短いと思うけど許して。
幕間:16年前の相棒
1月の北海道というのは寒い。マイナスまで下がるのは日常茶飯事で、工夫を凝らさなければ家の中が凍り付く。本州よりも多く雪が降り、人の背丈ほどの雪が積もるのは恒例行事だ。今の時期ならば一部の動物はもう冬眠してしまっている。されども馬達はこんな厳しい北の大地で元気に走り回ってのびのびと過ごしていることだろう。
ここはそんな数ある牧場の一つで、多くの種牡馬達が繋養されている。時に数十億円の価値を持つ彼らは丁重に扱われており、一般には公開されていない。許可を得た一部の関係者のみがその情報を知ることが可能だった。正月休みを利用して、訪れた倭達も許可を得たそんな一人だった。
白い息を吐きながら、訪れた牧場には倭達の嘗ての相棒──テイエムオペラオーが繋養されている。相棒と言うが、実際に倭達がしてあげられたことはあまり多くはなかった。
倭達の心中は非常に複雑だった。唯一無二の相棒であったテイエムオペラオーが引退してからは早くも16年の時が経っていた。16年というのは思っていたよりも短くて、自分を売り込んで、腕を磨き続けれていればあっという間に時間が過ぎてしまった。しかし16年の時を経ても色褪せることなく倭達の脳裏に焼き付いている。
楽しかったし、もどかしかった。時には憤りも感じた。栄光を同時に浴び、自身の未熟さにも気付かされた。年間無敗、歴代最多GI勝利数、世界最高獲得賞金と数々の大記録を樹立した。長い競馬史の中でもこれ程の馬はお目にかかれない強さを持ったテイエムオペラオーを受け止められるほどの技術や力量は自分は持ち合わせていなかった。自らのミスで勝てるレースを何個も取りこぼし、衰えてしまったテイエムオペラオーにあと一歩の踏ん張りを利かせる技術が無くて、対策の上へ行く経験が無かった。
栄誉もタイトルも貰って、多くのことを教えられて、結局引退するまで一つも返せず、ただ背に乗り続けただけになってしまった。たくさんのGIを共に制した喜びよりも、自分の力で勝たせることができなかったという事実が大きな後悔として残ってしまった。貰い続けた事実と勝たせられなかった自分に悔しさを抱き、何度も涙を流したが、彼の引退式で、次に会う時はGIに勝って一人前の騎手になると誓って何年も会わなかった。
そしてどうにか今日、やっとそれに区切りを付けて会いに来ることができた。
牧場の事務所を訪ね、職員に身分証を提示して来訪理由を話せばすんなりと入場することはできた。事前に連絡していたおかげでスムーズに事は運んだ。
厩務員に案内され、放牧地へ足を運べば、件の馬はすぐに見付かった。明るい栗毛に額には小さな乱星、16年前と変わらぬ若々しい姿のままで、GI7勝馬とは思えぬのほほんとしながら過ごしていた。再び跨ってみたい気持ちが込み上げて来るが、相棒は既に20歳を超えている高齢馬だ。負担はかけられない。
「……久しぶりだな、オペラオー。まだ、僕のことは覚えてくれているかい?」
テイエムオペラオーは嘗ての相棒を見付ければ、ゆっくりとした足取りでこちらに近寄り、返事の代わりに牧柵から顔を出して倭達の顔に摺り寄せた。
「最近ようやくGIを勝てたんだ。時間はかかったけど、お前にやっと会いに来れたよ」
倭達は語り掛けるように静かな口調で話し始めた。しかし平静を装っているが、その節々から喜びが溢れているのが読み取れた。
「テイエムベルレクスっていう、お前に似た栗毛の馬に乗って朝日杯を勝ったんだ。この子の愛称はランって言ってな、昔からずっとよく走るからランって呼ばれてるんだってさ」
嘗ての相棒の側で寄り添いながら、倭達はこれまで話したかったことを色々と口にする。馬と人間は会話不可能だが、それでも口にせずにはいられない。
「お前みたいに賢くて、速くて、凄く強かった。まだ4戦だけだけど、一度も負けてないんだ。スタミナも凄くてさ、2歳馬とは思えない程タフなんだ。長距離が得意のはずなのに、マイルのGIレースを勝っちゃったんだよ」
これまでの出来事を一つ一つ思い出しながら、倭達は語る。久しぶりに会えた相棒であり、戦友でもあるオペラオーに話したくて堪らなかった。
「本当にお前と瓜二つだったよ。アイツは尾花栗毛だけど、雰囲気と風格はお前そっくりだった。流石お前の息子だって思ったよ。2歳馬にしては馬体も凄く良いし、調教やレースに対してもとにかく真面目でさ、ずっと一生懸命なんだ。とことんお前に似た馬だよ。あっ、でもお前と違って先頭に立ってもソラは使わないからそこが大きな違いかもな」
冗談めかしてそういう風に倭達が言えば、気を悪くしたのか耳を伏せてしまう。それに対して「ごめんごめん」と苦笑しながら謝罪した。
「お互い歳を取ったよな。僕は結婚して、子供も生まれて、お前の子供もたくさん走ってるんだ。でもお前程強い馬はいなかったよ。でもそれも当然だよな。結局お前が一番強いんだからな」
くつくつと笑えば、オペラオーもそれに合わせて何処か楽しそうに嘶いた。自分はとっくに40歳を超えているというのに、まだまだ青かったあの時の青年時代に戻ったかのようだ。
「二度とお前のような馬は見れないと思ってたんだ。でも居たんだよ、お前を見てくれてた先生の下にさ。おまけに馬主も同じ嶺苑さんだったんだ。威風堂々としていて、初めてあった僕にも物怖じしなかったんだよ。色々と似ていたんだ……不思議だよな、アイツとお前は違うっていうのに、初めて見た時にランの姿とオペラオーの姿が重なって見えたんだ」
次にそう切り出せば、オペラオーは興味深そうに倭達の顔を眺め始める。
「お前の鬣は金色じゃないし、額に流星はない、なのにお前の姿を幻視した。……お前は分からないだろうけどさ、もしかしたらアイツがオペラオーの後継者なんじゃないかって、勝手に運命を感じた。伊和本先生にさ、『乗ってみるか?』って言われて本当に嬉しかったんだ。年甲斐になくはしゃいじゃってさ、実際に乗ってみたらまるでオペラオーに乗ってみてるみたいで、楽しかったんだよ」
倭達は目を細めながらオペラオーに向けて語り、その頭を撫でた。倭達の手付きにオペラオーは気持ちよさそうに目を細めて喉を鳴らした。
「ランと一緒なら、オペラオーと一緒に行けなかったところまで行ける気がするんだ。常識を覆して、不朽の記録を打ち立ててみせるさ。お前が作った、お前なら作れたはずの記録を、ランだったら絶対に作れる。僕が絶対に勝たせる!一度も負けさせない!だから……見守ってくれるかい?」
宣言とも呼べる倭達の叫びに、オペラオーは無反応だ。しかし、オペラオーは力強い仕草で倭達の胸をぐいぐいと押した。まるで「行ってこい」と言っているように。それを受け、倭達は笑みを溢した。
「……騎手としてはまだまだだけどさ、有馬の時、お前からは諦めないことを教えられた。これからも、勝つことを諦めずに馬に乗り続けるよ」
倭達は「また来るよ」と短く告げて牧場を後にした。春にはいよいよクラシック戦線が幕を開ける。嘗ての相棒の前で「負けさせない」と啖呵切ったのだ。最早小さなミスも油断も半端な騎乗も許されない。
背負ったのはテイエムオペラオーへの誓いであり、テイエムベルレクスへの責任だ。重たいプレッシャーが伸し掛かるが、倭達は手綱を握る感覚を確かめるように拳を固めた。その足取りに迷いはなかった。