神殺しのデミゴット   作:ののじん

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第12話 鍵が回る音

 夜がほどけるのは、静かだった。

 

 控え室の灯りがまだ揺れているのに、外の空気だけが少しずつ薄くなる。

 石壁の冷たさが、今度は“朝に向かう冷え”に変わっていった。

 

 護衛が扉の前で立ったまま言う。

 

「交代だ。……短く目を閉じろ」

 

 俺は椅子に背を預け、目を閉じた。

 眠るというより、意識の角を落とすだけ。

 

 倉庫の灯り。落ちた刃の音。

 浮かびかけて、すぐに押し戻す。

 今は、考えない。朝に回す。

 

 やがて、外の足音の質が変わった。

 夜番の硬い歩幅から、朝の柔らかい歩幅へ。

 それだけで、世界が一段切り替わる。

 

 扉が小さく叩かれる。

 

「よろしいですか。お水を」

 

 神官の声だ。

 護衛が扉を少しだけ開け、受け取る。手順が丁寧で、無駄がない。

 

 水差しが机に置かれる。

 ヘルミーナ様が顔を上げた。

 

「……朝ですね」

「朝だ」

 

 俺は短く返して、立ち上がる。

 左手は無意識に柄頭へ行きかけて、やめた。今は抜かない。

 

 護衛が言う。

 

「外の影は薄い。だが消えてはいない。……動くなら今だ」

 

 ヘルミーナ様が頷く。

 

「はい。まず、この教会で“裏付け”を取ります」

 

 侍女が小さく息を整えた。

 運び役の男は俯いたまま、黙っている。護衛の視線が刺さっているからだ。

 

 控え室を出る。

 廊下の空気は冷たい。祈りの匂いが濃い。

 外へ行く前に、神官のところへ向かう。

 

 祭壇の近くで、昨夜の神官が待っていた。

 眠っていない目だ。夜番を回していたんだろう。

 

「朝になりましたね。……お話をなさいますか」

 

 護衛が先に口を開く。

 

「長くは話さない。だが、確認したいことがある」

 

 神官が頷く。

 

「可能な範囲で」

 

 ヘルミーナ様が丁寧に言った。

 

「失礼します。ムソニアで、質屋の評判を伺いたいのです。“金鈴亭”という店をご存じですか」

 

 神官の目が一瞬だけ動いた。

 すぐ戻る。けれど、その一瞬で十分だった。

 

「……名は耳にします。大きな店です。旅人も利用する。ですが」

 

 護衛が続ける。

 

「ですが?」

「人の出入りが多い割に、揉め事の記録が少ない。……不自然です。普通は苦情が残る」

 

 ヘルミーナ様が頷く。

 

「裏で処理している、ということですね」

 

 神官は言葉を選び、短く言った。

 

「噂の域を出ません。ただ、“関わらない方がいい”という噂は確かにあります」

 

 俺は黙って聞いた。

 街の“噂”は刃より厄介だ。掴めないのに、動きを縛る。

 

 護衛が確認を重ねる。

 

「質屋に限らず、金の流れを握っているのはどこだ」

「この街なら、教会の寄進も、商会も、役所もあります。ですが、裏の金は別です。……裏の金は、裏で回ります」

 

 ヘルミーナ様が静かに言った。

 

「昨夜、鈴の音がしました。合図に使われる類の」

 

 神官が眉を僅かに動かす。

 

「鈴は、合図にも、儀礼にも使われます。……ですが、夜の鈴は、だいたい良くない」

 

 護衛が頷いた。

 

「十分だ。礼を言う」

 

 神官は目を伏せた。

 

「あなた方がここで刃を抜かないなら、それでいい。……街の“公”が動く前に、収めなさい」

 

 公。

 昨夜の言葉が、ここで繋がる。

 教会の線の内側は、確かに違う。

 

 控え室へ戻る途中、ヘルミーナ様が小さく言った。

 

「……次は、確かめます。金鈴亭へ」

 

 護衛が低く言う。

 

「物証か、証言だ。……運び役を連れていく。店の前で逃げられるな」

 

 運び役の男が青くなる。

 

「俺は……俺は、言われて運んだだけだ」

 

 護衛が返す。

 

「それを言え。黙れば、お前は“消される”側だ」

 

 男が喉を鳴らした。

 

 護衛が控え室で装備を整えながら言う。

 

「表通りで行く。堂々とだ。……逃げ道も確保する」

 

 ヘルミーナ様が頷いた。

 

「はい。私が話します。あなた方は、前と後ろを固めてください」

「分かった」

 

 俺は短く返し、腰の刀を確かめた。

 抜かない朝であってほしい。

 でも、そうじゃない可能性が高い。

 

 外へ出る。

 朝のムソニアは、昨日より音が軽い。

 商人の声、荷車の軋み、焼いたパンの匂い。

 街は平然と始まっている。

 

 俺たちは、その“平然”の中を歩く。

 昨夜の闇を、まだ背中に引きずったまま。

 

 護衛が横目だけで言った。

 

「見られている。だが、追ってはこない。……今は“朝”だからだ」

 

 ヘルミーナ様が小さく息を吐いた。

 

「朝は人が増えます。目も増える。……夜みたいには動けません。こちらが動く番です」

 

 金鈴亭へ向かう。

 石畳の上で、足音が重なる。

 俺の耳には、まだ鈴が残っている。

 

 だが今度は、俺たちが鈴を追う番だ。

 

 朝の光が少しだけ強くなった。

 

 屋台の煙が白く伸び、石畳の隙間に残っていた夜の冷えが、ゆっくり薄れる。

 人の流れも増えてきた。荷車、商人、子ども。声が重なって、街は“普通”の顔を作る。

 

 俺たちはその中を歩く。

 普通の顔を壊さない速度で。

 壊さない距離で。

 

 護衛は前を歩き、目だけで周囲を割る。

 ヘルミーナ様は真ん中。侍女は半歩後ろ。

 運び役の男は、護衛の視界に収まる位置に置かれている。逃げるための余白がない。

 

 俺は列の少し外側。

 誰かが寄ってきても、先にぶつかる位置。

 

 金鈴亭は、中心寄りから少し外れた場所にあった。

 通りが2本交わる角。人の流れが混ざる。

 目立ちすぎず、埋もれもしない。金が通る場所だ。

 

 店先は整っていた。

 木の看板。鈴の飾り。硝子は透明。中の棚が見える。

 質屋らしく、道具や小物が並び、客が数人出入りしている。

 

 “普通”だ。

 

 だからこそ、普通に見せるための手入れが鼻につく。

 角がない。欠けがない。埃がない。

 人が多い街の店にしては、整いすぎている。

 

 護衛が立ち止まらずに言った。

 

「正面から入る。客の顔で」

 

 ヘルミーナ様が頷く。

 

「はい。私が話します」

 

 扉の鈴が、短く鳴った。

 昼の鈴は、ただの鈴だ。夜とは違う。

 

 店内は明るい。

 木の匂いと、乾いた紙の匂い。金属の匂いが薄い。

 カウンターの奥に番頭らしい男がいて、笑みを作ってこちらを見た。

 

「いらっしゃいませ。質入れで?」

 

 声は柔らかい。

 柔らかすぎる。客の顔を見る前に、言葉が先に出る。

 訓練された商売口だ。

 

 ヘルミーナ様が丁寧に言った。

 

「おはようございます。少し、お伺いしたいことがございます」

 

 番頭の笑みが、ほんの僅かに固くなる。

 だが、固さは一瞬で消える。消すのが上手い。

 

「はい。どうぞ。お客様のご要件を」

 

 護衛が一歩前に出そうとする気配を、ヘルミーナ様が小さく手で止めた。

 言葉の役目を奪わない。これも手順だ。

 

「昨夜、この近くで“鈴”の音が聞こえました。夜の鈴は、あまり良い噂を聞きません。こちらの店のものではありませんよね」

 

 番頭が笑った。

 

「鈴ですか。ここは質屋でして、鈴は飾りにも使いますが……夜に鳴らして何になるんでしょう。物騒な話は勘弁していただきたい」

 

 軽い。

 軽いのに、目は軽くない。

 俺の腰の刀を一瞬で測って、次に護衛を測って、最後にヘルミーナ様を測った。

 

 ――身分を測っている。

 

 運び役の男が、喉を鳴らした。

 視線を落とし、耐える。

 だが、番頭はその男を見ていないふりをして、見ている。見た上で無視している。

 

 護衛が低く言う。

 

「今朝、確認に来ただけだ。昨夜、ここに運びがあったと聞いた」

「聞いた、とは?」

 

 番頭の笑みが、少しだけ薄くなる。

 

 ヘルミーナ様が言った。

 

「この者です」

 

 ヘルミーナ様が、運び役の男へ視線を向ける。

 男は肩を震わせて、口を開いた。

 

「……俺は、ここへ荷を運んだ。言われて、運んだだけだ。中身は……見てない」

 

 番頭の笑みが消えた。

 完全には消えない。だが、目が冷える。

 

「……当店は、運び屋を雇いません。こちらに荷を持ち込む方は、皆さん自分で来られます。お客様、勘違いでは」

 

 勘違い。

 そう言い切る速度が早い。

 反射じゃない。準備された否定だ。

 

 護衛が、カウンターの端に小さな布包みを置いた。

 中身は見せない。だが、“重さ”だけで圧になる。

 

「これは何だ」

 

 番頭が聞く。

 

「昨夜、倉庫で拾ったものだ」

 

 護衛は嘘をつかない。

 倉庫で拾った。鈴。帳面の端。どれかだ。

 何を置いたかはまだ書かない。けど、番頭の反応で分かる。

 

 番頭の指先が、ほんの僅かに固まった。

 視線が布包みに落ちる。

 落ちたまま、すぐ戻らない。

 

 それだけで十分だ。

 

 ヘルミーナ様が静かに言う。

 

「ここで揉めるつもりはございません。ですが、確認はします。あなた方が“知らない”と言うなら、こちらも然るべき場所へ持ち込みます」

 

 番頭が、ゆっくり息を吐いた。

 

「……脅しですか」

「手順です」

 

 護衛が短く返した。

 

 店内の空気が、少しだけ張る。

 客が一人、足を止めてこちらを見る。

 番頭が、その客へ笑みを向けた。早い。客を逃がさない。店の顔を守る。

 

 その瞬間、奥の戸がほんの少しだけ開いた。

 隙間から、目が一つ。

 こちらを見て、すぐ消えた。

 

 俺は見逃さなかった。

 護衛も、見ている。

 

 番頭が言った。

 

「……分かりました。こちらも、店として対応します。ですが、ここでは困ります。奥でお話を」

 

 奥。

 店の裏。

 人の目が減る場所。

 

 ヘルミーナ様は一拍だけ置いて、頷いた。

 

「構いません。ですが、条件があります」

 

 番頭が眉を僅かに動かす。

 

「条件?」

「扉は閉めません。護衛も同席します。私の侍女も、私のそばを離れません」

 

 番頭が笑った。

 

「用心深い」

「当然です」

 

 ヘルミーナ様の声は丁寧なまま、揺れない。

 

 番頭が身を引く。

 

「では、どうぞ。……お客様方も、他のお客様の迷惑にならぬように」

 

 俺は、左手を柄頭に添えた。

 抜く気はない。

 ただ、遊ばせない。

 

 奥へ向かう。

 昼の店の顔の裏へ。

 そこで、何が出てくるか――それが次の勝負だ。

 

 店の明るさが、数歩で変わった。

 棚の並びが途切れ、床板が少しだけきしむ。香りが薄くなる。

 客の声が遠ざかる代わりに、紙と金属の匂いが濃くなる。

 

 番頭が先を歩き、戸の前で止まった。

 鍵を回さない。回せない条件を飲んだ。

 代わりに、戸を半分だけ開ける。

 

「こちらへ」

 

 控えめに見える動きなのに、背中は固い。

 逃げ道と、合図の位置を身体が覚えている。

 

 護衛が先に入る。

 次に俺。

 ヘルミーナ様と侍女。最後に運び役の男。

 列の順番が崩れないまま、狭い部屋に収まった。

 

 部屋は帳場の奥だ。

 机。帳面。封蝋。秤。

 壁に小さな棚があり、鍵付きの箱がいくつも並んでいる。

 質屋の“普通”の顔。だが、普通のまま目が刺さる。

 

 番頭は机の向こうへ回り、こちらを見た。

 

「それで。何をお望みで?」

 

 ヘルミーナ様が丁寧に言った。

 

「昨夜の倉庫で拾ったものが、こちらに繋がる可能性がございます。まず、それを確認したいのです」

 

 護衛が机の上の布包みを、少しだけ寄せた。

 包みは解かない。見せない。

 見せなくても、反応で足りる。

 

 番頭の目が、また布包みに落ちた。

 今度は一瞬で戻った。

 戻すのが早い。慣れている。慣れすぎている。

 

「それは、当店とは関係ありません」

「断定が早い」

 

 護衛が淡々と言う。

 

 番頭が笑みを作った。

 

「質屋は噂で潰れますから。否定は早くなります」

 

 言い訳が整っている。

 整っているほど、裏がある。

 

 ヘルミーナ様が、運び役の男へ視線を向けた。

 

「あなた、昨夜、どこに運びましたか」

 

 男が顔を上げ、番頭を見ないようにして言った。

 

「……裏の倉庫だ。店の裏口からじゃない。裏の通りで待ってた人間に渡した。俺は、ここへ持ち込んではいない」

 

 番頭の眉が僅かに動いた。

 “店の裏口じゃない”という言い方に反応した。

 それはつまり、裏口があると知っている反応だ。

 

 護衛がその一瞬を逃さず、短く言う。

 

「裏口があるのか」

「どの店にも裏口はあります」

 

 番頭は即答した。

 即答すぎる。聞かれていないことまで先に答えている。

 

 ヘルミーナ様が静かに言う。

 

「では、その裏口を確認させてください。店の中で揉めるつもりはありません。確認だけです」

 

 番頭が、薄く笑った。

 

「お客様。こちらは商売です。裏を見せろと言われて、見せる店はありません」

「商売なら、表で済むはずです」

 

 護衛の声が低くなる。

 

「だが昨夜の“運び”の話が出た。……表で済ませたくないのは、そっちだ」

 

 番頭の笑みが消えた。

 今度は消えたまま戻らない。

 

 空気が、一段落ちる。

 この部屋の壁が近く感じる。

 

 俺は左手を柄頭に添えたまま、視線を動かした。

 扉は半開き。廊下が見える。

 だが、廊下の先の影が増えている。

 誰かが“集まっている”。

 

 番頭が言った。

 

「……あなた方は、何者ですか」

 

 ヘルミーナ様は答えない。

 答える必要がない。ここで名を出せば、相手は次の手順を決める。

 

 護衛が代わりに言った。

 

「名は要らない。こちらは確認に来た。それだけだ」

 

 番頭が、息を吐く。

 

「確認……ですか。では逆に、こちらも確認します。……それを、ここで開けてもらえますか」

 

 布包みを指した。

 開けさせたい。中身を見たい。

 見た瞬間に、こちらを“脅し”扱いにする気だ。

 

 護衛が首を横に振る。

 

「開けない。必要なら“公”へ持っていく」

 

 番頭の目が細くなる。

 

「公。……教会か、役所か。どちらでも同じです。ここで済ませた方が、あなた方のためになりますよ」

 

 脅しに聞こえる。

 だが言い方は丁寧だ。

 丁寧な脅しが一番厄介だ。

 

 ヘルミーナ様が一拍置いて言う。

 

「それは、こちらが決めます」

 

 番頭の口角が、ほんの少しだけ上がった。

 笑みじゃない。形だけの上がり。

 

「……では、こうしましょう。今日は帰ってください。ここで話を続ければ、店の客が減ります。あなた方も望まないでしょう」

 

 護衛が即答した。

 

「帰らない」

 

 番頭が目を細める。

 

「それなら――」

 

 その瞬間、廊下の戸が、静かに閉まった。

 今、閉めた。

 こちらの背後の出口が一つ消えた。

 

 俺は息を吸った。

 

 ――やる気だ。

 

 店の“表”で揉めないために奥へ来た。

 奥へ来た時点で、こちらの条件を守るかどうかは相手次第だった。

 相手は、守らない方を選んだ。

 

 護衛が低く言った。

 

「ヘルミーナ様。後ろへ」

「分かりました」

 

 侍女が息を呑む。

 ヘルミーナ様は侍女の手を取って、半歩下がった。

 動きが早い。迷いがない。

 

 番頭が机の下へ手を伸ばす。

 鈴か、笛か、短い刃か。

 どれでも同じだ。

 

 俺は、抜かなかった。

 抜かずに止められる距離は一瞬しかない。

 

 俺は一歩で詰めた。

 刃じゃなく、鞘で。

 

 机の端に鞘を当てて、番頭の手首へ“落とす”。

 

 番頭の手が跳ねた。

 机の下の何かが鳴りかけて、止まった。

 

 護衛が同時に動き、扉の方へ向いた。

 外から入る気配。数人。

 店の裏の手が来る。

 

 俺は番頭の目を見た。

 

「ここで終わらせるか」

 

 番頭が、低く笑った。

 

「……終わると思うなら、浅い」

 

 その言葉の直後、廊下側の戸が開いた。

 影が3つ。

 短い刃が2つ。鈍い棒が1つ。

 

 昼の店の顔の裏に、夜の顔が出てくる。

 

 護衛が短く言った。

 

「……押し返す。叫ばせるな」

 

 俺はようやく、柄を握った。

 抜くのは最後。

 まずは、黙らせる。

 

 俺は刀を抜かないまま、鞘を前に出した。

 狭い部屋で刃を振れば、棚も机も味方しない。音も増える。

 だから、刃は最後だ。

 

 廊下から入ってきた3人が、こちらを見る。

 

「邪魔だ」

 

 短い刃の男が言う。

 言葉が短い。長引かせる気がない。

 

 護衛が返す。

 

「引け」

「引けるかよ」

 

 もう一人が、棒を握り直した。木じゃない。硬い。叩くための重み。

 

 ヘルミーナ様が背後で静かに言った。

 

「セキサメさん。無理はしないでください」

「分かってる」

 

 俺は短く返して、足の位置を決める。

 机の端と壁の角。逃げ道は一つ。

 ここで崩れたら、背中に人がいる。

 

 最初に動いたのは、棒の男だった。

 叩く。音で怯ませる。そういう役。

 

 俺は半歩だけ内側に入って、鞘で受けた。

 受けた瞬間、腕に重みが乗る。

 その重みを、下に逃がす。

 

 棒が床を叩く。

 乾いた音が出る。だが、叫びじゃない。まだ大丈夫だ。

 

 俺は鞘のまま、棒の握りへ滑らせた。

 手首を“落とす”。

 握力が抜ける。

 

 棒が転がる。

 男の目が一瞬だけ泳ぐ。

 

 そこに護衛が入った。

 足を引っ掛ける。崩す。

 男が倒れる前に、口元を押さえる。

 

 声は出ない。

 これで1人。

 

 短い刃の男が舌打ちした。

 

「……静かにやる気かよ」

 

 やる気じゃない。やらせないだけだ。

 

 男が踏み込む。

 刺しに来る。振らない。最短で取る。

 

 俺は鞘の先を、刃の進路に置いた。

 ぶつけるんじゃない。止める。

 

 刃が鞘に当たり、滑る。

 金属音が小さく鳴る。

 

 ――音は出る。

 でも、ここで止める。

 

 俺はそのまま、相手の肘に鞘を当てて押した。

 肘が伸びると、刃は届かない。

 

 男が体勢を立て直そうとする。

 その瞬間だけ、足が止まる。

 

 俺は柄を握った。

 抜く。

 

 抜き際を見せないように、体を半歩ずらして遮る。

 刃が出る音を、街の音に紛らせるには、この距離しかない。

 

 次の一閃は深く入れない。

 狙うのは“武器”だ。

 

 刃を持つ手首の少し上。

 叩き落とす角度。

 

 短い刃が床に落ちる。

 男が息を呑む。

 

 護衛がすぐに踏み込み、男の肩を壁へ押し付けた。

 口を塞ぐ。

 声を出させないまま、動きを殺す。

 

 残る1人。

 廊下側で様子を見ていた男が、引く気配を見せた。

 

 逃げる。

 逃げて、表へ回って騒ぐ。

 それが一番厄介だ。

 

 俺は刃を戻しかけて、やめた。

 戻す時間が惜しい。

 

 鞘に戻さず、刃先を下げたまま一歩だけ出る。

 追うんじゃない。道を切る。

 

「戻れ」

 

 男が足を止める。

 止まった瞬間に、護衛が背後へ回った。

 首じゃない。肩。腰。

 崩して、床へ座らせる。

 

 声は出ない。

 喉を潰さない。

 ただ、終わらせる。

 

 部屋の中の動きが止まった。

 残るのは呼吸と、棚の軋みと、遠い客の声。

 

 ――表は、まだ“普通”だ。

 

 番頭は机の向こうで固まっていた。

 目だけが動いている。計算している目だ。

 

 俺は刃を下げたまま言った。

 

「ここで続けるなら、表が割れる」

 

 番頭が薄く笑う。

 

「……割らないように殺すつもりか」

「違う」

 

 護衛が言った。

 

「割らないように“持っていく”」

 

 ヘルミーナ様が一歩だけ前に出た。

 侍女の手は離さない。

 それでも前に出る。

 

「もう一度だけ伺います。昨夜の荷と、その受け取り先。答えてください」

 

 番頭の目がヘルミーナ様を見て、次に俺の刃を見る。

 そして、護衛を見る。

 

「……答えたら、帰れるのか」

 

 護衛が即答した。

 

「嘘をつかなければな」

 

 番頭が息を吐いた。

 長く。観念したふりをする呼吸。

 

「……店の荷じゃない。預かりだ。上からの」

 

 上。

 またその言葉。

 

 ヘルミーナ様はすぐに言わない。

 代わりに、丁寧に詰める。

 

「“上”とは、誰ですか」

「言えない」

「では、連絡口は」

 

 番頭の喉が動く。

 

「……裏の倉庫。鈴が鳴れば、そこへ」

 

 護衛が言う。

 

「倉庫は昨夜潰した」

 

 番頭が口角を上げかけて、すぐ戻した。

 

「潰してない。場所は1つじゃない」

 

 ヘルミーナ様が、静かに言う。

 

「……次の場所を教えてください」

 

 番頭が黙る。

 黙って、視線だけで“奥の棚”を見た。

 鍵付きの箱が並ぶ棚。

 

 俺はそれを見て、護衛へ視線を投げた。

 護衛が頷く。

 

「箱か」

 

 番頭は答えない。

 答えないことで、答えている。

 

 ヘルミーナ様が言った。

 

「開けてください」

 

 番頭が笑った。

 

「開けたら、俺は終わりだ」

「開けなくても終わります」

 

 護衛の声は淡々としている。

 

 番頭の目が揺れた。

 揺れたまま、鍵束へ手を伸ばす。

 

 その瞬間。

 表の鈴が鳴った。

 

 客が入っただけの音。

 でも、今はそれが刺さる。

 

 番頭の手が止まる。

 外へ向けて“時間を作る”気配。

 

 護衛が低く言った。

 

「時間稼ぎはやめろ」

 

 俺は刃を鞘へ戻した。

 音を殺して。

 そして、鞘を腰へ収める。

 

 ここから先は、刃じゃない。

 手順の刃だ。

 

 ヘルミーナ様が、番頭を真っ直ぐ見て言った。

 

「このままでは、ここで終わります。開けてください。今なら、まだ“店”の顔を残せます」

 

 番頭の呼吸が、浅くなる。

 鍵束が、震える。

 

 そして――鍵が、棚の錠に差し込まれた。




アマテラス「くく……赤雨よ。よいぞ。
騒ぎを起こさず、喉も裂かず、手だけ折って終わらせた。
――それで十分じゃ。
刃は“勝つ”ためにあるのではない、“戻れる”ように使うものよ。
……さて、鍵が回る音は鈴より甘い。じゃが甘さに酔うでないぞ。
開いた瞬間が、一番危ういからの」

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