月神とヤカマシシロウサギ 作:ちちりを集める妖精
「ねえ、あなたはどうしてそんなに耳が長いの?」
長い黒髪の少女が問うた。
この世界に生まれ変わって百年ほど経つだろうか。
前世はニンゲンだったというのに、何の因果か私は今世ではウサギとしての生を得ていた。
以来、野山にありて草やら木の実やらを食みつつ、つつがない兎生を送っている。あるいは動物としての本能とでも言うべきか、火や鉄、飢饉の匂いが僅かにでも漂った土地から逃げては別の土地へと移り住むことを繰り返していたため、今日に至るまでの平穏な生活は私自身の努力によるものとも言える。
畜生としての直感と、ニンゲンとしての知識。この二つを兼ね備えていればこそ、私はいつだってどんなに目の鋭い照羽トキよりも正確に、どんなに臆病なガケツノメドリよりも早く危機を察知し逃げ延びてきたのである。
「耳が長くて、毛がいっぱい。あなたみたいな子、今まで見たことない。もしかして、家出してきたの?」
しゃがみ込んで、艶やかな髪を揺らしながら首を傾げた少女が問うた。
さらに言えば、私が元来棲んでいたのはここよりももっと北の方。
年中雪と氷に覆われた寒い地域で、生まれたばかりの私はずいぶんとひもじい生活をしていた。木の皮を食べたことなんてあれっきりである。
南に行けば幾分暖かいらしいとその土地の住人たちが話していたのを聞いて、群れから離れてこの『ナド・クライ』という地方まで移住してきたのが私だった。
「あの人たちの話だと、あなたは私の『使い』? なんだって。変なの。私はあなたのこと知らないし、きっとあなたも私のこと知らないのに」
視線をどこか遠くの
それからもう何十年この地域で暮らしているだろうか。
私のようなウサギ風情がニンゲンの生き死にを見守るほど長生きしているとなれば、それなりにニンゲンの目にも留まってしまうらしい。
普通の野生の動物であれば気にも留めないのだろうが、私はこの土地に本来住んでいないはずの、しかも真っ白な毛並みが良く目立つ畜生である。
幼子が老婆になるほどの間、人里近くの巣を使い続けたのは失敗だっただろうか。いつの間にやら私は『月神の使い』と呼ばれるようになっていた。最近になってようやく鉄臭さが消えたあの里のニンゲンどもである。
確か、霜月の里と言ったか。
「……でも、ここは静かでいいね。あの人たちも、ここまでは着いてこないみたい」
私は地べたの草を食むのをやめ、いい加減少女の方へと身体を向けた。
これまでの少女の話……独り言を勘案するに、彼女こそが『月神』と呼ばれる存在なのだろう。
心なしか辟易とした話し振りからして、あの里のニンゲンどもは憐れなことに彼女とのコミュニケーションに失敗しているらしい。祀っているのだろう本神(の依代か何か)から嫌われてしまうとは、まさか幼げな言動をしているこの少女を本当に神として崇めているわけではあるまいな。
この世界の常識についてはとんと疎いもので、前世のニンゲンとしての感性から観察する限り、彼女はどう見ても神サマではない。何やら不思議な力を帯びていることは感じるが少なくとも、崇め奉る類の神性ではないことは確かである。
やはり衣食住には苦労せずとも、ヒトの間で暮らすことには気苦労が伴うものだ。
どうせ伝わることはないと分かった上で、私は鼻をプウプウと鳴らした。
(一人になりたくなったらいつでもここに来れば良い。今度はニンゲンの食べる物も用意しておくから)
「……え?」
私の言葉を理解したわけでもあるまいに、気怠そうにしていた瞼をはっきりと開いて私を見つめる少女。私が鳴いたことがそんなに意外だったのだろうか。単に今の今まで食事に集中していただけである。元がニンゲンだったせいか、私は同族の中でもお喋りな方だった。
こちらへと越してきて周囲にウサギが居なくなった今も、ガケツノメドリほどとは言わないがモサモサアナグマよりは口数が多いと自負している。
それにしても彼女の惚けた表情と言ったら、まるで“喋るはずがないと思っていた小さな毛玉が、思ったよりもお固い口調で話し始めた”かのように間が抜けている。ニンゲンに私たちの言葉が、ましてや口調なんてものまで分かるはずもないため、あくまでも比喩だが。
「……あなたは、お話できるの?」
(なんということだ、聞いたかツノシカ。このニンゲンも私たち動物のことを愚弄している。ニンゲンはいつもそうだ。言語を解するのがニンゲンの特権だと勘違いしている)
「ううん、そうじゃなくて……そんなにはっきり話す子とは、初めて会ったから」
(これは驚いた。偶然の賜物か会話が成立している。だがニンゲンには私たちの言葉は分からない。どうしたってこの言葉も伝わりはしないのに、独り言が多いのは長年群れから離れて暮らしてきた私の悪い癖だ)
ひょっとしたら私は、かのガケツノメドリよりも喧しいウサギかもしれない。これからはヤカマシシロウサギと名乗るべきだろうか。
今日一日をかけて悩むべき議題へと行き当たったことで、私は口を閉ざした。食料は私の好きなソマルの実をたっぷり半年分ほど、巣の奥で雪の下に埋めているので何も問題はない。
その日少女は、また来るねと言って帰った。
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そろそろ空気が冷え込んできた。
ナド・クライに冬が近付いている。夜になると寒さに凍えた木々が軋む音が響き始める時期だ。ニンゲンが寒い寒いと口々に鳴き始める時期でもある。私には自慢の毛皮もあるし巣の中はぬくぬくとして快適だが。
私たち動物にとってみれば“冬”というのは試練の季節である。ナド・クライでは昼も夜も暗く天を覆う猛吹雪はなく、巣穴を掘ろうにも地面が凍っていることもなく、巣穴を掘った後に雪の重みで巣が潰されることもなければ、夏にはソマルの実が、冬でもヴィンテル草が雪の下から顔を出しているため“越冬”に生命を脅かされる感覚はない。しかしそれでも冬は冬である。
冬に備えるのは生物としての義務であろう。との信念から、今年も冬籠りの準備を万端に整えた私ことヤカマシシロウサギが巣の中でうつらうつらとしていると、外で何かが動く気配があった。
どんな小さな音も聞き逃さない私の耳が、ピクリと跳ねる。
地中を掘る音ではない。蹄の音でもなく、羽ばたきも聞こえなかった。ニンゲンの足音はもっと騒々しいものだ。
湖面を静かに波紋が伝うようなこの足音は……そう、確か以前にも聞いたことがあったはずだ。どこで聞いたのだったか、今一つのところで引っ掛かる。つまり、そのときは危険な存在ではなかったのだろうが。
狼藉者であれば容赦はしない、と私は体内で力を練り上げた。百年も生きていれば、この世界の摩訶不思議な力もそれなりに使いこなせるようになるものである。
密やかな足音が一歩二歩、と近付いて―――
「こんばんは」
(ニンゲン!)
冷たい月光とともに霜が降りそうなとある夜、彼女は再びやってきた。
私は畜生ではあるが不思議と記憶力が良い。
故郷の同族たちがどうかは知らないが、一世紀という長い時を生きてなお生まれたばかりの頃のことも鮮明に思い出すことができる。もちろん、この世界で生まれる前のこともだ。
そもそも私は鶴でも亀でもなくウサギの分際でどうして未だに老いの気配もなく生きているのか、家族たちは私ほどに長生きしているのかどうかも分からない身であるからして、考えるだけ不毛であろう。
兎も角(ウサギだけに)、私は彼女と以前初めて出会った時のことも良く覚えているということだ。足音を思い出せなかったのはご愛嬌といったところ。
あの日の私は確かに、『今度来るときはニンゲンの食べ物も用意しておく』と言った。この少女には伝わるはずもなかったものの、私自身がそう言ったのだから約束は果たさねばならない。
誠実なウサギである私は、もちろんあの後すぐにニンゲン用の果物を取ってきた。霜月の巣、もとい里のニンゲンも好んで食べているホワイトベリーである。
ニンゲンのことだから来るのであれば数日のうちだろうと思っていたが、今日はあれからひと月ほどが経っている。つまり、そのホワイトベリーは腐りそうになったので私がとっくに食べてしまった。
今ここにはない。
(ニンゲンのくせにここまで悠長なやつだとは思いもしなかった。何度もホワイトベリーを摘みに行って、何度も腐りそうになったものだから、私はこのニンゲンのためのホワイトベリーを食べ飽きてしまった)
「やっぱりあなたは、このあたりで一番お喋り……」
(それを言うなら私の前にいるニンゲンはこのあたりで一番のんびりしている。大抵のニンゲンはまた来ると言ったら次に日が昇った頃にはやってくるせっかちどもだというのに、このニンゲンときたら。きっと次に来る頃には老婆になっているに違いない)
「……ろうば?」
(それよりも食べ物だ。私は誠実なウサギであるからして、このニンゲンが実に暢気なニンゲンだと心の底から理解した後でも準備を怠らなかった)
「ん……何か、くれるの?」
当然だ。私は抜かりないウサギである。
私のかつての記憶によれば、因幡の白兎であったりカチカチ山のウサギであったり、ウサギには多少なり狡猾なイメージが付き纏う。カメと競争して負けたというあやつは同族の風上にもおけない間抜けであるとして、騙すばかりがウサギの能ではない。
前世からの知恵と今世のニンゲンの生態観察により、ホワイトベリーを大量の砂糖と一緒に煮てしまえば長期保存が利くと私は知っていた。
要するにジャムである。
「これって……あなたが作ったの?」
(私は特別なウサギ、ヤカマシシロウサギだからジャムも作れる)
「すごいね」
言いながら少女は瓶の蓋を開けようとしたが、どうやら力が足りない様子である。少しむっとした顔になって力むものの、まだ開かない。
熱々の状態ですり切りまで詰めて、不思議な力でぎゅうぎゅうに蓋をした瓶だからだ。そうすると瓶の中はほとんど真空状態になると私は知っていた。この暢気なニンゲンが季節が巡る頃にやって来ても大丈夫なようにした。
何しろ、熟し過ぎたホワイトベリーはもう食べたくなかったから。
「んんっ……」
(このニンゲンは見るからに非力だ。きっとこの瓶も開けられないに違いない。この調子なら、非力で暢気なニンゲンは開けるのに一年は掛かるかもしれない。でもこのジャムは一年保つから大丈夫だ。心配いらない)
「…………えい」
(―――!)
瞬間、少女を起点として凄まじい力の奔流が起きた。どう、と溢れ出た金色の力は一切の破壊を伴わず、しかし生存本能をこれでもかと刺激する根源的な恐怖を生じさせた。
それはもう、巣穴の外で驚いたガケツノメドリが何十羽と飛び立つ音が聞こえたくらいである。
いったい何が、と少女の手元を見てみれば、なんと蓋が開いていた。
「開いたよ。ねえ、これはどうやって食べたらいいの? 指で掬うの?」
(このニンゲンはジャムの蓋を開けるのに不思議な力を使った。私が思うに、ニンゲンはよほどの食いしん坊だ。それか恐ろしいほどに飢えている。普段から食べ物を貢がれていると思っていたが、それは勘違いだったかもしれない。なんて言ったってジャムの食べ方も知らないのだから。ジャムはパンに塗って食べるものだと誰もが知っているのに)
私はやはり私が竈で焼いたずっしりとしたライ麦パンを巣穴の奥の方から転がしてきて、少女へと渡した。
ジャムを作ったからにはパンも作らねばなるまいと思って焼いておいたのである。外は寒いからと巣穴で発酵の種を作ったおかげで、つい数日前までここは酸っぱい匂いでいっぱいだった。パンもジャムも私が食べられるものではないのでこのニンゲンが来なかったら処理に困っていたところだ。
「これもくれるの? ありがとう」
少女は躊躇や遠慮というものを知らないらしい。
何かの儀式のようにお礼を口にしたあとでパンを無造作に受け取ると、そのままホワイトベリーのジャムを塗って小さな口に頬張った。
「……、……!」
切らずに食べるものだから鼻にジャムが付いたことにも気が付かないで、目を見開いてもくもくと食べ続ける。
霜月の巣のニンゲンどもから敬われているだろうに、この少女は飢えていたらしい。自分たちの祀る神の依代ですら満足に食べさせられないとは、ニンゲンどもはどれだけ困窮しているのだろうか。
(鼻にジャムが付いていてもヤカマシシロウサギは拭ったりしない。そのまま帰ればきっとこのニンゲンの気苦労も減るはずだ。何より、こんなに面白い顔をしているのだから勿体ない)
「……」
小瓶にジャムを少し残して少女がパンを食べ終えた頃、彼女はそっと自身の鼻を袖で拭いた。残念なことに、自分で気が付いてしまったらしい。
その日の少女も、また来るねと言って帰っていった。