個人的な事情とちょっとノイローゼ気味になっていたので、全然書けませんでした。
北海道新冠町
「そっちはどうだ?」
「こちらも大体集合しましたね」
放牧中の馬を一箇所に集めていた牧場の厩務員達。馬達を集牧し、馬房へ戻そうと作業を進めていた時だ。
「他に残っている馬は?」
「あとは……あっ、オペラオーがまだですね」
「オペラオーか。なら確か向こうの方に居たのを見たぞ」
バインダーを片手に持っていた厩務員の1人はテイエムオペラオーの居た場所を指差す。
「分かりました。見てきます」
「頼んだぞ」
まだ集牧できていない馬の中には世紀末覇王と名高いテイエムオペラオーが居た。
ここ最近はテイエムベルレクスとテイエムノアアーク産駒の活躍によって2017年から交配数が増えていたテイエムオペラオー。
今年もそれなりの繁殖牝馬と交配することが予定されている。実際に今年も何頭か種付けを終えおり、その中には現在古馬とクラシックを賑わせているテイエム兄弟の母であるブランベラルーシも含まれていた。
「お〜い、オペラオー。放牧はもう終わりだぞー」
そんな風に呼び掛けながら、テイエムオペラオーを探す。何時もなら放牧地の草を食べてのほほんと過ごしているはずなのだが、今日は中々姿が見付からない。
「オペラオー、何処、に……」
厩務員が見付けた時、テイエムオペラオーは芝生の上で横たわっていた。
「オペラオー!」
慌ててテイエムオペラオーの元に駆け寄って状態を見る。体に触れれば体温は著しく低下しており、下顎に触れて脈を測るが、心拍は感じられなかった。
「おーい!大変だ!オペラオーが!」
1人の厩務員の叫び声が牧場全体に響き渡った。
「残念ですが、もう……」
呼ばれた獣医師は当てていた聴診器を外しながら首を横に振った。
薄々察していたが、やはりいざこうして面と向かって言われるとやるせない思いが込み上げてきてしまう。
「……オペラオー」
嘗ては幾度となく喝采を浴び、数え切れない程の人々を熱狂させた名馬。
どんな苦境にも屈さず、自らの覇道を駆け抜けた絶対王者。
そして今は競馬界を賑わせる兄弟の父として、再び注目を浴びることになった種牡馬の1頭。
誰もが不可能だと断じるに違いない金字塔を築き上げた世紀末覇王の最期は、あまりにも静かであった。
「……でも、良い顔じゃない。きっと、安らかに向こうに渡れたんだわ」
牧場の職員であった1人の女性がそう呟いた。
広々とした放牧地の上で横たわるテイエムオペラオーの顔を覗けば、その顔はまるで眠っているかのように穏やかであった。そしてテイエムオペラオーが顔を向けていた方向には、いつの間にか虹が架かっていた。
大きな虹を渡ったのだと、職員一同は感じた。
5月17日。
テイエムオペラオーは、その生涯を終えた。
世紀末覇王と称された馬の最期は驚く程静かなものであった。しかし、覇王と渾名されたその馬はその静謐の中にも、言葉では言い表せぬ威厳と神々しさを残して、その馬生は幕を閉じた。
テイエムオペラオー死す。
その見出しと共に、テイエムオペラオーの死は伝えられた。
現在競馬界を賑わせているテイエムベルレクスとテイエムノアアークの活躍と国民的な人気から、彼らの父として知名度を飛躍的に高めていたテイエムオペラオーの名は、一般紙にもスポーツニュースとして掲載された。
競馬ファン全体にその死が報じられている時、その知らせは倭達龍司の耳にも届いていた。
その知らせを聞いた時、倭達は雷に打たれたような衝撃だった。目の前が一瞬で真っ黒になり、衝撃で体が揺れた。しかしそれをグッと堪えて何とか踏み止まった。
今はテイエムノアアークのダービーに向けて準備を進めている最中であり、1週間もすればダービーを迎える。
馬主にとっても、調教師にとっても、馬にとっても、誰にとっても重要なダービーなのだ。こんな半端な気持ちで騎乗して惨敗することになれば、テイエムベルレクスとテイエムノアアークの主戦を降りなくてはならないだろう。
その後も身に力が入らないまま無情にも時間は過ぎ去り、本番のダービーを迎えた。
倭達の騎乗するテイエムノアアークはもちろんのこと1番人気だ。クラシック二冠制覇と史上3組目の兄弟制覇に期待が懸かっているが、単勝オッズは1.9倍と少し高めだ。
ここまでの成績はこのダービーの出走メンバーと比べると特筆している。勝ち方も後方から一気に捲るという追い込み形で人気を集める理由はこれでもかとあったが、オッズがここまで高くなった理由は、偏に騎手である倭達の不調にあった。
相棒の死によって精神面に不調を抱えている倭達。どんな思いを抱いていたのかはファン達から見ても明らかであり、そんな蟠りを抱えた状態で大丈夫なのかと不安視されていた。
そして、そんな状態で挑んだ日本ダービー。
大歓声に包まれた東京競馬場。幾多の名馬が駆け抜けたこの舞台で、テイエムノアアークは1番人気に推されて出走した。
結果だけ言えば、勝つことができた。
いつものようにスタートしてから後方で待機。特にアクションを起こさずに、各馬の動きを窺い、仕掛け時を計り続ける。余計な邪魔をせず、ただ追い出す機会を窺い続けた。
そして最後の直線に向く4コーナー手前で一気に仕掛け、倭達が鞭を入れてそのまま抜け出しにかかる。直線ではゴール板までワグネリアンとの競り合いを続け、僅か4cmというハナ差で制して史上3人目となるダービー連覇を達成。テイエムノアアークもテイエムベルレクスとの兄弟制覇を成し遂げて三冠に王手をかけた。
ゴール後、倭達は暫く動けなかった。清々しさと悶々とした息苦しさ、葛藤などと多くの思いが渦巻いていたからだ。
勝ったのだと知ったのは、着順を知らせる掲示板を見上げた時だ。しかし、それを知っても倭達の蟠りは晴れなかった。この勝利に倭達は胸を張ることができず、最高の騎乗ができたと言えなかった。
このダービーの勝利は結果論だった。
同期の冨久長に発破を掛けられ、テイエムノアアーク自身の能力があったから勝つことができた。
この勝利が嬉しくないわけがない。出走するだけでも名誉なことである日本ダービーに出走して勝つことができたのだ。この勝利を嬉しく思わないはずがなかった。
しかしその喜びの中にも、テイエムオペラオーを失った悲しみは残り続けていた。倭達の心にはまだぽっかりと穴が空いている感覚が残り続けている。
ダービーが終わって間も無く、倭達はテイエムベルレクスの調教のために栗東の螺浦厩舎に帰ってきていた。
ダービーの次は上半期を締め括る春のグランプリ、宝塚記念がある。この宝塚記念は初の春古馬三冠達成や最多タイとなるGI8勝目がかかる絶対に落とすことのできないレースだ。しかし、当の倭達は未だテイエムオペラオーの死に踏ん切りがつかず、迷いを見せていた。
「やぁ、ラン」
ある時、倭達はテイエムベルレクスの下に馬房に訪れていた。
「少し、僕の昔話に付き合ってくれないか?」
馬房から顔を出すテイエムベルレクスと倭達は向き合う。テイエムベルレクスは倭達をじっと見詰める。
「ちょっと前にな、僕の恩人、と言うか恩馬かな。お前のお父さんであるテイエムオペラオーが天国に旅立ったんだ……」
倭達はテイエムベルレクスの額に触れ、静かに語り出す。
「オペラオーは本当に強くてな……僕みたいな半人前の騎手を乗せてGIを7勝したんだ。それこそもっと上手い人が乗ればお前みたく三冠も取れたような馬だったんだ」
静まり返る厩舎の中で、倭達の声が響く。
「そのオペラオーって馬にな、最初から最後まで乗ってたんだ。一回降ろされそうになったんだけど、伊和本先生が嶺苑さんを説得してずっと乗せてくれたんだよ」
菊花賞で味わった苦い思い出は今でも鮮明に思い出せる。
アドマイヤベガを意識する余り、ライバルであった先行したナリタトップロードを疎かにしてしまった。案の定、直線だけで捉えることができず、先着を許した。
脚を余しての敗北に、当然だが、馬主である嶺苑は憤慨した。しかも過去最高に仕上げたテイエムオペラオーを自身の騎乗ミスで敗北したのだ。
上がり3ハロンはメンバー最速だったが故に、自分のミスをとにかく悔やんだ。自分から勝利を手放したようなものだ。
「……デビューした時からオペラオーと一緒にずっと戦ってきた。その中でオペラオーからたくさんの贈り物を貰ったんだよ。競馬がなんなのか、GIタイトルとか、とにかくたくさん貰ったんだ。だけど、僕はオペラオーに何も返すことができなかったんだ」
倭達はデビュー3年目で、駆け出しの身であったが、伊和本の意向で厩舎の馬には積極的に乗せてもらっていた。そしてテイエムオペラオーもその内の1頭だった。
まだまだ新人の域を出ず、GI馬の乗り味を知らなかった倭達は、当初テイエムオペラオーのことを普通の3歳馬と判断していた。振り返れば見る目が無いにも程があるが、それも無理はない。当時のテイエムオペラオーは期待馬ではあったが、特筆する程ではなく、サドラーズウェルズ系の実績は日本では皆無だったからだ。
当初の低評価を覆して七つのGIを勝ち取ったテイエムオペラオー。全戦で騎手を務めることになった倭達はテイエムオペラオーの唯一無二の相棒として多くの栄光を掴み、GIの味と競馬が何たるかをテイエムオペラオーを通じて学んだ。
しかし自分は何も力になれていないのだと、2000年の有馬記念で実感し、2001年の宝塚記念から己の未熟さを突き付けられた。
結局貰いっぱなしでテイエムオペラオーの現役は終わった。自分の力で勝利に導くことはできず、負んぶに抱っこのままで、何も返すことができなかった。
「だから、オペラオーに誓ったんだ。GIを勝って、立派な騎手になって会いに行くって」
そう、誓ったのだ。テイエムオペラオーの引退式の場で。
言葉を詰まらせながら、「一流の男となって、あの馬に認められるような騎手になりたい」と誓ったのだ。
「でも、やっぱりGIの壁は大きくてな。全然勝てなかったんだ。2着まで食い込んだことは何回かあったんだけど、やっぱりそこが頭打ちでね。自分の爪の甘さに何度も嫌気が差したさ」
しかし現実は無情だ。テイエムオペラオーが引退してから何度も挑んだGIレース。
掲示板を確保し、何度か2着、3着と好走することは多々あった。しかし結局はそこが頭打ちで、勝利にまでは届かなかった。
あと一歩、そのあと一歩が届かなかった。
勝利までほんの少しの小さな差が、ただ遠かった。
「そして、ランと出会って、お前がオペラオーの子供だって知って、乗せてもらえることになって本当に嬉しかったんだ」
そう言って、倭達は再びテイエムベルレクスの頭を撫でる。
「お前と出会ってもう、7個もGIを獲ることができた。いや、弟も合わせたら10個かな。それにエリザベス女王杯も加えると11個だ。……これまで、GIを全然勝てなかったのに、お前達と出会ってからもう11勝しちゃったよ」
倭達は一つずつ自分の指で数えていく。
テイエムベルレクスの朝日杯、クラシック三冠、有馬記念、大阪杯、天皇賞(春)。
テイエムノアアークはホープフルステークスと皐月賞、日本ダービー。
そして初の牝馬GIを掴んだクロコスミアのエリザベス女王杯。
「いくつもGIタイトルを取って、その中にはダービーまであって、夢だと思ってた三冠ジョッキーにもなれたんだ。全部、ランのおかげだ。そう、ランのおかげなんだ」
怒涛の勢いで掴んだ十一個のGIタイトル。
彼らのおかげで倭達の中央GI勝利数は一気に18まで増えた。
そして全てのホースマンが夢見る日本ダービーを勝利し、そして限られた者にしかなれない三冠ジョッキーにもなることができた。
騎手の誰もが羨むだろう。
誰もが一流だと呼ぶに相応しい成績だろう。
「GIを勝って、あの時よりもマシな騎手になれたと思った。前に進めたと思ったんだ。朝日杯を勝ったその翌年に、胸を張ってオペラオーに会いに行けたんだよ。GIを勝ったぞって」
朝日杯を勝ってどれだけ喜んだだろうか。どれだけ嬉しかっただろうか。
ようやく約束を果たせた。
ようやく「勝ったぞ」と伝えることができた。
「だけど……オペラオーが亡くなって、その1週間後にアークでダービーに乗ったんだけど、全然ダメで……たくさん心配かけちゃったんだ。なんとか勝てたんだけど、『今日はアークのレースだろ』って冨久長に発破を掛けられなきゃ、まともに乗ることもできなかった。アークの能力がなければ、ダービーは勝てなかったよ」
倭達の表情が再び曇り、懺悔のような悔恨が吐き出された。
テイエムオペラオーの死を受け止めきれず、ダービー当日、倭達は精神的不安を抱えていた。何度も背中を預け、何度も勝利を分かち合った相棒の死は、これでもかと倭達の精神を容赦なく削り取っていた。
どれだけ気丈に振る舞えても、やはり愛馬を弔った悲しみは計り知れない。
「……少しは成長したんだと思ってた。でも、アークのダービーで思い知らされた。実際はただお前に乗っているだけだけで、僕自身何もできていないじゃないかって時々思うんだ。何一つ成長していないんじゃないかって、不安なんだ……」
倭達の言葉は弱くなっていき、それに合わせてテイエムベルレクスの毛並みに触れる倭達の指先が止まる。そしてダービーの勝利を誇ることができなかった。
苦しそうな表情を浮かべ、自分の勝利を否定するような倭達を、テイエムベルレクスはその瞳で真っ直ぐ捉えている。
「結局、僕はお前みたいな希代な名馬に勝たせてもらって、自分は上手くなったって舞い上がっていただけに過ぎないんじゃないかって思うんだよ……」
喉を詰まらせながら吐き出した言葉は自己嫌悪と不安に満ちていた。
それは誰かに責められたから出てきた言葉ではない。
GIを勝利したのだから、当然騎手である倭達の評価は上がる。しかしその評価が、自分の本当の実力ではないのではないかと思ってしまうことが恐ろしくて堪らなかった。
今まで積み重ねてきたものが、すべてベルレクスやアークといった強い馬の力によって作られたものだったのではないかと思ってしまうことが、結局自分は成長していないと認めてしまうことが、倭達は怖かった。怖くて仕方がなかった。
自分が騎手として何も変わっていないのだと、自分自身で認めてしまうことが、ただ怖かった。
「朝日杯にクラシック三冠、それに有馬記念、大阪杯と春天も勝って、あっという間にGI7勝だ。もう……既に、シンボリルドルフやディープインパクト、それこそオペラオーみたいに凄い馬だろ、お前は?」
倭達の言葉は震えている。
テイエムベルレクスの父であるテイエムオペラオーは誰もが認める程偉大な馬だ。
GI7勝という記録を持つ馬は半世紀以上続く日本競馬の中でも限られた馬しか持たない記録であり、国際GIだけに限定した場合、未だ5頭しか持ち得ないモノだ。そしてその息子であるテイエムベルレクスはある意味ではテイエムオペラオーを超えたと言ってもいいかもしれない。
どの馬も4歳秋以降にGI7勝という記録に並んだが、テイエムベルレクスは史上最速となる4歳春でその記録に早くも並んだ。GI勝利数だけでなく、その数に並ぶまでの早さは歴代最速。GIの勝ち方もレースレコードが二つ、ワールドレコードが一つと、記憶に残るレースを見せている。
最早言葉にするまでもない程の偉業を掴んでいるテイエムベルレクスが歴代の名馬達にも劣る存在ではないことは誰もが理解しているだろう。
「僕は……」
自分が最後まで思い続けているテイエムオペラオー。
そのテイエムオペラオーに比肩する程の馬になったテイエムベルレクス。
そんな馬に乗っている自分が、苦しかった。
「……本当にお前に相応しい騎手だと思うか?」
そう、だからこそ、倭達はそんな言葉出てきてしまう。
何度か呼吸を繰り返し、意を決して紡いだ言葉は酷く弱々しい。
今まで数々の大舞台で勝利を挙げてきた騎手とは思えない程頼りなく、震えている。しかしその弱々しい倭達の声は静まり返った馬房の中に落ちて大きく響いた。
「……」
当然だが、テイエムベルレクスは何も答えない。
声帯を持たぬ、馬であるテイエムベルレクスに人の言葉で返事をすることなどできない。
ただ、ベルレクスは倭達を静かに、その瞳で真っ直ぐに見詰めていた。
秋古馬三冠に向け、どのレースを前哨戦にするかのアンケート。一番票数の多かったレースを使おうかなと考えています。
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京都大賞典 GII
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オールカマー GII
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毎日王冠 GII