4月1日、阪神競馬場。
今日施行されるレースは大阪杯というGIレース。嘗ては『大阪盃競走』、続いて『サンケイ大阪杯』、そして『産経大阪杯』と三度名前を変え、長らく関西圏において歴史ある重賞競走として広く知られたGIIレースである。
上半期の前哨戦として機能していたレースであり、過去にはスーパークリークやメイショウサムソンらなどの名馬が本レースを前哨戦に春の天皇賞を制すという実績を持っていた。
しかし春の最大目標であった天皇賞(春)が国際的にステイヤーの評価が下落傾向にあることに伴って回避する陣営が増加し、そのまま海外遠征を目指すケースが常態化しつつあった。更に芝2000mのGI競走の少なさ、更なる適性距離の細分化という様々な事情と思惑が重なったことで『春の古馬中距離王決定戦』を作り出すことを目的に大阪杯はGIに昇格した経緯を持つ。
そして大阪杯がGIに昇格したことに伴って新たな古馬王道路線が確立した。
大阪杯、天皇賞(春)、宝塚記念の3競走を対象に春の古馬王道路線が定義され、俗に言う春古馬三冠が制定された。
この春古馬三冠に加えた秋の古馬王道路線、天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念──即ち秋古馬三冠を入れた六つのGIを制する偉業こそ古馬王道路線完全制覇、即ちグランドスラムである。
未だこれを成し遂げた馬はテイエムオペラオーただ1頭のみ。しかも当時大阪杯はまだGIIであり、大阪杯を除いた五つのGIレースが対象だった。大阪杯がGIに昇格したことで難易度は更に上がっただろう。
六つのGIレースを全て勝ち抜くには、1年間を通して常に最高のパフォーマンスを維持し続けるだけでなく、故障や疲労を許さず、予測できぬ馬場と都度変わるコース、そして虎視眈々と玉座を狙うライバル達との激戦などあらゆる困難を乗り越えなければならない。
クラシック三冠とは異なる難しさを持つ、「無謀」とも「不可能」とも囁かれる偉業。
その無謀とも思える偉業へ真正面から挑むと宣言したのが、前年2017年、史上8頭目の三冠馬となり、それに加えて史上初の無敗の3歳四冠を成し遂げた絶対王者テイエムベルレクスだった。
阪神競馬場には朝早くから6万人を超えるテイエムベルレクスのファンが詰め掛けていた。その多くがテイエムベルレクスのグッズを握り締めており、彼の新たな伝説、その第一戦が始まるのを心待ちにしていた。
《キタサンブラックを下した馬がその誇りを胸に新たな時代を作るのか。それとも、競馬界に新たな息吹をもたらした4歳世代が、世代を変えるのか。さぁ、2018年阪神最初のGI競走のファンファーレです》
スターターが上がり、旗が掲げられたのを合図に場内へ流れる甲高いファンファーレ。統率された音楽隊によって奏られるファンファーレに乱れはなく、ゲート前で周回している出走馬達へ降り注がれていった。
《ターフが揺れる、桜が揺れる大阪音楽大学のファンファーレに乗せて、この空気。全国に届けとばかり、春爛漫です。GI2年目を迎えた大阪杯、今年は前年の年度代表馬、史上初の無敗の3歳四冠馬のテイエムベルレクスが出走致しました。春の日差しに照らされる栗毛の馬体はまさに玉体。万全な状態であることは一目瞭然です》
スタンドから巻き起こる大歓声、その声援を背に受けながら各馬のゲート入りが進む。
実況席でもファンファーレの演奏が終わったのを見計らってこれから繰り広げられるレースの解説に入った。
《さぁ、鷹梁さん、展開はどう予想されますか?》
《そうですね、恐らくまぁ、ヤマカツライデンが単騎で逃げてという形になって、それを見る形でテイエムベルレクスがレースを展開する、なのである程度隊列は早めに決まると思うのですけども、勝負所から直線も短いですから、そこからの攻防というのはね、やはりGIらしく非常に激しいものになるんじゃないかなという風に予想しています》
《
《そうですね、決め手に若干劣る馬でも勝ちに繋げられるコースだと思ってるので、その辺はやっぱりどうなるか見えないところがあるので楽しみな一戦だと思います。それでもやっぱりテイエムベルレクスが堅いですね。今日は内枠の方で逃げもできて、差すこともできる万能馬ですから期待が持てますね》
実況席でも話題の中心は三冠馬テイエムベルレクスであった。
未だ無傷の10連勝、重賞8勝、GI5勝という空前絶後の成績を残し、去年の有馬記念では現役最強馬のキタサンブラックを真っ向から打ち破った新星。古馬となって初のレースを迎えるこの大阪杯では前年引退したキタサンブラックに代わって現役最強馬の座に着くだろうと目されていた。
評論家達の間でもテイエムベルレクスが大本命の印を付けられ、前哨戦挟まずの直接の出走だというのにその信頼の度合いは高かった。
パドックでの評価も高く、掲示板に映る馬体重の増加は微々たるもの。艶々と輝く栗毛の馬体と陽の光を受けて反射する金色の鬣を靡かせる姿をパドックで見たファン達は更に成長した姿に見え、また馬主である嶺苑が年明けに「オペラオー以来のグランドスラムを狙う」と発表したことでファンは更に熱狂した。
そんな事情もあってか、テイエムベルレクスへの期待と評価は否が応でも高まり、単勝1.1倍という圧倒的な1番人気に支持されていた。
《先行争いから目が離せません。白い帽子2番のサトノダイヤモンド。凱旋門賞で敗れて、世界の壁に阻まれて、そしてまた日本に戻ってきてゲートの中に収まりました。キタサンブラックを破ったもう1頭シュヴァルグラン、4歳世代のアルアインもゲートの中です。そして、グランドスラムという大目標を掲げた4番のテイエムベルレクスもゲートに収まって準備完了です》
1番人気は古馬王道路線完全制覇を目標に掲げるテイエムベルレクス。2番人気は前哨戦の金鯱賞を快勝し、GI初制覇を狙うスワーヴリチャード。3番人気はレースレコードと同タイムの皐月賞2着馬のアルアインが推され、4番人気に菊花賞馬サトノダイヤモンド、5番人気にジャパンカップ勝ち馬のシュヴァルグランが続いた。
順調にゲート入りは進み、間も無く全馬のゲートインが完了する。そして場内に僅かな静寂が訪れる。
注目は2枠4番のテイエムベルレクス。グランドスラムの大目標を掲げている本馬にとってこの一戦は絶対に落とせないレース。ここを落としてしまえばグランドスラム達成の夢は無情にも敗れ去る。鞍上の倭達龍司に掛かるプレッシャーも相当なものであるが、緊張は見られない。それどころか笑みを浮かべる余裕が見受けられた。
《華やかな祭りの後に踏み出す一歩、花は咲く、時代は巡る、目指すは曇りなき至高の金字塔、グランドスラム第一戦、春の大阪、第62回大阪杯スタートです!》
実況の掛け声に合わせるようにガシャンッ!と金属音が響くと同時にゲートが一斉に開いて全馬一斉に走り出す。
《ちょっとバラついたスタートになった!テイエムベルレクスは良いスタートを切った!スワーヴリチャード、ちょっとタイミング合わなかった!後方からのレースを強いられるのか!》
特に大きな出遅れはなく、問題なくレースがスタートした。タイミングが合わなかったのか、少しスワーヴリチャードがモタついたスタートとなったが、中団からも差し切れる末脚を持つスワーヴリチャードにとってそこまで大きな問題ではない。鞍上のミゲル・デオドールも特に慌てる様子を見せず、馬を前に行かせて馬群に取り付かせて追走を開始する。一方でテイエムベルレクスは抜群のスタートを切り、軽快に飛び出す。他馬よりも一歩先に居るかのようなスタートを披露し、楽な手応えで先頭へ躍り出る。
《さぁ、最初は何が行くのか?やはり予想通りヤマカツライデンが行ったがおっと!内から何とテイエムベルレクスが先頭に立った!楽な手応えで先頭に!三冠馬テイエムベルレクスがハナを切りました!》
スタンドからの大歓声を浴びながら、先頭に立ったのはテイエムベルレクス。逃げ馬のヤマカツライデンよりも内枠の上に、メンバーの中で最も良いスタートを切ったのだからヤマカツライデンが先頭に立つことは叶わなかった。そして鞍上の倭達龍司はハナを切ってしまったことを確認すると、控えることはせず、思い切って逃げの姿勢を取った。
《これはまさかの展開!先頭はテイエムベルレクス、2番手にヤマカツライデンですが、内のサトノノブレスも行く。外からダンビュライト、押し上げていきます!内からサトノダイヤモンド、好位ポジションです。大歓声が沸き起こります。外からウインブライトが続いていく》
沸き上がる大歓声を背で受けながら、テイエムベルレクスは馬群を引き連れて最初のコーナーを回る。そしてそれを追うのはヤマカツライデンを筆頭とした古馬勢達。ヤマカツライデン鞍上の
《先頭走るのはテイエムベルレクス。ハナを切ったのはまさかの前年度の三冠馬です。逃げると思われたヤマカツライデンは2番手から、内々サトノダイヤモンド。そしてスワーヴリチャード、ちょっと後方から、最後方からのレースを強いられることになりました》
第1コーナーをカーブし、次に第2コーナーへ。
先頭を走るのは依然としてテイエムベルレクスだ。鞍上の倭達は手綱を持ったままで、楽な手応えで軽快に先頭を走って向こう正面に入る。
《1コーナーを越えました。少しずつ縦に長い展開になって、2コーナーに入っていきます。
野路菊ステークス以来の単騎の逃げ、テイエムベルレクスがハナを切ります。倭達龍司はまだまだ余裕の構え、2番手のヤマカツライデンに半馬身のリード。そこから1馬身差、ダンビュライトが3番手。その横からウインブライト、その外にゴールドアクターが続いている》
逃げの手を打ったテイエムベルレクスを先頭に、それを追って外から詰め寄ってくるヤマカツライデン。3番手にはクラシックを競ったダンビュライトが付き、その横からウインブライトとゴールドアクターが続いた。
《皐月賞の執念はまだまだ燃えている、アルアインが内から上がっていく。そして最内にサトノダイヤモンド、ここに付けた。十咲京汰、手綱を抑えています。その後ろにシュヴァルグランです。真ん中ペルシアンナイトが上がりに、内から3番のヤマカツエースも続いています。ヤマカツエースのその後ろ、トリオンフがじわじわと上がっていったサトノノブレス。内を通ってメートルダールです》
隊列は全体的に縦長となっている。先頭はテイエムベルレクスをそのままに、逃げ馬であったヤマカツライデンが2番手に付くという異例の展開。ダンビュライト、ウインブライト、ゴールドアクターが続き、馬群の内から徐々にアルアインが上がり始めていた。内にはサトノダイヤモンド、外にはシュヴァルグランが控え、その2頭に挟まれる形でヤマカツエースとペルシアンナイトが追走していたが、ペルシアンナイトは少し暴走気味に動き始める。外を通ってトリオンフが早くも動き始め、その内では4頭縦並びになる形でサトノノブレス、メートルダール、ミッキースワロー、スワーヴリチャードが続き、約3馬身離された最後方に居るのがマサハヤドリームという形になっている。
場内は騒然としており、どよめきが広がっている。
何せ先行を主体としていたテイエムベルレクスが逃げてレースを展開している。これには実況も、スタンドも、騎手の誰もが驚いた。
確かにテイエムベルレクスは逃げることもできる自在性があるの周知の事実だ。新馬戦とその後のオープン戦では逃げ戦法を披露し、後続を寄せ付けることなく完勝している。しかしそれはあくまでもレースの展開と馬に合わせた結果であり、クラシックでは王道の先行策で勝利している。
鞍上の倭達が先行策を得意としていることもあり、ここで思い切って逃げの手に出るのは完全に予想外だったのだ。予想していた騎手は居るには居ただろう。しかしハナを主張する馬が他に居たならばあっさりとハナを譲るだろうと考えていたため、そのままハナを切るとは考え付かなかったのだ。
そしてどうこうしてるうちにレースはもう間も無く1000mを通過しようとしていた。
先頭を走るのは依然としてテイエムベルレクス、鞍上の倭達龍司はまだまだ余裕の構えで手綱をまだ持ったまま。2番手、3番手はヤマカツライデン、ダンビュライトと態勢変わらず、そして4番手以降もそこまで隊列に大きな変化はない。しかし1000mの標識をもう間も無く通過しようとしたところで、あの馬が動いた。
《前半の1000mを60秒8というちょっとスローペースで動いた!マイペースな逃げであります、テイエムベルレクスです。そして、スワーヴリチャード、ミゲル・デオドール動いていった!ピンク色の帽子、赤い勝負服がなんと、先頭に立つのか!?先頭に立った!ミゲル・デオドールの奇襲!テイエムベルレクスに並び立ちます!》
後方待機に決め込んでいたスワーヴリチャードだが、向こう正面半ばで鞍上のミゲル・デオドールが手綱を緩めれば、すいすいと外から捲り上げて一気に前方へ進出。先頭のテイエムベルレクスに並び立つ。そして先頭に並び立ったことを確認すると、再び手綱を絞ってスワーヴリチャードにストップをかけて消耗を抑える。
先頭に並び立ったスワーヴリチャード、しかし内のテイエムベルレクスも譲らない。内枠という有利を活かしてリードを保っている。そしてテイエムベルレクスもタイミングを見計らって自ら動き始めていく。
互いの息遣いすら聞こえそうな距離間の2頭。態勢そのままに、レースは第3コーナーへと飛び込んでいく。
《さぁ、中団グループにサトノノブレスが続いている。シュヴァルグランも箕卜洸誠、手綱を押している。内の方にサトノダイヤモンドは中団グループ。外からミッキースワローです。ちょっとゴールドアクター下がっていった。その後ろメートルダール、内からヤマカツエース。殿追走、13番のマサハヤドリームの展開で、ここでテイエムベルレクスが動いた!》
レースはもう間も無く終盤に差し掛かろうとしていた。
向正面から進出を開始し、第3コーナーの入口で早くも先頭に並び立ったスワーヴリチャード。それに競り合う形となっているテイエムベルレクス。中団からはトリオンフ、後方だったミッキースワローも、スパートを掛けて外から徐々に徐々にと上がり始めている。スワーヴリチャードを皮切りに、各馬が忙しなく動き始めていた。手綱を動かして馬を押し、仕掛けるために早くも鞭を入れる騎手もいる。
そして第3コーナーから第4コーナーの中間地点。ちょうど600のハロン棒を通過した辺りからテイエムベルレクスも本格的に仕掛け始めた。第3コーナーから仕掛け始めた脚を更に動かし、一気にスパートを掛ける。迫っていたスワーヴリチャードを突き放しにかかり、そのまま独走態勢に入ろうとする。
レースは間も無く最終コーナーを回ろうというところ。テイエムベルレクスが加速し出したのを見て、ミゲル・デオドールも手綱を動かしてテイエムベルレクスに食らい付いていく。
《600の標識を通過して、一気にベルレクスが加速する!2番手のスワーヴリチャードを突き放しにかかるのか!途中で動いたミゲル・デオドールは手を動かしている!外の方からトリオンフ!おっと、4歳世代前に3頭!トリオンフが先頭に変わるのか!?》
最終コーナーをカーブして直線へ向く。356mという短いとも長いとも言い切れない絶妙な長さ。ゴール前には高低差2mの坂も待ち構えているので、この坂を力強く越えられるタフさも要求されている。
最初に直線へ入ったのはテイエムベルレクス。経済コースを突いて先頭を走り、スパートを掛けて速度を上げる。後続もそれを追って続々と最終コーナーに入る。すぐ後ろ2番手にはスワーヴリチャード、3番手には外から追い上げてくるトリオンフ。その2頭の間を割ってアルアインが押し上げて前方集団を捉えにいく。
《先頭は依然としてテイエムベルレクス。倭達はまだステッキを抜かない!左右をチラリチラリと見た、スワーヴリチャード、ミゲル・デオドール!外にはトリオンフ、内からはアルアイン!ダンビュライト上がってきた!ダンビュライトが上がってきた!4歳世代が前に来ている!先頭は4歳世代筆頭のテイエムベルレクス!1馬身から2馬身のリード!倭達龍司は余裕の構え!》
最後の直線へ向いて各馬が追い上げ始める。各々が自慢の末脚を発揮し、どんどんとスピードを上げていく。しかし先頭を行くテイエムベルレクスまで届かない。
2番手以降ではスワーヴリチャードが馬群から抜け出てテイエムベルレクスを肉薄しようとするが、差は虚しくも広がるばかり。鞍上のミゲル・デオドールも鞭を振るうが、その効果は芳しくない。
200のハロン棒を通過し、最後の阪神の急坂に差し掛かる。スワーヴリチャード含む後続の脚が少し鈍る中、先頭のテイエムベルレクスは全く問題にせず駆け上がり、追えば追うほど離されていくスワーヴリチャードを尻目に、テイエムベルレクスは後続との差を更に広げる。
《後続各馬が追い上げるが、先頭はテイエムベルレクス!2馬身から3馬身、4馬身と差を広げる!外からペルシアンナイト、アルアイン!内でスワーヴリチャードが粘る!しかし、倭達龍司だ!圧巻の逃げ切り!桜と共に、テイエムベルレクス世代交代!》
真っ先にゴール板を通過したのは栗毛の馬体、三冠馬テイエムベルレクス。2着のスワーヴリチャードに4馬身の着差を付けて優勝を果たし、グランドスラムという大偉業に向け、まず一冠目を獲ったのは4歳世代の王者だった。
《世代が変わった!これが三冠馬テイエムベルレクス!圧倒的な強さ!4馬身の差を付けて、グランドスラムに向けて一直線!倭達龍司開戦の狼煙!楽な手応えのまま、逃げ切ってしまったテイエムベルレクスと、思い切って行った倭達龍司!これが新しい世代の実力か!勝ちタイムが1分57秒5、上がり3ハロン33秒5。三冠馬の力は未だ健在!最後の600m、その豪脚で、完封しました!》
テイエムベルレクスは終始馬なり、倭達龍司は終始持ったまま。それによって見せられたライバル達を退ける4馬身差の圧勝劇。
テイエムベルレクスと倭達龍司はグランドスラムの伝説を歩み始める。大阪杯の勝利はその序章に過ぎない。
今日この日、彼らの伝説は再び幕を開けた。