You are my Beginning   作:コンスタンシア

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Episode 35 - 同じ会社の、違う景色

【Side: 星川ほたる】

 

ブルーローズに来て、もう二週間が経過しようとしている。

入社した初日にカトリーヌさんから今の自分に足りていない部分を指摘され、その上で "キングスハンド" という重要な敵キャラクターのデザインを任された。

それも私だけではなく、八神さんというとてつもなく大きな壁を突破してデザインを勝ち取らなければいけない。

いきなり与えられた重荷に、この二週間ずっと押し潰されそうだった。

納得のいくデザインが一枚も描けず、カトリーヌさんに提出できるものが何もない。

 

「……」

 

無心でタブレットにペンを滑らせるけれど、頭の中はデザインに集中できていない。

 

「……」

 

キングスハンドのデザインイメージが湧いてこない。

 

「…」

 

焦れば焦るほど、キングスハンドは愚か、Utopiaのコンセプトイメージからも遠ざかる。

 

「…る。 ほ…。 …たる」

 

「……」

 

「ほたる!」

 

「え!? はい!」

 

いきなり名前を呼ばれ、慌てて顔を上げる。そこには少しだけ心配そうな顔でこちらを見つめる八神さんの姿があった。

 

「八神さん…」

 

「会議、もうすぐ始まるからミーティングルームに移動だよ」

 

「へ? 会議?」

 

全体の方向性を擦り合わせるミーティングが今日に設定されていたらしい。

アートからはクロエさんと、キングスハンドのデザインを担当する私達が呼ばれているのだという。

八神さんに言われるがまま、自分のカレンダーを開く。そこにはしっかりと "全体ミーティング" への招待が飛んできている……完全に見落としていた。

 

「ご、ごめんなさい! 直ぐに準備します…」

 

「デザインに集中するのも良いけど、会社に入ったからにはそれ以外の事にも目を向けないとダメだよ」

 

口ぶりは優しい。けれど暗に "会社に属するのならしっかり周りを見ろ" と言われているようなものだった。返す言葉もない。

 

「はい、気を付けます」

 

私はそう返事をしてメモ帳をカバンから取り出して、八神さんの後を追う。

会議室へ入り、先に来ていたクロエさんの隣に八神さんと腰を下ろす。

全体ミーティングの名の通り、アートだけではなくカトリーヌさん——ディレクターやプログラム、グラフィックや企画など、全てのセクションが集まっていた。

 

(……)

 

そして、そこには勿論、サウンドのセクション……裕也くんも出席している。

彼は既に他のセクションの人達と打ち解けた様子で、何かを話しながら笑っていた。

 

(もう会社の人たちと馴染んでる……やっぱり、凄いなぁ…)

 

二週間でこの距離感。アメリカでの経験がそうさせるのか、それとも彼の持って生まれた人柄なのか…多分、両方なんだと思う。

そんな尊敬の眼差しで遠目から見ていると、彼がそれに気づきこちらを向いた。

 

(あ…)

 

小さな動作ではあったけれど、彼は私に向かって手を振ってくれる。

 

(…もう)

 

たったそれだけのことなのに、張り詰めていた緊張と不安が少しだけ消し飛んでいくのを感じる。

私も小さく、彼に手を振って答えた。彼に貰ったものを少しでもお返しするように。

その瞬間、カトリーヌさんから声が上がる。

 

「さて、全員揃ったみたいだし、全体ミーティングをはじめようか。まず初めに、このプロジェクトへ新しく参画した二人を紹介するよ」

 

「ユーヤ、ほたる 少しだけ立ってくれるかい?」

 

「はい」

 

「は、はい」

 

「オーディオのリードとして参画してもらうユーヤカツラギと、僕のアートチームに参画するホタルホシカワだ」

 

「よろしくお願いします」

 

「よろしくお願いします!」

 

私と裕也くんは同時に頭を下げると、皆から歓迎の拍手で迎え入れられた。……嬉しいけれど、少し照れくさい。

 

「ありがとう、ユーヤ、ほたる。…ついでにそのまま、サウンドから進捗を話してもらおうか。ユーヤ、今どんな感じなのかな?」

 

カトリーヌさんは私だけを座らせて、裕也くんにはサウンドの進捗を尋ねる。

彼もそれに合わせるように、今のサウンドの状態と次にするべき内容を報告していく。

 

「そうですね…今回、カトリーヌさんから頂いていたオーダーと元々入っていたサウンドデザインに大きな乖離があったので、まずはそこから方向修正をする必要があります」

 

「…ふむ、というと?」

 

「カトリーヌさん…ディレクターからのオーダーは "世界観にマッチした一つ一つが重量感を持つ迫力のあるサウンドデザイン" でした。しかし、元々入っていた音は全体的に薄っぺらく、オーダーに沿うサウンドデザインとはあまり言えないです」

 

「たしかに、今入っているのはブルーローズで作った3つ前のプロジェクトの音だからね、世界観のイメージは似ているけれど、正直僕も余り良いものとは思っていないよ」

 

「出来れば今入っているSEは全体的に差し替えたいところではあります。 プレイヤーとエネミー、フィールドの一部を私の方で作り直したのでまずはそれを聴いていただいて、作り直す方向性を定めたいです」

 

いつもの落ち着いた調子で、的確に問題点を整理していく彼の姿。

ミーティングの場での裕也くんは、普段の彼とは少し違うプロフェッショナルとしての横顔が見える。

 

「なるほど…じゃあ、その差し替えた映像データなりを一度確認させてもらえるかな?」

 

「はい、大丈夫です。 このミーティングが終わったらサウンドの部屋にお越しください」

 

「わかった、楽しみにしているよ。 しかし、クオリティを保ったまま量産は可能なのかな? 今作は敵や武器の量からしても相当の数のSEが必要になるはずだ。君のタスクは他にもあるだろう?」

 

「流石にこの物量は私だけでは大変ですね。 SEに関しても方向性が確定した後に、私が作った音をリファレンスにして外部の会社へ依頼を出そうと考えています」

 

「外部発注か…たしかにそれなら君のリソースは他に回すことが出来るね。 …問題は何処に出すかだが、正直僕では外部委託先のクオリティ精査はできないよ」

 

「わかっています。 なのでまずはGivernyAudio...私の古巣を当たります。もしダメでもクオリティラインを落とさない依頼先は幾つか候補があります」

 

「あぁ、そうだったね。 そこに関して君は一番詳しそうだ」

 

カトリーヌさんはクックと笑いながら裕也くんを言葉をかけ、彼もその問いに笑いながら答える。

 

「はい、この部分は元々アウトソースで仕事をしてきた私の得意な範囲ですね」

 

(……格好いいな)

 

迷いのない受け答え。カトリーヌさんの質問にも一つずつ的確に返していく。

同じ会社にいるのに、彼がこうして仕事をしている姿をちゃんと見るのはこれが初めてに近くて、なんだか不思議な気持ちだった。

 

「OKだよ。SEに関しては、この後直接聞いて方向性を決めようか」

 

「よろしくお願いします」

 

「じゃあ、この調子で次はアートに行こうか。僕が喋っても良いが…そうだな…クロエ、進捗はあるかな?」

 

カトリーヌさんは少し考える仕草をした後に、クロエさんに回答を求めて、こちら側へ振り返る。

 

「はい。アートの方は残りの敵クリーチャーのデザインと武器と防具デザインを進めています。武器デザインの方が少々難航しているようなので、エネミー側の人員を少し武器の方に充てても良さそうです」

 

「ありがとう。そうだね…元々エネミーの方が大変になると思って、少し多めに人員を割いていたが…武器の方が思った以上に熱が入ってしまったんだ。 これは僕も反省している……うん、人員の割り当ては考えるよ」

 

「ありがとうございます。 後…キングスハンドのデザインについては…」

 

「あぁ、それについては僕から話そう」

 

カトリーヌさんの声のトーンが、少しだけ変わる。

 

「今実装して貰っているキングスハンドのデザインだが…正直僕は満足がいっていない」

 

「キングスハンドはラスボスではないけれど、プレイヤーを追いまわす敵…いわば、この作品の顔の一つさ。だからもっと印象的なデザインにしたい」

 

「既に実機に組み込めるようデザインをしてもらったクロエと3D班には申し訳ないが、一からデザインを練り直す事にする」

 

「他のセクションもキングスハンド関連は一旦後回しにして貰って構わない。ディレクターとして今より良いデザインにする事を約束するよ」

 

そう言い切ってから、カトリーヌさんは私と八神さんに顔を向ける。

そこには "君たちならやってくれると信じているよ" と言わんばかりの眼差しが込められていた。

 

(期待されてるんだ……私ももっと頑張らなきゃ)

 

大好きな人の仕事に対する姿勢と、尊敬する人からの期待。

会議の前に合った鬱屈とした気持ちは少しだけど、自分の中で薄らいでいくのを感じた。

 

===================

 

全体ミーティングが終わり、皆がそれぞれの席に帰っていく。私はその流れに逆らうように、ある方向へ足を向けた。

もう少しだけ、彼の仕事姿を見てみたい。 そんな気持ちが、少しだけ歩幅を大きくする。

 

「それじゃあ、行こうかユーヤ」

 

「了解です。サクッと決めちゃいましょう」

 

「あ、あの! 私も一緒に見学しても良いですか?」

 

サウンドルームへ向かおうとする二人の背中に私は声をかけた。

私の声に少し驚いた表情の二人。 カトリーヌさんは直ぐに笑顔で提案を受け入れてくれる。

 

「…そうだね。同期の仕事ぶりを見るのもまたいい刺激になるかもしれないね。いいよ、ついておいで」

 

「ありがとうございます!」

 

===================

 

二人と共にサウンドルームへ入った瞬間、空気が少し変わった気がした。

以前入った録音スタジオと比べて音が静かになる感覚は薄かったけれど、部屋の中にスピーカーがずらりと並んでいて、その数に圧倒される。

 

「す、凄いスピーカーの数…」

 

「あぁ、そうか、ほたるはこの部屋を見るの初めてだったね。一度中央に立ってみなよ。 ほら、ここさ」

 

カトリーヌさんに言われるがまま、教えられた場所に立ってみる。

そのままぐるりと全体を見渡すと、自分がスピーカーに完全に囲まれている状態になっているのがわかって、なんだか不思議な気持ちになる。

 

「こんな数のスピーカー、私見たことないです…」

 

「この環境はそうそう馴染みが無いよね」

 

今度は裕也くんがいつもの調子で優しく笑いながら答えてくれる。

 

「皆が普段、よく聴くのは正面…こっち側にある左右の二つのスピーカーからの音…ステレオって聞いたことない?」

 

「あ、それなら聞いたことあるよ」

 

「ステレオは一番手軽でスタンダードだけど、悪く言えば正面の音しか飛んでこない…テレビの前で音を聴いている感じって言えば分かりやすいかな?」

 

「たしかに、言われてみればそう言った例えになるね」

 

カトリーヌさんも裕也くんの説明になるほどと言わんばかりに頷いている。

 

「で、それだとリアリティに欠ける…音にもっと没入して貰う為にはどうしたら…から生まれたのがサラウンドという手法」

 

「サラウンドって…映画の?」

 

「そうそう。サラウンドは……ってこれは実際に聴いてもらった方が早いね…ちょっと待って」

 

そう言って彼はデスクに座り、ソフトを立ち上げる。

カトリーヌさんが「モックアップだけど、既にこの環境で構築してたのかい?」と少し驚いた様子で質問すると、彼は「環境音が一番確実だったので」とさらりと返していた。

 

「さてと、さっきの説明に戻りましょうか…サラウンドは目の前をグルリと囲んでいる7つのスピーカーと1つのサブウーファーで構成されてるんだ」

 

「サブ…ウーファー?」

 

聞いたことの無い言葉に思わず首をかしげてしまう。そんな私の様子に彼はクスリと笑い、言葉を続けてくれる。

 

「サブウーファーは低音のみを出して、低域を補強してくれるスピーカーだよ。映画館だと低音が凄く出てたりしない?」

 

「たしかに低音が凄く出てて、空間が振動してる感じがしてた」

 

「そうそう、そんな感じで、低音で臨場感を出す装置って考えて貰っていいかな。で、7つのスピーカーは見ての通り、聴く人を囲んで没入体験を与える役目だね」

 

映画館の低音、と言われて一気にイメージが掴めた。彼の説明はいつも分かりやすい。専門的なことを、私みたいな門外漢にも分かる言葉で伝えてくれる。

 

「まずはステレオのみの環境音を聴いてもらおうかな」

 

裕也くんがキーボードを押す。正面のスピーカーから音が聴こえてきた。

 

(風……と、草の音……? 草原かな?)

 

私は目を閉じて彼の作った音に意識を集中させる。派手には聴こえないささやかな音……けれど、どこか清々しい草原の音。

 

「…たしかに、前からしか聴こえないのは想像していた以上に寂しいものがあるね…」

 

「裕也くんがさっき言ってた "テレビの前の音" って意味がなんとなくわかった気がします」

 

「じゃあ、サラウンドに拡張しますね。場所は同じ草原です」

 

裕也くんがもう一度キーボードを操作する。すると今度は正面からだけじゃなく、左右や前、後ろからも音が聴こえてきた。

まるで自分がその場に立っているかのような臨場感で、風の音、草の音が全方向から耳に届いてくる。

 

(わ、凄い…!)

 

思わず、周りを見渡してしまう。

カトリーヌさんも私ほどではないけれど、首を動かして音の方向を確かめている。

途中、裕也くんと目が合って、彼が満足げに微笑んでくれた。

 

「これは凄いね。サラウンドだけでもここまで臨場感が出せるものなのか…」

 

「映画のサラウンドとは違い、ゲームでのサラウンドは後ろのスピーカーにもしっかりと音が配置されるので、没入度合は高いと思います」

 

「うん、ちゃんと後ろの方で鳴っている音も聴こえたよ! あれ?でも、今のがサラウンドなら上にあるスピーカーは何の為にあるの?」

 

(今のだけでも十分な臨場感だったのに、まだ使われていないスピーカーがある。何かを足すためのスピーカー……なのかな?)

 

「この上のスピーカーこそが、今回の要だよ。これは一度、説明なしで聴いてもらおうかな」

 

マウスの音が数回した後、キーボードのキーが押される。

聴こえてきたのは——広い外のように感じる空気の音、風の音と金属の軋む音。まるで自分が荒廃した工場や建物に居るかのような臨場感だった。

 

(……さっきまでの音とは全然違う…? さっきより空気を感じる…それに時々重厚な建物の軋みが聴こえてきて、なんだろう…凄く奥行きがある…)

 

その時、頭上から大きな崩落音が降ってきた。思わず天井を見上げてしまう。

 

(そっか…サラウンドの時と雰囲気が違ったのは、上のスピーカーまで使って音が私達を包み込んでいるから…)

 

"音に包み込まれる" という今まで体験したことのない感覚に私はただただ彼の作った音に聞き惚れていた。

しばらくして環境音の再生が終わり、意識が現実に戻ってくる。

 

「これは…凄いね。想像していた以上に没入させられたよ…」

 

カトリーヌさんの声にも、隠しきれない興奮が混じっていた。

 

「ありがとうございます。これが今の時代のサラウンド…横の7チャンネルとサブウーファー、天井の4チャンネル…合わせて12チャンネルで構成するDolbyAtmosと言われてる再生方式です」

 

「凄い、凄いよ! 音にこんな包まれてる感じがしたのは生まれて初めてだよ」

 

「ありがとう。そこまで喜んでくれるとは…構築した甲斐があったよ」

 

裕也くんが少し嬉しそうな顔をしていたのが、とても印象的で私まで嬉しくなる。

 

「うん。これならクオリティラインとしても申し分ないくらいだよ。 後は、SEの部分だね。この環境で聴けるのかな?」

 

「はい、大丈夫ですよ。 SEは実際にゲーム上で確認して鳴らした方が良いと思うので、テスト用のフィールドを開きますね」

 

「あぁ、お願いするよ」

 

===================

 

「うん、SEの方向性も問題ないね。このまま外に依頼を出す準備を始めてくれて構わないよ」

 

「ありがとうございます」

 

無事にSEの方も方向性にOKが出る。

ゲーム画面を開きながら音を確認し、調整しながら音が作られていく過程は私に学生ではなく社会人としてコンテンツを作るという裏側を教えてくれた気がした。

 

「さてと…一番の懸念点だったサウンドが想像以上に良かったから僕は満足だよ。それじゃ、僕はそろそろ失礼するよ」

 

カトリーヌさんが出口に向かいかけたところで、私も慌てて腰を上げた。

 

「じゃあ、私もこの辺で戻りますね」

 

「いや? ほたるはここに残ってくれて構わないよ」

 

「え?…でも」

 

「ほたるも最近は根を詰め過ぎていたし、少しは肩の力を抜くべきだよ。 後は二人でゆっくり話でもしたらどうかな?」

 

「…ん? カトリーヌさん、何故それを私に対して言うんです?」

 

裕也くんが少しだけぎこちない動きでカトリーヌさんに尋ねる。

数秒して私もその言葉の意味に気付き、カトリーヌさんの方を見る。

 

「何故って…君たち、恋人同士なんだろう?」

 

「「えっ」」

 

その返答に二人して同時に声が出てしまった。

 

「な、なんでカトリーヌさんがそれを知って……」

 

「二週間前、ほたるがウチに来た日の夜、コウとの会話が偶然聴こえてしまってね」

 

カトリーヌさんは悪びれる様子もなく、むしろ少し楽しそうに笑っている。

 

「じゃあ、そういう事だから」

 

それだけ言い残して、カトリーヌさんはサウンドルームの扉を開けて出て行ってしまった。

重たい防音扉が閉まる音が、やけに大きく響く。

二人きりになった部屋に、数秒の沈黙が落ちた。

 

「……バレてたな」

 

裕也くんがクスリと笑いながら呟いた。

その声がスピーカーに囲まれた静かな部屋の中に、柔らかく反響する。

 

「あはは……そうだね」

 

私もつられて笑いながら、裕也くんの近くにある椅子へと腰を下ろした。

久しぶりの、二人きりの時間。

フランスに来てからの二週間、同じ会社にいるのに顔を合わせる機会は驚くほど少なかった。

彼はサウンドルームに籠もって音を作り、私はアートチームのデスクでタブレットに向き合い続ける日々。

 

「ごめんね。最近、一緒にいられなくて」

 

そう言いながら、私は自然と彼の肩に頭を預けていた。

 

「この二週間、ずっとカトリーヌさんの期待に答えなきゃって……凄く気を張ってたの」

 

「俺の方こそごめん。 俺も自分の仕事のことで手一杯になってた」

 

裕也くんはそれを拒むことなく、ゆっくりと私の頭を撫でながら答えてくれる。

 

「ううん。いいの、気にしないで? 打ち合わせの時の裕也くん、堂々としてて凄く格好よかった。 さっきだって、私の知らないお仕事をしてる裕也くんなんだ……って、見惚れちゃってたんだよ」

 

「……それは、凄く照れるな」

 

少しだけ恥ずかしそうにする彼に、私はクスリと微笑んだ。

普段あんなに堂々としているのに、こういう時だけ素直に照れる。そのギャップが、たまらなく好きだった。

 

「私もね、カトリーヌさんから大切なお仕事を貰ってるんだ。けど、競ってる相手があの八神さんで……少し……ううん。だいぶ、苦戦してる」

 

「八神さんと競わないといけないほどの大役……凄いじゃないか。でも、根を詰め過ぎないようにな」

 

「うん……ねぇ、裕也くん」

 

肩に預けていた頭を少しだけ動かして、彼の顔を見上げた。

 

「私、描けるかな。八神さんに……勝てる、かな」

 

ずるいと思った。けど、今は君の言葉が欲しい

裕也くんは少しの間だけ黙って、それから口を開いた。

 

「……あぁ、ほたるなら描けるよ。俺が保証する」

 

私の頭を撫でていた手に、少しだけ力が入る。

その手から伝わる優しさや温もりが、今の私には何倍にも愛おしく感じられて…。

気付くと、どちらからともなく顔が近づいていた。

唇が触れ合う。軽い、柔らかなキス。

誰もいないサウンドルームの中で、スピーカーに囲まれた静寂の中で、二人だけの時間が流れていた。

 

「……ん……えへへ。ありがとう、裕也くん」

 

私はそう言いながら、彼を抱きしめる。二人きりの空間。ちょっとだけ、大胆になりたかった。

裕也くんもゆっくりと、私の背中に腕を回してくれる。彼の体温が近い。心臓の音が聞こえそうなくらい。

 

「裕也くん」

 

「ん?」

 

「休日なんだけど、しばらく裕也くんのお家でデジタルイラストの勉強や調べごとをさせてもらえないかな? 私、自分のノートPC持ってないから…」

 

「そういう事なら、全然構わないよ。俺もほたるが一緒の方がリラックスできるから」

 

「ふふ、もう。 …ありがとう、裕也くん。 じゃあ、早速明日からお邪魔させてもらうね」

 

少しだけ顔が熱くなるのを感じながら、私は椅子からゆっくりと立ち上がる。

正直に言えば、名残惜しい。 けれど、彼に元気をもらえたから——今日はもう少しだけ頑張りたい気分だった。

 

「そろそろ、私も自分の席に戻るね」

 

「了解。 仕事、頑張ってな」

 

彼は私の意図を汲んでくれたのか、そんな言葉で背中を押してくれる。

 

「うん。 裕也くんも頑張ってね」

 

だから、私もお返しをするように彼の背中を押す。

サウンドルームの扉を開けて、廊下に出る。重い防音扉が閉まった後も、彼の温もりが手のひらに残っていた。

自席に戻って、タブレットの前に座る。

さっきまで何も浮かばなかった画面が、なんとなく今は違って見えた。

何かが閃いたわけじゃない。キングスハンドのデザインが突然降ってきたわけでもない。

でも、ペンを握る手は、さっきまでとは少しだけ違う力を帯びている気がした。

 

(裕也くんの温もりが残っているうちに、もう少しだけ)

 

ペンを走らせる。線を引いて、消して、また引く。

 

「ほたる」

 

声が聴こえて顔を上げると、コートを羽織った八神さんが、カバンを肩にかけて立っている。窓の外はいつの間にか暗くなっていた。

 

「私はもう帰るけど、ほたるはもう少し描いてくの?」

 

「はい! もう少しだけ頑張ろうかなって思ってます」

 

「そっか」

 

八神さんは少しだけ目を細めて、それから笑った。

 

「今のほたる、凄くいい顔してるよ。 じゃあ、お疲れ!」

 

「っ! ありがとうございます! お疲れ様です!」

 

八神さんの背中が廊下に消えていくのを見送ってから、私はもう一度タブレットに向き直る。

いい顔、と言ってもらえた。今の私がどんな顔をしているのかは分からない。

でも、ペンを持つ手は止まっていなかった。

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