大和が執務室へ戻ったのは、退院から三日後のことだった。
戦闘復帰はまだ許可が下りていない。
艤装の装着も、医務室から固く止められている。
それでも――何もしない時間の方が、彼女には堪えた。
「書類整理、こちらでよろしいでしょうか」
静かに頭を下げる。
提督は一瞬だけ驚いた顔をし、すぐに頷いた。
「ああ、無理はするな」
「はい」
椅子に腰掛ける。
久しぶりの執務室の空気。
紙とインクの匂い。
窓から差す午後の光。
胸の奥に、わずかな安堵が広がる。
――戻ってきた。
完全ではない。
戦艦としてではない。
けれど、“ここ”にいる。
それだけで十分だと、自分に言い聞かせる。
ペンを走らせる音が二つ、重なる。
静かな時間。
その時だった。
廊下の向こうから、ざわめきが近づいてくる。
「見ました?」「やっぱり!」
扉の前で足音が止まり、ノックもなく開いた。
「失礼します!」
入ってきたのは、青葉。
満面の笑み。
「提督!最新号、届いてますよ!」
提督が顔をしかめる。
「今は忙しい」
「えー?でもこれ、重要案件ですよ?」
ひらり、と机に置かれた一枚の新聞。
大きな見出しが目に入る。
【提督と由良、極秘交際発覚!?】
――一瞬、思考が止まった。
大和の視線が、そこに吸い寄せられる。
写真。
桟橋で並ぶ二人。
手を取る瞬間。
穏やかな横顔。
胸の奥で、何かがきしんだ。
「……これは」
声が出たことに、自分でも驚く。
提督が慌てて新聞を裏返す。
「デマだ」
即答。
けれど、わずかに遅かった。
大和はもう、見てしまった。
「そう、ですか」
努めて平静に答える。
「青葉、外で待て」
「はーい」
軽い足音が去る。
部屋に沈黙が落ちる。
大和は視線を落とし、書類へ戻る。
文字が、うまく読めない。
インクの滲みがやけに濃く見える。
「気にするな」
提督の声。
「事実ではない」
その言葉が、なぜか胸に刺さる。
――事実ではない。
安堵するべきなのに。
なぜだろう。
小さく、息が詰まる。
「……よろしいのですか」
気づけば、口が動いていた。
「何がだ」
「由良さんは、どう思われているのでしょう」
提督は言葉を失う。
ほんの一瞬。
その沈黙が、やけに長い。
「……嫌ではない、と」
ぽつりと答える。
大和の指先が止まる。
心臓が、どくりと鳴る。
嫌ではない。
それは否定ではない。
「そう、ですか」
声が少しだけ掠れた。
自分でも分かる。
これは――嫉妬だ。
戦場では感じたことのない感情。
誇りでも、恐怖でもない。
もっと、弱いもの。
大和は深く息を吸う。
「提督」
「なんだ」
「私は……戦艦です」
唐突な言葉。
提督が眉をひそめる。
「またその話か」
「いえ。ですが」
視線を上げる。
真っ直ぐに。
「戦えない今の私は、ただの――補佐役です」
自嘲気味に笑う。
「そのような私に、何かを望む資格はありません」
空気が重くなる。
提督はゆっくりと立ち上がる。
机を回り、大和の前へ。
「資格、か」
低い声。
「ここは戦果で人を選ぶ場所じゃない」
大和は目を伏せる。
「ですが、私は最強であることで存在を証明してきました」
「それはお前が勝手に背負っただけだ」
静かな叱責。
大和の肩が揺れる。
「……それでも」
小さな声。
「私は、提督の隣に立てる存在でありたい」
言ってしまってから、気づく。
これではまるで。
提督は、驚いたように目を見開く。
大和は視線を逸らす。
頬が熱い。
「失言でした」
立ち上がろうとする。
だが、提督の手がそっと止めた。
強くない。
けれど、逃がさない力。
「大和」
名前を呼ばれる。
心臓が跳ねる。
「隣に立つのに、強さはいらない」
静かな声。
「必要なのは、ここにいることだ」
大和は息を呑む。
窓の外、穏やかな海。
戦いのない空。
「……私は」
言葉が震える。
「嫉妬、しているのですね」
ようやく認める。
弱さを。
提督は否定しない。
「人間らしくていい」
その一言で、胸の奥がほどける。
大和は目を閉じる。
完璧でなくていい。
最強でなくていい。
そう言われたばかりだ。
それでも――
「提督」
「なんだ」
「もし、私が戦線に復帰した暁には」
ゆっくりと顔を上げる。
「……その時は、隣に立つ機会を、いただけますか」
挑戦でも、懇願でもない。
静かな決意。
提督はわずかに笑う。
「順番待ちだな」
冗談めかした声。
だが目は真剣だ。
大和の胸が温かくなる。
完全な答えではない。
けれど、拒絶でもない。
それで十分だった。
廊下の向こうから、また青葉の笑い声が聞こえる。
騒動は、まだ続くだろう。
だが。
大和は再び椅子に座り、ペンを握る。
文字が、今度ははっきり読める。
弱さも、嫉妬も、抱えたままでいい。
ここにいる。
それが、今の自分の役目。
静かな午後。
執務室には、再び二人分の筆音が重なっていた。
続く。
ストックが切れてきた…