覇王伝説第二章   作:ノワールキャット

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クラシック三冠 第三戦 菊花賞 後篇

「これは……本当に酷いな。もう田んぼみたくなってるじゃないか」

 

 スタート前、本馬場入場を果たして返し馬を始めてすぐにそんな感覚を倭達は抱いた。テイエムベルレクスの動きはいつもより重く、今までの軽快さは見られない。やはりこの不良馬場の影響によるものだろう。テイエムベルレクスはまだマシであるが、他の馬達は走り辛そうな様子が見て取れた。

 初めて雨の降る中でレースを迎えることになり、既にゲート前で入れ込んでいる様子の馬が何頭か居るが、テイエムベルレクスは落ち着いている。この辺りは流石だと言えるだろう。

 

(このレースは色々と厳しくなるな。予想はしていたけど、想像以上に馬場が悪い。この馬場だと体力もかなり早いペースで削られる)

 

 最早泥田となったコースで倭達はそう思案する。

 

 降り頻る雨によって不良となったこの馬場は、非常に時計のかかる状態になっている。本日行われたレースのタイムとレコードタイムを見比べればその差は歴然だった。

 

 2歳馬未勝利戦、芝1600mで1分40秒6*1

 2歳馬新馬戦、芝2000mで2分12秒9*2

 

 マイル戦だけで約8秒差がつくという最悪な馬場状態。こうなっては最早駆け引きは意味をなさず、そもそも完走するだけで精一杯の状態だ。

 

(いつも通りの先行策でいこう。こんな状況下だからこそ、どれだけ型を崩さずに挑めるかが重要なはずだ)

 

 事前の打ち合わせ通り、倭達は先行策で挑むことを決めた。マークは厳しくなるのは百も承知だが、テイエムベルレクスはそんなことでは決して折れない強い精神力を持っている。掛かることはない。寧ろ執拗なマークをして逆にマークを仕掛けた馬が掛かることもありえる。そうなればこちらはただ自分のペースを守って脚を溜め続ければいい。ペースの逸脱はテイエムベルレクスにとって有利になる。

 

(あと気がかりなのは……ランがどれだけこの馬場に適応できるかだな。稍重は経験あるけど、これと比べたら雲泥の差だ。アークは重馬場でも勝てたけど……参考程度だな。まぁ、苦手でもやりようはある)

 

 仮にテイエムベルレクスが道悪の適性を持たぬというならば、距離ロスがその分大きなるが、外を回る手段もある。距離ロスとスタミナの消耗具合は大きいが、スタミナに関しては最早言葉にするまでもない。あとは上手く外へ持ち出す必要があるが、幸いにもテイエムベルレクスの馬番は12番。好スタートを決められれば外へ出ることはそこまで難しいことではないはずだ。

 

(ランは賢いから、僕の意図を理解して自分から脚を溜めてくれる。僕が上手く進路を確保してあげられれば、ランは馬場に集中できるはずだ。とにかくランの負担を取り除く)

 

 テイエムベルレクスにはなるべく馬場と脚を溜めることに注力して欲しい。賢い馬であるのだから、自分からペースを逸脱することもないはずだ。

 今回の倭達の役割はテイエムベルレクスが走りやすいようにサポートし、尚且つ負担を減らすこと。今回の菊花賞ではあまりにも考慮しなくてはいけない要素が多すぎる。やることが多くなれば逆に集中さを欠くことになり、パフォーマンスを落とすことになる。

 

(この雨に釣られて、無理にでも前へ行こうとする馬が居るはずだ。先行で巻き込まれるのを考慮するならば少し離れた中団位置辺りが安牌か?好意グループの後方辺りの位置……狙うのは難しいけど、展開に合わせて随時対応するしかないな)

 

 そこまで考えて倭達はゴーグルの位置を調整し直す。

 もうそろそろ発走の時間である。

 

「よし、行こうか、ラン」

 

 そう呟けば係員に引かれてテイエムベルレクスと共にゲートの中へ入る。手綱をしっかりと握り、相棒へと目を向ければ不安がっているように見えた。いつもと比べて身体が強張っており、何かに不安を抱いている様子が見て取れた。もしかしたら何かを感じ取って不安になっているのかもしれない。

 

「大丈夫だ、僕が付いてる」

 

 そう言って頭を撫でながら声を掛ければ、安心したのかリラックスして身体の強張りがすっと解ける。鬣に手を滑らせ、髪を梳かすように丁寧にやれば、テイエムベルレクスから不安が引いていくのが感じ取れた。そして首を大きく振って気合いを入れ直した。

 

(準備万端ってことかな?これなら大丈夫だ)

 

 テイエムベルレクスはいつでも出走できる状態になった。それを見て倭達も一息吐いて、呼吸を整え、手綱を握り直す。手が僅かに震えているが、これは武者震いだと断言できる。

 きっと今の自分は高揚しているのだ。

 

 そして大外の馬もゲート入りを終えたのだろう。場内が静まり返り、係員が左右に分かれる。前方から人がいなくなり、ターフが視界一杯に広がった。

 

 そして──ガシャンッ!っとゲートが勢いよく開き、金属音が木霊して響いたが、倭達が感じたのはいつものような風を切って飛び出す感覚ではなく、まるで底無し沼に嵌って沈むような感覚だった。

 

《あぁっと!!テイエムベルレクス躓いた!!》

 

「っ!?」

 

 倭達は何が起きたのか一瞬理解することができなかった。何が起きたのかを理解しなくてはならないが、それよりも下に沈むようになってしまったこの態勢を立て直すことが優先だった。このまま落馬してしまえば、これまでの努力が水の泡となる。

 しかし倭達とて伊達に騎手をやってきたわけではない。あの頃の自分ならば為す術無く落馬してしまっていたかもしれないが、倭達とてベテランの騎手である。すぐさまバランスを取ろうと半ば無意識に体が動く。

 前傾に傾いてしまった体を引き戻し、投げ出されそうな体を膝で挟み込むことで引き止める。

 

(この馬場に足を取られたのか!一先ずはバランスを取って態勢を立て直す!最初の段階ならまだ立て直せる!)

 

 倭達は落馬を免れ、テイエムベルレクスも再びバランスを取り戻して出遅れながらも先頭集団の追跡を開始する。

 

 こうしてレースはどよめきから始まった。

 

 圧倒的1番人気に支持されたテイエムベルレクスは不良馬場によって足を取られたのか、スタートダッシュで躓いて出遅れてスタートすることになった。

 幸いなのは鞍上の倭達がすぐにバランスを取ったことで落馬を免れたことだろう。ここで落馬して競走中止となればどれだけの馬券が紙屑となっていたのだろうか。

 

 落馬は免れたが、意図せずとして好スタートというテイエムベルレクスの強みを潰されることになった。テイエムベルレクスはキャリア初となる後方からレースを進めることになった。

 

《何とか倭達騎手がバランスを取って、落馬は免れました!テイエムベルレクス、まさかの出遅れ!今日は後ろから競馬になりました!先んじて飛び出した前の馬を追って、出なかったプラチナヴォイスと共に後ろから進めていきます!》

 

 共に出遅れたプラチナヴォイスと並ぶ形で後ろから駆け上がるのはテイエムベルレクス。遅れを取り戻そうと脚を早める。

 

「大丈夫だ、焦る必要はない!まだ巻き返せる!」

 

 倭達はテイエムベルレクスに語り掛けて手綱を抑える。

 既に後続に追い付いて、後方から2番手の位置に付いた。これ以上ペースを上げたら体力の消耗が更に加速する。ただでさえ、3000mの長丁場にあわせて不良馬場という道悪の要素。これ以上の体力を削るのは得策ではない。

 

「もう起きてしまったものは仕方ない!切り替えていくぞ!」

 

 その声に応えるようにテイエムベルレクスは無理な加速を止めた。呼吸を整え、淡々と自分のペースを刻んで追走を始める。

 

(落ち着いた……いや、自分で押し上げられる位置まで上げたんだ。最初から焦っていない)

「……本当に賢い馬だよ、お前は」

 

 必要最低限だけ押し上げて自分で止めた。

 それはつまり、この馬自身が『ここで無駄に体力を消耗してはいけない』と理解している証拠に他ならない。

 

《キセキも遅れまして、サトノアーサーは後ろからです。プラチナヴォイスは殿、テイエムベルレクスは後方2番手に付いて先行集団を見る形。さぁ、先行争い、アルアインはまずまずのスタート中団に付けて。先頭に立ったのはポーンとウインガルド。早くも先頭に立って2馬身のリードを取っています》

 

 隊列は徐々に縦長となって変化していく。一同坂を下って最初のコーナーを目指す。

 テイエムベルレクスはすぐ目の前に居た1番のブレスジャーニーを捉えて追い抜かすと後方から3番手の位置に付いて徐々にポジションを上げていく。もちろん自分のペースを守りながらだ。

 

(取り敢えず落ち着ける位置を見付けるんだ。もう前には行けない。だから……外から攻める!)

 

 手綱を少しばかり押してテイエムベルレクスを外側に寄せる。今はブレスジャーニーを外から追い抜かして16番手の位置に居る。必然的に差しや追い込みの戦法を取ることになったが、テイエムベルレクスは初めての戦法に戸惑うことなくレースを展開する。

 

《2番手にアダムバローズが続いて、この辺り落ち着いた流れ。外の方からじんわりと18番のマイスタイル、真ん中10番のベストアプローチ。内、3番の内、内を通ってスティッフェリオです。トリコロールブルーが居て、外から菊花賞4勝の竹裕。オレンジ色の帽子、鮮やかに竹裕とダンビュライトが続いています》

 

 展開はおおよそ固まり、各馬京都の坂を下って最初のコーナーの中間点を通過した。先頭は道中で追い上げ始め、ウインガルドからハナを奪って逃げに転じたマイスタイルである。

 最初にコーナーを回ったのはマイスタイル。それを追ってウインガナドルとアダムバローズが続く。経済コースを走るマイスタイルがハナを切って進み、正面スタンド前を通過する。

 

《その後ろ、もうピンクの帽子が……黒くなっている!これが皐月賞2着のアルアインとクリストファー・ローメル。さぁ、テイエムベルレクスへ、皐月賞の雪辱なるか!内ぴったりと11番のサトノクロニクルです。その後ろ、アルアインを見るようにミッキースワロー、善木山憲紘が懸命に並べています。その後ろにクリノヤマトノオーが続いて、無敗の二冠馬テイエムベルレクスは位置を押し上げてサトノアーサーに並んで外を回ります。後方1頭置かれたのはプラチナヴォイス、それからブレスジャーニー。マイネルヴンシュも後方からになっています》

 

 マイスタイルを先頭に18頭の優駿達が正面スタンド前に入り、10万人を超える大歓声で迎えられる。

 

 ハナを切って進む大外18番のマイスタイル。2番手から2番ウインガナドル、7番のアダムバローズが続き、3番のスティッフェリオと10番ベストアプローチが並んで追走。内から進む5番のトリコロールブルーと並んで外を回る15番のダンビュライト。

 約半馬身差の後方に11番サトノクロニクル、16番アルアインと続き、そこから14番ミッキースワロー、13番のキセキ、内へ寄って9番クリノヤマトノオー、更に外から4番のクリンチャーが駆け上がっていく。8番サトノアーサーの外に並ぶ形で12番のテイエムベルレクスが後方4番手の位置に付き、6番マイネルヴンシュ、1番ブレスジャーニー、17番プラチナヴォイスが続いている。

 

(取り敢えずはレースを進める位置を落ち着かせないと。このままじんわりと上がっても道中で脚が無くなる)

 

 体力の消耗は微々たるものであっても、肉体の消耗がゼロとはならない。田んぼ状態になったこのレースで、道中脚を使い過ぎれば最後の直線で持たなくなる。

 打ち合わせしていた定位置に付けなかった以上、いつもの先行策は必然的に使えなくなった。この最後方、追い込みの位置からレースをしなくてはならない。

 

(馬群の流れをよく読むんだ、集中しろ、落ち着け、倭達龍司)

 

 倭達はテイエムベルレクスの手綱をしっかりと握ってレース全体を俯瞰するように目を細くする。目付きが鋭くなり、まるで睨むような形相で前を走る馬達を見詰めていた。

 

 最初のコーナーを越え、各馬が正面スタンド前に差し掛かる。

 馬場の良い場所を求め、各馬が馬場の真ん中へ寄ったことで馬群全体が真ん中でレースが展開される形となってレースは進んでいく。

 

《さぁ、大歓声が湧き起こる。水飛沫が上がっている。2馬身のリードを取っています。先頭はここでマイスタイル。1馬身のリードを取って、前半の1000m、1分4秒1。やはり時計がかかっています、1分4秒1》

 

 やはりと言うべきか、この不良馬場によって前半1000mの通過タイムは非常に遅いものとなった。

 例年の平均的な通過タイムと比べれば、約4秒近くの時計がかかっており、先代の三冠馬であるオルフェーヴル*3の時の通過タイムは60秒6であり、こうして改めて数字で表されれば今回の馬場の悪さがよく分かる。

 そして3000mという長丁場で最初から飛ばしてしまうと、この田んぼのような過酷な馬場では最後まで体力が持たないため、前半は騎手達がかなり慎重にレースを進めることになったのも一因だろう。

 

《その中で中団くらいの位置に付いたのはアルアインです。内を通って、ダンビュライトはその前です。ダンビュライトの後ろにアルアインです。そこからミッキースワロー、キセキ、サトノアーサーと並んでテイエムベルレクス。春のクラシックで、秋のトライアルで、覇を競ったライバル達が続いております。

 さぁ、先頭マイスタイル、2馬身から2馬身半のリード。まさに『マイスタイル』の逃げです》

 

 逃げを打つマイスタイルに騎乗する志井寛史は後方を一瞬だけ振り返り、後続馬のウインガナドル、アダムバローズらとマイスタイルの位置を確認して間隔を測って第1コーナーをカーブし、それを追って後続も続いていく。

 先頭のマイスタイルから最後方のプラチナヴォイスまで約20馬身前後。隊列はバラけて変わらず縦長のままレースは進む。

 

 各馬のゼッケンと騎手の勝負服は跳ね上がる水と泥に塗れて黒く染まり、降り頻る雨と飛び散る水飛沫を浴びながら第1コーナーをカーブしていく。そして第2コーナーと、その先の向こう正面へと向かう。

 

《そして中団グループにダンビュライト、アルアイン。竹裕の後ろにローメルが続いて、機を窺って後方5番手に浮上しましたテイエムベルレクスと倭達龍司、最後方にプラチナヴォイスという展開です。静寂の1コーナーから、動きの伴う2コーナーに入っていきました》

 

 第1コーナーを間も無く全頭が通過し、第2コーナーへと差し掛かる。先頭を走るマイスタイルは先んじて第2コーナーへ入り、鞍上の騎手達はじっくりとチャンスを窺っている。

 

(隊列とポジションはもう落ち着いたな。……今日のポジションはここからか)

 

 結局は後方グループでレースを進めることで落ち着いた。もう隊列は固まってしまい、互いの出を窺う膠着状態となった。

 前の馬が跳ね上げる泥を嫌って馬群全体の隙間は空いているため、抜け出すのは割と容易だろう。いつもの好位置に付いていたら多少のリスク覚悟で馬群の中に閉じ込めてきただろう。その可能性を考えれば、逆に出遅れたことで意図せずして回避する結果になった。

 

(じっくりと脚を溜めながら直線で大外に持ち出す。そして一気に捲る。この道悪で加速したらまたさっきみたいに脚を取られるかもしれないし、不必要な加速は転倒して競走中止を招くかもしれないからな。何より内へ入るよりも外を回る方がまだ体力の消耗を抑えられる。にしても……少し走り方が変わったか?さっきと少し違う……)

 

 倭達が再度レースプランを組み立て直す中、レースは淡々と進む。僅かな違和感を感じながら、打ち付ける雨音と頬をなできるような風音が耳に響けば、そんな違和感は頭から抜け落ちた。改めてこのレースの過酷さを再認識させられたからだ。

 

 先頭のマイスタイルは第2コーナーをカーブして400mを超える向こう正面の直線に入る。逃げるマイスタイルを追って各馬も続き、色とりどりの帽子と勝負服が第2コーナーを通過している。

 

《雨を切り裂いて、先頭マイスタイル、2馬身のリードは変わりません。ウインガナルド、外からじんわりと動いていったアダムバローズ。内を通ってトリコロールブルー、それからスティッフェリオ。外からじんわりとベストアプローチも動いた。その後ろ、ダンビュライト、竹裕はまだ手綱を抑えている。それからサトノクロニクルとアルアイン2頭が続いて、11番サトノクロニクルの外からアルアイン、クリストファー・ローメルはまだ動きません》

 

 向こう正面の中間辺りに差し掛かるが、依然として各馬の動きはまだ見られない。降り頻る雨の中で淡々とレースは進んでゆくが、確実に異変は起きていた。

 先頭を走っていたマイスタイルは第2コーナーを過ぎた辺りから徐々に疲れが見え始めていたが、12のハロン棒を通過した辺りで遂にスタミナが切れ、そのまま内の方へズルズルと後退していった。

 幸いにも馬群全体が真ん中を走っていたことで、他馬が回避することも衝突することもなかった。そしてマイスタイルが脱落した代わりにウインガナドルが先頭に立って逃げの態勢に入る。

 

 そして本レースの1番人気であるテイエムベルレクスは最初こそ後方で待機していたが、現在は中団グループの近くまで位置を上げていた。

 

《先団が固まってきました。さぁ、9番のクリノヤマトノオーと御行秀章、外からはクリンチャー、藤丘雄輔が居て、ミッキースワローはまだ中団で脚を溜めています。そしてテイエムベルレクスがここです!先程よりも位置を上げたテイエムベルレクスはここに居て、内に並んでキセキが居ます。菊花賞の1番人気と2番人気の馬が隣に並んでおります!それから1馬身半離れました、サトノアーサー、マイネルヴンシュ、そしてブレスジャーニー、後方からプラチナヴォイスの展開です!》

 

 早くも脚が鈍り始めた先頭集団に後続集団が追い付き始め、先団に馬が固まる形となった。

 スタートで後手を踏んだテイエムベルレクスも瞬く間に後方集団に追い付けば、落ち着いて追走を開始。問題なく折り合ってレースを進めている。そして現在はじわじわとポジションを押し上げてキセキと並ぶ形で後方から5、6番手の位置に落ち着いていた。

 

《3コーナーカーブ、坂の頂上。高低差4.3m、もう、早くも振り落としはここから始まっています!》

 

 第3コーナー辺りで遂に二度目となる京都の急坂、通称『淀の坂』に差し掛かる。

 こここそが京都競馬場の正念場と言っても過言ではない。既に1500m以上を走ってきた馬達にとってここが最大の関門となるが、このポイントの処理の仕方が如実にレースの結果になって現れる程この淀の坂の影響は極めて大きい。そしてこの坂を越えた先は瞬発力が問われる404mの直線が待ち構えている。

 

 この不良馬場の影響もあってか、既に疲れ始めた馬が出始めている。どれだけスローペースになってもこの道悪ならばそれなりのパワーが必要となる。

 馬場が泥濘んでいることによって脚は深く沈み込み、スリップしやすい。エネルギーが正しく伝わらず、前へ進むための推進力にならない。更には深く沈んだ脚を引き抜かなくてはならなかった。

 

 体力・精神・肉体、馬の持ち得る全ての要素を問答無用に引き摺り出され、削られる。半数の馬はスタミナが尽きかけており、もう最後の直線ではまともな末脚を繰り出すことも叶わなくなってしまっていた。

 

 『最も強い馬が勝つ』という格言が掲げられる菊花賞。雨に沈み、泥田となった菊の舞台は、誤魔化せる僅かな欠点も許さなかった。

 スタミナに不安がある馬は脚を失い、気性に難がある馬は力を浪費し、パワーに欠ける馬は一歩ごとに体力を削られる。

 

 まさに馬の真の強さが問われていた。

 

《ミッキースワローとキセキ、そしてテイエムベルレクスが外から一気に上がろうとしています!さぁ、3コーナーカーブ、坂の頂上に入ってここから下ります!テイエムベルレクスは並んで中団、ここからが未知の距離!サラブレッドの底力が問われる距離です!歴代の、7頭の三冠馬達が通った三冠への道!セントライトより始まった三冠の道を辿って、人馬一体で先達へと続けるのか!?》

 

 第3コーナーをカーブして第4コーナーに差し掛かる。

 

(タイミングは見逃すな!ランはずっと脚を溜め続けてくれた!これを生かすも殺すも僕次第だ!絶対に見逃すな!)

 

 まだ脚を残す馬達は鞭を入れる態勢を取り、倭達も鞭を構えてスパートをかける準備を整える。

 

 台風21号によってもたらされた極悪馬場。前に出た馬から順にスタミナを使い果たし力なく後方に脱落していく、地獄のスタミナ勝負。駆け引きなど無用となったこのサバイバルレースも遂に佳境を迎えようとしていた。

 

─◇◆◇─

 

 やる気が空回りしてしまったのだろうか。

 唐突に体が沈み、脚元が覚束無い感覚を覚え、既に飛び出した馬達を視界に収め、本来居るべき場所に居ないことを理解し、私は自分が出遅れたことを悟った。

 

 ──しくった!

 

 それがこの馬生で最も焦って出てきた最初の言葉だった。

 

 最初に感じたのは焦りであり、無意識ながらすぐに行動を起こしたのは態勢を整えること。今転倒したらこれまでの努力が水泡に帰することを感じ取り、何とか踏み止まる。背中に居る倭達さんも落馬せずに済み、態勢を立て直すことができたが、出遅れたことで前の馬達との差は広がって大きな差を生み出していた。

 それを視界に入れ、現状を把握すると私は加速して一気に後続馬へと喰らい付いていく。

 

 もう、いつものポジションに付くのはもう無理だ!ならせめて後続馬との差を詰めて少しでも最初のロスを埋める!

 

「大丈夫だ、焦る必要はない!まだ巻き返せる!」

 

 そう動けば倭達さんが手綱を抑え、私に語り掛けて行動を抑制しようとする。それを受けて私は加速をやめてペースを落とす。

 

 そうだ、まだ焦るな。まだレースは始まったばかりだ。これは3000mのレースだ。焦ったら奴から先に脱落するそんなレースだ。落ち着け、チャンスは必ずある。

 

 私は心にそう言い聞かせて、後続馬……ブレスジャーニーに追い付くと、その後を追って淡々と自分のペースを刻みながらレースを進めていく。

 これ以上の体力消耗は避けるべきだ。まだ余裕はあるが、後のことを考えれば残しておくに越したことはない。

 

「もう起きてしまったものは仕方ない!切り替えていくぞ!」

 

 確かに倭達さんの言う通りだろう。起きてしまったものは仕方がない。時を巻いて戻す術なんてないのだから。

 重要となるのは序盤の遅れをどうやって取り戻すかだ。今は後悔や反省よりも現状を打破する術を見付けることが最優先だ。

 

 視界の先では先行集団が既に隊列を整え始めている。逃げる馬、それを追う馬、内へ付こうとする馬。各々が理想の位置を求めて動いており、その波は隊列全体に広がっていく。

 対して私の位置は最後方からだ。いつも付いている好位置とは一転したポジションで、本来ならば絶対に居るはずのない位置だ。

 

 しかし焦ってはならない。無敗の三冠制覇が懸かっているかも理解しているし、このレースにどれだけ多くの期待が集まっているかも分かっている。

 

 だからこそ焦ってはダメだ。焦ってペースを乱してしまえば、敗北は必至。

 

 とにかく落ち着け、落ち着くんだ。

 

 その言葉を何度も頭で反芻させながら、私はレースを開始した。初手は躓いたことで出遅れてしまったが、その後すぐに態勢を立て直したことで致命傷にはならずに済んだ。

 不利を受けた事実は消えないが、まだ取り返せない差ではない。

 

 淡々とペースを刻みながら、前方を見据えて追走する。この不良馬場もあって、ペースはそこまで速くはない。

 3000mという長丁場に加えてこの不良馬場。慎重にならざるを得ず、勝負所を見据えてながらゆっくりとレースが流れていく。

 

 正面スタンド前を通過し、大歓声に迎えられながら通り過ぎ、第1コーナーへ向かう。私は再び位置を上げて8番の馬……サトノアーサーと並んで追走している。

 

 馬場も問題だが、やっぱり雨のせいで視界が悪い。おまけに泥も跳ねて鬱陶しい。正確な位置の把握が難しいが、それは相手も同じこと。そこまで問題じゃない。

 

 やっぱり最大の懸念事項はこの馬場だ。このレース中に慣れることができればいいんだが……脚を溜めながらそんな器用なことができるのだろうか。

 

 いや、道は倭達さんが示してくれる。私は馬場に慣れることと脚を溜めること、この二つに注力すればいい。それだけでいい。そうすれば勝てる。

 

 第1コーナーから第2コーナーへ、そして向こう正面に入る。

 今のところ先頭を走っている馬はまだ粘っている。しかし、流れはそこまで速くないと思うんだが、随分と苦しそうに見える。

 疲れやすい原因は……やっぱりこの馬場のせいだな。

 

 正直走りやすいとは言えない。

 脚が沈むからその度に引っこ抜かないといけないし、おまけに重心が安定しないから体幹がブレてしょうがない。ボコボコに荒れているし、泥濘んでいるから脚元が不安定なのだ。脚元が安定しないから走る度にフォームが乱れ、着地して踏ん張るために体力がどんどん消耗していく。

 

 恐らくだが、前の集団はもう暫くしたら崩れ始める。いつも以上に体力と肉体が消耗しているというのに、この雨と跳ねる泥のせいでストレスも凄まじい。私はただ鬱陶しい程度に留まっているが、他の馬達は精神力もそれなりに消耗していると思う。

 

 そしてその予想はすぐに形になった。先頭を引っ張っていた馬……マイスタイルが早くも脱落した。走るフォームは目に見えて崩れており、脚取りが重く、踏ん張りが利かなくなったのか、そのまま内を通ってズルズルと内後退していった。

 

 分かってはいたが、この馬場が相当響いているな。一歩進むごとに体力を削られ、肉体・体力・精神三つが同時に持っていかれていく感じだ。

 

 ……まぁ、それはみんな同じか。

 

 条件に関してはイーブンだし、ここで文句を垂れても勝てる訳じゃない。私と同じく脚を残せている馬はまだ居る。だけど前は総崩れになるだろう。無理していた馬から順に苦しくなって脱落していくはずだ。

 

 しかし、出遅れたのがまさか良い方向に働くとは思わなかった。

 いつも通り前目の位置に付いていたら、脱落していく馬達の巻き添えを喰らっていたかもしれないし、執拗にマークされて内側に閉じ込められるかもしれなかったからな。

 そう考えれば後方からレースを展開したのは最適解だったのだろう。

 まぁ、それも今回の距離と馬場が噛み合った結果であるので参考にはならないだろうが。

 

 レースは淡々と進んでいる。

 全体のペースは然程大きく変わってないが、先行している馬達の脚が鈍ってきたのか、馬が先団に固まってきている。

 私は変わらず後方の位置だが、必然と前の方に上がってきていた。あまり意識して前に行った気はないが……少し慣れてきているのか?

 

 そしてとうとう二回目の坂に差し掛かった。疲れた体にこの坂はかなり堪えることだろう。

 坂を駆け上がって頂上を目指し、第3コーナーを曲がる。

 

 ……やっぱりこの坂は流石に堪えるな。

 体力はまだ残っているが、肉体の消耗までは誤魔化せない。脚は重いし、筋肉も悲鳴を上げ始めている。だが、まだいける。

 まだ脚は残っているし、十分に溜まっている。後は使うタイミングだけだ。

 

 坂の頂上を越えて下りに入る。

 第3コーナーから第4コーナーへ。そして右の方を見詰めていれば、その先にゴール板を視界に捉える。いよいよ最後の直線に入ろうとしている。

 先団は前に残る馬と後ろから追い上げてきた馬達でごった返して入り乱れていた。

 

 そして第4コーナーのカーブに差し掛かってくる。

 

 いよいよだ。

 ここが──踏ん張り所だ。

 

─◇◆◇─

 

 第4コーナーを回り切って直線に入る。

 そしてスタンドから凄まじい大歓声が再び沸き上がる。雨音すら掻き消す大歓声に迎えられながら18頭の優駿達が雨と泥に塗れた馬体を弾ませながらやって来る。

 

《アダムバローズが先頭に変わった!あっとウインガナドルが下がっていった!さぁ、外に行った!外に行った!各馬外に行った!ここからが未知の距離!泥んこに塗れて、泥に塗れて、菊を掴め!》

 

 荒れた内を避けて、馬群全体が真ん中を通って最後の直線に入ってくる。

 既に勝負服は真っ黒に染まっており、上半身全体は飛び跳ねた泥で埋め尽くされている。どの馬も苦しそうに踠くが、騎手達は手綱を扱き、鞭を入れて必死に粘らせる。

 

《さぁ、先頭ダンビュライトに変わっている!ダンビュライト、アルアインは馬込みの中!ダンビュライト、竹裕先頭に変わった!その後ろからクリンチャーが続いている!各馬横へ広がって最後の追い比べ!》

 

 先頭に立ったダンビュライトには明らかに余裕が無かった。

 脚色は鈍く、今にも後続に捕まりそうであった。その差はほんの僅かしかない。

 

《一番外だ!大外から来た!倭達龍司は外へ持ち出した!大外から来たぞ!緑の帽子!テイエムベルレクス!無敗の二冠馬が襲い掛かってくる!これがテイエムベルレクスの三冠街道か!》

 

 ここで満を持してテイエムベルレクスが一気に進出を開始した。それを見て各馬の背に乗る騎手達は自らの馬を更に追う。決して追い付かれないようにと。そしてほぼ同時に場内の熱気が遂にピークに達し、再び大歓声が沸き起こる。

 

《クリンチャーだ!クリンチャー先頭!内で懸命に粘るダンビュライト!しかし外からはテイエムベルレクス!倭達龍司の鞭が入る!外から菊を目指してテイエムベルレクスが来た!三冠へ向かって伸びてくる!》

 

 倭達の合図に応えるように、その栗毛の馬体を弾ませながら一段、二段と加速していく。

 泥を蹴り上げ、力強く体を前へ押し出す。前との差はどんどんと縮まり、次元の違う末脚を見せ付けて捉えにかかった。

 

《クリンチャー先頭!しかし先頭変わってテイエムベルレクス!抜けた!抜けた!テイエムベルレクスが先頭だ!》

 

 残り200m。

 ダンビュライトを抜かし、先頭へ躍り出たクリンチャー。しかし大外からテイエムベルレクスが襲い掛かり、瞬く間に捉えると一瞬で抜き去った。

 他馬とは次元の違う末脚を見せ、これまで道中で溜め続けていた末脚を爆発させていた。

 

《テイエムベルレクス、更に脚を伸ばす!2番手に13番のキセキ!しかし差が開く!差が開く!金色の鬣が揺れている!栗毛の馬体が弾んでいる!》

 

 同じ不良馬場の3000mを走っていたというのに、その体力と脚を一体何処に隠していたのだろうか。

 勢いそのままに一気にハナに立てば、その勢いはもう止まらない。

 泥濘んだ馬場を物ともせず、豪雨を斬り裂きながら前へ前へと駆け抜けていく。

 

 後続の馬達も決して止まらなかった。

 その証拠に隣で並んで、後方で共に追走していたキセキも上がって来ていた。鞍上の激しい追いに応え、限界まで脚を伸ばしているが、先頭を走るテイエムベルレクスとの差は広がり続けるばかりであった。

 

 倭達龍司が追えば、それに応えてテイエムベルレクスもギアを上げ、後続との差を突き離して独走に入っていく。

 差は縮まるどころか、むしろ広がっていき、誰もが苦しんで走る不良馬場。限界まで泥化した極悪馬場の中を、ただ1頭だけ別の競馬をしているかのような末脚を発揮していた。

 次元が違うとはまさにこのことだろう。

 

 キセキに騎乗するミゲル・デオドールは駆け抜けるその背中を追いながら、「もう勝負は決したのだ」と理解する。

 ただゴールへと突き進み続けるテイエムベルレクスとその背にいる倭達龍司の姿を見ていることしかできず、豪雨の中を駆けていく栗毛の背中はあまりにも遠かった。

 

《これが覇王だ!これが覇王の力だ!吹き荒れる暴風雨を斬り裂いて今ここに!雨風猛る京都競馬場に、菊の大輪が咲き誇った!テイエムベルレクス三冠達成!!》

 

 泥を跳ね上げて後続との差を突き離し、他馬を文字通り打っ千切ったテイエムベルレクスは誰よりも早く、ゴール板を通過した。

 

 その瞬間に巻き起こる大歓声。

 

 歓喜、驚愕、感動。

 様々な感情が入り混じった叫びが曇る雨空を突き破るように響き渡り、雨音を掻き消した。その祝福の歓声は、ここに新たな伝説が誕生したことを知らせる産声のようであった。

*1
2歳レコードタイムは1分32秒3

*2
2歳レコードタイムは1分59秒8

*3
2011年の三冠馬。ステマ配合によって誕生したステイゴールド産駒であり、全兄にクランプリ競走を連覇したドリームジャーニーがいる。もちろんのこと気性も荒く、新馬戦後と菊花賞後は騎手を振り落としている。その荒々しい気性と馬名、頭抜けた能力から「金色の暴君」の異名を持つ。2012年の凱旋門賞では直線一度は先頭に立ったものの、最後で内に寄れてしまい、失速。そこをフランスのソレミアに差し切られ、クビ差惜敗となった。




先週のことだけど、今村聖奈騎手、GI競走並びにクラシック競走初優勝、JRA所属の女性騎手として初のGI制覇おめでとうございます!

ロブチェン二冠達成おめでとう!松山弘平騎手は初のダービー勝利おめでとうございます!
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