宿の角が見えたところで、護衛が言った。
「……尾が変わった」
俺は視線を動かす。
通りの向こう、人の流れに溶ける影。
今までの“遠い目”じゃない。距離が詰まっている。歩幅が揃っている。迷いがない。
背中が、薄く冷える。
ヘルミーナ様は足を止めずに、丁寧に言った。
「こちらを試しているのですね」
護衛が短く頷く。
「試すだけならまだいい。……問題は、試し方だ」
侍女が息を呑む音が、俺の耳に届いた。
ヘルミーナ様は侍女の手を取り、位置を半歩だけ内側へ寄せる。
それだけで、護衛線が締まる。
俺は左手を柄頭に添えた。
抜くつもりはない。
ただ、遊ばせない。
護衛が言う。
「宿へは戻る。……だが、一直線じゃない」
曲がる。
通りを変える。
人の波を使う。
屋台の列を抜け、布屋の角で折れる。
わざと混む場所へ入って、わざと見失いにくい場所へ出る。
撒くんじゃない。動きを見るためだ。
護衛が前を見たまま言う。
「宿へ戻る前に、一度だけ回す。……尻尾の動きを確かめる」
俺は頷いた。
やることは同じ。
戦いの前に、相手の手を見ておく。
角を曲がった瞬間、視線が一つ、こちらに刺さった。
子どもの目じゃない。
商人の目でもない。
薄い影が、店の軒下から離れた。
離れ方が静かすぎる。
音を出さない訓練をしている。
護衛が小さく息を吐いた。
「……1人じゃない」
俺の背中に、街のざわめきとは別の気配が重なる。
挟む動きだ。前と後ろ。横の路地。
ヘルミーナ様が丁寧に言う。
「ここで、ぶつけてきますか」
護衛は首を横に振る。
「まだだ。……だが、こちらが“安全な場所”に戻るのは嫌がる」
安全な場所。宿。教会。
そこへ入られたら、相手はやりづらい。
だから――途中で触ってくる。
路地が一本、口を開けている。
影がそこに落ちて、すぐ消えた。
俺は歩幅を変えずに、息だけを整えた。
抜かない。
でも、抜ける。
護衛が低く言う。
「次の角で止まるな。止まったら、そこで取られる」
俺は短く返す。
「分かった」
そして、次の角。
通りが少しだけ狭くなる。
屋台の幕が風で揺れ、視界が一瞬遮られる。
――その瞬間だった。
肩に、軽い衝撃。
ぶつかった。わざとだ。
人混みに紛れた“接触”の形。
謝罪の声が小さく落ちる。
「……失礼」
俺は反射で振り向きそうになって、やめた。
振り向いたら、顔を見せる。
それが目的だ。
護衛が一歩前で、わずかに手を上げた。
止める合図。
動くな、という命令。
ぶつかった影は、もう人波に消えている。
ヘルミーナ様が、声を落として言った。
「何をしたのでしょう」
護衛が答える。
「確認だ。……荷物と、位置と、反応」
俺は自分の腰に意識を向ける。
刀はある。
布包みは護衛が持っている。
財布は――アイテムボックスだし。
取られてはいない。
だが、取るのが目的じゃない。
“触れた”こと自体が合図だ。
次が来る。
俺は喉の奥で息を殺した。
街の戦いは、刃の前に始まっている。
俺は息を吐き、歩幅を崩さずに進んだ。
振り返らない。追わない。
追えば、相手の望む形になる。
護衛が前を見たまま言う。
「触ってきたのは“合図”だ。……次は、誘導が来る」
誘導。
追う側が、追われる側の進路を決めるやり方。
ヘルミーナ様が丁寧に言った。
「どこへ?」
「人の目が薄い場所。……狭い場所。短い場所」
俺は左手を柄頭に添えたまま、周囲を見る。
屋台の列が途切れ、布屋の陰が長く伸びている。
路地口が3つ。どれも狭い。
侍女の呼吸が浅い。
それでも足は止めない。ヘルミーナ様の手が、震えを押さえている。
護衛が一度だけ歩幅を落とし、俺に小さく視線を送った。
言葉じゃない。位置の合図。
俺は半歩外へ。
ヘルミーナ様と侍女の斜め前。
ぶつかりが来るなら俺が受ける。
次の角で、また幕が揺れた。
視界が一瞬だけ切れる。
――今度は、荷だ。
大きな籠を担いだ男が、角の内側から出てきた。
歩幅が合いすぎている。ぶつかる距離。ぶつかる高さ。狙いが正確だ。
男はふらつくふりをして、こちらへ体を預ける。
「……すみません」
謝罪は小さい。だが、動きは大きい。
目的は俺じゃない。列を割ることだ。
ヘルミーナ様と侍女の足を止めさせ、護衛線を崩す。
俺は半歩だけ外へ出て、肩で受けた。
受けて、押し返すんじゃない。流す。
籠の重みを、俺の横へ逃がす。
男の身体がわずかによろける。
そのよろけを“騒ぎ”に変えるため、別の影が近づく気配がした。
護衛が一歩前へ出る。
声は落とさず、顔だけ“普通”を作った。
「大丈夫か。……通るぞ」
それだけで、周囲の目が散る。
揉め事になる前に、火種が潰れる。
籠の男は俯いて、すぐ人波へ戻った。
戻り方が早い。逃げ足が速い。商人の動きじゃない。
ヘルミーナ様が声を落として言った。
「今のは……」
「列を割りたかっただけだ」
護衛が短く答えた。
「騒ぎにして、こちらの足を止める。……目が集まれば、列は崩れる」
影は、もういない。
いないようで、いる。
人波の中に溶けたまま、俺たちの横を流れていく。
護衛が続ける。
「宿へ戻る。だが、回り方を変える」
俺たちは通りを外れ、商会の前を横切り、広い道へ出た。
広い道は目が多い。
目が多ければ、相手も手を出しにくい。
だが、相手は手を出さない代わりに“置く”。
広い道の先。
荷車が止まっている。
止まり方が不自然だ。道の中央を半分塞いでいる。
荷車の男が声を上げた。
「どけどけ! 通れねえぞ!」
街の怒号。
だが、怒号にしては芝居がかっている。
護衛が言った。
「……道を割る。左右、どちらへ行く」
ヘルミーナ様が丁寧に言う。
「右は市場、左は裏通りですね」
護衛が頷く。
「市場へ入れば目が増える。だが、混む。……裏へ入れば速いが、狭い」
選択だ。
相手は、こちらが迷う一拍を待っている。
俺は一度だけ周囲を見た。
荷車の影。叫ぶ男の影。
そして、少し離れた柱の陰に、同じ“仕事の目”。
――待っている。
護衛が決めた。
「市場へ。混みに入って、こちらの形を崩す」
俺は頷く。
市場は嫌いじゃない。人が多いほど、刃は抜きにくい。
抜きにくいなら、抜かなくていい。
市場へ入った瞬間、匂いが変わった。
魚の匂い、香草、肉、果物。声が飛ぶ。
音が重なって、さっきまでの“狙われている静けさ”が薄まる。
――薄まるだけだ。消えない。
護衛が言った。
「ここで一度、止まる」
止まる。
さっき言った“止まるな”とは違う。
止まっていい場所で止まる。目の多い場所で止まる。
護衛は露店の前で足を止め、ただの買い物客の顔で店主に声をかけた。
「水」
店主が頷く。
「銅貨2枚だ」
護衛が払う。
水袋を受け取る。
その間、俺は視線を散らして影を探す。
いた。
市場の柱の影に。
別の露店に。
そして、二階の窓。
数が増えている。
だが、距離は保っている。
“今は動けない”という距離。
ヘルミーナ様が水を受け取り、侍女へ渡した。
「飲んでください。落ち着きます」
侍女が小さく頷き、水を口に含む。
それだけで生きている実感が戻る。
護衛が低く言った。
「……宿まで、あと3つ角だ」
俺は柄頭に添えた手を離し、指を軽く開いた。
準備の合図。
抜かない準備。
“ぶつけられても崩れない”準備。
市場を抜ける。
人の目が減る。音が減る。
そして――狭い通りが来る。
影が、動いた。
市場の喧噪から一歩外れただけで、音が急に整理される。
笑い声が遠くなり、荷車の軋みが前へ出る。
通りは狭い。壁が近い。逃げ道の数が減る。
護衛が足を止めずに言った。
「……前だ」
正面。
路地の口に、立ち位置がいい男がいる。
立ち方が“待っている”立ち方だ。通行人の立ち方じゃない。
その男の横を、別の影が横切る。
すれ違いざまに、視線だけがこちらを撫でた。
短い。だが、刃の匂いが残る。
ヘルミーナ様が声を落とした。
「ここで止めるつもりでしょうか」
「止めるというより、形を作る」
護衛が答える。
「こちらが“逃げた”形にしたい。……だから狭い場所を選ぶ」
俺は左手を柄頭に添えた。
いつでも抜ける
前の男が、わざとらしく肩をずらし、通りの中央へ出た。
ただの通行人なら避ける。
だが避ければ、横から入られる。
護衛が言った。
「そのまま行く。避けるな。歩幅を変えるな」
俺たちは速度を落とさずに進む。
距離が詰まる。
男の目が、ヘルミーナ様ではなく、護衛の手元を見た。
刃を抜く手じゃない。合図を出す手だ。
――合図が来る。
男が口を開いた。
「おい。さっきから、ぶつかっただろ。謝れよ」
声は大きい。
近くの店の軒下にいた数人が、ちらりとこちらを見る。
目を集める。これが目的。
護衛が立ち止まった。
立ち止まるな、じゃない。
立ち止まるべき場所で立ち止まった。
背後に壁を作り、横の路地を視界に入れる位置。
「ぶつかってない」
護衛の声は低い。
怒りはない。事実だけ。
「嘘つけ」
男が一歩詰める。
詰めることで、周囲の目に“揉めている”を作る。
その瞬間、横の路地から、もう一つ影が出た。
音がない。
こちらの背後へ回る角度。
俺は半歩だけずれた。
壁と護衛の間に隙間を作らない。
ヘルミーナ様の前に、俺の肩を置く。
ヘルミーナ様は声を出さない。
侍女の手を握ったまま、息を整えている。
それだけで、仕事ができている。
護衛が、男を見たまま言った。
「どけ」
「どかねえよ」
男の口角が上がる。
勝てると思っている笑いだ。
背後の影が、俺の視界の端で手を動かした。
狙いは掴むこと。引っ張ること。分断すること。
俺は刀を抜かずに、鞘ごと腰を少しだけ前へ。
刃じゃない。
“ここから先は通れない”という線を引く。
影の手が止まった。
止まって、すぐ引っ込む。
早い。これが“仕事の手”だ。
前の男が苛立った声を出す。
「……なんだよ。護衛気取りか」
護衛は答えない。
答えると“揉め事の形”が強くなる。
代わりに、護衛が小さく咳を一つした。
合図。
同時に、通りの反対側の店先から、別の男が歩き出した。
今までただの客の顔をしていた。
でも目が違う。護衛と同じ目。
その男が、揉めている男の肩を掴んだ。
「おい。やめとけ。店の前だぞ」
揉めている側の“仲間”に見える立ち回り。
それで男の勢いが削がれる。
周囲の目は「内輪揉めだ」と解釈する。
男は舌打ちした。
「……チッ」
そして、半歩下がる。
護衛が、立ち止まったまま言った。
「行くぞ」
俺たちは動く。
止まらない。追わない。
そのまま通りを抜ける。
背後で、影が二つ、離れる気配がした。
完全に消えない。
だが、今は“形”を作れなかった。
宿の角が見える。
扉の前の通りが広い。目が多い。
護衛が低く言う。
「……今のは小手調べだ。夕方まで待てない連中がいる」
ヘルミーナ様が丁寧に頷いた。
「分かりました。こちらの形は崩れません」
俺は息を吐いた。
刃は抜かなかった。
それでも、背中の汗は増えている。
街の戦いは、静かなまま心臓を削る。
そして――夕方の鈴は、きっともっとはっきり鳴る。
宿に入る前に、護衛が手で止めた。
止める場所は、入口の一歩手前。人目のある場所だ。
「中へ入る前に、周囲を見る」
護衛の声は小さい。
命令というより、手順の確認。
俺は頷いて、視線を散らす。
宿の窓。向かいの店。角の陰。
“いる”気配はある。だが、さっきより遠い。
ヘルミーナ様が丁寧に言った。
「ここでは動けません。目が多いからですね」
「そうだ」
護衛が短く答える。
「動くなら、夕方。……だから今は、形を整える」
宿の扉が開き、木の匂いが戻ってきた。
中は昼の宿の顔だ。旅人が出入りし、店主が帳場にいる。
昨夜の緊張は薄い。薄いだけだが。
店主の目がこちらを見て、一瞬だけ止まる。
そして、すぐに視線を外した。
見たくないものを見ない、という手つき。
護衛が前へ出て、低く言う。
「部屋はそのままだ。延ばす」
店主が頷く。
「……銀貨で、前払いだ」
護衛が硬貨を出す。
音が小さく鳴る。
その音は昨日より軽い。
階段を上がる。
板がきしむ。
さっきまでの路地の静けさと違って、宿の音は“生活”の音だ。
部屋に入ると、空気が少し落ち着いた。
鍵がある。壁がある。
森の夜とは違う。
護衛が言った。
「配置を確認する。夕方の前に、各自の位置と合図を合わせる」
ヘルミーナ様が丁寧に頷く。
「はい。私も確認します」
侍女は椅子に座り、両手で湯飲みを抱えた。
震えは少し残っている。
だが、昨日よりは戻っている。
護衛が机の上に紙を広げた。
買った地図――じゃない。まだだ。
宿の簡易図だ。店主から借りた紙に、通りと角だけを描いたもの。
「灰の壁はここだ。城壁裏の外れ」
護衛の指が動く。
俺は黙って覚える。
知らない街の地理は、知っている者の指から入れる方が早い。
「夕方、衛兵はこの辺りに2つ。目は少ない。だから俺たちの目で補う」
ヘルミーナ様が丁寧に言った。
「私はどこに?」
「前に出ない。……出るなら、決めた時だけだ」
護衛の声が少しだけ強くなる。
雇い主へ言う言葉じゃない。
だが、“護衛の仕事”として必要な線引きだ。
ヘルミーナ様は一拍置いて、頷いた。
「分かりました。必要な場面だけ出ます」
護衛が続ける。
「侍女は宿に残す。……連れていくなら、こちらの足になる」
侍女の肩が僅かに揺れた。
置いていかれる不安。
それでも、邪魔になりたくない顔。
ヘルミーナ様が丁寧に言う。
「大丈夫です。あなたはここで休んでください。鍵は掛けます。護衛の方が外に立ちます」
侍女が小さく頷く。
「……はい」
護衛が俺を見る。
「セキサメ。お前は外側だ。最初の接触は受けるが、追うな」
「分かった」
短く答える。
追うと、相手の形に入る。
それはさっき分かった。
「合図は咳一つ。……それ以外は動くな。目で返せ」
俺は頷いた。
ヘルミーナ様が丁寧に言った。
「私は、合図があれば退きます。退くべき時は、迷いません」
護衛が短く頷く。
「それでいい」
部屋の空気が少しだけ締まる。
夕方へ向けて、必要な硬さが入る。
護衛が言った。
「短く休め。夕方は立ちっぱなしになる」
ヘルミーナ様が丁寧に言った。
「はい。私も少し目を閉じます」
椅子に座る。
背中を壁に預ける。
外の音が遠い。
それでも、耳は拾っている。
足音。笑い声。荷車。
その中に混じる、わずかな“揃った歩幅”。
――まだいる。
夕方の鈴の前に、もう一度だけ揺さぶりが来るかもしれない。
そんな気配が、窓の外で薄く回っていた。
アマテラス「くく……赤雨よ。今やっとるのは簡単じゃ。
夕方の受け渡し場に“公”の目を置いて、現場で掴む。
斬るのは最後。まずは喋る口を確保せい」