呪術廻戦スピンオフ 3年J組 五条先生 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
夕暮れの補助監督詰め所。
パソコンのタイピング音と、古びた換気扇が回る音だけが、気まずい沈黙を埋めていた。
伊地知潔高は、山積みの報告書を前に、何度も眼鏡を指で押し上げていた。その視線は、画面上の数字ではなく、隣のデスクで資料をホチキス留めしている新田明の、細い指先に吸い寄せられている。
「……あの、新田さん。さっきの現場の報告書、僕がまとめておきましょうか。新田さん、今日はもう上がっても……」
「えっ、いいんすか? 伊地知さん、自分だって五条さんの無茶振りのせいで徹夜続きじゃないっすか。……無理、しないでくださいよ」
新田が手を止め、首をかしげて伊地知を見る。その「無理しないで」という、なんてことのない同僚としての気遣いが、伊地知の胸の中で特級呪具並みの破壊力を持って炸裂した。
「い、いえ! 僕は慣れてますから! それに、新田さんが早く帰って、ゆっくり休んでくれた方が……その、僕の効率も上がるというか、なんというか!」
「……なんすかそれ。伊地知さん、たまに変なこと言いますよね」
新田がクスリと笑う。その笑顔に、伊地知はあわてて手元のコーヒーカップを掴んだが、中身はすでに空だった。空のカップを啜るという、これ以上ないほど格好悪い姿を晒してしまい、彼は顔を耳まで真っ赤にする。
「……あ、あの、新田さん。もしよければ、下の自販機までコーヒー、買いに行きませんか。……15分だけ、休憩しませんか」
勇気を振り絞った伊地知の提案。それは、数多の帳を下ろしてきた彼にとって、人生で最も重い 縛り を自分に課すような一言だった。
「いいっすね。自分も喉乾いてたんす。……伊地知さんの奢りなら、高い方の微糖にしちゃおっかな」
二人が席を立ち、夕闇に染まる廊下へ出る。
窓から差し込む残光が、二人の等身大な影を長く、長く伸ばしていた。
その距離、わずか20センチ。
呪力も術式もない世界で、ただ「隣を歩く」というだけのことが、これほどまでに困難で、これほどまでに瑞々しい。
その時、廊下の突き当たりから、ひょっこりと五条悟が顔を出した。
「はーい! 事務方の青春、収穫に来たよ! 伊地知、新田ちゃん! 先生、空気を読んで 恋の特急便 という名の呪具を持ってきたよ! ほら、このスイッチを押すと、自販機のボタンが全部 告白 ボタンに切り替わって、本音を言わないとコーヒーが出てこないんだけど……」
「「「「今すぐ高専から出て行ってください、五条さん(先生)!!!!!」」」」
二人の完璧に揃った(しかし必死な)絶叫が、静かな校舎に響き渡る。
五条は「えー、最強の僕が愛のキューピッドになろうとしてるのに。事務方はシビアだなあ」と、わざとらしく肩をすくめて闇に消えていった。
静寂が戻った廊下で、伊地知と新田は、どちらからともなく顔を見合わせて、小さく、しかし晴れやかに笑った。
「……五条さん、相変わらずっすね」
「……ええ。でも、おかげで少し、緊張が解けました」
自販機の前に並んだ二人の指先が、ボタンを押す瞬間に、ほんの 0.1秒だけ触れ合った。
それは術式よりも温かく、どんな結界よりも二人を強く繋ぐ、放課後の魔法だった。
彼らが 3年J組 事務方 という名の、あまりにも地味で、あまりにも愛おしい季節から卒業できる日は、まだ、ずっと先のことのようだ。