5月28日、東京競馬場。
今日の東京競馬場には長蛇の列ができ、観客達が開門を今か今かと待ち構えていた。まだ朝だというのに、すでに場内は熱気に包まれつつある。それは誰もがこの日を特別なものとして理解しているからだ。
東京優駿──またの名を日本ダービー。
副称として付けられたこのダービーの名はイギリスのクラシック競走、ダービーステークスにまで遡る。創始者のダービー伯爵を由来に持つこのレースは、最も格式の高いレースとして施工されている。それは日本でも変わらず、歴史と格式のある旧八大競走*1の中でもトップクラスの存在として認知されており、競馬ファン以外の国民全般だけでなく国際的にも知名度は非常に高い。
クラシックの第二戦を担う3歳馬の頂点を決める舞台。一生に一度の晴れ舞台であり、全てのホースマンが夢見る最も誉れ高いレースである。
そんな日本ダービーの格言は『最も運のある馬が勝つ』が有名だ。これは原典となったイギリスのダービーステークスに対して言われていたものであるが、過去には20頭以上の頭数で開催されていたので、枠番によっては走行距離に極端な差が生まれてしまうことからそれに関して言及するための言葉でもあった。
「ダービーもやっぱりベルレクスが勝つかな?」
「だが、青葉賞*2を勝ったアドミラブルも熱いぞ」
「レイデオロもいいぞ。前走はぶっつけ本番ながら、上がり3ハロンはベルレクスよりも速いぞ」
スタンドにて口々に交わされる予想。各々で予想馬を挙げて、レースの展開を予想するが、どの会話にも必ずテイエムベルレクスの名が挙げられた。
テイエムベルレクスは前走の皐月賞を制して無敗の皐月賞馬に輝いた。父テイエムオペラオーとの親子制覇を達成し、今回のダービーは父が惜敗した雪辱を果たして無敗での二冠が期待されている。ダービーを制すれば史上8頭目の三冠制覇に王手がかかり、しかもシンボリルドルフとディープインパクトの2頭しか成し遂げていない無敗の三冠制覇が現実味を帯びてくる。
そんな期待を背負ってか、テイエムベルレクスは単勝1.2倍の圧倒的な1番人気に支持されていた。しかし無敗での二冠制覇に待ったをかけようと強力なライバル達も多数出走している。
まずは2番人気のアドミラブル。ダービーのトライアルレースである青葉賞をミゲル・デオドール騎手の手腕によって2馬身差で完勝。自身の重賞初制覇を飾り、勝ちタイムの2分23秒6はレースレコードという文句無しの結果である。末脚もメンバー中上がり最速を繰り出しており、抜きん出た実力を発揮している。
次に3番人気のレイデオロ。無傷の3連勝で2歳重賞のホープフルステークスを制し、クラシックの有力候補へ名乗りを上げた。ホープフルステークス後はソエを発症し、疲労が回復せずに前哨戦を使わずに直接皐月賞へ挑んだが、テイエムベルレクスの前に6着と敗北。初黒星となったが、上がり最速はメンバー中で2番目と速く、勝ち馬のテイエムベルレクスを上回っていたことから高い評価を得ていた。特にレイデオロはソウルスターリング、サトノアレスらと同じ不二澤厩舎の馬であり、GIの舞台で辛酸を舐めさせられたテイエムベルレクスへのリベンジに燃えている。
その次に共同通信杯を勝利したスワーヴリチャード、毎日杯を制し、レコードタイムで駆け抜けた皐月賞2着馬のアルアインが支持されていた。
無敗のままダービーを制して二冠目を戴くのか、はたまた別の馬がダービーの栄誉を戴いてテイエムベルレクスに初黒星を付けるのか。
その答えを知る者は、まだ誰もいない。
だが、そう遠くないうちに決着はつく。
誰が世代の頂点であるのか──その答えは、まもなくこの東京競馬場で示されるのだから。
《1番、ダンビュライト。前走敗れた皐月賞の雪辱を果たそうと竹裕騎手と共に引き続き、コンビ継続で挑みます。8番人気です》
《2番、アメリカズカップ、きさらぎ賞の勝ち馬。デビューからコンビを組む松若楓間騎手とダービーを目指します。13番人気です》
《3番、マイスタイル。弥生賞では3着と逃げ粘り、前走の皐月賞を巻き返しを狙います。善木山憲紘騎手の手腕炸裂となるか。15番人気です》
《4番、スワーヴリチャード。皐月賞ではテイエムベルレクスに屈しましたが、一度重賞を制したこの東京の舞台で、志井寛史騎手と共にリベンジなるか。4番人気です》
《5番、クリンチャー。本日10番人気での出走。皐月のリベンジ、藤丘雄輔騎手と共にダービーを目指します》
《6番、サトノアーサー。きさらぎ賞、毎日杯共に2着、重賞初制覇はGIの舞台で。父を思わせる豪脚の持ち主はここ東京競馬場で炸裂するのか。河大夕雅騎手と共に挑みます。6番人気です》
《7番、アルアイン。前走は惜しくも2着と敗退。しかし自身もレコードタイムと実力を見せました。末山康丙騎手と共にテイエムベルレクスへリベンジなるか。5番人気です》
《8番、テイエムベルレクス。前走の皐月賞をレコードタイムで駆け抜けた走りはまだ記憶に新しいです。父が敗れたダービーを、父が忘れたダービーを、嘗ての父の相棒、倭達龍司騎手を背に二冠目の獲得を目指します。1番人気の期待に応えられるか》
《9番、トラスト。毎日杯以来のコンビ復活、
《10番、マイネルスフェーン。未だ重賞未勝利でありますが、重賞では2着、3着と健闘しております。前走敗れた青葉賞から巻き返して世代の頂点に登り詰められるか。鞍上は芝多帝智騎手が務めます。18番人気です》
《11番、ベストアプローチ。前走の青葉賞は惜しくも2着と敗退。しかし内容は決して悪くはありません。鞍上の巌立泰成騎手とはコンビ二戦目になります。本日12番人気です》
《12番、ペルシアンナイト。初コンビに迎えましたのは十咲京汰騎手。皐月賞は3着と実績、実力共に十分。ダービーにて巻き返しを図ります。7番人気です》
《13番、レイデオロ。デビューから一貫してクリストファー・ローメル騎手が手綱を握ってきました。前走の皐月賞は6着と敗れましたが、上がり最速はメンバー中2番目の速さで実力は証明済みです。皐月の無念をダービーで晴らせるのか、本日3番人気です》
《14番、カデナ。前走皐月賞では一歩届かずの結果に終わりましたが、実力は決して劣りません。このダービーで冨久長悠逸騎手と共にテイエムベルレクスへリベンジなるか。9番人気です》
《15番、ジョーストリクトリ。鞍上の裡出浩行騎手とは初コンビとなりますが、前走のNHKマイルカップからの巻き返しを狙いたいところです。18番人気です》
《16番、キョウヘイ。シンザン記念の勝ち馬。デビューからコンビを組む
《17番、ウインブライト。スプリングステークスの勝ち馬。ウィナーズサークル以来、28年ぶりの芦毛馬によるダービー制覇なるのか。
《18番、アドミラブル。前走青葉賞はレースレコードで快勝、ダービーへの切符を手に入れました。鞍上のミゲル・デオドール騎手と共にこの大舞台でその力を発揮できるのか。2番人気です》
パドックにて周回する18頭の優駿達。最有力馬は金色の鬣を靡かせる、輝く栗毛の馬体の持ち主であるテイエムベルレクス。額の流星がトレードマークである本馬はクラシックの第一冠、皐月賞を無敗で制した前年の2歳王者である。鞍上の倭達龍司を背に乗せるその姿は20世紀末に君臨したテイエムオペラオーとの情景を想起させた。
父が敗れたダービーを、その雪辱を、息子が果たすのか。
そんな物語めいた背景もあり、パドックを取り囲む観客達の視線は自然とテイエムベルレクスへと吸い寄せられていた。
既に世代最強の座を定着させつつある本馬に対して、牙を向けるのは17頭のライバル達。レースレコードで完勝したアドミラブル、敗れながらも鋭い末脚を見せたレイデオロ、皐月賞2着のリベンジに燃えるアルアイン。
それぞれ万全の仕上がりで、世代の頂点を目指してこの舞台へ送り出されてきた。
3歳馬の頂点を決める一生に一度の晴れ舞台、18頭の夢と誇りを乗せた戦いはもう間もなく始まろうとしていた。
パドックにて流れる放送を聞きながら、テイエムの勝負服に身を包む倭達は、手綱を握り締めながら過去の思い出に耽っていた。
周囲からは観客のざわめきが絶え間なく聞こえてくる。ダービー特有の熱気が、空気そのものを震わせているようであり、同じGIの舞台だというのに、その雰囲気は独特だ。
(……ダービーか)
日本ダービー、全てのホースマンが夢見る最大最高の栄誉、3歳馬達の一生に一度の晴れ舞台。師匠である伊和本一蔵も騎手時代にバンブーアトラスと共に制した大舞台だ。
倭達のダービーはオーナーの嶺苑に疑念を生み出すきっかけとなったレースとも言える。本番3番人気で迎えたレースはマークされて馬群に飲み込まれることを危惧して外へ出したが、それが結果的にテイエムオペラオーが進出する合図にもなってしまった。
最有力馬であったアドマイヤベガとナリタトップロードよりも先んじて仕掛けることになってしまったが、一度エンジンがかかってしまった以上、それを止めるのは致命的なロスとなってしまう。最早勝つためには行く以外に選択肢は無かった。
そして結果は勝ち馬のアドマイヤベガに1と1/4馬身差離された3着。馬体も成長しきっておらず、ゴールまで600mの位置からのスパートに脚は持たなかった。
今でこそ騎手として成長し、テイエムオペラオーの強さを知っているから言える。あの時は外へは出さず、ライバル2頭を見る形で直線でゴーサインを出すべきだった。テイエムオペラオーならば必ず馬群を割れたからである。
勝ちたかったし、勝たせてあげたかった。
しかし勝利の女神が微笑んだのはアドマイヤベガ。不調を乗り越えて、母仔2代のクラシック制覇を成し遂げた。ダービーの栄冠は
嘗ての光景を思い出し、倭達は小さく息を吐いた。そして徐に視線を下に落とせば鬣の揺れる栗毛の馬体が目に入る。
軽く撫でてやればそれに反応して耳をぴょこぴょこと動かしてくれる。
緊張している様子を感じさせないのは相変わらずで、不安なんて一つも見せない。変に力まず、普段通りで落ち着いている。
パドックから地下馬道を通れば、先ほどまで耳にしていた観客のざわめきと歓声は鳴りを潜め、分厚いコンクリートの壁によって遠くへ押しやられて代わりに蹄が石床を打つ乾いた音が響いた。静寂に包まれた空気の中を馬達は静かにコースへ歩いて行く。
地下馬道を歩く中、倭達は数日前の記憶を思い出していた。
ダービーの数日前、出馬表とコース図を見つめながら倭達は当日どのようにレースを進めるかを考えていた。
次の戦いの舞台となるダービーは2400m、スピードだけでなくスタミナも必要とする距離。下手な騎乗をすればそれだけで馬が潰れてしまう距離だ。テイエムベルレクスにスタミナの不安はなく、終始外を回されることになっても問題はない。しかし、テイエムベルレクスの能力を完全に引き出せるかは倭達自身の腕にかかっている。
テイエムベルレクスの強みは既に知れ渡っている。もちろん強みを活かした戦術を取りたいが、周りがそれを許すかどうかは別の話だ。何か仕掛けてくるのは容易に想像できる。
「末脚だけならランよりも速い馬が4頭も居るのか……不調気味だったレイデオロも復調しているし、アドミラブルは前哨戦だけどレースレコードで完勝。外から差されることも考慮すればいっそのことペースを取りに行った方がいいのか?」
テイエムベルレクスは切れる脚を持っているが、それ以上の末脚を持っている馬はたくさん居る。皐月賞は距離が短いということもあって完全にエンジンがかかりきる前に終わってしまったということもあるが、スピードに乗れば見劣りすることはない。しかし直線が長いといえど同じ位置からの瞬発力勝負は避けたいところだ。
「どうした倭達、明日のレースでも迷ってるのか?」
「えぇ、少しどう進めようか考えてまして」
頭を悩ませていれば見兼ねた伊和本が声をかけてきた。
「基本はいつもと変わらん戦法でいいと思うが?強みは既に知れ渡っているが、展開でどうこうできるほどのモノではないからな」
「そうですね。ハイペースになってもランには通用しませんし、スローペースになってもきちんと折り合えるので心配いりません。直線の追い比べになりますが、それなら他馬よりもずっと早めにスパートをかけるつもりです」
マイル戦だが、ハイペースのレースは既に経験している。逃げ馬を常にピッタリとマークしてハイペースな展開を無理矢理作り出した結果がレースレコードでの圧勝である。スタミナ豊富のテイエムベルレクスに消耗戦を仕掛けるのは得策とは言えない。ならばスローペースに持ち込んで脚を溜めてからの直線勝負を仕掛ける、馬群の中に閉じ込めてしまうことだが、後者はスタートの上手いテイエムベルレクスにそれを行うのは少々難易度が高い。
「一番警戒するのはアドミラブルとレイデオロ、あとはスワーヴリチャードの3頭だな。3頭とも良い脚を持っている上に、乗ってる騎手が騎手だからな。どんなに悪くても掲示板には入ってくるだろう」
伊和本が名を挙げた馬はどれも日本大手の牧場で生産された良血馬。それ故に実力は折り紙付きであり、敗れたレースでも負けてなお強しという結果を残している。展開が恵まれていればレイデオロとスワーヴリチャードは皐月賞を勝利していてもおかしくはなかった。
「ランと同じく、強みも明確なので、決め手は仕掛け位置とどれだけ欠点が少ないかと思っています。その点で言えばランの方が圧倒的に有利なんですが……」
「それは否定しないが、そうだな……では別の角度から考えてみるか」
「別の角度から、ですか?」
持っていた資料から目を離して、思わず伊和本に目を向ける。コース形態も、各馬の強みも頭には叩き込んだ。相手が勝つために取る戦法についても予想を立てている。別の角度から考えるというが、それが何なのか、倭達は当初見当がつかなかった。
「ランは私達が丹念に育ててきた馬だ。オペラオーの強みを持ち、その延長線上の能力を持っている。ランの強さはお前が一番よく分かっているだろ?」
「……そうですね。オペラオーの強さを備えて、そこに更に上乗せした感じです」
自分が主戦騎手と決定した後は、時間を見付ければとにかく乗り続けた。特徴も強みも全て把握しているし、テイエムベルレクスに限れば世界一上手く乗れるという自信がある。
「その通りだ。私達が懸念していた末脚は想像以上に仕上げられた。元々能力が高くて頻繁に坂路で鍛えていたからなのか、単純に成長が早いのか……そこまでは分からないが、立派な武器になることは弥生賞と皐月賞で証明できた」
伊和本は椅子に腰掛け、改めて出馬表を覗く。
「一筋縄にはいかない相手であることは間違いないが、どの馬が一番強いかと問われれば私は迷いなくベルレクスの名前を挙げる。傲慢のように聞こえると思うが、これは事実だ。このダービーで重要なのは作戦よりもお前がランの能力を完全に引き出せるかで決まるだろう」
「……僕がランの能力を引き出せればどんな展開でも勝てると?」
問い直す倭達に対して伊和本は体を背凭れに倒して頷いた。
「そうだ。仮に後方に居ても馬群に閉じ込められなければ恐らくは差し切れる。レイオデオロやアドミラブルらとも張り合える脚を持っている」
伊和本の予想以上の成長っぷりをテイエムベルレクスは見せてくれた。これには驚いたし、調教メニューも一部修正する必要があったが、嬉しい誤算だった。
「しかしランの最大の武器はそれではない。他馬と比べても不安要素が少ないランは多少の不利を巻き返せる。掛かりや入れ込むことがないランはレースの展開に左右されない。この強みが大きなアドバンテージだ。だからこそ、このアドバンテージを持つランだからこそできることがある」
更に伊和本は言葉を続ける。
「今のお前は相手のことを考え過ぎている。それも大事だが、自分のお手馬を蔑ろにするのはいただけない。だから考えるべきは『ランが絶対に勝てる』という競馬をする、それをやるんだ」
「絶対に勝てる競馬……」
倭達は口に手を当てて考える。自分が今考えていることが何なのかをもう一度考え直し、ある一つの結論が出た。
「なるほど、僕が考えていたのはあくまでも『絶対に負けない』競馬だったということですね?」
「そういうことだ。ダービーは最悪な一手さえ選ばなければいい。選んだ手が仮に最善手じゃなくても構わん。お前が選んだ選択に対して、ランは必ず応えてくれる」
伊和本は断言した。その声色は確信に満ちており、自信に溢れている。
「展開に左右されない、だからこそ必要以上に読み合いに囚われるな。やることはお前達にとってベストパフォーマンスを見せることだ。自分達の競馬に徹すればいい」
「……分かりました。やりたいようにやってみます」
「それでいい。
伊和本が言った「思うようにやってみろ」というアドバイス。このアドバイスに倭達は再び頭を悩ませることになった。
テイエムベルレクスは間違いなく良い馬である。
素人が乗っても勝ててしまうのではないかと思わせるほどに完成度が高く、扱いやすい。操縦性に優れ、気性も落ち着いており、騎手の指示を正確に理解して動ける。我慢強く、距離適性の幅も広い理想的な競走馬だった。
利口で、我慢強い。騎手の指示を待つことができる。
(ランはあまり自己主張するタイプじゃない。それでも気分が良いとスピードを上げるし、自分からも行こうともする。決して自己主張をしないわけでもない)
調教で何度も感じてきた感覚を倭達は思い返す。
テイエムベルレクスはただ従うだけの馬ではない。基本は従順だが、時には前へ進むことを自分から選ぶ瞬間がある。
(結局はランが一番走りやすい形で走らせる、これが勝てる競馬なんだろう。単純だけど一番難しいことだ)
馬と騎手のそりが合わずに惨敗することはよくあることだ。馬には馬のリズムと当たり前だが得手不得手がある。騎手にも勝たせるためのプランがあり、終いにはお互いのやりたいことが噛み合わずに終わるのだ。
(レースはランだけを意識すればいい。自然体のままで、ランのリズムに合わせる)
そう倭達が考えた時、地下馬道を抜け、一気に視界が広がった。ターフへ姿を出せば、再びスタンドを埋め尽くす観客から大歓声が上がり、場内を包んだ。
(皆、ランを見に来てくれてる。皆、期待してくれてる)
スタンドの方へ振り向けば、各々が口節で応援してくれていることが分かる。
(自然体のままでランのリズムに合わせて、そして勝たせる……難しいことだ)
言うは易し。
言葉で言うのは簡単だが、それをこのダービーの舞台でやり遂げるのは決して容易なことではない。同じクラシックでもダービーは最も価値のあるクラシック競走。なのでダービーのみに絞って調整してくる陣営もいる。それ故に出走してくる馬達も強力だ。
しかし倭達は自分自身を叱咤する。
(これぐらいやってみせろ、倭達龍司。でなきゃテイエムベルレクスの騎手なんて務まらない!お前は、テイエムオペラオーの唯一の相棒だっただろ!)
自然と手綱を握る手に力が籠もるが、その手をすぐに緩める。自分が緊張してしまったらそれが馬に伝わってしまうからだ。敏いテイエムベルレクスならば尚更だ。
「行こうか、ラン。勝つぞ」
テイエムベルレクスを促してコースを軽く走り、ウォーミングアップを行う。トンと軽く地面を蹴り、滑るように駆け出す。手応えは良い。
無事に返し馬を終え、ゆっくりとゲート裏へ向かう。他の馬達も続々と返し馬を済ませて集まってくる。ゲートの金属音と係員の合図、そして流れるファンファーレ。
出走の時は近い。
倭達はテイエムベルレクスの首を軽く叩いた。
「いよいよダービーだ。……勝とうな、一緒に」
テイエムベルレクスは小さく首を振ると、静かにゲートの方へ歩き出した。
《生ファンファーレ、篤とお聞きください》
スターターが上がったのを見計らい、実況の言葉を皮切りに、東京競馬場にファンファーレが響き渡る。
洗練された自衛隊の音楽隊によって一糸乱れぬファンファーレが演奏され、スタンドからの手拍子によって共に場内へ流れて行く。
《今年で第84回目を迎える日本ダービー。注目馬は前走皐月賞を制したこの馬、テイエムベルレクス。本レースの最有力候補です。そして未だに無敗。ダービーを制すれば、シンボリルドルフとディープインパクトの2頭しか成し遂げていない、無敗での三冠制覇に王手をかけます》
実況席からでも輝く栗毛の馬体はよく見える。鬣が金色という非常に華のあるその姿は何処から見ても目立つ。そしてその見た目の良さだけでなく、現時点で無敗を貫くその強さから人気を博していた。
《
《えぇ、テイエムベルレクスは言わずもがなですけど、僕的には東京コースに変わればスワーヴリチャードの巻き返しもあると思っているんですけどね。メンバーの中で数少ない東京の重賞レースを勝っていますし、安定感もありますので、可能性はあると思っています》
ダービーに出走するメンバーの中で、東京競馬場にて重賞タイトルを獲得した馬はテイエムベルレクス、アドミラブル、スワーヴリチャードの3頭。
最も注目されているのはテイエムベルレクスとそれに次ぐアドミラブルだが、スワーヴリチャードもその中の1頭だった。理由としては東京競馬場で非凡な活躍を見せる産駒を数多く輩出しているトニービン*3の血が入っていることが挙げられ、東京ではその能力を遺憾なく発揮できるだろうと期待された。
《それではヒロシさん、ん"ん"っ……失礼しました。
《そうですね、まぁ、実績を見ればベルレクスなんですが、アドミラブルはダービーと同じコースをレコードで勝っているので甲乙つけ難いですね。アドミラブルは今までが豪快なレースをしていますし、ベルレクスは凄く手堅いって感じで、やはりこの2頭が一枚上かなという気がするんですけどね》
とにかく前目の位置に付けて最後の直線で抜き去るテイエムベルレクスと差しや追い込みでレースを進め、一気に捲るアドミラブルは互いに真逆の戦法が特徴だ。しかし未だ無傷のまま連勝中のテイエムベルレクスと最後の直線だけで他馬を置き去りにするアドミラブル、この2頭のインパクトは大きい。
《崗辺さんは皐月賞2着のアルアインに対して何かありますでしょうか?》
《皐月賞では負けましたが昨年のレコードを更新しているので、実力は見せられていますね。能力に不安はありませんので、末山騎手がどう乗れるかで一悶着起きると思っていますよ。そこが気になるところですので、5番人気に支持されたのではないでしょうか》
実況席での会話が進む中でゲート裏で待機していた馬達のゲート入りももう間も無く終わろうとしていた。奇数番の馬達はゲート入りを終え、残るは大外18番のアドミラブルだけとなった。
《ありがとうございます。さぁ、千載一遇のチャンスです。子供の頃からの夢を掴みたいと末山騎手は話していました。倭達騎手も、オペラオーと掴めなかった夢を掴みにいくチャンスが巡ってきました。父が獲れなかったダービーを、嘗ての相棒と共にその息子が掴み、世代の頂点へ立つのか》
今、アドミラブルのゲート入りが終わり、準備が整った。
《そして青葉賞馬はここを走ったばかりですが、何故かダービーを勝てないというジンクスをこの馬が打ち破るか。皐月賞馬、テイエムベルレクスがそのまま強さを見せて無敗でダービーを制するのか》
全馬無事にゲート入りが完了し、係員が左右に分かれる。そして訪れる一瞬の静寂。前に誰も居なくなり、大勢のファンが見守る中でガシャン、と金属音が鳴り、勢いよくゲートが開いた。
《係員が左右に分かれまして、新たな歴史が作られるのか日本ダービー、良いスタートを切りました!良いスタートを切りました各馬です。テイエムベルレクスはそのまま前へ行って内へ付こうという構え。サトノアーサーは少し後ろに下げる感じになりました》
出遅れなく一斉にスタートした各馬。3番のマイスタイルが先行して一気にハナに立ち、その後ろにアルアインとテイエムベルレクスが追走する。テイエムベルレクスは内へ入ろうにもアルアインが居るので無理には入らずに2番手、3番手の位置からレースを進める。そして外からその2頭を交わして9番のトラストがハナへマイスタイルへ並びかける。
《先行争いはマイスタイル、善木山憲紘が行くのか。アルアイン、末山康丙、それに並んでテイエムベルレクス皐月賞馬、倭達龍司、現在3番手!それを交わしてトラスト、旦内悠二、思い切って行くダービー初騎乗》
第1コーナーを曲がって第2コーナーへ。そして向こう正面へ向かう。
ハナを切ったのはマイスタイル。それを追うように1馬身差離れてトラスト。そこから離れて3番手にアルアイン、続く4番手にテイエムベルレクスが追走し、テイエムベルレクスをマークしようと外側からクリンチャーが迫る。
《それぞれの思惑が何かこう交錯する、1コーナーから2コーナーに向かうところです。テイエムベルレクスは4番手。さぁ、ダービーを目指して、世代の頂点を目指して、テイエムベルレクスが前進します!》
こうして日本ダービーは幕を開けた。
これから始まるのは時間にしてたった2分半で終わる2400mの戦い。各陣営の願いと思いが入り乱れる生涯一度の大勝負。その戦いが、今まさに始まった。
読者の一人からあるご指摘を頂いたので原作をウマ娘からオリジナルに変更します。
理由としましてはウマ娘まで行くのに時間がかかりそうということ、幕間が思い付かないほど私のネタが乏しい、ウマ娘のキャラクターへの理解力不足で読者の皆様が不満を抱くのではないかという三点からです。
ウマ娘篇は別途投稿します。ご理解頂けると嬉しいです。
それと再び、馬名の募集をしようと考えています。募集するのはテイエムベルレクスの弟であるアークくんの馬名です。案がございましたら、以下のリンクから応募をお願いします。
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=338664&uid=408714