呪術廻戦スピンオフ 3年J組 五条先生 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
放課後の第1実習室。西日が差し込む窓際で、伏黒恵は一人、古びた呪具のメンテナンスをしていた。……はずだった。だが、彼の視線は手元の布ではなく、隣の机で豪快に突っ伏して寝ている虎杖悠仁の、規則正しい寝息に釘付けになっていた。
「……ったく、こいつは。こんな無防備に。呪術師なら、寝てる時も警戒しろって言ってるだろ」
伏黒が小声で毒づく。だが、その指先は虎杖の跳ねた髪に触れるか触れないかの距離で止まり、行き場をなくして空を切った。そのわずか10センチの空白が、今の伏黒にとっては何キロメートルもの断断絶に感じられた。その微かな指の震えを、最強の六眼ではなく、一人の少女の鋭い視線が射抜いた。
「……あら。伏黒、あんたまた 悠仁の寝顔、特級呪物並みの精度で観察してんの? 趣味悪いわね」
背後から忍び寄った釘崎野薔薇が、意地悪な笑みを浮かべて伏黒の肩を叩く。その手には、コンビニで買ったばかりの、汗をかいたサイダーの瓶が二本握られていた。
「なっ、釘崎! 違う、これはただ、こいつの呪力が寝てる間に漏れ出てないか確認して……」
「はいはい、その苦しい言い訳、呪言師にでも頼んで現実にしてもらいなさいよ。……で、これ。あんたの分。冷たいうちに飲みなさいよ」
釘崎が、一本のサイダーを伏黒の頬に押し付ける。ヒヤッとする冷たさに伏黒が肩を跳ねさせると、釘崎は自分の分のキャップを景気よく開けた。シュワリ、という音が、静かな実習室に不自然なほど甘く響く。
「……ありがと。お前、これ 悠仁の分は?」
「あいつの分は、あいつが自分で起きた時に買わせるわよ。……今は、この 静寂 を楽しみたいじゃない。あんたと、私と……寝てるバカ一匹。……このまま、時間が止まればいいのにね」
釘崎が窓の外、夕闇に染まりゆく校庭を見つめながら、ぼそりと呟いた。その横顔が、夕日のせいでいつもよりずっと柔らかく、そしてどこか切なげに見えて、伏黒は喉まで出かかった皮肉を飲み込んだ。
「……そうだな。……たまには、こういうのも悪くない。呪いも、任務も、全部忘れてさ」
伏黒がサイダーを口に含む。炭酸の刺激が、言い出せない本音を誤魔化してくれるような気がした。その時、実習室の扉が勢いよく開き、ひょっこりと五条悟が顔を出した。アイマスクを外し、いつになく真面目な、しかし口元だけはニヤニヤと笑っている 余計な大人 の登場である。
「はーい! 青春してるね諸君! 先生、空気を読んで 恋の応援(エール) という名の特級呪術をぶちかましに来たよ! ほら、このスイッチを押すと、教室中に ピンク色の煙 が充満して、強制的に告白タイムが始まるんだけど……」
「「「「絶対にいらねーし、今すぐ消えろクソ教師!!!!!」」」」
伏黒と釘崎の完璧に揃ったツッコミに、五条は「えー、最強の僕が愛のキューピッドになろうとしてるのに。冷たいなあ」と、わざとらしく肩をすくめて退散していった。
その騒がしい声に、虎杖が「ん……? 何、メシ?」と目をこすりながら起き上がる。
「あ、伏黒、釘崎。おはよ。……なんか、いい匂いするな。ソーダ?」
「……起きたか、バカ。ほら、飲みかけだけどやるよ」
伏黒が、自分のサイダーを虎杖に差し出す。虎杖は「サンキュ!」と笑ってそれを受け取り、無防備に口をつけた。その様子を見て、釘崎が「……アンタたち、間接……ま、いいわ。バカね」と、呆れたように笑いながら窓の外を見た。
彼らが 3年J組 という名の、あまりにも不器用で、あまりにも透明な季節から卒業できる日は、五条悟という名の特級の恋の導き手が、自らの中に眠る 永遠の少年 を解放するまで、永遠に来ないのかもしれない。