You are my Beginning 作:コンスタンシア
[Side:ほたる]
音のする方へ一歩近づくたびに、ざわめいていた空気が、不思議と透明になっていくのを感じた。
さっきまで、あれほど私を委縮させていた駅前の喧騒や、人混みの圧迫感。
それらが、ピアノの旋律に触れた瞬間、まるで霧が晴れるように「心地よい背景音」へと変わっていく。
(……不思議)
広場の一角には、すでに幾重もの人垣ができていた。
買い物袋を提げた主婦の方、休日を満喫している学生たち、手を繋いだ老夫婦。
本来なら足早に通り過ぎていくはずの人たちが、まるで魔法にかけられたように足を止め、その中心を見つめている。
泣いていた赤ん坊が泣き止み、スマホを見ていたサラリーマンがふと顔を上げ、肩の力を抜く。
そこには「他人同士の冷たい距離」はなくて、代わりに温かい暖炉のそばに集まったような、不思議な一体感が漂っていた。
「……どんな人が弾いてるんだろう」
好奇心が、人見知りの不安を凌駕する。
私は吸い寄せられるように人垣の後ろへ立ち、爪先立ちをして背伸びをした。
私の身長じゃ、中心にいる演奏者の姿はよく見えない。
けれど、人の波の隙間から、カラフルなペイントが施されたアップライトピアノと、その前に座る男性の後ろ姿がちらりと見えた。
「すいません、ちょっとだけ……」
小声で謝りながら、私は人垣の切れ目へと身体を滑り込ませた。
もう少し近くで、この優しい音の主を見てみたい。
そう思って、視界が開けた瞬間――。
私の時間は、唐突に止まった。
(……あ)
息を呑むことさえ忘れて、私はその場で立ち尽くした。
見間違えるはずがなかった。
私の記憶のアルバムに、何枚も何枚も保存されている、あの大好きな背中。
「……裕也、くん……?」
声にはならなかった。
ただ、唇が音のない名前を形作っただけ。
彼だ。
私の幼馴染であり、今、私が一番会いたい人。
彼が紡ぐ旋律は、まるで会話をしているみたいだった。
――歩き疲れた?
――今日はいい天気だね。
――少し休んでいってください。
そんな風に、通り過ぎる人たち一人一人に語り掛け、包み込むような音。
だから、みんな足を止めるんだ。
彼の音楽には、人を惹きつける引力がある。
それは技術が上手いとか、有名な曲だとか、そんな次元の話じゃない。
彼の持つ「優しさ」そのものが、指先を通して音に変換されているんだ。
(……そっか)
さっき、私が遠くでこの音を聴いて「落ち着く」と感じた理由が、腑に落ちた。
これは、彼の声だ。
私が不安な時、落ち込んでいる時、いつも隣で「大丈夫だよ」って支えてくれた、あの大好きな声と同じ温度を持った音。
人混みが苦手な私が、無意識にここまで歩いてきたのは、偶然なんかじゃなかった。
心が、彼を見つけたんだ。
ドクン、ドクンと心臓が高鳴る。
演奏に集中している彼は、背後の私には気づいていない。
時折、身体をゆったりと揺らしながら、楽しそうに、愛おしそうに鍵盤を叩く彼。
お昼の暖かい日差しが差し込む広場。
光の中でピアノを奏でるそのシルエットが、神々しいほどに輝いて見えた。
私は人垣の最前列で、バッグを手に持ったまま動けなかった。
声をかけることすら躊躇われる。
ただ、この美しい景色を、一秒でも長く網膜に焼き付けていたい。
「……素敵だよ、裕也くん」
誰にも聞こえない声で呟く。
演奏が終わるその瞬間まで、私は瞬きさえ惜しいと思いながら、ただひたすらに彼の背中を見つめ続けていた。
この音色が止むまで、魔法が解けないことを願いながら。
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[Side:裕也]
最後の音が、広場全体に反響し、空へと溶けていく。
鍵盤から指を離すと、一瞬の静寂の後、パラパラと、やがて大きな拍手が沸き起こった。
ストリートピアノとはいえ、こうして誰かに聴いてもらえるのは、スタジオでの録音とは違う生の温かさがある。
椅子から立ち上がり、集まってくれた人々に軽く一礼をした。
ふと、視線を上げた時だった。
人垣の最前列。
バッグを取っ手を両手で持ち、真っ直ぐに俺を見つめている女性がいる。
(ッ……ほたる?)
その姿を認識した瞬間、心臓が大きく跳ねた。
見間違えるはずがない。
日の光を浴びてキラキラと輝くショートヘア。
そして、潤んだ瞳で俺を捉えて離さないその眼差し。
彼女は俺と目が合うと、ふわりと花が咲くように微笑み、唇を動かした。
『……素敵だったよ、裕也くん』
声は喧騒にかき消されて届かないはずなのに、その言葉は直接心に響いた気がした。
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「改めまして……こんにちは、ほたる」
早々にピアノの前から撤退し、少し離れた場所にあるベンチへと腰を下ろした。
長居して次の演奏者の邪魔をしたくないというのもあるが、正直なところ、"彼女と見つめ合っていた"という事実に、急激に恥ずかしさが込み上げてきたからだ。
「うん。……こんにちは、裕也くん」
彼女はまだ少し興奮冷めやらぬ様子で、けれど嬉しそうに俺の隣に座っている。
「それにしても、今日は凄い偶然だ」
「本当だね。まさか、こんなところで裕也くんのピアノが聴けるなんて思わなかった」
「俺も驚いたよ。……実は、今日は海外から来てる友人に『東京を案内してくれ』って頼まれててさ」
俺は待ち合わせ場所に来た経緯を説明する。
「それで駅前に来たはいいんだけど……向こうでの癖が抜けなくて、かなり早く着きすぎちゃってね」
「ふふっ、裕也くんらしいね」
少しバツが悪そうに伝えると、彼女はクスクスと笑ってくれた。
その笑顔に救われる思いがする。
「ほたるはどうしてここに? 買い物?」
「ううん。今日はね、ねねっちとあおっちと待ち合わせしてるの」
彼女は目を輝かせて、今日一番のニュースを切り出した。
「ねねっちがね、一人でゲームを作って完成させたんだって! それを遊んでほしいからって、集まることになったの」
「……ちょっと待って?」
俺は思わず聞き返した。
以前、デバッグのアルバイトをしているとは聞いていたが…。
「桜さん……ゲームまで作るようになったの? 一人で?」
「うん! プログラミングを勉強して、全部自分で作ったんだって」
正直、頭の理解が追いつかない。
学生の頃の記憶ではあるけれど、俺の認識では、彼女はゲームをプレイする側――消費する側の人間だと思っていた。
それが、作る側へ。しかも独学で完成まで漕ぎ着けるなんて。
クリエイターの端くれとして、その熱量と行動力には敬意を表さざるを得ない。
「……すごいな。正直驚いたよ」
俺が感嘆の声を漏らすと、ほたるは自分のことのように誇らしげに笑っている。
「そんなに気になるなら、一緒に来ちゃう?」
彼女は少し身を乗り出し、からかうような瞳で提案してきた。
その誘惑は、今の俺にはあまりに魅力的すぎた。
桜さんが作ったゲームにも興味があるし、何より――もう少し、ほたると一緒にいたい。
「先約が無かったら、この目で確かめたかったところだよ…」
だから、俺の声には隠しきれない悔しさが滲んでしまった。
「ふふっ、残念」
上機嫌にウインクをして見せる彼女に、不覚にもドキリとさせられる。
最近の彼女は、時々こうやって俺の心を揺さぶってくるから油断ならない。
その時、ポケットに入れていたスマホが短く振動した。
「っ……っと、メッセージか。そろそろ到着したって内容かな?」
俺はポケットからスマホを取り出し、画面を確認する。
差出人は件の友人だ。
しかし、そこに表示されていたのは、到着の知らせではなかった。
『Yuya, I am SO sorry! My boss just dumped a bunch of work on me at the last second.
I’ll totally make it up to you, I promise, but I have to cancel for today... Man, I really wanted to hit up Akihabara. Akihabara!』
(ユウヤ、本当にごめん!ボスが土壇場で大量の仕事を押し付けてきたんだ。
絶対埋め合わせするって約束するから、今日はキャンセルさせてくれ……。あぁ、本当に秋葉原に行きたかったよ。アキハバラ!)
「……」
俺は天を仰ぎたくなるのを堪え、フリック入力で返信を打った。
『Pressing F for you. Enjoy the grind, corporate warrior』
(Fを捧げるよ(ご愁傷様)。社畜のプロとして残業頑張って)
送信ボタンを押し、スマホをポケットにしまう。
隣で様子を伺っていたほたるが、恐る恐る声をかけてきた。
「ど、どうしたの……?」
俺は少し苦笑いして、彼女に向き直った。
「件の友人は……どうやらボスにしょっ引かれて仕事になったそうだ」
「えっ……」
「ドタキャンだよ。……さて、今日一日の予定がぽっかり空いてしまった」
俺は少し芝居がかった仕草で肩をすくめ、独り言のように呟いた。
「どうするかな……」
その言葉を聞いた瞬間、彼女の表情が一変した。
驚きから、パァッと花が咲くような歓喜へ。
大きな瞳が、キラキラと輝きを増す。
「じゃあ……!」
彼女は俺の袖をギュッと掴み、期待に満ちた声で言った。
「じゃあ、私と一緒に……ねねっち達の所に行きませんか?」
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[Side:ほたる]
「改めまして……こんにちは、ほたる」
「うん。……こんにちは、裕也くん」
人混みを避けて移動したベンチ。
隣に座る彼の横顔を見ながら、私はまだ高鳴る心臓を落ち着かせるのに必死だった。
偶然ピアノを弾いている彼に出会えたこと。
そして今、こうして二人きりで座っていること。
まるでドラマみたいな展開に、頬が緩みっぱなしだ。
「それにしても、今日は凄い偶然だ」
彼が説明してくれた理由は、「アメリカから来ている友人の案内」だった。
待ち合わせ時間よりかなり早く来てしまったのだという。
(……そっか。お友達と約束があるんだ)
胸の奥がチクリと痛む。
せっかく会えたのに、この後すぐにお別れしなきゃいけない。
彼の誠実さを知っているからこそ、「じゃあ、そのお友達が来るまで一緒にいよう」なんてワガママは言えない。
「ほたるはどうしてここに?」
「ううん。今日はね…」
寂しさを笑顔で隠して、私は今日の目的を話した。
ねねっちが一人でゲームを完成させたこと。
それをあおっちと一緒に遊ぶために集まること。
「……ちょっと待って? 桜さん…ゲームまで作るようになったの? 一人で?」
裕也くんが目を丸くして驚いている。
その反応がなんだかおかしくて、同時に友達の凄さを彼が認めてくれたことが嬉しくて、私は誇らしい気持ちになった。
「…気になるなら、一緒に来ちゃう?」
「先約が無かったら、この目で確かめたかったところだよ…」
彼が本気で悔しそうに呟く。
その言葉だけで十分だった。
彼も、私(たち)と一緒にいたいと思ってくれている。
その事実だけで、今日のところは我慢しよう。
「ふふっ、残念」
精一杯の強がりと、少しの期待を込めてウインクしてみせる。
彼がドキッとしたような顔をしたのが見えて、私は密かにガッツポーズをした。
その時、彼のポケットから震える音がした。
「っ……っと、メッセージか」
彼がスマホを取り出す。
きっと、待ち合わせのお友達からだ。
もう時間なのかな…。
少しの寂しさを覚えながら、私は立ち上がる準備をしようと、バッグの持ち手を握りしめた。
けれど――。
画面を見た彼の表情が、困惑の色に曇った。
眉を寄せ、何かを諦めたようにため息をつく。
「ど、どうしたの……?」
悪い知らせ?
心配になって覗き込むと、彼は苦笑いを浮かべて私を見た。
「…どうやらボスにしょっ引かれて仕事になったそうだ」
「えっ……」
「……さて、今日一日の予定がぽっかり空いてしまった」
彼がわざとらしく肩をすくめる。
その仕草と言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
約束が、なくなった?
つまり……彼は今、フリーになったってこと?
(――やった!)
そのお友達には申し訳ないけれど、心の中で小さく叫んでしまった。
これは神様がくれたチャンスだ。
「幸せな誤算」って、こういうことを言うんだと思う。
高揚感で身体が熱くなる。
今しかない。
このチャンスを逃したら、絶対後悔する。
私は深呼吸をして、彼の服の袖をギュッと掴んだ。
驚いてこちらを見る彼の瞳を、逃げずに見つめ返す。
「じゃあ……」
声が震えないように、勇気を振り絞って。
「じゃあ、私と一緒に……ねねっち達の所に行きませんか?」