You are my Beginning   作:コンスタンシア

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Episode 5 - ワガママ

[Side:裕也]

 

彼女の家に到着し、インターホンを押すと、すぐに扉が開き、彼女の母親が出てきてくれる。

彼女は俺の顔を見るなり目を丸くし、次いで腕の中でぐったりとしている娘を見て息を呑んだ。

 

「裕也くん!? それにほたる……!」

 

「お久しぶりです、日奈子さん。彼女が帰る途中で貧血を起こしてしまってて……」

 

「運んできてくれて、ありがとう裕也くん。さあ、上がって」

 

「ありがとうございます。……あの、このまま部屋まで運んでもいいですか? 起こすと辛そうなんで」

 

「ええ、もちろん。お願いできる?」

 

日奈子さんの言葉に甘え、俺は靴を脱ぎ、ほたるを抱えたまま階段を上がる。

昔から勝手知ったる他人の家。

けれど、こうして彼女を抱きかかえて踏みしめる階段は、以前よりも少し狭く感じられた。

二階の奥。『ほたる』というプレートが掛かったドアを、肘を使って器用に開ける。

ふわりと、鼻腔をくすぐる匂い。

油絵具とテレピン油の混じった、独特の――けれど、どこか誇り高い匂いに満ちていた。

画材が所狭しと並ぶ机。描きかけのキャンバス。

そこにある全てが、彼女が積み重ねてきた時間を物語っている。

俺はベッドサイドまで歩み寄ると、彼女の身体を慎重に下ろす。

背中がマットレスに沈み込むと同時に、彼女の口から安堵の吐息が漏れる。

 

「……ん……」

 

「ゆっくり休めよ、ほたる」

 

掛け布団を肩までかけ、俺が身を引こうとした、その時だった。

 

「……待って」

 

袖口を、弱い力で掴まれた。

振り返ると、少しだけ目を開けた彼女が、潤んだ瞳で俺を見上げている。

熱のせいか、それとも不安のせいか。

その指先は、離れることを拒むように震えていた。

 

「……もう少しだけ、ここにいて……ほしい、な」

 

消え入りそうな、けれど必死な懇願。

昔なら「子供だなー」と笑って流していたかもしれない。

けれど今は、その弱さが愛おしくてたまらない。

俺はベッドの縁に腰を下ろし、袖を掴んでいた彼女の小さな手を、両手で包み込んだ。

 

「わかった。どこにも行かないよ」

 

俺の体温が伝わったのか、彼女の強張っていた指先が、少しずつほどけていく。

俺は彼女の手を握り直し、安心させるように、親指でその甲をゆっくりと撫でる。

 

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[Side:ほたる]

 

ふかふかの枕と、慣れ親しんだ自分の部屋の匂い。

でも、それ以上に私を安心させてくれたのは、左手に感じる大きく温かい感触だった。

 

(……そばにいて、くれるんだ…)

 

『もう少し一緒にいて』なんて、子供じみたワガママ。

呆れられるかと思った。

「疲れてるんだから寝ろよ」って、笑われるかと思った。

でも、彼は何も言わずに、私の手を握り返してくれた。

ごつごつとした、男の人の手。

楽器や音を作る機材を扱ってきた、職人の指先。

その熱が、冷え切っていた私の指先から、腕を伝って、心臓の奥までじんわりと染み込んでくる。

 

(ああ、やっぱり……)

 

ぼやける視界の中、ベッドの縁に座っている彼の顔を見つめる。

心配そうに私を見守る、優しい瞳。

昔から変わらない、私だけの特等席。

 

(私、この人のことが……好きなんだ)

 

高校生の時に自覚した、淡い恋心。

離れ離れになって、消えてしまうどころか、会えない時間の中で育ってしまった想い。

それが今、確信に変わる。

ただの幼馴染で終わってしまうのは嫌だ。

私は、彼に触れていたい。彼に守られていたい。

そしていつか、彼の隣に並べるようになりたい。

 

「……ゆう、や……くん……」

 

「ん? 大丈夫だ、ここにいるよ」

 

名前を呼べば、すぐに返ってくる声。

その安心感に包まれて、重たい瞼が限界を迎える。

意識が、温かい海へと溶けていく。

彼の手の温もりだけを道しるべに、私は深い眠りへと落ちていった。

 

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[Side:裕也]

 

彼女の呼吸が、深く、一定のリズムを刻み始めた。

握っていた手の力が抜け、完全に眠りに落ちたことがわかる。

それでも、俺は手を離さなかった。

彼女が求めてくれた温もりを、途切れさせたくなかったからだ。

 

「……おやすみ、ほたる」

 

誰にも聞こえない声で囁き、空いているもう片方の手で、彼女の前髪をそっと梳いた。

サラサラとした髪の感触と、規則正しい寝息。

無防備な寝顔を見ていると、胸の奥が締め付けられるように熱くなる。

窓の外では、陽が傾き、部屋の中が茜色に染まり始めていた。

影が伸びて、夜が訪れるまでの静かな時間。

俺はそのまま、彼女が目を覚ますまでの数時間、ただひたすらに彼女の手を握り続けていた。

言葉はいらなかった。

ただ、この温もりがあれば、それだけで十分だった。

 

===================

[Side:ほたる]

 

「ん……」

 

カーテンの隙間から、青白い月明かりが差し込んでいる。

目を覚ますと、枕元のサイドテーブルに置かれた小さなランプだけが、暖色の光を灯していた。

部屋の中は静まり返っているけれど、孤独は感じない。

――だって、彼の手の温もりを今も感じとることができたから。

 

「……起きた?」

 

ベッドの縁に腰掛けたままの彼が、私に気付き、声を掛けてくれる。

その声は、夜の空気に溶けるように低く、優しい。

 

「……裕也、くん……?」

 

「気分はどうだ? 水、飲むか?」

 

私が頷くと、彼はベッド横…サイドテーブル置かれていたグラスに手を伸ばす。

きっと母が持ってきてくれたものだろう。受け取ったグラスの水面が、微かに揺れる。

一口飲むと、乾いた喉が潤っていくのと同時に、意識が鮮明になっていく。

 

(……ずっと、いてくれたんだ。 それに手も…ずっと握っていてくれてたんだ)

 

時計を見ると、もう数時間が経過していた。

 

「ごめんね、ずっと待たせちゃって……」

 

「気にするな。久しぶりにほたるの寝顔が見れて、悪くなかったよ」

 

「っ……!」

 

さらりと言う彼に、熱が頬に集まるのがわかる。

彼は意地悪で言っているわけじゃない。昔から、こういうことを素で言う人だった。

でも、その眼差しは昔よりもずっと深くて、私を「女の子」として見ているような――そんな錯覚を抱かせる色を帯びていた。

彼がグラスをサイドテーブルへ戻してくれて、少しの沈黙が落ちる。

聞きたいことは山ほどある。

向こうでの生活のこと。お仕事のこと。

そして……いつまで、こっちにいられるのかということ。

不安が顔に出てしまったのか、彼はふっと表情を和らげた。

 

「……しばらく、日本にいるつもりだよ」

 

私の心を読んだかような答えに、心臓が跳ねる。

 

「え……? でも、お仕事は? アメリカに戻らなきゃいけないんじゃ……」

 

「ううん。向こうのスタジオには戻らない。…正確には外部委託の契約に切り替えてもらったんだ」

「データのやり取りさえできれば、作曲の仕事はどこにいてもできるからね」

 

彼は肩をすくめて、いたずらっぽく笑う。

 

「……何より、俺が日本にいたいんだ」

 

「日本に……?」

 

「ああ。……だから、もう焦って追いかけなくてもいい」

 

彼は私の手――シーツの上にある指先に、自分の手をそっと重ねた。

握り込むわけではない。ただ、触れているだけの距離。

けれど、その触れ方こそが、今の私たちの距離感そのものだった。

友達よりも近く、けれど恋人という言葉で縛るには、まだ少しだけお互いを大事にしすぎている距離。

 

「ゆっくり、歩いて行こう? ほたる」

 

その言葉が、私の胸の奥深くに沁み渡る。

『ゆっくり』というのは、私の絵のことや、進路のことだけじゃない。

彼と私。二人の時間も、もう焦って埋める必要はないのだと、そう言われている気がした。

 

(……ずるいな、裕也くんは)

 

そんな風に言われたら、期待してしまう。

その言葉、私の都合のいいように受け取ってもいいってことだよね?

もう、離れ離れになって泣いたり、画面越しの声だけで我慢したりしなくていいってことだよね?

私は重ねられた彼の手のひらを、下からギュッと握り返した。

驚いたように少し目を見張る彼を、真っ直ぐに見つめ返す。

もう、病人の弱々しい瞳じゃない。

一人の女性として、彼を求めている瞳で。

 

「……うん。私、もう我慢しないから」

 

「え……?」

 

「裕也くんがゆっくりでいいって言っても……私、もう遠慮しないよ?」

 

意味深に、けれど確かな熱を込めて呟く。

それがどういう意味なのか。

鈍感な彼に伝わったかはわからない。

けれど、握り返した手の強さと、月明かりに照らされた私の覚悟だけは、きっと彼に届いたはずだ。

夜の静寂の中。

言葉以上の何かが、二人の間で確かに結ばれようとしていた。

 

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