ふわぁ、とノアは建物に入ってから、何度目かの感嘆の声を上げた。
夕方まで奈落でアヴェスターを狩り続けたあと、車に乗せられるがまま、自宅兼事務所だというマンションに連れてこられた。その時の第一声がこれである。
一階のロビーは広い。コンシェルジュもいる。エレベータの内装も綺麗だ。廊下はふかふかで足音が響かない。夢の国に迷い込んだ気分だった。
「まあ、これもハルキとフェンの賜物だよ。実際買ったのはハルキだけどな」
ノアを見てひとつ笑ったオライオンが言った。師であるフェンは胸をそらし、気分が良さそうだ。
「さて、弟子に我らが城を御開帳といこう。ナーガよ、開けておくれ」
「はいはい。開けますよぉ」
ナーガが恭しい動作で扉を開く。どうにも、この長身の方は師を完全に手懐けているらしい。
「さあ、入るがよい。なに、取って食ったりはせん」
師に手を引かれて中に入る。ばん、とフェンが勢いよく扉を開く。
「我、帰還! お腹減った!」
返事はない。電気も着いていない。どうやら留守のようだ。
「誰もいないのか? 電気もついてないし……っと、なにやってんだディアナ?」
明かりが着くと、部屋の片隅に金髪ロールが転がっていた。ノアの頭上にはハテナしか浮かばない。オライオンが近づいていく。
「おいディアナ?」
金髪ロール――ディアナと呼ばれた女性ががばっと顔を上げた。
「オライオンくん、うち、もうダメや~」
「ああ、意味がこれっぽっちも分からん。とりあえず涙ふけ、顔を整えろ、新人のノアが来たぞ」
くいくい、と師に裾を掴まれる。
「ノアよ、手を洗うぞ。帰宅時に綺麗にしなくば、ペルテテーの雷が落ちる。あれは恐ろしい」
師と一緒に洗面所へ向かう。フェンが端に置かれた足場を持ってきて、その上に乗った。ふたりで手を入念に洗う。
傍若無人の師が怯えるペルテテーとはどういう人なのだろうか。タオルを手渡してきたフェンが、にやりと笑った。
「なに、そう怯えるでない。玄関は静かに入る。扉は静かに開閉する。さすれば怒られはしまい」
「師よ……先ほど盛大に開けていましたが……」
「……ペルテテーがいなくて良かったのぉ」
奈落から出ると、やっぱり師の威厳はどこかに落ちてしまっていた。でもそこがいいところだとノアは思う。
手を綺麗にし、師と一緒にリビングへ戻る。金髪ロールさんはいなくなっていた。ナーガが冷蔵庫から取り出した飲み物を入れている。
「あ、我、今日はブドウジュースが飲みたい!」
とててて、と師がナーガに走る。その姿が可愛らしくてたまらない。
「はいはい、フェンはんはブドウジュースやなぁ」
グラスを受け取った師が、腰に手を当てて中身を一気にあおった。
「ふぁー! 運動後のジュースは格別よのぉ!」
「ノアはんもどうやぁ? ジュースは色々揃ってるでぇ?」
ナーガがにこにこと声を掛けてくる。
「では師と同じものでお願いします」
「我ももう一杯いただこう!」
受け取ったグラスをちびちびと飲む。久しぶりのジュースだ。師は、今度はグラスを明かりにかざしながらくるくると回していた。
「良き色よ。三十年物とみた」
「それ、特売で買った一本百リルのジュースやでぇ?」
「ナーガよ。分かるかえ? マフィアごっこよ。いるだろう? たまにこんなことをしてる奴が」
「元マフィアになに言うとんねん……」
マフィア? この物腰が柔らかく背を丸めた人が、マフィア?
「あ、ノアはん。マフィア言うてもあれや、ライブハウスのお仕事してただけやでぇ?」
「それは……普通のお仕事なのではないでしょうか?」
「まあ、この街やと色々あるっちゅーことやぁ。過去はあまり振り返らんほうがえぇでぇ」
「ええ、そうかもしれません……」
ぺし、と師に裾を掴まれる。
「さて、ノアよ。我らが場所では古くからの流儀がある。とある遊戯で雌雄を決するというな。さあ、我と相まみえるがよい」
「フェンはん、それここに越してきてから決まったルールやないかぁ?」
「ナーガよ。これは神聖な儀式である。我はこの部屋では最弱であるが、今日、食物連鎖の底辺から抜け出せるかもしれぬのだ!」
「新人カモにする気かいなぁ。性格悪いなぁ」
なんの話か全く分からない。これから何をするのだろうか。一日が驚きで詰まっていたから、どうしてか心が弾んでしまう。
「ノアよ。ゲームというものを知っているかぇ?」
「はい、学生時代に何度かやったことがあります」
「……強かった?」
「いえ、数えるほどしかやったことがありません」
「やっふー! 我の時代きたあああ!」
師が小躍りしながら液晶画面の下でゲーム本体を取り出しセッティングしていく。なるほど、ゲームで戦うということらしい。なんとも師らしい。
さあ、とフェンがコントローラを滑らせた。
「いざやろうぞ! 今日は勝てるぞー! ナーガよ、我に賭けるが良い!」
「えぇ? わいノアはんに賭けるわぁ」
「なんで⁉」
「だってフェンはん、弱いもん」
あのナーガのセリフがこれだ。食物連鎖の底辺の名は伊達ではないらしい。
「師よ、まだ勝負は始まってもいません。これから始まるのです」
「そ、そうよな? 我、勝てるよな?」
「はい、私も真剣に挑みましょう」
「や、優しくしてくりゃれ?」
「神前において、全霊を懸け、我が師へ今日の感謝を捧げましょう」
「あの、優しく、手加減をな? してほしいなぁ~って」
ゲームが始まる。
三十分が経った。
「うお~ん!」
師が魂で泣いていた。四つん這いになり、全身で叫んでいた。
「我、またしても、最弱!」
「師よ、ゲームであなたの器ははかれません。師の生き様の一端を私は今日、垣間見ました。師があなたで、本当に良かった」
「そ、そうよな? 我、すごいよな? ふへへ」
「師は弱者であった私を導いてくださりました。そんなお方が、凄くないはずがありません」
「えへ、えへ、うへへへ」
師が溶ける笑顔をしながら、床をごろんごろんと転がる。ぱたん、と音がすると、オライオンが残念な目で師を見ていた。
「どした? また負けた?」
「我、尊敬されてる! 我が弟子万歳!」
「あ、そか。負けたのか」
オライオンの反応は簡潔だった。ソファーにどさっと座り、天井を仰いで長い息を吐きだした。
「どしたんやぁ? 急に十歳くらい老けとるでぇ?」
「情操教育が裏目に出た」
「あぁ……がんばりやぁ」
「あとな、ハルキの部屋には近づくな」
「あぁ……みなまで言わんでええでぇ」
むっ、と師が立ち上がる。
「ほぉ、ハルキがのぉ。まあ遂に観念したか。ペルテテーも焦れておったしのぉ。何をかいわんや。ノアもハルキの部屋へ近づくでない」
「分かりました」
とりあえず理解できないが、そういうものだと受け取っておこう。どうやらこの場所では神は留守にしているらしい。
「今日は出前だ出前。たまには高いもの食べようぜ」
「我、今日はハンバーグが食べたい!」
「そうだなぁ。色ボケした三人もいないし、高い肉をふんだんに使ったハンバーグでも頼むか」
「ひゃっはー! 宴じゃー!」