午後の鎮守府は、どこか眠たげだ。
遠くで聞こえる艦載機の整備音も、今日はやけに穏やかに感じられる。
提督は執務室の机に向かいながら、小さく伸びをした。
「……終わらん」
書類の山を見下ろし、ぼやく。
その時、扉がこんこんと控えめに叩かれた。
「どうぞ」
「失礼します」
顔を上げると、由良が立っていた。
いつもの制服姿。けれど、以前よりほんの少しだけ歩みが慎重だ。
「どうした?」
「……差し入れ」
由良は小さな包みを差し出した。
中身は、焼き菓子。
「鳳翔さんが、新作の試作品だって。感想、欲しいって」
「なるほど。俺は実験台か」
「うん」
即答だった。
提督は思わず吹き出す。
「ひどいな」
「提督は味覚が庶民的だから、基準になるって」
「褒められてるのか?」
「多分」
由良は小さく笑う。
その笑顔が自然に出るようになったことに、提督は気づいている。
包みを開ける。
ほのかに甘い香り。
一口かじると、バターの風味が広がった。
「……うまい」
「ほんと?」
由良が少し身を乗り出す。
その動きに、まだわずかな硬さがある。
だが、もう“痛み”ではない。
「甘さ、ちょうどいいな。紅茶に合いそうだ」
「よかった」
由良はほっとしたように息をついた。
しばらく、静かな時間。
紙をめくる音と、外の風の音。
由良は窓の外を眺める。
「今日、空きれいだね」
「ああ」
雲はゆっくり流れ、海は穏やかだ。
戦闘のない日。
それだけで、鎮守府の空気は違う。
「……提督」
「ん?」
「ちょっと、散歩しない?」
意外な提案だった。
「リハビリか?」
「半分はね」
由良は首を傾げる。
「もう半分は?」
「提督の運動不足解消」
「余計なお世話だ」
けれど立ち上がる。
二人で廊下を歩く。
窓から差す光が床に長い影を落とす。
外へ出ると、潮の匂いがした。
ゆっくりと歩く。
由良の歩幅に合わせて。
「前はさ」
ぽつりと由良が言う。
「こうやって歩く余裕、あんまりなかったよね」
「そうか?」
「うん。提督、いつも急いでた」
少し考える。
否定はできない。
「……悪かったな」
「ううん」
由良は首を振る。
「でも、今はいい感じ」
海を見つめる横顔は穏やかだ。
桟橋の端まで来る。
水面がきらきらと光る。
「座るか」
木製のベンチに並んで腰を下ろす。
風が吹き、由良の髪が揺れる。
提督はさりげなく帽子を押さえる。
「提督」
「なんだ」
「ありがとう」
唐突だった。
「何がだ?」
「今、こうやってゆっくりしてくれてること」
提督は少し目を細める。
「俺がしたいだけだ」
「そう?」
「ああ。仕事は逃げないが、こういう時間は逃げる」
由良はくすっと笑う。
「名言っぽい」
「ぽい、か」
「うん。ぽい」
しばらく無言。
でも、気まずくはない。
波の音が埋めてくれる。
由良は足先を見つめる。
「まだね、たまに怖い夢見る」
提督は視線を海に向けたまま、答える。
「そうか」
「でも、前より短くなった」
「それはいいことだ」
「うん」
少しだけ間。
「起きた時、思い出すの。ここにいるって」
提督は静かに頷く。
「ここは、帰ってくる場所だからな」
由良は隣を見上げる。
「提督も?」
「ああ」
即答だった。
由良の表情が柔らぐ。
「じゃあ、これからもちゃんと帰ってきてね」
「命令か?」
「お願い」
少し考え、提督は頷く。
「善処しよう」
「そこは“約束する”でしょ」
「……約束する」
由良は満足そうに微笑んだ。
風が強くなる。
少し肌寒い。
提督は立ち上がる。
「戻るか」
「うん」
帰り道、由良は一歩だけ前に出る。
振り返り、手を差し出した。
「ほら」
「何だそれは」
「エスコート」
「逆だろ」
「細かいことはいいの」
提督は呆れたように笑い、手を取る。
その手は、もう震えていない。
指先の温度が伝わる。
歩き出す。
ゆっくりと。
鎮守府の建物が近づく。
日常の音が戻ってくる。
由良は前を向いたまま言う。
「ねえ提督」
「なんだ」
「明日も、少しだけ歩こ?」
「書類が減ったらな」
「減らそ?」
「……努力する」
由良が笑う。
その笑い声は、もう無理をしていない。
ただ、そこにある。
鎮守府の午後は、穏やかに過ぎていく。
大きな戦いも、痛みも、まだ消えたわけではない。
それでも。
こうして並んで歩ける時間がある。
それだけで、十分だった。
つづく