鎮守府に近い病院は、午後になると少しだけ静かになる。
診察の波が引き、廊下を歩く足音もまばらになる時間帯。
白い壁に射し込む陽の光が、どこか柔らかい。
提督は、病棟の廊下の端で一度立ち止まった。
その隣で、由良が小さく息を吐く。
「……大丈夫か?」
「うん。行きたいって言ったのは、私だから」
即答だった。だが、その指先はわずかに制服の裾を握っている。
提督はそれ以上何も言わず、扉を軽くノックした。
返事はない。
もう一度、今度は少しだけ強く。
「大和。入るぞ」
中から、かすかな声がした。
「……どうぞ」
扉を開ける。
部屋は整然としていた。
窓辺に置かれた椅子。小さな花瓶。簡素なベッド。
その上に、白い包帯を巻いた大和が座っている。
艤装は外され、肩も軽い固定がされている。
あの堂々とした立ち姿は今はない。
けれど、姿勢は崩れていなかった。
「……提督。そして、由良さん」
大和は微かに微笑む。
「お見舞いに来てくれたのですね」
「当然だろ」
提督は椅子を引いた。
由良は少しだけ距離を保ったまま立っている。
視線が合う。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、空気が止まった。
あの日。
由良は、ぎゅっと奥歯を噛みしめる。
「……ごめんなさい」
最初に口を開いたのは大和だった。
「私がもう少し、早く判断できていれば」
「違う」
由良の声は、思ったよりも強かった。
自分でも驚くほどに。
「大和のせいじゃない」
沈黙が落ちる。
窓の外で、遠く誰かの笑い声がした。
自分達は、もう日常に戻りつつある。
それが逆に、ここだけを取り残しているようだった。
「私は……怖かった」
由良はゆっくり言葉を選ぶ。
「でも、大和が前に出てくれたから……私、まだここにいる」
大和の瞳が揺れる。
「……それでも、守りきれなかった」
「守ったよ」
由良は一歩、近づいた。
足取りは少しだけぎこちない。
けれど止まらない。
「私、生きてる。ちゃんと歩いてる」
由良は大和の前に立つ。
そして、小さく笑った。
「だから、それでいい」
その笑顔は完璧ではない。
どこか脆くて、どこか痛々しい。
それでも、確かに本物だった。
大和は、視線を落とす。
拳が震えている。
「……私は、戦艦です」
ぽつりと零す。
「最強であることが、存在意義だと……そう思っていました」
提督は黙って聞いている。
「ですが、あの瞬間……私は、ただの一人でした」
強くもない。
完璧でもない。
ただ、怖かった。
その事実が、誇りを軋ませている。
由良は、しばらく考えるように目を伏せた。
「ねえ、大和」
「はい」
「最強じゃなくても、ここにいていいんだよ」
静かな声だった。
「私も、強くない。今も、ちょっと音が怖いし」
少し笑う。
「でも、それでも、ここにいる」
提督がふっと息を吐いた。
「鎮守府は戦果だけで回ってるわけじゃない」
窓の外を見ながら続ける。
「帰ってくる場所だ。みんなのな」
大和の肩が、わずかに震える。
その震えは、痛みではない。
抑えていた何かが緩んだものだった。
長い沈黙。
やがて、大和は深く息を吸う。
「……由良さん」
「うん」
「ありがとうございます」
ゆっくりと、頭を下げる。
戦艦としてではない。
一人の仲間として。
由良は少し慌てて手を振った。
「そんな、改まらなくていいって」
空気が、少しだけ柔らぐ。
提督は立ち上がった。
「復帰は焦るな」
「はい」
「艤装も、焦って背負うな」
大和は一瞬目を見開き、そして微笑む。
「……はい、提督」
帰り際。
由良は扉の前で立ち止まった。
振り返る。
「大和」
「はい?」
「今度、一緒におやつ食べよ」
唐突だった。
でも、真剣だった。
「鳳翔さんの新作、甘くておいしいよ」
一瞬の沈黙のあと。
大和は、ほんの少しだけ頬を緩めた。
「……それは、楽しみです」
由良は満足そうに頷く。
廊下に出る。
扉が閉まる。
少し歩いてから、由良は小さく息を吐いた。
提督が横を見る。
「無理してないか?」
「してない」
間。
「……ちょっとだけ、ドキドキしたけど」
「そうか。」
提督は、それだけ言うと歩幅を少しだけゆっくりにした。
病室の窓から差す光は、変わらず柔らかい。
部屋の中で、大和は一人、窓を見ていた。
先ほどより、ほんの少しだけ視線が上を向いている。
最強でなくてもいい。
完璧でなくてもいい。
ここにいる理由は、戦果だけではない。
それを、今日、少しだけ理解した。
大和はゆっくりと目を閉じる。
遠く、どこかで、笑い声がする。
日常は戻ってきている。
そして、自分も――
きっと、戻れる。
ゆっくりと。
確実に。
誤字報告本当にありがとうございました。
つづく