「よしよし、疲れは抜け切っているな」
厩務員の坂原に連れて来られたテイエムベルレクスを見て伊和本はそう呟いた。
菊花賞の疲れを抜くために短期放牧を挟み、テイエムベルレクスは年末の有馬記念に向けて調教を積むため、本日帰厩した。
あの激戦は流石にテイエムベルレクスと言えどもダメージゼロとはいかず、決して無視できない疲労が蓄積していた。無理な調教は身体を壊すと判断し、酷使した筋肉と精神のケアをするために近くの育成牧場へと運んで短期間の放牧を行なったのだ。
「調子良さそうですね」
「あぁ、少し早めの帰厩だが問題はなさそうだ」
テイエムベルレクスを引く坂原の言葉に伊和本は返す。
あの不良馬場を走った馬は例外なくズタボロだった。体力・肉体・精神全てを消耗し、出し切らされた馬達は漏れなく疲労困憊。ゴール後はどの馬もすぐに立ち止まる程に疲労しており、それはテイエムベルレクスも例外ではなかった。
上がり最速の末脚を繰り出した上に2着馬のキセキに8馬身の着差を付けるという圧勝劇を演じたのだから、消耗するのも仕方ないだろう。特に体力よりも肉体が大きく消耗したはずだ。
育成牧場に移ってからは疲労を抜き、軽い運動を行なって過ごしていた。有馬記念の1ヶ月前に帰厩することを目安とし、様子を見ながら調整していくことを考えていた。しかし、そこは流石三冠馬と言うべきか。
並の馬ではないテイエムベルレクスは予想よりも早く回復し、少し早めの帰厩となった。
「凄いですよね。あの馬場を走ってこんなにも早く回復するものなんですね」
「まぁ、並の馬ではないからな。三冠馬なのだからそれも当たり前と言えば当たり前だが、ここまで早いとは私も思わなかったよ」
首元をポンポンと叩けば、テイエムベルレクスは機嫌良さそうに鼻を鳴らした。
「すぐにでも調教を積みたいが、早めに帰厩できた分余裕はかなりある。じっくりとやっていこう」
伊和本は頭の中で調教メニューを組み直す。
しかし焦る必要はない。有馬記念まではまだ十分な時間がある。
菊花賞で見せたあの圧巻の走りはまだ記憶に新しい。
豪雨を斬り裂き、沈む大地を踏み越えて誕生した8代目の三冠馬は競馬界に大きな衝撃を与え、未だ興奮が冷める様子は見せていない。
「一先ず今日は軽い運動だけだな。少しずつ進めていけばいい。厩舎周りを散歩させてあげてくれ」
「分かりました。行こうか、ラン」
坂原が手綱を引けば、それに合わせてテイエムベルレクスも鼻先を上げて歩き出す。
黄金色の鬣を揺らしながら歩くその姿に疲労は見られなかった。
「……本当に丈夫な馬だな」
伊和本はそう静かに呟いた。
不良馬場の菊花賞を走った馬達の疲労は今まで走ったことのないレースを経験し、心身共に大きく削られた。
道中でスタミナと脚を使い果たし、まともな上がり勝負をできたのは18頭中3分の1程度しか残っていなかった。やっとの思いで繰り出せた末脚も不良馬場のせいでまともな加速はできず、先に抜け出したテイエムベルレクスに突き放される始末である。
幸いにも故障を起こした馬は居なかったが、レース後の検査は著しい筋肉疲労が見られたという。実際は分からないが、蹄にもそれなりの負担が掛かった馬も居るのではないだろうか。
疲労の度合いの大きさから、出走した馬達の何頭かは予定していたローテーションの見直しも行なわれたことだろう。
そしてそれはテイエムベルレクスも例外ではない。いくら頑丈でスタミナがあろうと、あんな馬場を走れば影響がゼロとはいかなかった。
体全体に相応の負担が掛かり、レース後は肩で息をしていた。すぐに息を整えることができたが、それだけ削られたという証拠でもある。しかしそれだけである。息が整えば問題なく歩き出し始め、その後の検査に異常は見られなかった。
短期放牧に出した牧場のスタッフの話では数日で元通りの生活を始めたらしい。飼い葉食いや運動能力に問題はなく、歩様の乱れもなかったとの話だ。
凄まじいタフネスである。
父親の長所を受け継げるだけ全て受け継いだのではないだろうか。
(このタフさがランの最大の武器だろう。肉体と精神が高水準でまとまっている。肉体の強さだけではなく、精神面でもタフだ。常に万全な状態を維持するのは……流石に無理だが、肉体的・精神的にここまで成熟している馬はそう居ない)
「はぁ……ランを見れるのもあと少しだけか」
溜め息を吐く。
「最後まで見たかったんだがなぁ……」
目を細めながら、伊和本はそう1人愚痴った。
伊和本は来年定年を迎えるため調教師を引退しなくてはならない。調教師として残された時間は僅かとなった。
テイエムベルレクスと共に挑めるレースは年末に残す有馬記念だけとなり、2018年2月28日付けで定年引退することになる。
自厩舎の馬は馬主や親交のある調教師と相談しながら入厩の話を進めている。もちろんテイエムベルレクスも例外ではない。
彼の受け入れ先は既に見付かっており、来年入厩予定のリトも受け入れてもらえる話となった。テイエムノアアークはまた別の調教師に受け入れてもらう予定だ。
有馬記念が調教師として最後のGIレースであり、最後の大舞台となる。そして伊和本の最後の大舞台であると同時にテイエムベルレクスにとっては最初の関門だと言える。
有馬記念は1年の総決算として競馬界に認知されている年末最大の大一番。競馬に対して疎い人であってもその名前を聞いたことがあるレベルで知名度は非常に高い。
牡牝問わずに歴戦を潜り抜けてきた3歳馬以上の馬達が集い、各世代のトップホースや強力な古馬が一堂に会する最高峰のレースであり、これまで数多くの歴史的名勝負が演じられてきた年末最後の祭典だ。
クラシックを完走した馬達が古馬との初対戦を迎えるレースであるが、相手が数々の激戦を越えてきた古馬ということもあって敗北を喫する3歳馬は多い。GIIやGIIIの重賞レースであっても、3歳馬が古馬相手に勝つことは基本難しい。
斤量的有利が3歳馬にはあるが、肉体の完成度と経験値で勝る古馬相手に勝つことは至難だ。そしてそれは三冠馬であっても例外ではない。
三冠馬だから勝てるというそんな単純な話はなく、過去の三冠馬達も古馬との初対戦では辛酸を舐めてきた。
無敗の三冠馬であるシンボリルドルフですらジャパンカップで敗れ、同じく無敗の三冠馬であったディープインパクトもまた有馬記念で初黒星を喫している。
それ程までに古馬の壁は高い。
そして今年の有馬記念には現役最強馬として名高いGI6勝馬のキタサンブラックが参戦してきた。間違いなく今の日本競馬の頂点に立っていると言っても過言ではない歴史的名馬である。
2015年の菊花賞を優勝した本馬は今年の宝塚記念で大敗を喫するまでは複勝圏内を外さず、凄まじい安定感で第一線を駆け抜け続けていた。常に勝利争いを演じ続け、今年は史上5頭目となる天皇賞春秋連覇を果たした歴戦の古馬である。
三冠馬となったテイエムベルレクスに立ちはだかる最初の試練としては、これ以上ない程の高い壁となることだろう。
「キタサンブラックは間違いなく歴史に名を残す名馬の中の名馬……相手としてはこれ以上の強敵はいない」
伊和本は思わず笑みを浮かべる。
キタサンブラックという、相手が歴代屈指の名馬ということもあって、伊和本は笑みを浮かべずにはいられない。
強敵ではある。だからこそ挑む価値がある。それに自分にとって最後のGIレースなのだ。ならばメンバーは豪華である方が華やかでいい。
もっとも、厳密に言えば有馬記念が年内最後のGIというわけではない。今年からGIへ昇格したホープフルステークスがその後に控えている。だが、今の伊和本の意識はほとんど有馬記念へ向けられていた。
ホープフルステークスも将来を担う2歳馬たちが集う重要な一戦ではある。近年の中距離路線への充実ぶりと価値の上昇に伴ってGI昇格へと至った。しかし、有馬記念が1年の総決算として築き上げてきた歴史や格式、世間からの注目度を考えれば、その差はまだ大きい。少なくとも伊和本にとって、有馬記念こそが調教師人生最後の大舞台だった。
「最後くらいは、思い切り夢を見させてもらおうじゃないか」
有馬記念を無敗のまま制覇した馬は未だいない。これは歴代の三冠馬達ですら成し遂げることができなかった偉業であり、シンボリルドルフとディープインパクトでもその壁を越えることはできなかった偉業である。
テイエムベルレクスは史上初となる無敗のまま3歳四冠*1を達成する資格を持っている。
調教師として挑む最後の大舞台としてはこれ程名誉なことはないのではないだろうか。
これを達成できれば、テイエムベルレクスは一気に日本競馬の頂点に駆け上がる。そして自分はその軌跡の最初に立つことができる。これがどんなに幸せなことだろうか。
「頑張れよ、ラン。見送ることしかできんが、お前ならやれる」
穏やかな笑みを浮かべ、伊和本は調教師として最後の大舞台に夢を馳せた。
いよいよ宝塚記念ですね。
皆さんの夢は何ですか?私の夢はメイショウタバルです。