幕開け
北海道日高町。
なだらかな丘陵地がどこまでも続くこの町は、サラブレッドの生産が盛んな馬産地として知られており、競走馬を引退した引退馬を繋養する牧場も多数存在し、観光地としても有名な地域だ。
そしてとある生産牧場では今この瞬間にも新しい生命が生まれようとしていた。
「よ〜しよ〜し!大丈夫だ!大丈夫だからな!」
「そのまま!そのまま!」
「大丈夫だ!頑張れ!ブラン!」
励ましの声を掛けながら、職員はブランと呼ばれた、横たわっているある1頭の馬に寄り添っていた。ブランと呼ばれた馬のお腹は大きく膨らんでおり、苦しい声を出しながらも我が子を産もうと必死に耐えていた。
「脚は、脚見えるか!?」
「まだです!」
破水してから30分以上は経っただろうか。馬の出産は1時間ほど掛かる場合もあるが、今現在も仔馬の脚が見えてこない。見えないということは逆子の可能性があると見るべきだろうか。誰がどう見ても難産と判断するこの事態。この状態が続いて仕舞えば母子共に非常に危険だ。仔馬も死ぬし、母馬も死んでしまう。
「獣医師呼んで来い!獣医師!」
「はい、すぐに!」
職員の1人が慌ただしく駆け出して行ったのを見送り、再びブランへと視線を移す。依然として苦しい声を出し続けているブランの体をさすり続ける。仔馬の脚は未だに見えてこない。
もどかしい気持ちが心中を支配し、最悪のシナリオが脳裏を
「あっ!脚出ました!脚出て来ました!」
「ようやくか!おーい、脚が見えたぞ!」
職員達が見守る中でぬるりと濡れた白い塊が姿を見せた。これで一先ず最悪の事態は回避できるだろう。しかしまだ油断はできない。ようやく姿を見せた脚が後脚であれば、難産になることが確定する。すぐに獣医師の処置が必要になる。
「後脚……ですかね?」
「確認せんことには分からん。逆子じゃないことを祈ろう」
若手の職員の言葉に対してそう言い切ると見えた仔馬の脚の確認に身を乗り出した。それと同時に「先生、お願いします!」という叫び声と共に獣医師を呼びに行った職員が戻って来た。手袋を身に付けた獣医師がブランの傍へとすぐさま駆け寄り、ガソゴソと状態を確認した。
「……大丈夫ですね。逆子ではないかと」
「なら予定通りこのまま出産しよう。よし、そっち持ってくれ!」
逆子でないと分かればもう大丈夫だ。馬房に安堵した空気感が漏れるが、悠長にはできない。既に通常よりも大幅に時間が経過している。逸早く仔馬を取り上げなければ仔馬が窒息死してしまう。
「よし、あと少しの辛抱だ!頑張れ、ブラン!」
鼻息を荒くし、首を振り乱すブラン。我が子を外に出そうと必死だった。少しずつだが仔馬の体が見え始め、遂に顔を出した。そしてブランがイキむと同時に「せーの!」という掛け声と共に職員は仔馬を引っ張り出した。
ずるりと仔馬の体が外に滑り出し、藁の上に力なく横たわった。すぐさま仔馬を覆っていた羊膜を払って気道を確保。次に心拍と呼吸の確認に移った。
「心拍大丈夫。呼吸も……大丈夫です」
ほっ、と馬房の中で職員達は安堵の息を吐いた。
「産まれました……ね」
「あぁ、一時はどうなるかと思ったが……いや〜、よかったよかった」
無事に産まれたことに安堵する職員達。痛みに耐え続けて難産に苦しんだブランも疲弊こそしているものの、体調に概ね問題はなかった。今も産み落とした我が子に向けて愛おしそうに首を伸ばし、仔馬の濡れた体を舐め始めていた。
新たに仔馬が産まれたことは大変喜ばしいことだ。しかし無事に産まれたからといって、やることはまだまだたくさんある。一先ず濡れた体を拭いてあげねば寒さで体温を奪われてようやく産まれてきた仔馬が死んでしまう。
用意しておいた清潔なタオルで拭い、水分を取ることに努めた。ここで必要以上に人間側が手助けしてしまえば、母馬が育児放棄する可能性もあるのでやりすぎてはいけない。
「あとは……立つかだな」
「無事に立てればいいんですけどね」
「とりあえず見守るしかないだろ。早ければ1時間くらいで立つはずだ」
起立補助は場合によっては必要だが、自力で起き上がってもらわなくてはならない。産まれたての仔馬に最初に立ちはだかる最初の試練と言えるだろうか。
出産後は仔馬が自力で立ち上がり、母馬の初乳を飲むまでが鉄則だ。初乳を飲むまでは生後から大凡2時間ほどの時間がかかるという。それ以上の時間がかかる場合もあるが、その要因としては脚が外向しているか、もしくは脳などに何らかの問題を抱えていることが考えられるが、先程確認した限りでは脚に問題を抱えてはいなかった。特に大きな問題もなければ順序良く初乳を呑めるはずだ。
それから待つこと20分。藁の上で横になっていた仔馬はもぞもぞと不格好ながら脚を動かして立ち上がり、何度か馬房の壁にぶつかるも、職員達が見守る中でふらつきながら立ち上がった。
「おいおいおい、20分で立っちまったぞ!」
「だ、だいぶ早かったですね!」
職員達は驚愕の声を上げた。今までの経験からここまで早く立ち上がったのは初めてだったからだ。
仔馬を乳の所まで尻目に件の仔馬はごくごくと初乳を飲んでいる。未だに知る由もないが、後の日本競馬を大いに賑わせ、数々の大記録を樹立する馬になるとはこの時誰も予期していなかった。
突然目が覚めたら馬となっていた。一体何を言ってるんだっと思うだろう?安心しろ。そんなものこっちが聞きたいくらいだ。
事のあらましを話そう。私は元々普通の生活を送っていた。何処にでも居るような一般人にすぎなかった。会社で仕事を熟し、趣味に没頭し、食べて寝て……そんな当たり障りのない生活を送っていたはずだ。記憶が曖昧でどのように私の人生は幕を閉じたのかは分からないが、人間としての私は死に、馬として転生したことだけは確かだった。
あの感覚は間違いなかった。ふと瞬間に意識が覚醒したと思ったら今までと違う体の感覚に違和感を覚えたと思ったら周りは生暖かい水で覆われていて思考が停止した。そして状況を整理する暇もなく、体がぐいぐいと押された。光を感じるので外に出されたと思ったが今度は誰かに体を舐めらたり、拭かれたりしているうちに目がようやく慣れて来て目を開けたら、藁の上に寝そべっていてすぐ隣に巨体な何かが佇んでいた。
それが馬であり、今世の自分の母親であると気付くのにそれ程時間はかからなかった。まさか馬に転生するとは夢にも思わなかった。
状況を飲み込めず、混乱を拭えなかったが、体は正直だったので事はとんとん拍子に進んだ。ささっと立ち上がるとふらついて時々壁にぶつかりながらも母乳を飲んでいた。意外な順応の早さに驚いたが、その時はされるがままであった。
それから暫くして、私は母親と一緒に放牧地を歩き回っていた。最初こそ戸惑いの部分が多かったが、今はもう慣れてしまった。動物に生まれ変わったことで私の感覚ももしかしたら変わったのかもしれない。
「ブランも元気に回復してよかったですね」
「全くだ。産まれて早々母親と死別にならなくて本当によかった。それでは仔馬が可哀想だ」
「あれ以来ブランにも特に問題はなかったんですよね?」
「あぁ、疲弊はしてたが身体に問題はなかった。疾患を患っていた訳でもないからな。しっかりと休ませてケアしてやれば順調に回復したよ」
柵越しだが、彼らの話を聞く限りでは私の出産は酷く難産であったそうだ。私にその記憶はないが、母親が死ななくてよかったと思う。生まれて最初に目にするのが母親の死体だったらかなりのトラウマものだ。本当に生きててよかったと思う。
さて、振り返りはここまでにして今後の事を考えなくては。
場所は日本で確定。年代は恐らく2014年。まぁ、ここら辺はいい。支障がないとは言わんが、仮に戦時中に生まれたとしても馬である時点でできることなどほとんどない。今後の方針としてだが、恐らく私はサラブレッドだ。つまり余程のことがない限り競走馬として生活することになるだろう。
そうなると一番気を付けるべきは怪我だ。骨折して安楽死、というネット記事を前世に見た記憶がある。サラブレッドは身体の構造上そこまで頑丈ではないので病気や怪我が多く、特に脚元が弱いのだという。そうなると暫くの目標は頑丈な身体作りでいいだろう。
取り敢えずは食べて走って寝る、これを繰り返して頑丈な身体を作るしかない。だから平時はいつも時間の許す限りは走り続けている。
とにかく今は身体作りだけに集中しよう。サラブレッドが経済動物である以上、結果を残せなかったら待ち受けているのは殺処分だ。流石にそんな末路は御免被る。レースで勝てなくてもいいので、せめて入着して賞金を稼げる様にはなりたいものだ。
「今日も元気に走っていますね」
「あぁ、仔馬の平均と比べて体が大きいからな。体力が多いのかも知れん。おまけに尾花栗毛で見た目もいい。競走馬として駄目でも誘導馬としてやっていけるはずだ」
「ですかね〜?僕としてはやっぱり競走馬として活躍して欲しいけど。なんたって父親はあのテイエムオペラオーなんですから。姿もそっくりですよ。毛色なんて鬣を除けばほぼ父親と一緒じゃないですか」
「そりゃ夢があるが、オペラオーは種牡馬としては失敗だったろ?新馬戦、もしくは未勝利戦を勝てれば良い方だろうよ」
何だと?
……サラブレッドとして生まれた以上、血統は最も重要視される。私の母親と交配された種牡馬がどの馬だったのかはずっと疑問に思っていたが……まさか彼の
こうして父の名を聞かせられ、私の馬生は幕を開けた。
生年月日:2014年2月23日
馬名:未定
父:テイエムオペラオー
母:ブランベラルーシ(オリジナル)
母父:ホワイトマズル