You are my Beginning 作:コンスタンシア
[Side:ほたる]
カーテンの隙間から、遠慮がちな朝陽が差し込んでいる。
小鳥のさえずりが遠くで聞こえ、意識がゆっくりと覚醒していく。
枕の感触を確かめるように頬を擦り寄せると、昨日までの鉛のような身体の重さが、嘘のように消えていた。
(……あ、すごい。体が軽い)
昨日、あんなに苦しかったのが嘘みたい。
泥のように深く眠ったせいもあるけれど、それ以上に心が満たされているからだと思う。
昨夜、ずっと私の手を握っていてくれた、あの大きな手の温もり。
『ゆっくり歩いて行こう』と言ってくれた、彼の声。
それらが、何よりの薬になったのかもしれない。
ベッドから身を起こし、大きく伸びをする。
サイドテーブルのスマホを手に取ると、自然と指がメッセージアプリを開いていた。
一番上のトークルームには『葛城裕也』の名前。
今までなら、時差を気にして送信ボタンを押すのを躊躇っていたけれど、今はもう、その必要はない。
彼は、すぐそばにいるのだから。
『おはよう、裕也くん。昨日はありがとう。おかげですごく調子いいよ』
送信ボタンを押すと、既読がつくのを待たずに、私はクローゼットを開けた。
今日の大学は、講義と実習がある。
いつもなら動きやすさ重視の服を選ぶところだけれど、今日は少しだけ、彩りが欲しかった。
春らしいパステルイエローのカーディガンと、膝丈のフレアスカート。
鏡の前で合わせながら、少しだけ頬が緩む。
(……かわいく、ありたいな)
そんなことを考えていると、スマホが短く震えた。
画面に表示された通知を見て、心臓がトクンと跳ねる。
『よかった。調子が戻ったなら安心だ。
俺はこれから役所に転入の手続きに行く予定なんだけど、もし大学に行く時間と合うなら、途中まで一緒に行かないか?』
文字だけのメッセージなのに、彼の少し照れたような、でも優しい声色が聞こえてくるようだった。
途中まで、一緒に。
たったそれだけのことが、今の私には舞い上がるほど嬉しいイベントに変わる。
『行く! すぐ準備して出るね!』
迷わず返信を打ち込み、私はメイクポーチを広げた。
ファンデーションのノリもいい。
チークはいつもより少し明るめに。リップも、艶のあるものを。
鏡の中の自分に向かって、小さく「よし」と気合を入れる。
昨日までの、不安に押しつぶされそうだった私はもういない。
バッグを掴むと、弾むような足取りで玄関を目指す。
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[Side:裕也]
5月の朝の空気は、思いのほか清々しい。
少しひんやりとした風が、シャツの袖を通して肌を撫でる。
ゴミ収集車の音が遠くで鳴り、通勤する人々の足音がアスファルトに響く。
ロサンゼルスの乾いた朝とは違う、湿り気を含んだ日本の朝。
それが妙に心地よかった。
実家の玄関を出て、数軒隣にある星川家の前で足を止める。
スマホを確認すると、『行く!』という文字と元気なスタンプが届いていた。
(……昨日の今日で、元気すぎないか?)
少し心配にはなるが、昨夜の「もう我慢しない」と宣言した彼女の瞳を思い出すと、それがただの空元気ではないことが分かる。
役所での転入手続きなんて、面倒な事務作業でしかない。
けれど、彼女との"通学時間"に変えられるなら、悪くない時間の使い方だ。
むしろ、渡米してからは出来なかった "当たり前の日常" を、これから取り戻していくのだと思うと、柄にもなく少し緊張している自分がいた。
ガチャリ、と重厚なドアが開く音がして、門扉の向こうから、明るい声が飛び込んでくる。
「裕也くん!」
姿を見せたのは、春の日差しをそのまま纏ったかのような彼女。
ふわりと揺れるスカートと、鮮やかなカーディガン。
昨日の顔色の悪さは微塵もなく、その頬は健康的な薔薇色に染まっている。
俺が声をかける間もなく、彼女はトテトテと小走りで駆け寄ってきて――。
「おはようっ!」
「――おっと」
太陽のような笑顔と共に、彼女の身体が俺の右側に滑り込んできた。
次の瞬間、彼女の細い腕が、俺の右腕にギュッと絡みついてくる。
(え……?)
柔らかい感触と、鼻をくすぐるシャンプーの香り。
そして、彼女に目を向けるとすぐそこにある、屈託のない笑顔。
あまりに自然で、かつ大胆な距離の詰め方に、俺は一瞬、言葉を失った。
昔から気心が知れた人に見せる人懐っこいところはあった。
けれど、ここまであからさまに、そして嬉しそうに触れてくることはなかったはずだ。
これが、昨夜彼女が言っていた「我慢しない」ということなのだろうか。
「……おはよう、ほたる。随分とご機嫌だな」
動揺を隠すように、努めて冷静に声をかける。
けれど、彼女は悪びれる様子など微塵もない。
むしろ、腕に回した力を少し強めて、上目遣いで俺を見つめてくる。
「うん! だって、一緒に行けるでしょ?」
「……それだけで?」
「それ "が" いいの!」
彼女はきっぱりと言い放ち、ふふっと無邪気に笑った。
その瞳には、一点の曇りもない。
そこにあるのは、純粋な好意と、それを隠さないという意志だけだった。
腕に伝わる彼女の体温が、シャツ越しに俺の肌へと浸透してくる。
正直、驚きはある。
近所の目もあるし、少し気恥ずかしい。
けれど、その重みを「嫌だ」とは微塵も思わなかった。
むしろ、この温もりが心地よくて、自然と口元が緩んでしまう。
(……まいったな)
これからの日本での生活、俺の心臓が持つだろうか。
そんな嬉しい悲鳴を心の中で上げながら、俺は絡められた腕をそのままに、彼女に合わせて歩幅を調整した。
「……そうだな。それじゃあ、行こうか」
「うん! あ、駅前に新しいパン屋さんができたんだけど、そこのクロワッサンがね……」
彼女が楽しそうに話し始める。
その声を聞きながら、俺たちは並んで歩き出す。
二人の影が、朝のアスファルトに長く伸びて、一つに重なっているように見えた。