走る。とにかくひたすら走る。柵で囲われた放牧地の中で私はとにかく走り続けていた。転生してからそれなりの月日が経った。恐らくは……半年程度だろうか?既に母親との離乳を済ませ、私は1頭で自立した生活を送っている。この離乳は必要プロセスらしく、これで結構ストレスを感じたり、騒いだりする仔馬も多いらしい。まぁ、ぼんやりとだが前世の記憶がある私はそこまで苦にしなかったが。
話を戻して、頑丈な身体を作るために毎日走り続けている訳だが、それなりの効果は出ていると思う。食べたら食べた分だけ動いているので体もかなり成長した。おかげで体調を崩したことはないし、走り続けている訳だからスタミナは人並み?馬並み以上に付いたと感じる。
スタミナだけでなくスピードも鍛える必要もあるが、これにばっかりは一朝一夕にいくものではない。そもそも私はまだ当歳馬*1だ。スピードを鍛えるには筋肉を鍛える必要がある訳で、その鍛えるべき筋肉はまだまだ少ない。当歳馬の筋量なんて高が知れているし、現状はどうしようもない。これに関しては私の成長次第だろう。まぁ、スピードがあってもそれを振るう身体が虚弱だったら意味ないので身体作りは続けるがね。
しかし、まさか私の父親があのテイエムオペラオーだったとは。計らずしも知ることができた私の父親の名前は結構な大物だ。
テイエムオペラオー。20世紀末に8戦8勝という年間無敗を叩き出し、重賞8連勝、GI6連勝、GI9連続連対、史上初の天皇賞3連覇、総獲得賞金金額は当時歴代1位であり世界最高記録、そして「皇帝」シンボリルドルフに並ぶ史上最多のGI7勝という数々の大記録を生み出した名馬。
特に2000年の年間8戦全勝とGI5勝という記録は強烈で、この
20世紀末に日本の競馬を支配したテイエムオペラオーを讃えて「世紀末覇王」と称された、日本競馬歴代最強馬の一角。
……今思い返せばやはり凄い馬だ。その実力は然る事ながら、あのヘビーローテーションを走り抜いた身体の頑丈さは凄まじいの一言に尽きる。一度だけ骨折していたが、復帰2戦目からは怒涛の4連勝で「もっとも速い馬」が勝つ皐月賞を優勝するというのは並大抵な馬にできない芸当だ。今考えれてみればクラシックの時点でまだテイエムオペラオーの身体は発展途上で古馬になってようやく完成したのだろうか?真偽は分からないが、もしかしたら晩成型だったのかもしれない。
私がまさかその子供として生まれ変わるとは……なんとも変な感じだ。まぁ、テイエムオペラオーが凄いだけで私が凄いわけではないがな。
ふぅ……感傷はここまでにしよう。父親が凄いことは分かったが、私の目的は殺処分を避けることだ。勝てるに越したことはないが、競馬の世界はそこまで甘くはない。例え勝てなくてもいいので、できる限り現役を長く続けて少しでも多く賞金を稼ぎたい。
さて、引き続き身体作りに取り組むとしよう。今の私にできることは今後に備えることだけである。なのでずっと放牧地で走り回っているのだが、時々一緒に放牧されている馬にちょっかいをかけられることがある。
私自身はそこまで気にしていないし、普段は無視しているがしつこく絡んでくる奴も偶に居る。そういう時は相手がバテるまで追い回すか、噛み付く仕種を見せて威嚇している。
まぁ、後者をやることなんてほぼほぼない。ぶっちゃけてしまえばスタミナだけならこの牧場の馬には負けないくらいあると自負している。なので大抵前者だけで事足りる。その真逆の馬も居たりするが、そっちは基本的に放置している。
特に影響はないし、元人間であるせいか馬同士のルールみたいなモノは分からないので接し方が分からないのが実情だが。
後は誘われて偶に一緒に走ったりしている。併走して走ったりもするからぶつからないように意識して真っ直ぐ走れるので走りの矯正にもなって結構良い練習にもなる。
……殺処分は嫌だと言っておきながら結構今の生活楽しんでるな、私。
「ランの調子はどうだ?」
「問題ありませんよ。傷は見当たりません」
約半年前に産まれたブランベラルーシの2014年……毎日走る姿からランという愛称が付けられた仔馬は同時期に産まれた仔馬と比べて馬一倍に活発かつ賢い馬として牧場内で話題になっていた。
「しっかし、毎日毎日よく走り続けてますね。放牧するようになってからずっとあんな感じですよね?」
「あぁ、無類の走り好きなのかもしれんな。怪我しないといいんだがなぁ……」
「そうですね。なんか垢抜けてる感じしますし、あれで怪我してしまっては勿体無い」
若手である厩務員の言葉に、牧場で長年厩務員を勤めてきた
産まれてから20分という早さで立ち上がり、平均と比べて大きめの体、そして尾花栗毛という美しい毛色。同時期の仔馬と比べて何とも特別感があった。そして何もよりも離乳する際に全く騒がなかったこと。大抵の仔馬は離乳時に暴れる。これまで一緒だった母馬と強制的に引き離されるのだ。仔馬からすればそのストレスは尋常なものではない。
が、ランにはそれが一切なかった。終始落ち着いており、暴れ出すことなく厩務員の言う事を素直に聞いていた。
「大人しいのは良いんですけどね。ずっと走り回ってますけどこっち側の言う事をちゃんと聞いてくれるんですけどね……ただ1頭黙々と走ってることに目を瞑れば」
「こればっかりはランの性格だと飲み込むしかないだろうな。興味がないと言うよりは自分から関わらないって感じだな」
離乳後は馬同士の群れの中で社会性を学ばせるために一緒の放牧地に入れるが、ランはそんなことはお構いなしに黙々とただ1頭で走り回っている。
その事について鹿嶋は頭を悩ませるが、悪いことではないのだ。寧ろ競走馬としての面で見れば好意的に捉えられる。しかしランは他馬に絡みに行くことがない。能動的というよりかは受動的で他馬に対して何かしらのアクションを起こす時は向こうからちょっかいを掛けられた時だけだ。
「まぁ……問題はないか。時偶併走している様子も見られるし、他馬との関係が悪いとは思えん。あの子なりのコミュニケーションはできてるんだろう」
「随分とあっさりしてますね。てっきり何か対策するのかと」
「ランにとって今の生活が上手く噛み合ってるんだろう。特にストレスになってるようにも見えんしな。それにサラブレッドは繊細だ。下手に何か強制させて異常が出たら目も当てられん」
「それもそうですね。今は事の成り行きを見守るしかないですか」
「そういうことだ」
こんな投げ遣りな結論、厩務員としては失格かも知れんが仔馬に必要以上のストレスをかけたくないという思いもある。遠征の輸送や環境の変化は馬に多大なストレスがかかる。ストレスは馬は諸に身体に影響が出るため、馬体重を大幅に減らしてしまう事例は多い。近年ではマンハッタンカフェ*2などが有名だろうか。
「よし、放牧の時間ももう終わりだ。皆を馬房に戻すぞ」
「分かりました」
放牧の時間が迫り、1頭ずつ放牧地から馬房へと戻して行く。
全馬特に問題を起こすことはなく、スムーズに進んでいつもよりも早く終わった。その後は体調や歩様に異常がないかを確認し、飼葉を用意する。
「こっちは大丈夫でした。全馬異常ありませんでした。」
「こっちも大丈夫だ。次、飼葉の用意を頼む」
「はい」
仔馬は半年も経ったら飼料を食べられるようになる。仔馬の状態によって判断する必要はあるが、幸いなことにもうちの牧場の仔馬は全馬食べられるまでには成長した。
目安としては1日1kg以上。後は各馬の状態に合わせて調整していく。
「ほら、ラン。今日の分だ。しっかり食べろよ」
「ブルル……」
よしよしとランの頭を撫でてやる鹿嶋。ランは普通の仔馬と比べて体が大きい分飼葉も他馬と比べて多めに出している。
鹿嶋はこれまで多くの馬を世話してきたが、ここまで手間の掛からない馬は初めてであった。放牧中はずっと走り続ける走り屋であるのに、賢くて従順。もちろん気性も大人しく、出したご飯も好き嫌いせずに食べ切るので色々と苦労が少なくて済む馬だった。
「お〜い、ちょっといいか?鹿嶋」
「はい大丈夫です。牧場長、どうかなさいましたか?」
「なに、そんな大したことじゃないさ。ははっ、相変わらずよく食べるな、ランは」
馬房で作業をしていた鹿嶋に声を掛けたのは牧場長を務めている
丸眼鏡がトレードマークであり、長年厩務員を務めている鹿嶋とは昔馴染みの仲であった。
「あの人、明後日に来れるそうだよ」
「おぉ、遂にですか」
鹿嶋は感慨深さと憂いさを同時に抱いた。
「ようやく都合が付いたそうだ。うちのランを気に入ってくれるといいんだがね……」
「気に入ってくれるとは……思いますよ。少なくとも馬体はバランスが整ってて立派だ」
「だけどやっぱり血統が、ね」
「そうですね……良血と言えば良血だがどちらかというと昭和寄り。時代を逆行したかのような血統だもんな」
明後日訪れるのはテイエムオペラオーの馬主でもあった人だ。テイエムオペラオーを甚く気に入っていたため、産駒であるランを気に入らないなんてことはないだろう。
だが鹿嶋と尾崎が懸念している点は全く別のことだ。
テイエムオペラオーは最終的に顕彰馬*3に選出される程の実績を残した歴史的名馬であったが、種牡馬としては馬主の尽力も虚しく失敗に終わっている。
「ランも相当優秀だが、如何せん今分かるのはスタミナに富んだことだけだからな」
「今のままだと走る馬に思えないってのが実情だろうね。父系と母父は欧州の馬で、時代外れのステイヤー系だもの」
そう、懸念点となっているのはランの血統だ。20年、30年ぐらい前であったならば一流と呼べる良血馬として期待できたが、今の日本競馬の評価では二流で終わってしまうだろう。それもそのはず、ランには日本競馬の血統図を丸ごと塗り替えた大種牡馬サンデーサイレンス*4の血が一滴も入っていないのだ。
ランは世界的大種牡馬であるノーザンダンサー*5の産駒であるサドラーズウェルズ系*6の直系なのだが、今の日本競馬の中では異色とも言える血統だ。何がマズいのかと言えば、このサドラーズウェルズ系はスタミナに富んだ産駒が多く、ステイヤー色が強いのが特徴であることだ。
ランの血統で歓迎されるのは主にヨーロッパであり、日本では既に終わった血統として認識されてしまうだろう。日本が求めるのはスタミナではなくスピードだ。
ノーザンダンサー系が日本で繁栄したのは1970から1980年代の話。今の主流はサンデーサイレンス系であり、それ以外で血統に名を残しているのは同じくアメリカ産の馬だけである。
「う〜ん……やっぱり血統面に不安が残るなぁ。能力を抜きにしたとしても」
「能力に関しては未知な所が多いので何とも言えんが……せめて早熟型であることを祈ろう」
「そうだね。でもやっぱり、無事であることが一番だけどね。できるなら重賞を獲って欲しいものだけど」
「そこまで高望みはできんですが……まぁ、夢見るだけなら自由ですからな。私はGIタイトルを勝ち取ることを祈るとしましょう」
不安感を拭えないが、鹿嶋と尾崎はランが重賞を勝ち取る程の馬になることを願った。