五条はサングラスを少しずらして見送った。その瞳には、かつての自分が手放してしまった、青い春の残像が静かに揺れていた。
「……ま、僕の青春は、ラムネの泡みたいに弾けて消えちゃったけどね」
独り言のように呟いた五条は、黒板に大きく 恋 と書き、それを淡いパステルカラーのチョークで、境界線がわからなくなるほど優しく、そして永遠に消えないように塗りつぶした。
彼らが 3年J組 という名の、あまりにも甘酸っぱくて、あまりにも透明な放課後から卒業できる日は、五条悟という名の特級の恋の導き手が、自らの中に眠る 永遠の少年 を解放するまで、きっと、ずっと先のことなのだろう。