You are my Beginning 作:コンスタンシア
[Side:ほたる]
お昼を食べ終えた私たちは学食の喧騒を背にして、春の名残を感じさせる陽気の中庭へと足を踏み出した。
口の中に残るバニラアイスの甘さと、さっきの「間接キス」の熱が、まだ頬の奥で燻っている気がする。
隣を歩く裕也くんは、いつもの涼しい顔で歩いている。
その泰然とした横顔を見ていると、ドキドキしているのが私だけみたいで少し悔しいけれど……でも、それ以上に嬉しい気持ちが勝っていた。
「……案内、するね。こっちがメインの中庭」
私は努めて平然を装いながら、彼を一歩リードするように前を歩いた。
5月の風が、新緑の匂いを運んでくる。
芝生の上では、大きなスケッチブックを広げてデッサンをしている学生や、木陰で粘土をこねている工芸科の子たちが思い思いの時間を過ごしている。
「へえ……結構、広いんだな」
裕也くんが興味深そうに周囲を見渡す。
その視線は、ただの観光客のそれとは違って、何かを分析するような、クリエイター特有の鋭さを帯びているように見えた。
「それに、空気が違う」
「空気?」
「うん。油絵具と、土と、緑の匂いが混ざってる。俺がいつも仕事をしていた音楽スタジオの、あの閉塞的で人工的な空気とは大違いだ」
彼はふっと鼻を鳴らし、眩しそうに空を見上げた。
「開放的で、色が溢れてる。……いい場所だね、ここは」
「……うん。独特だけど、私、この匂いが好きなの」
彼の言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
私が毎日通い、悩み、そして筆を動かしているこの場所。
いわば私の「戦場」であり「日常」であるこの空間を、彼が肯定してくれたことが、何よりも誇らしかった。
「ふふ、でしょ? ここが私の、大好きな場所なんだ」
すれ違う学生たちが、向こうの国に馴染んだラフな格好の男性――裕也くんを、不思議そうに、あるいは少し頬を染めてチラチラと見ているのが分かった。
「誰あの人?」「モデルさんかな?」なんてひそひそ話も聞こえてくる。
(……ふふ、いいでしょ?)
私は心の中で密かに優越感に浸りながら、誰にも気づかれないように、そっと彼のシャツの袖口を摘まんだ。
指先だけで繋がっているこの距離。
大学の中なのに、二人きり。
まるで、秘密のデートをしているような背徳感と高揚感が、足取りを軽くさせる。
「次はあっち。私の作品が飾ってある展示ホールに行ってみる?」
「もちろん。是非見せてほしい」
彼の優しい声に背中を押され、私は少し大胆に、彼との距離を詰めて歩き出した。
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[Side:裕也]
ほたるに案内され、重厚な扉を開けて展示ホールへと足を踏み入れた。
先ほどまでの中庭の開放感とは打って変わり、そこは静寂に包まれた空間だった。
高い天井には天窓があり、そこから差し込む自然光が、白い壁に掛けられた数々の絵画を柔らかく照らし出している。
コツ、コツ、と俺たちの足音だけが響く。
「ここはね、学生の優秀作品とか、教授の推薦作品が飾られる場所なの」
ほたるは声を潜め、図書館で話すように囁いた。
その横顔は、さっきまで俺に照れていた少女のものではなく、真剣な眼差しを持つ一人の「表現者」の顔つきになっていた。
俺は彼女の後ろについて歩きながら、壁に並ぶ作品たちを眺めた。
どれも学生の作品とは思えないほどエネルギーに満ちている。
だが、その中でも一際、俺の目を引く一枚があった。
ホールの奥。
淡い色彩で描かれた、窓辺の風景画。
派手な色は使われていないのに、そこにある光の暖かさや、風の温度までが伝わってくるような――。
「……これ」
俺が足を止めると、ほたるも立ち止まり、照れくさそうに笑った。
「あ、見つかっちゃった。……これ、留学する前に描いたやつなの」
「すごく……いいな」
お世辞抜きで、そう思った。
音楽と絵画。表現する方法は違っても、根底にあるものは同じだ。
彼女の絵からは、音が聴こえる。
静寂の中に浸透するように響く、透明で優しい音。
「この前のグランプリの絵もそうだったけど……ほたるの絵には、揺るがない『芯』があるよ。俺は、ほたるの描くこの透明感が好きだ」
「――っ」
彼女が息を呑む気配がした。
振り返ると、彼女は耳まで真っ赤にして、俯いている。
「ありがとう……裕也くんにそう言ってもらえるのが、どんな評論家の言葉よりも……一番、自信になる」
消え入りそうな声。けれど、そこには確かな喜びが滲んでいた。
彼女はそっと顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見つめ返す。
「私ね、もっと頑張る。裕也くんが作る音楽みたいに、誰かの心を震わせられるような……そんな絵を描きたい」
「ほたるなら描けるさ。……いや、もう描けてるんじゃないか?」
俺は自然と手を伸ばし、彼女のさらさらとした髪を撫でた。
ここは学校で、公共の場だということは分かっている。
けれど、この純粋な瞳に向けられた信頼に応えるには、言葉だけでは足りない気がした。
「……あ」
彼女は驚いたように目を丸くし、それからふにゃりと目を細めて、俺の掌に頭を擦り寄せてきた。
誰もいない展示ホールの片隅。
静謐な空気の中、俺たちは共犯者のように微笑み合った。
幼馴染という枠を超えて、互いをリスペクトし合うクリエイターとして。 ――そして想い合う男女として。
「……そろそろ、午後の講義の時間だろ?」
名残惜しさを押し殺して告げると、彼女はハッとして時計を見た。
「あ、本当だ! 行かなきゃ……」
「頑張れよ。応援してる」
「うん! ……ありがとう、裕也くん」
彼女は最後に、ギュッと俺の指先を握りしめ、それから背を向けて走り出した。
ホールの出口で一度だけ振り返り、大きく手を振る彼女の姿は、このホールに飾られているどの絵画よりも鮮烈に、俺の目に焼き付いた。