出会いとお別れ
牧場に帰省してから1ヶ月ちょっとは経っただろうか。既に正月を迎え、初の日の出を拝んだ。馬となってからでもやはりこれは格別だった。
そして正月を迎えてから暫くして新しく妹が生まれた。正月から約1週間、正確にはその10日後。縁起の良いことに1月11日にその仔馬は生まれた。
予定よりも大分早かった出産に牧場のスタッフ総出で事に当たり、約1時間後に無事に産まれた。
母子共に健康で予期せぬ事態であったが、私の母親もこれで八度目の出産になるため、スムーズに進んではいたらしい。
生まれた妹は炎を思わせる明るく赤い栗毛を持ち、額に私のような綺麗な流星があるのだという。流石に私と同じ金色の鬣ではなかったが、見た目ならばかなり似ているのではなかろうか?立ち上がりも早く、ごくごくと母乳を飲み、鹿嶋さんも感嘆する程の飲みっぷりを見せていたらしい。
そして生まれてから暫くして放牧できるようになり、まだまだ雪の積もる一面が銀世界の大地に初めて踏み出した。まだまだ寒いので馬着を装着しての初めての放牧となったが、子供故の好奇心旺盛さと有り余る元気で足跡を残して走り回り、初めて見た世界をこれでもかと楽しんでいる。
性格的にはアークと似ていると思う。だが、アークはやんちゃであるが、この子はただ元気なだけと感じる。
初めて外に出たことで大興奮していたが、それもすぐに収まって落ち着いて過ごせている。
実際に妹の放牧地を遠くから覗き込んだが、母親の近くをトコトコと歩いている様子が見え、べったりと甘えていることが読み取れた。
そんな仔馬は赤い栗毛のような馬体からセキという愛称が付けられた。多分毛色から
どうか怪我なく、元気に育って欲しい。そして願わくば競走馬として大成して欲しい。
そんなことを願いながら、私は遠目からセキを見守っていた。そしてそんな私に配慮してか、鹿嶋さんは私の放牧地を母とセキの同じ場所にしてくれた。おまけにアークと去年生まれたステラも一緒だ。競走馬として訓練しているリトだけ不在だが、家族だけの空間を作ってくれた。
アークは興味なさげに放浪しながら過ごし、時折走り出して活発に動き回る様子が散見された。
ステラは久しぶりに母親と再会したことが嬉しいのか、すぐ側まで近寄っていた。
セキはまだまだ甘えたがりなのでいつも通り、母親の側でベッタリとくっついている。
私は日課である走り込みをしていた。また春からレースに出るだろうと思って体重を絞ると同時に体を鍛えているのだが、途中からステラとセキが私の後を追ってきた。私かアークに感化されたのだろう。肉体の段階や走るフォームに大きな違いがあるので、その足取りは遅いが、ゆっくりと私の後に付いてきていた。
少し脚色を調節してスピードを緩めれば、問題なく付いてこれるようになった。2頭の妹を新しく引き連れながら、私は放牧地の中を駆け回っていた。
余談だがこの様子を牧場側は撮影して映像に収めており、後に訪問した取材陣の間で使われることになったのだった。
帰省してからもう少しで3ヶ月近く経つだろうか。
肉体はとっくに完調し、精神的疲労も無し、調子も上々だ。全体的に上向いていると言えるだろう。体も成長してその分大きくなったが、走った感覚からして重さは感じない。過度な体重増加とはなってないはずだ。
それにしても、結構呑気に過ごしているが、レースの方は大丈夫なのか?もうGIIIやらGIIの重賞レースは始まっているだろうし、GIレースが開催されるのも近いはずだ*1。
アークは私よりも先に本州へ戻り、次のレースに向けて準備を進めているはずだ。私も可能ならば早めに戻って調整や準備を進めて欲しかったが、こればかりは私の事情でどうこうできる問題ではない。
私にも叩き良化型の側面がないわけではないからな。自分の想定と実際の身体の動きに認識の差がないかレースを通してでしか分からない部分があるのだ。練習とでもいうのか、レースを通して把握した状態と認識の誤差を小さく調整できればできるほど、本番で出せるパフォーマンスが上がる。
そんな感じで早いこと復帰して次に備えたいところだ。しかしその決定権は私にはない。首や尻尾を振ったりして合図を送ることはできるが、喋ることはできないので正確な意図を伝えることはできないのだから。なので方針は変わらない。
取り敢えずは次のレースに備えて体を鍛え続ける。ただそれだけだ。スタミナも伸ばせるならどんどんと伸ばしていきたいし、末脚もより磨きたい。
備えあれば憂いなし。
今はできることを黙々と続けるとしよう。
そう思いながら過ごすこと数日後、私は馬運車へ乗せられ、遂に帰厩することになった。
その日、空は雲一つ無い快晴で、春の柔らかな陽光がターフを照らしていた。見事な空色で構成される澄み切った青空の下で、京都競馬場には穏やかな時間が流れていた。
特に目立った重賞はなく、条件戦や未勝利戦だけで構成されるごく有り触れた開催日にそれは執り行われた。
ウイナーズサークルに設置された台の上に立つのは、貫禄さと柔らかさと同時に持った皺の目立つ一人の老人。世紀末覇王と渾名されたテイエムオペラオーを筆頭にいくつもの重賞勝ち馬を管理し、後年には三冠馬テイエムベルレクスと2歳王者テイエムノアアークを手掛けた名伯楽。
今日は定年引退することになる伊和本一蔵のために催された引退セレモニーが行われていた。
惜しみ無い拍手と暖かい声援、そして感謝を混じえた労いの言葉。競馬界を盛り上げてくれたこと、夢を見せてくれた名馬を手掛けてくれた感謝の言葉が送られた。
場内各地から彼を讃える絶え間ない賞賛が響く。その場を包んでいたのは別れの寂しさではなく、一人の調教師へ贈られる、心からの敬意と感謝だった。
「長いお勤め、ご苦労様でした」
「ありがとうございます」
贈られた花束を受け取り、伊和本は笑みを浮かべる。
自分には分不相応だと伊和本は断っていたが、嶺苑を筆頭とした関係者各位に押し切られて開催する運びとなったのだ。消極的な考えは変わらなかったが、目の前の光景を見てそんな考えは吹き飛んでしまった。
競馬は良くも悪くも馬と騎手に焦点が向きやすい。レースで実際に結果を残すのは彼らであり、調教師の仕事はどうしても見えない仕事が多く、すぐに理解を示すのは難しい。しかし調教師と異なってレースでしか見ることのできない魅力が存在するものだ。
それに対して怒りや悲しさを抱くことはないが、自分のために集まってくれた人がこんなに多いことに嬉しさを感じざるを得ない。こんなにも人に喜ばされたのは人生で初めてだった。
そしてターフに設置された大型の掲示板には自身のこれまでの軌跡が映し出され、映像として流れ始める。
1974年4月24日──初勝利を捧げてくれたレイノボル。
1977年2月6日──初の重賞タイトルを共に掴んだキングラナーク。
1982年5月30日──競馬の頂点へ駆け上がったバンブーアトラス。
悔しさと嬉しさ、あらゆるものをバネとして一つでも多く勝とうと奔走し続けた騎手時代。どんな小さなレースでも一喜一憂し、涙で枕を濡らした。
初めて重賞を勝った時、ようやく自分が1人の騎手となれた気がした。重賞タイトルを手にして最高の思い出となった1982年の日本ダービーは伊和本の記憶の中に燦然と焼き付いている。
そして騎手から調教師へ転身した後のことが映し出される。この時から昔馴染みである嶺苑との関係がより親密化し、所有馬を預けてもらえることになった。信頼とコネがものを言う競馬界にてお得意様と言える存在が居たことは幸運だったことだろう。事実調教師となって重賞タイトルを掴ませてくれたのはテイエムの
それから調教師となって7年後、自分の教え子となった倭達を積極的に乗せて経験を積ませた。その甲斐もあってか同期の中でサージュウェルズと共にステイヤーズステークスを制して重賞初勝利を得た。そして20世紀最後の年、2000年。初のGIタイトルを齎してくれたテイエムオペラオーが今までにない伝説を作ってくれた。
古馬王道路線完全制覇──グランドスラムという今までにない金字塔を打ち立てた。コースも、馬場も、距離も全て異なる条件で、圧倒的不利を覆して勝利した彼は新たな伝説を日本競馬に刻んでターフを去った。そこで伝説は終止符を打たれたかと思われた。しかしそれで終わることはなかった。自分達にこれでもかと栄光を贈ってくれた馬はまたしても伝説を贈ってくれた。
それが史上8頭目の三冠馬テイエムベルレクス。
無傷のまま10連勝、歴戦の古馬を退けて掴んだ史上初の無敗の3歳四冠という偉業。獲得したGIタイトルは既に五つを数え、古馬となってからもその活躍が期待される新たな覇王。
そして静かに映像が途切れる。場内から再び拍手が湧き起こり、拍手に包まれながら伊和本はゆっくりと一歩前へ出る。
「本日はこのような盛大な式を開いていただいたこと今日訪れたファンの皆様、そしてこのセレモニーに携わった関係者の皆様には感謝申し上げます。本当にありがとうございます」
伊和本は深く一礼する。
「私は騎手として、そして調教師として、本当に多くの人に支えられてここまで歩いて来ることができました。
私を信頼して馬を預けてくださった馬主の皆様、厩舎の思いを背負って乗ってくださった騎手の皆様、馬を送り出してくれた生産者の皆様、そして競馬を愛してくださるファンの皆様。それだけではありません。厩務員、獣医師、装蹄師の皆様が支えてくれたことで私は調教師として、数多くの勝利を掴むことができました。
私は幸せ者です。数多くの名馬と出会い、数多くの人と縁を結びました。そしてその結晶が、皆様の記憶に残っているテイエムオペラオーでした。私も、オーナーも、倭達くんも、彼からたくさんのものを貰って栄光を得ることができました。この思い出は私達の宝であります。そして最後にはオペラオーが、また大切な出会いを私達に与えてくれました。
今でも鮮明に思い出すことができます。4年前のことでした。彼はまだ小さく、血統的には不安点が多かった。しかし当時から突出した能力を持ち合わせ、当時からその強さの片鱗を覗かせていました。そしてその走りは私の予想を超える大きな蹄跡を残し、新たな伝説を刻みました。
競馬の世界に踏み入れて44年、決して色褪せることのない思い出となり、人生でした。本当に、本当にありがとうございました」
深々と伊和本は頭を下げる。その姿を見てスタンド中から惜しみない拍手が送られた。
「続きまして、伊和本調教師と長年歩みを共にされた皆様より、お祝いの言葉をいただきます」
最初に壇上へ上がったのはスーツ姿の倭達龍司だった。
嘗ては先人の背を追い続け、未熟ながらも足掻いていた青年は広く知れ渡る名騎手に成長した彼は恩師の前で一度大きく頭を下げる。
「先生、本当にお疲れ様でした。そして、今までありがとうございました。
騎手としての技術や心構えを全て教えてくれたのは紛れもない伊和本先生です。今もこうして活躍できているのは伊和本先生の教えがあるからです。
夢だったダービージョッキー、その先の三冠ジョッキーになれました。そして先生の管理馬でそれを成し遂げることができたのは私の一番の誇りです。
私がここまで活躍できているのは先生の教えがあるからです。先生の下で教えを受けることができたのは私の誇りです。本当に、今までありがとうございました!」
倭達は再び頭を下げる。それに合わせて場内から大きな拍手が送られた。そして倭達が壇上から降り、次に壇上に姿を現したのは同郷の幼馴染である嶺苑将嗣だった。
「長い長い付き合いでした。私の長いビジネスパートナーであったと同時に同じ目線で語ってくれる友人でありました。
彼がダービーを勝ったことに感化されて私も競馬の世界に足を踏み入れましたが、やはり現実はそう甘くはありませんでした。ただ1勝するだけで精一杯、いやはや競馬の厳しさを思い知りました。
私が馬主となり、彼が調教師となった後は私の多くの我儘に付き合っていただきました。多くの苦楽を共にし、共に夢を語り合いました。彼なくしては私の競馬は始まることはなかったでしょう。
私と共に夢を見てくれたこと、感謝しても仕切れない。テイエムオペラオー、テイエムベルレクス、テイエムノアアーク、伊和本先生がいなければ、どれだけのことが夢で終わっていでしょうか。本当に、感謝の念が絶えません。
私は幸運な馬主です。一緒に夢を見てくれる調教師、夢に向かって進む騎手、そして夢を現実にしてくれた馬……私は全てに恵まれました。本当に、長い間お疲れ様でした。そして、今まで本当にありがとうございました」
嶺苑は深々と頭を下げる。
その姿に応えるように、スタンドからはこの日何度目とも知れない盛大な拍手が送られ、労いの言葉で場内は満たされていく。
司会者は観衆の拍手が落ち着くのを待ってから、穏やかな笑みを浮かべて再び口を開いた。
「関係者の皆様、ありがとうございます。それでは最後に、ご来場いただきました皆様と関係者による記念撮影を行います。どうぞ壇上前へお集まりください」
伊和本のすぐ横に嶺苑、倭達が立ち、彼らを中心に厩務員や調教助手、装蹄師など、関係者が続々と集まって並び始める。
そして集合したのを見計らった司会者は徐に意味深な笑みを浮かべた。
「実は本日、伊和本先生へもう1人……いえ、1頭だけお祝いに駆けつけてくれた特別なゲストがいます。では、どうぞ!」
カツン、カツン、カツンと、地下馬道の方から規則正しい蹄音が響いてきた。厩務員に引かれながら姿を現したのは春の日差しを浴びて黄金色を帯びて輝く栗毛の馬体。前年にクラシック三冠を達成したテイエムベルレクスの姿があった。首元には昨年優勝した有馬記念の真紅の優勝レイが掛けられている。
スタンドから歓声が上がるのを他所に伊和本は思わず目を丸くし、彼を取り巻く関係者は倭達と嶺苑を筆頭に「うまくいった」と言わんばかりの笑みを浮かべていた。
そして伊和本は倭達達の表情を見て仕組んだのは彼らだと思い至る。
「お前達だな?全く手の込んだことをしたな……」
「僕達の夢を全部叶えてくれたんですよ。それに調教師として最後の舞台なんですから、ランにも一緒に立って欲しかったんです」
満面の笑みを浮かべて倭達は答える。伊和本厩舎の最後の立役者と言っても過言ではないテイエムベルレクスは競馬に従事する者達の夢を全て現実にしたのだ。だからこそ倭達はこの場に是非とも立って欲しくて連れて来てもらったのだ。
「来てくれてありがとうな」
伊和本が額を撫でてやればテイエムベルレクスは嬉しそうに鼻先を寄せ、小さく嘶いた。
その微笑ましい光景に場内では自然と笑みが溢れる。
「それでは写真撮影に入ります!皆さんこっちを見てください!」
カメラマンが構え、関係者達が再び並び始める。テイエムベルレクスもその中に加わり、伊和本の横に立つ。そして並び終わっていよいよ撮影に入ろうとしたその時だった。
「……ん?」
テイエムベルレクスはグイッと伊和本の服を咥えて引っ張っていた。
「おいおい、どうした?」
伊和本は苦笑しながらテイエムベルレクスの頭を撫でるが、依然として離す様子はなかった。そして何を思ったのかテイエムベルレクスはもう一度伊和本の服を引いた。
まるで何かを訴えかけるようなその仕草に一同は顔を見合わせたが、彼のことを熟知している倭達はテイエムベルレクスが何を伝えたいのかその意図を理解した。
「ランは先生に乗って欲しいんじゃないですか?きっと分かるんですよ。これが最後なんだって、だから乗って欲しいんですよ」
倭達の言葉に周りは納得したのか伊和本に乗るようにせがんでくる。嶺苑も賛成しているのか腕を組みながら笑っている。
「せっかくだ。最後くらい乗ってやったらどうだ?」
「……まったく、歳寄りをあまり困らせないでくれ」
「それを言うなら私の方が歳を食ってるぞ」
「……そうだったな」
嶺苑にここまで言われたのなら伊和本も頷かない訳にもいかない。年齢的にも辞退したいが、この雰囲気がそれを許さず、何より伊和本自身もこの状況を楽しんでいた。調教師であるが騎手から転身した身だ。テイエムベルレクス程の名馬に騎乗できるならば、気持ちが昂ってしまうのは元とは言えど騎手の性だろう。
厩務員の力を借り、伊和本は何十年ぶりとなる騎乗を果たす。久しぶりの騎乗であるためバランスを取るために多少フラつくが、手綱をしっかりと持てばそのフラつきも簡単に収まる。何よりも騎乗しているのはテイエムベルレクスだ。終始落ち着いている彼ならばバランスを取るのは比較的容易である。
テイエムベルレクスの背に跨り、顔を上げればそこには圧巻の光景が広がっていた。
いつもよりも高くなった目線で眺める、人で埋め尽くされたスタンドは壮観だ。未だ色褪せることのないあのダービーの時のような光景に伊和本は思わず目を細める。
「それでは撮りますよ!こっちを見てください!」
その言葉を合図に関係者全員はカメラマンの方を見る。そしてタイミングを見計らってシャッターが切られた。
馬の背に乗って始まった競馬の世界。そしてその終わりは親友に任され、愛弟子が掴み取った愛馬の背の上だった。
春の日差しの下で、その美しい光景は一枚の写真の中に永遠に刻まれた。
引退セレモニーの話を書きましたが、正直ツッコミ所はこれ以上ない程多いと思います。ですけど納得してください。所詮二次創作の小説ですので。