相棒はカンフー童女   作:ユーカリの木

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二章:神はサイコロを振る 5

 ノアにとって、日常に忍び寄る魔の手の気配を察知したのはこれが初めてだった。数時間前まで、オライオンを加えた四人でどら焼きを楽しんでいた。そこから師が映画を見ると言って部屋に引きこもり、代表が仕事を片付けると家を出てた。そこまでは良かった。そこにディアナが来た途端、急激に空気が変わった。 いま思えば、この一声がきっかけだったとノアは思う。

 

「結局ペルちゃん、ハルキくんとどこまでいったん?」

 

 途端、ハルキがテーブルを注視し始めた。なにかあったのだろうか、とこのときのノアは暢気に構えていた。

 

 ――愚かだった。

 

 ペルテテーが顔を真っ赤にし、目をそそっと横へ逸らし、おちょぼ口にしながらも、囁くように言った。

 

「その、えっと……舌入りちゅーまで」

 

 なんとなく居てはいけない気がして、ノアが椅子を引いたその瞬間――ハルキに袖を掴まれた。彼の表情は一切見えなかったが、指に込められた力はかなり強かった。

 

 一瞬だけ、前髪の奥にある青の瞳が見えた。生贄を見つけた目だ、とノアは直観的に悟った。

 

 ハルキが顔を上げる。表情は穏やかな笑みだ。しかし、醸し出す空気は絶対に逃がすものかと言って憚らない。だって袖を掴んだままなのだ。

 

「ああ、ノアの恋愛はどうなんだい? 今までにそういった関係はあったのかな?」

 

「ええ? ハルキくん、いきなりなに聞いとるん。それセクハラ言うんやで?」

 

 どの口でそれを言うのだろう。ハルキの笑顔が少しだけ崩れていた。

 

「ほら、新しい話題の方がいいと思ってね。すまないノア、気分を害したのなら謝るよ」

 

 謝罪よりまずは袖を離してほしい。

 

 ディアナの視線が赤面したままのペルテテーへ向く。ハルキの目から尋常ならざる殺意が歌姫へ向かって注がれている。正直かなり怖い。というよりなぜこの至近距離で気づかないのだろう。

 

「で、次のステップあるやろ? ほらほれ、実はやってるっちゅーオチやあらへんの?」

 

 う、う~ん、とハルキが無理やり咳払いする。

 

「ちょっとハルキくん、さっきからなんやねん。いま大事なところやから黙っとき~や」

 

 ハルキの目が泳ぐ。殺意を宿した視線がついにノアにやってきた。顎が少しだけ動く。要約すると、なんとかしろ、ということだろう。

 

「あ、あの、私の恋愛なんですが……」

 

 ノアちゃん、とディアナがにっこりと微笑んだ。

 

「いまいいとこやねん。ノアちゃんも当然聞くやろ? ほら、ペルちゃんさっさと言い~や。ここには女しかおらんねん」

 

 ハルキ、ハルキがいます! ガンぎまった目であなたを見ております!

 

 ペルテテーはこの異様さにまったく気づいていないのか、胸の前で指先同士をつついていた。

 

「え、そのぉ、まずベッドの前で軽くちゅーしてぇ」

 

 いまとてつもない実況が始まっているのではなかろうか。袖を掴む力が更に強まった。買ったばかりの服が伸びてしまう。

 

「ええねぇ、濡れ場の始まりや!」

 

 ごつごつ、と足を蹴られる。下を見る。ハルキの足だ。隣を見る。銀髪の隙間から見える目はもはや悪魔だった。

 

「そのね、れぇってしたらね、れぇって返されて、私の足が崩れそうになってね!」

 

 これはきっと聞いてはいけない話だ。耳を塞ごう。無理だ。右手が動かせない。ハルキの表情は既に死期を悟った老人のような表情をしている。

 

 神よ、あまねく生命を救いし神よ、どうか、どうか我らをお救い下さい。この無慈悲なる言葉の暴力から、我らをお守りください。

 

「ハルキがね! もう、私の腰を持ってベッドに押し倒してねっ!」

 

 神はいない。いま悟った。この部屋には神はいないのだ。きっと、一生不在だ。

 

「そしたらね! そしたらね! 今日は僕が攻める番だって言ってね! もうね、すっごいの!」

 

 ああ、今日も空が青い。みりっ、と右の袖から異音がした。気にするのはやめよう。あとで縫えば問題ない。

 

「ハルキの舌が入ってきてね! いっぱい舐められちゃってね! 幸せで頭がぼーっとしたったの!」

 

 びくん、とハルキが小さく跳ねる。やがて、袖から手が離れた。きっと彼は召されてしまったのだ。なんて悲劇だ。

 

 ここで逃げるのが正解なのかもしれない。でもそれは、ハルキを見捨てることになる。自分を救ってくれた人を、どんな形であれ救いを求めてきた人を、このまま放置することなど到底できない。ノアの信仰心がそれを許しはしない。

 

 目の前の女性二人は止まらない。言葉で止まるという領域から遠ざかっている。方法はただひとつだ。

 

「わ、ワタシ! は、ハルキ様とでぇとしてきますッ!」

 

 たぶん、この場で一番言ってはいけない言葉を吐いてしまった。加えて、死人同然のハルキの腕を引っ張り、あろうことか玄関へ向かって全力ダッシュしてしまった。

 

 気づけばマンションからだいぶ離れた区画にまで来てしまった。隣のハルキは肩で息をしながらも、どうやら意識は戻っているようだ。

 

「すまない、助かった。本当に、本当に助かった……」

 

「あの、その、出るときにとんでもないことを口走ってしまった気がするのです……」

 

「遠い意識の底で聞こえていたよ。僕とデートするって言ってたね」

 

 絶句した。人の目がなければその場で四つん這いになっていたところだ。

 

「え、あの……ワタシ、死?」

 

「僕はいまだに本気になったペルテテーを知らないんだ。無傷で説得できるかな……」

 

「ど、どんな魔法を……?」

 

「炎と氷だね。しかも遠距離から的確に狙って爆裂魔法を撃ってくる。普段はだいぶ威力を制御しているみたいだけど、カテゴリー三なら一撃だ。視界に入ったら死ぬよ」

 

「に、逃げましょう!」

 

「ペルテテーは基本、氷魔法をあまり使わないんだ。あれ……なんでだろうね。嫌な予感しかしないよ」

 

 ああ、とハルキが乾笑いを浮かべた。

 

「あの火力で下手に氷と接触させたら水蒸気爆発するからか。なんとも、笑えないね」

 

 恐ろしい事実だ。

 

「街の区画ごと爆破されます!」

 

「手足のひとつでも残ってたら幸いだね」

 

 そんな幸いなどあってたまるものか。

 

「ど、どうにかなりませんか? その、スマホで事前に連絡とか!」

 

 ハルキが思い出したようにポケットからスマホを取り出し、表情が固まった。

 

「あの……もし?」

 

 無言でハルキが画面を差し出してくる。見た瞬間、すべてを後悔した。

 

 ――不在着信、五十件超。

 

 ――メッセージの内容「どこ?」「電話出て」

 

 文字通り背筋が凍った。

 

 ハルキが震える手で電話を掛ける。

 

「やあ、ペルテテー。誤解を解き――待ってくれ! 落ち着くんだ! ノアは悪くない! どちらかというと悪いのは君らの――いえ、なんでもないよ。うん、悪いのは僕だ。そうとも、僕が悪い」

 

 ハルキの顔が引きつっている。

 

「待つんだ。その、今日の夜は予定がある気がするんだ。たぶん、きっと、オライオンとの大事な話があったような気が……え? あはは、ペルテテーを優先するに決まってるじゃないか。もちろんだとも。オライオンとの約束は破棄だ。うん? ゴム? それはなんの話だい? え? コンビニで売ってる? 分かった、買えばいいんだね?」

 

 ハルキの困惑が深まる。

 

「え? いらない? どっちなんだい? ディアナの声がうるさくて聞こえないんだ。うん? 買わなくていい? 分かった、そうするよ」

 

 電話を終えたハルキが首を傾げている。

 

「ノア、知ってたら教えてほしい。ディアナがゴムを買えと叫んでいて、ペルテテーは買うなって言ってたんだ。どういうことか分かるかい?」

 

「ゴム手袋の話ですか? 強い洗剤を使うときはあった方が良いと思いますが……」

 

「あの二人、夜に使うか使わないかで揉めてたんだ。ディアナは抜け駆けするなって言っていて、ペルテテーは今日しかないって言ってたんだ。ゴム手袋って何に使うんだろうか……。風船?」

 

 ふいに、ノアのスマホに通知が来る。ペルテテーが社員全員が見れる場所でチャットをしていた。内容を見てもよく分からない。

 

「ペルテテーさんが、今夜は自分の部屋に絶対近づくなと皆に送っています。もしかして、お説教でしょうか?」

 

 さらにチャットが追加される。師とナーガだ。

 

「ナーガよ、今夜は付き合うがよい。酒を飲みに行こうぞ」

 

「はいよぉ」

 

「ノアよ、今夜は部屋から出ぬことだ。トイレは、可能な限り我慢するがよい」

 

 意味が分からない。

 

 今度はディアナのチャットが投稿される。

 

「オライオンくん、うちらもしよ!」

 

 直後、ディアナがチャットルームから削除された。権限を持つオライオンの仕業だろう。

 

「俺は今日夜予定ができた。留守にするからあとは頼んだノア」

 

 代表からなにかを頼まれている。一体何をすればよいのだろう?

 

 今度は女子のみのトーク部屋でチャットが打たれる。

 

「あんたら、絶対今日邪魔するんじゃないよ? 邪魔したら、分かってるね? 特にディアナ」

 

「分かりましたぁ! 部屋で寝てますぅ!」

 

 ペルテテーの宣言に、ディアナの回答。師は黙したままだった。

 

 とりあえず、ノアはこう返事をした。

 

「ゴム手袋は買わなくて大丈夫ですか?」

 

「いらない。買わなくていい。ゴムの存在は忘れて。今日の私とハルキの間に邪魔なものはいらない。それに今日は安全日」

 

 返事は速攻だった。とにかく、ゴム手袋は忘れようと深く誓った。

 

 ディアナの返事が続く。

 

「阿呆! できたらどうすんねん! うちが持ってるやつ渡すからせめて使えや!」

 

「できてもいいの! できたらハルキと相談する! それに鬼種はできにくいの! 以上!」

 

「ほれ、病気とかいろいろあるやろ!」

 

「なに? ハルキが病気持ちっていいたいの? 殺すよ」

 

「黙りますぅ!」

 

 ノアはそっとトーク画面を閉じた。内容は分からないが、結論が物騒であることは理解できたからだ。

 

 ハルキは顎に指を添えて考え事をしているが、どうも煮え切らない様子だ。

 

「ノア、ひとまず僕らの安全は確保された。帰ろうか」

 

「あの、簡易トイレを買った方がよいのでしょうか?」

 

「さすがにトイレくらい普通に行けばいいと思うよ」

 

 とりあえず、とハルキは続けた。

 

「ケーキを買っていこう。こういうのはまず手土産を出すのが大事だ」

 

「そうですね。今回は私に出させてください」

 

「頼むよ。いつもの喫茶店に行こう。ちょっと裏路地を歩けばすぐそこさ」

 

 喫茶店へ向かう途中、ノアの目に再び白いバスが現れた。笑顔を孤児たちへ向ける大人の男性が、菓子を配っていた。

 

「ノア、昨日君が見たといったのはあれかい?」

 

「はい、そうです」

 

 すぅ、とハルキの目が細くなっていく。

 

「あればたぶん、マフィアが孤児を攫っている場面だ。要は人身売買に使う商品の仕入れ作業ってところだね」

 

 ノアの手が自然と背に向かう。魔杖弓は――ない。上着の内側に手を入れて――ハルキに止められた。

 

「拳銃は出さない方がいい。出したら撃たれる」

 

「ではどうすれば!」

 

「この街ではよくあることだ。すべてに手を出せるだけの力を僕らは持っていない」

 

「あれは神の奇跡などではありません。濃縮した人の悪意です! これを前にして、動かない理由などありません!」

 

 ハルキはノアの言葉を受けて少し困った表情をして、ややあって穏やかに笑った。

 

「なに、ドンパチやるだけが正義じゃないさ。まあここで見てなよ」

 

 ハルキが大人たちに近づく。孤児は全員バスに乗り込んだところだった。

 

「やあ、児童福祉の人たちかな?」

 

 白い帽子を被った一人が、ハルキに顔を向けた。

 

「ええ、市の政策で孤児たちを回収しておりましてね。孤児院に集める活動をしているのですよ」

 

「なるほど、それはとても良い仕事だ。大変だね。一市民として気になるのだけれど、どれくらいの孤児が助かるのかな?」

 

 男がにこやかに答える。

 

「約百名ほどが今回の対象だと聞いております」

 

「なるほど、忙しいところ悪いんだけど、いくつか質問しても?」

 

「もちろんです」

 

「あなた方の団体名が知りたいな。僕もぜひ寄付をしたいんだ」

 

 男の声がつまる。

 

「えっと……」

 

「ああ、ついでに許可証もいいかな? 市が発行していると思うんだ。見せてもらえるかい?」

 

「あの、我々は福祉団体の下請けでして」

 

「そうなんだ。じゃあ下請け会社の名前を聞いても? バイトでも会社名くらいは分かるよね?」

 

 おい、ともう一人の男が帽子の男を呼ぶ。

 

「すみません、ちょっと時間がないものでして。これくらいにしていただけると……」

 

「一応ね、車のナンバーと君らの顔は動画で押さえてるんだ。ついでに録音もしている。これでも僕、警察にコネがあるんだ。逃げ切れるかな?」

 

 男二人が固まる。ノアはそれをハラハラしながら見ていることしかできない。ハルキの右手が腰に回る。魔杖短剣の柄をやわく握った。

 

「こう見えても僕、奈落探索者なんだ。あまり暴力行為はしたくないんだけど。どうだろう、この場は孤児を下ろすことで解散できないかな?」

 

 男たちが拳銃を抜いた。ハルキはため息する。

 

「結局こうなるか。マフィア相手に交渉ってのはやっぱり無理筋だね」

 

 拳銃の引き金が引かれる。ノアは目を剥いてハルキへ駆け寄る。だが、銀髪の青年は身じろぎひとつしなかった。

 

「魔法障壁って奴さ。ある程度の領域に至った奈落探索者に銃なんか効かないよ」

 

 ハルキの眼前に、薄い白の壁ができていた。あれが魔法障壁? 魔力が微塵も感じられない。あれは、一体……。

 

 そのとき、紫が空から降って来た。

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