You are my Beginning 作:コンスタンシア
[Side:裕也]
彼女の家に到着し、インターホンを押すと、すぐに扉が開き、彼女の母親が出てきてくれる。
彼女は俺の顔を見るなり目を丸くし、次いで腕の中でぐったりとしている娘を見て息を呑んだ。
「裕也くん!? それにほたる……!」
「お久しぶりです、日奈子さん。彼女が帰る途中で貧血を起こしてしまってて……」
「運んできてくれて、ありがとう裕也くん。さあ、上がって」
「ありがとうございます。……あの、このまま部屋まで運んでもいいですか? 起こすと辛そうなんで」
「ええ、もちろん。お願いできる?」
日奈子さんの言葉に甘え、俺は靴を脱ぎ、ほたるを抱えたまま階段を上がる。
昔から勝手知ったる他人の家。
けれど、こうして彼女を抱きかかえて踏みしめる階段は、以前よりも少し狭く感じられた。
二階の奥。『ほたる』というプレートが掛かったドアを、肘を使って器用に開ける。
ふわりと、鼻腔をくすぐる匂い。
油絵具とテレピン油の混じった、独特の――けれど、どこか誇り高い匂いに満ちていた。
画材が所狭しと並ぶ机。描きかけのキャンバス。
そこにある全てが、彼女が積み重ねてきた時間を物語っている。
俺はベッドサイドまで歩み寄ると、彼女の身体を慎重に下ろす。
背中がマットレスに沈み込むと同時に、彼女の口から安堵の吐息が漏れる。
「……ん……」
「ゆっくり休めよ、ほたる」
掛け布団を肩までかけ、俺が身を引こうとした、その時だった。
「……待って」
袖口を、弱い力で掴まれた。
振り返ると、少しだけ目を開けた彼女が、潤んだ瞳で俺を見上げている。
熱のせいか、それとも不安のせいか。
その指先は、離れることを拒むように震えていた。
「……もう少しだけ、ここにいて……ほしい、な」
消え入りそうな、けれど必死な懇願。
昔なら「子供だなー」と笑って流していたかもしれない。
けれど今は、その弱さが愛おしくてたまらない。
俺はベッドの縁に腰を下ろし、袖を掴んでいた彼女の小さな手を、両手で包み込んだ。
「わかった。どこにも行かないよ」
俺の体温が伝わったのか、彼女の強張っていた指先が、少しずつほどけていく。
俺は彼女の手を握り直し、安心させるように、親指でその甲をゆっくりと撫でる。
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[Side:ほたる]
ふかふかの枕と、慣れ親しんだ自分の部屋の匂い。
でも、それ以上に私を安心させてくれたのは、左手に感じる大きく温かい感触だった。
(……そばにいて、くれるんだ…)
『もう少し一緒にいて』なんて、子供じみたワガママ。
呆れられるかと思った。
「疲れてるんだから寝ろよ」って、笑われるかと思った。
でも、彼は何も言わずに、私の手を握り返してくれた。
ごつごつとした、男の人の手。
楽器や音を作る機材を扱ってきた、職人の指先。
その熱が、冷え切っていた私の指先から、腕を伝って、心臓の奥までじんわりと染み込んでくる。
(ああ、やっぱり……)
ぼやける視界の中、ベッドの縁に座っている彼の顔を見つめる。
心配そうに私を見守る、優しい瞳。
昔から変わらない、私だけの特等席。
(私、この人のことが……好きなんだ)
高校生の時に自覚した、淡い恋心。
離れ離れになって、消えてしまうどころか、会えない時間の中で育ってしまった想い。
それが今、確信に変わる。
ただの幼馴染で終わってしまうのは嫌だ。
私は、彼に触れていたい。彼に守られていたい。
そしていつか、彼の隣に並べるようになりたい。
「……ゆう、や……くん……」
「ん? 大丈夫だ、ここにいるよ」
名前を呼べば、すぐに返ってくる声。
その安心感に包まれて、重たい瞼が限界を迎える。
意識が、温かい海へと溶けていく。
彼の手の温もりだけを道しるべに、私は深い眠りへと落ちていった。
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[Side:裕也]
彼女の呼吸が、深く、一定のリズムを刻み始めた。
握っていた手の力が抜け、完全に眠りに落ちたことがわかる。
それでも、俺は手を離さなかった。
彼女が求めてくれた温もりを、途切れさせたくなかったからだ。
「……おやすみ、ほたる」
誰にも聞こえない声で囁き、空いているもう片方の手で、彼女の前髪をそっと梳いた。
サラサラとした髪の感触と、規則正しい寝息。
無防備な寝顔を見ていると、胸の奥が締め付けられるように熱くなる。
窓の外では、陽が傾き、部屋の中が茜色に染まり始めていた。
影が伸びて、夜が訪れるまでの静かな時間。
俺はそのまま、彼女が目を覚ますまでの数時間、ただひたすらに彼女の手を握り続けていた。
言葉はいらなかった。
ただ、この温もりがあれば、それだけで十分だった。
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[Side:ほたる]
「ん……」
カーテンの隙間から、青白い月明かりが差し込んでいる。
目を覚ますと、枕元のサイドテーブルに置かれた小さなランプだけが、暖色の光を灯していた。
部屋の中は静まり返っているけれど、孤独は感じない。
――だって、彼の手の温もりを今も感じとることができたから。
「……起きた?」
ベッドの縁に腰掛けたままの彼が、私に気付き、声を掛けてくれる。
その声は、夜の空気に溶けるように低く、優しい。
「……裕也、くん……?」
「気分はどうだ? 水、飲むか?」
私が頷くと、彼はベッド横…サイドテーブル置かれていたグラスに手を伸ばす。
きっと母が持ってきてくれたものだろう。受け取ったグラスの水面が、微かに揺れる。
一口飲むと、乾いた喉が潤っていくのと同時に、意識が鮮明になっていく。
(……ずっと、いてくれたんだ。 それに手も…ずっと握っていてくれてたんだ)
時計を見ると、もう数時間が経過していた。
「ごめんね、ずっと待たせちゃって……」
「気にするな。久しぶりにほたるの寝顔が見れて、悪くなかったよ」
「っ……!」
さらりと言う彼に、熱が頬に集まるのがわかる。
彼は意地悪で言っているわけじゃない。昔から、こういうことを素で言う人だった。
でも、その眼差しは昔よりもずっと深くて、私を「女の子」として見ているような――そんな錯覚を抱かせる色を帯びていた。
彼がグラスをサイドテーブルへ戻してくれて、少しの沈黙が落ちる。
聞きたいことは山ほどある。
向こうでの生活のこと。お仕事のこと。
そして……いつまで、こっちにいられるのかということ。
不安が顔に出てしまったのか、彼はふっと表情を和らげた。
「……しばらく、日本にいるつもりだよ」
私の心を読んだかような答えに、心臓が跳ねる。
「え……? でも、お仕事は? アメリカに戻らなきゃいけないんじゃ……」
「ううん。向こうのスタジオには戻らない。…正確には外部委託の契約に切り替えてもらったんだ」
「データのやり取りさえできれば、作曲の仕事はどこにいてもできるからね」
彼は肩をすくめて、いたずらっぽく笑う。
「……何より、俺が日本にいたいんだ」
「日本に……?」
「ああ。……だから、もう焦って追いかけなくてもいい」
彼は私の手――シーツの上にある指先に、自分の手をそっと重ねた。
握り込むわけではない。ただ、触れているだけの距離。
けれど、その触れ方こそが、今の私たちの距離感そのものだった。
友達よりも近く、けれど恋人という言葉で縛るには、まだ少しだけお互いを大事にしすぎている距離。
「ゆっくり、歩いて行こう? ほたる」
その言葉が、私の胸の奥深くに沁み渡る。
『ゆっくり』というのは、私の絵のことや、進路のことだけじゃない。
彼と私。二人の時間も、もう焦って埋める必要はないのだと、そう言われている気がした。
(……ずるいな、裕也くんは)
そんな風に言われたら、期待してしまう。
その言葉、私の都合のいいように受け取ってもいいってことだよね?
もう、離れ離れになって泣いたり、画面越しの声だけで我慢したりしなくていいってことだよね?
私は重ねられた彼の手のひらを、下からギュッと握り返した。
驚いたように少し目を見張る彼を、真っ直ぐに見つめ返す。
もう、病人の弱々しい瞳じゃない。
一人の女性として、彼を求めている瞳で。
「……うん。私、もう我慢しないから」
「え……?」
「裕也くんがゆっくりでいいって言っても……私、もう遠慮しないよ?」
意味深に、けれど確かな熱を込めて呟く。
それがどういう意味なのか。
鈍感な彼に伝わったかはわからない。
けれど、握り返した手の強さと、月明かりに照らされた私の覚悟だけは、きっと彼に届いたはずだ。
夜の静寂の中。
言葉以上の何かが、二人の間で確かに結ばれようとしていた。