伊和本一蔵調教師の定年引退に伴って転厩することになったテイエムベルレクス。史上8頭目の三冠馬であり、史上初の無敗の3歳四冠馬。
既に凄まじい実績の持ち主であり、古馬となってからも活躍が期待されるテイエムベルレクスはこれから日本馬として最強の地位に上り詰めると誰もが思っている。それ故にこれから管理することになる調教師は大きなプレッシャーに悩まされることになる。
血統背景と主戦騎手の倭達龍司との関係性、美麗なルックス、見応えのあるレース、そして先日の伊和本調教師の引退セレモニーの件もあってテイエムベルレクスは国民的なアイドルホースの地位を築き上げている。その熱狂ぶりは止まる所を知らず、人気に陰りが見えた競馬界はテイエムベルレクスという圧倒的なスターの登場によって息を吹き返し、盛況を博していた。
JRAも此れ見よがしに宣伝を行い、積極的にぬいぐるみやアクリルスタンドなどの限定グッズを売り出した。そして同時に全弟テイエムノアアークのグッズも売り出せばテイエムベルレクスと同時に購入するファンが後を絶たなかった。
売り上げは好調でまだまだ止まる様子を見せることはない。春は早くもテイエムベルレクスが古馬戦線を、テイエムノアアークはクラシック戦線を駆け抜ける。
この兄弟が今年の競馬界を盛り上げていくだろうと、競馬ファンの間で話題が尽きることはなかった。
そしてテイエムベルレクスが圧倒的なスターホースとなってしまったからこそ、次に管理することになる調教師のプレッシャーは相当なものだった。戦績に未だ傷はなく、古馬を退けて快進撃を続けて覇道を歩む彼の輝きを曇らせることを大衆はよしとしないだろう。
もし負けようものならば信頼は地の底に落ち、厩舎全体の評判が一気に悪くなる。テイエムベルレクスという名馬を預かることは栄光が約束されると同時に厩舎が失墜するリスクを承知の上で厩舎の命運を背負うことと同義であった。
「では、よろしくお願いします。本当に引き受けてくださってありがとうございます」
「お礼を言うのは私の方です。ベルレクス程の名馬を預けてくださって調教師としてこれ以上光栄なことはありません。責任は重大ですが、テイエムベルレクスの新しい調教師として誠心誠意務めさせていただきます」
テイエムベルレクスの新しい受け入れ先で嶺苑は管理していただける調教師に挨拶に来ていた。それを笑って答えるのは眼鏡を掛けた細身の男性。
彼の名は
「それでランの様子はどうだ?」
「絶好調の一言に尽きますよ。去年よりも体高が高くなって馬体重も増えましたが、無駄な所が本当に少ない。放牧中でもよく運動されていたのでしょう」
「あぁ、牧場からもよく走っていると聞いている。妹2頭と一緒に走っていたそうだ」
「でしたら納得です。細身であることに変わりはありませんが、トモにはしっかりと肉が付いていてよく鍛えられている。輸送疲れも見られませんので本格的な調教は明日から始める予定です」
伊和本の引退セレモニー後、準備が完了してつい先日螺浦厩舎に入ったテイエムベルレクス。輸送の影響も軽微で飼葉食いも悪くない。特に大きな問題も見られなかったので、調教も予定より早めに行われることになった。
「今後の予定は事前にご相談頂いた通り、大阪杯と春天、宝塚記念を目標に調教を進めます。大阪杯は前哨戦を使わず直接の出走で大丈夫でしょうか?」
「それで問題ない。極端に馬体重が増えたわけでもないし、調子が悪いわけでもないなら無理に出す必要もないだろう。大阪杯の後は一気に距離が伸びる。なるべく負担は減らした方がいいはずだ」
「分かりました。ではその通りに進めます」
嶺苑を厩舎内に招き、今後の予定を話し合う。本来なら主戦騎手の倭達も招くべきだが、生憎と今日は予定の都合が合わず不在だ。
「春の予定はこの3戦で大丈夫でしょう。順調なら十分に走り切れるローテーションです。宝塚記念後はどうしますか?」
「……休養を挟んで秋の古馬王道路線でいこうと思っている」
嶺苑の言葉に厩舎内は一瞬だけ静まり返る。
天皇賞(秋)、ジャパンカップ、そして有馬記念。大阪杯、天皇賞(春)、宝塚記念と合わせれば、古馬王道路線を構成する六つのGIレース全てに挑むことになる。すなわちテイエムオペラオー以来の
「……グランドスラム、ですか」
「あぁ、オペラオー以来のグランドスラム……今年のランの目標はこれでいく」
瞳の奥には炎を宿し、しっかりと信念の籠った言葉で嶺苑は紡ぐ。
「グランドスラムですか……私には本当に夢のように感じる話ですね」
「それも当然だ。今の馬では全部のレースに出走するだけでも至難の上にあまりレースを使わない、最低限のローテーションで組まれているからな」
古馬王道路線完全制覇、俗に言うグランドスラムと称されるが大阪杯、天皇賞(春)、宝塚記念、天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念の六つのGIレースを同一年に全制覇することで達成される。しかしそれを達成するのは至難も至難。何だったらクラシック三冠よりも難易度が高いのではないだろうか。
2000mから3200mという幅広い距離、間隔の詰まったローテーション、そして大きく異なってくるコース。直線の短い中山を始め、直線の長い東京、二度の急坂を越える京都、スタミナとスピードを求められる阪神とそれぞれ特徴のある四つの競馬場で勝たなければならない。
「確かにあの有馬記念を見ればできるのではないかと思ってしまいますね」
螺浦は苦笑混じりに呟いた。
昨年の有馬記念。3歳馬でありながら歴戦の古馬達を真っ向から打ち破り、日本競馬の頂点へと駆け上がったあの走りは今でも鮮明に脳裏へ焼き付いている。
史上初の無敗の3歳四冠。
その肩書きだけでも十分すぎるほど偉大だ。しかし嶺苑が見据えているのは更に先で大きなものだ。無敗の3歳四冠だけで留まることはなかった。
「キタサンブラック相手に真っ向から打ち勝ち、最強を証明した。だがそれでは不十分だ。異議を唱える者も当然居るだろう」
「当然のことでしょうな。今でも十分だとは思いますが……まぁ、最強は馬の数だけ居るものですからね」
嶺苑は自分の馬が一番なのだと、最強なのだと証明したいのだろう。
長い競馬史の中で最強を決めるというのは非常に難しい。展開や枠順、馬場、距離によって馬の発揮できる能力は変わり、第三者による捉え方によって評価はまた変わるのだ。
実績で見るならばシンザンやシンボリルドルフ、ディープインパクトらを筆頭とした三冠馬。
距離、斤量、芝・ダート、脚質を問わないタケシバオーやマヤノトップガンなどの万能馬。
圧倒的な能力でライバルを捩じ伏せたのならトキノミノルやマルゼンスキー、サイレンススズカらといった稀代の快速馬。
上記の馬達だけでも最強を決めるには賛否が分かれる。そもそも最強というのはその時代の価値観、大衆の抱くイメージ、世間が求める存在であるかもしくは受け入れるかで変わるもの。
時代によって移ろい続け、常に不定形であり続ける称号、それが最強というものだ。
「最強というものに明確な定義はありませんが……つまりは競馬界に、世間に『テイエムベルレクスこそが最強だ!』と見せたいのですね」
「ありていに言えばそうだ。海外遠征するのも手だが、まだ時期尚早だと私は考えている」
「海外遠征は成長しきってから、日本馬最強と胸を張って行きたい、といった感じでしょうか?」
「そうだ」
つまりは今年1年を足掛かりに来年世界へ羽撃こうと言うのだ。1年の時間をかけて古馬王道路線六つのGIを制覇し、テイエムベルレクスが最強であるということを証明する。
出走するだけでも容易ではない六つのGIを1戦も落とすことなく勝ち抜く。現役最強と名高かったキタサンブラックは皆勤を果たしたが、二つのGIを落とした。あれ程の名馬でも成せなかった未だ曇らぬ金字塔。
グランドスラム──テイエムオペラオーが成し遂げて以来、誰一人として辿り着けなかった偉業である。
それを転厩初年度から目標に掲げる。
達成できれば調教師としてこれ以上ない名誉であるが、その重圧は想像を絶するものだ。
大阪杯で躓けば失敗の烙印を押されるだろう。春の天皇賞を落とせば「今の調教師では駄目だ」と囁かれるかもしれない。
テイエムベルレクスはただの馬の範疇に収まらない。日本競馬を背負い、新しい光となり、道標となった。
螺浦は静かに息を吐き、眼鏡を掛け直す。
「夢のある挑戦ではありませんか」
穏やかな口調、静かな言葉であるが、その声には確かな力が籠っている。
「1年間、常に最高の状態で送り出し続けます。グランドスラム、その夢に私も手伝わせてください」
古馬王道路線完全制覇がどれだけ難しいものであるかは嶺苑が一番知っているはずだ。そしてテイエムベルレクスを預かるその重圧もだ。
だがそれを承知の上で自分は入厩の話を受けた。そして嶺苑は信じてくれた。ならば自分を信じて託してくれた人の期待に応えねばならぬだろう。
それが調教師としての役目であり、1人の人間として果たさねばならぬ義理である。
「私の我儘に付き合ってくださり、ありがとうございます。どうかランを、テイエムベルレクスをお願いします」
「お任せください。伊和本先生の後釜、しっかりと努めてみせます。必ず期待に応えてみせましょう」
2人は厚い握手を交し、ここに1年の目標は制定された。
後はその先にある景色を目指すだけである。
無理難題、不可能とも言える永遠の金字塔への挑戦は静かに、しかし確かな決意と共に幕を開けようとしていた。