神戸新聞杯を制したテイエムベルレクスはいよいよ菊花賞へ乗り込むことになった。
ここまで無傷の7連勝。シンボリルドルフ、ディープインパクトに続く史上3頭目となる無敗の三冠制覇を目前に控えていた。
菊花賞は3000mという長丁場だが、スタミナもあり、長距離適性のあるテイエムベルレクスに大きな不安はない。そして今は心身共に充実している状態だ。チーム全体の士気も高く、不安要素は限りなく少なかった。だからこそ、この報せは寝耳に水であった。
『10月16日頃に発生した台風21号は依然勢いを増して北上を続けており、フィリピンの東から北上し、静岡県から関東地方にかけて、超大型で非常に強い勢力を保ったまま上陸する恐れがあります。発達した21号は、近畿地方や東海地方を暴風域に巻き込みながら速度を上げ、そのまま日本に上陸する見込みです。
西日本では降り始めからの雨量が500ミリを超える記録的な大雨となると予想されますので、無理な外出は控えるようにしてください。気象庁は河川の氾濫や土砂災害に厳重な警戒を呼びかけています。
交通機関にも深刻な影響を与えることが予想されます。現時点のJR各線や私鉄各社に遅延・運休などの情報についてですが……』
栗東の厩舎内でニュースを見ていた伊和本は苦い顔を浮かべていた。隣で一緒に見ていた倭達の表情も暗く、頭を抑えていた。
「よりにもよってこのタイミングでか……」
テレビを見ながら、静かに伊和本は呟いた。視線の先には気象衛星の画像が映し出されたテレビがあり、その画面には日本列島を飲み込もうとする巨大な渦が表示されていた。
「これは週末の競馬場は荒れますね……」
「そうだな。秋雨前線も巻き込む形で大きくなったな。良くて開催延期、最悪開催中止だ」
外を見れば空全体を覆う真っ黒な雲。今は止んでいるが、ここ最近は不安定な天気が続いており、時々雨が降る様子も散見された。これは菊花賞を目標に、追い切りを控える陣営としては大きな痛手であった。
「菊花賞は……延期ですかね?」
「まぁ、クラシックだからな。流石に中止することはないだろう。延期だとしても厄介だが」
サラブレッド──馬は非常に繊細な生き物だ。軽種馬の中でもサラブレッドは更に繊細かつ神経質で、個体差はあるが概ねこの特徴は共通している。そんなサラブレッドにとって予定しているレースの延期というのはとんでもなく負担のかかる事象だった。
大前提にどの陣営も、目標に定めたレースに合わせて調整を施している。それが延期でズレることになれば、その調整に狂いが生じることになる。狂いが生じる程、馬への負担はその分大きくなり、疲労が蓄積する。肉体面・精神面に深刻な影響を与え、それは馬の走行能力にまで及ぶ。その最悪なパターンが太め残りの状態となることだ。馬体が重ければそれだけ脚元への負担が増し、故障するリスクも高くなる。
どれだけ完璧な調整を施せたとしても、レースが順延されることになれば、その調整は全て水の泡となるのだ。
調整に狂いが生じ、追い切った万全の状態を維持できる馬はいない。如何にタフであるテイエムベルレクスであっても影響がゼロとはいかないだろう。
「仮に開催されたとしても、これ……京都の芝はもう田んぼになりますよね……」
「まぁ、間違いないだろう。ただでさえ、3歳馬にとっては3000mというスタミナが持つか分からない長丁場の上に、それに加えて雨による不良馬場、今年の菊花賞は色んな意味で荒れるだろうな」
「菊花賞の格言は『最も強い馬が勝つ』ですけど、こんな状況で開催になったら本当に強い馬が勝つでしょうね」
「この雨が篩に掛けることになるだろうな。ミスプロ系やサンデー系と違って、ランはサドラーズウェルズ系だ。まだマシだと思うが……やはり良馬場で走らせたかったな。朝日杯と皐月賞をレコードで勝って速さと切れ味があるんだ。良馬場ならばその強みも存分に活かせたんだがな……」
欧州の競馬は自然の地形をそのまま利用しているため、パワーが必要だという。元々芝自体が重い上に、西ヨーロッパは雨が降りやすいという気候も重なって凄まじい消耗戦となる。そのため欧州ではスタミナとパワーに富んだ血統の馬が幅を利かせている。
テイエムベルレクスは今の日本競馬では珍しい欧州血統の馬。名種牡馬としてイギリス・アイルランド、フランスでリーディングサイアーとして君臨したサドラーズウェルズの直系だ。産駒の傾向としては優れた心肺能力を備え、豊富なスタミナを持つステイヤータイプが多い。故に不安材料は他の陣営と比べて比較的少ない。
ステイヤーながら1600mの朝日杯と2000mの皐月賞をそれぞれレースレコードで勝利するスピードを兼ね備えているのは既に証明済み。良馬場ならば距離不安もなく、自分の競馬をこれでもかと発揮できたというのに、順延の可能性と不良馬場という不確定要素が入ったことで、予想が難しくなった。
「一応弟のアークが重馬場でも勝ってますがね……」
「あれは1800mだ。距離が違い過ぎるからあまり参考にはならん。ランにも道悪の適性もあると読めるが、どの程度なのかは流石に分からん。まぁ、その条件は何処も同じだが」
3000mは3歳馬にとって未知の距離だ。スタミナとスピードが両立していることが大前提であり、道中でしっかりと折り合える気性を持っている必要がある。
馬が暴走すれば敗北は必至。馬のポテンシャルによってはまだ取り返しの効く中距離とは異なり、長距離では立て直しが難しい。何よりもここに道悪という最悪な要素も追加されている。必要となるスタミナは倍となり、スピード重視となってきている日本馬では完走できるかも怪しいところだ。
「淀の坂はかなりしんどくなるぞ。不良馬場になるならば地盤も相当緩くなるだろう。後半のレースにまともな芝なんぞ残ってないだろうな」
「なら少しでも外に回すべきでしょうか……内側はもうぐちゃぐちゃになるでしょうし、外に持ち出してどうにかするしかない……ですよね」
「それも少し博打だがな。外を回っても道悪であることに変わりはない、その上距離も必然と伸びてくる。ランのスタミナが如何に優れているにしても限度はあるからな。本当に頭が痛いな……」
無事に開催されるとしても馬場の状態が極悪になることは周知の事実。メインレースの菊花賞は後半にあることもあってその前に施行された未勝利戦や条件戦によって馬場は更に荒れることだろう。特に内の状態は言葉にするまでもなく一番酷い状態になっているはずだ。
少しでも良い進路を取るには外へ出すしかないが、そこで頭痛の種となるのが距離の問題。さんざ言うが菊花賞は3000mという長距離戦。外を走ればその分距離が伸び、最大でも約200mに匹敵する程の距離を走ることになるだろう。そして不良馬場というおまけ付きだ。馬の疲労の度合いを考えればイギリスのゴールドカップ*1を走るようなものだろうか。
そしてまだ考えなければいけないことはもう一つある。
「……泥が跳ねて馬が走る気無くしませんかね?」
「……大丈夫、だとは思う。ランは賢いがソラを使わない真面目な馬だ。泥が跳ねても走る気を無くすことはないだろう。だからそこは心配しなくてもいい。それよりも重要なのはスタミナ管理だ」
不良馬場となってしまえばどの馬が速いのかはもう関係ない。どれだけ体力を残し、最後までバテずにいられるかだ。重要となるのはスタミナとそれをどれだけ温存し、そして道中我慢できる精神力。焦って仕掛けた馬は間違いなくゴールまで体力が持たずに潰れる。
「馬場で末脚が潰されるなら直線だけで勝負するには不安がある。道中で体力を削られて末脚を活かせないなら前残りできればそれだけ有利なはずだ。まぁ、そんな展開になれば有利も不利もないがな」
「つまりはいつも通り、ということですか」
「まぁ、あの不良馬場でいつも通りのパフォーマンスを発揮するのは難しいがな」
「しかし裏を返せばそれだけ勝率が上がるということでもありますね」
倭達の言葉に伊和本は静かに頷く。求められる能力が大きく変わってくると予想されるレースでいつも通りのパフォーマンスを発揮するのは困難を極める。そんな状況下で変わらぬパフォーマンスを発揮できるならば、それは大きなアドバンテージとなる。
「取り敢えずは連絡を待つぞ。今この場で話し合っても結論は出ない」
「そうですね、順延されることを切に願いましょう」
「全くだ。ランには少し負担をかけるが、そこは上手くこっちでカバーするぞ。なるべくストレスを抑えよう」
そうしてこの場の話し合いはお開きとなった。
不安の種を抱えながら厩舎を後にした倭達を見送り、伊和本は空を見上げる。雨雲で覆われた空からは太陽の光は見えず、まるで今の心境を表しているようだった。
(何か、嫌な予感がする。できれば杞憂であればいいのだが……)
不安の種が強くなり、伊和本の中の陰りが大きくなっている。その大元は台風と近走の菊花賞にあると明白であるがそれだけではないと伊和本は感じていた。しかしそれが何なのかは終ぞ分かることはなかった。
その後、快晴となった18日にテイエムベルレクスの追い切りを行った。タイムは好調で問題はなし。本番の菊花賞に期待が持てる内容だった。しかし陣営の表情は暗く、陰りが見え隠れしていた。
そして10月22日、菊花賞当日。地面に叩き付ける雨音が響く、荒れる雨模様の中、京都競馬場は通常通り開催する旨の連絡を出した。