廊下の向こうで、また扉が開いた。
足音が近づく。速い。迷いがない。
衛兵の歩幅だ。
扉の隙間から、隊長格が顔を出した。
眉間に皺が寄っている。嫌な報告の時の顔だ。
「来い」
護衛が立ち上がる。
俺も続く。
ヘルミーナ様は一拍遅れて立った。表情は崩れていない。
別室は狭かった。
机と椅子。壁に釘。空気が乾いている。
ここが“公”の中だと、嫌でも分かる。
捕らえた3人のうち、鈴役だけが椅子に座っていた。
顔は青い。だが、目だけがまだ強がっている。
隊長格が言った。
「吐いた。鈴役は全部。運び役も半分。受け取り役は黙ってるが、箱の中身が仕事をしてる」
護衛が短く言う。
「要点」
隊長格が書記の紙を机に置いた。
箇条書きだ。余計な言葉がない。
「灰の壁の受け渡しは、今日が初めてじゃない。定期で動いてる」
「窓口は金鈴亭。荷は別口。受け取り役は現場で替わる」
「鈴役は合図だけ。指示元は知らない、で一貫してる」
ヘルミーナ様の目がわずかに動く。
すぐ戻る。丁寧なまま、声だけ落とした。
「“もう動いている”の意味は分かりましたか」
隊長格が頷いた。
「今日早い時間に、もう一つ“荷”が動いた。場所は北門の外」
空気が変わる。
詰所の中でも、影が濃くなる。
護衛が言った。
「結果は?」
「止めた。部下を回して押さえた」
「だが、北門の荷車は中身がすり替わってた。箱は空。紙が1枚だけ入ってた」
隊長格が紙を机へ置いた。
宛名なし。署名なし。短い文だけが刺さる。
“印は押さえた。次は人だ”
俺は息を吐いた。
言葉が刃だ。刃より軽くて、刃より深い。
ヘルミーナ様が丁寧に言った。
「……印、というのは」
隊長格が首を振る。
「断定はできない。だが、今日の“押収”が向こうに伝わったのは確実だ」
「脅しじゃない。動きが伴ってる」
護衛が低く言った。
「宿を変える。今夜だ」
隊長格が頷く。
「それがいい。表立って護衛は付けられないが、目は回す」
「ただし、勝手に消えるな。こちらの線が切れる」
護衛は淡々と返す。
「消えるなら、最初からここへ来ない」
ヘルミーナ様が丁寧に言った。
「協力に感謝します。こちらも勝手はいたしません」
隊長格が息を吐いた。
「よし。――もう一つ」
「鈴役が言った。次の合図は“今夜とは限らない”」
護衛が言う。
「意味は」
「合図が要る時だけ鳴らす。今日は目くらまし。……本命は別の日、別の場所」
「だから今夜は、こちらの反応を見るだけで終わる可能性もある」
護衛が短く頷いた。
「分かった。今日は“探り”だ。だが、探りでも人は取れる」
隊長格が俺たちを見て言う。
「戻れ。宿へ戻る前に侍女を回収しろ。今から人の流れが変わる。夕方より夜の方が危ない」
部屋を出る。
廊下の空気が少しだけ軽い。軽いだけだ。安心じゃない。
詰所の入口へ向かう途中、護衛が小さく言った。
「……人だ」
ヘルミーナ様が丁寧に返す。
「はい。印ではなく、次は人。そういう筋書きです」
護衛が言った。
「脅しじゃない。……もう動いてる」
その言葉を、俺は胸の奥で受け止めた。
動いているなら――止めるしかない。
外へ出る。
日が落ちかけている。
街の影が伸び、音がまた整い始めている。
鈴は鳴らなかった。
だが、鳴らない方が不気味だった。
護衛が言った。
「宿へ戻る前に侍女を拾う。それから宿を捨てる」
ヘルミーナ様が頷く。
「はい。静かに動きます」
俺は左手を柄頭に置いた。
抜かない。
でも、もう一度抜くことになる気がしてならなかった。
街は今日の続きの顔をしている。
その顔の下で、別の手が動いている。
詰所から離れると、空気が少しだけ広くなる。
広いだけだ。安全じゃない。
“公”の建物を出た瞬間に、目が増える。
護衛が足を止めずに言った。
「ここから、顔を上げるな。視線は散らせ」
ヘルミーナ様が丁寧に頷く。
「はい」
俺は頷くだけにして、通りの端を選んだ。
人の流れの外側。
ぶつけられた時に列が割れない位置。
宿へ向かう道は、行きと同じにはしない。
市場を抜け、布屋の角を避け、細い道を一つ挟む。
追う側の癖を崩す手順。
護衛が言う。
「尻尾の“動き”を見る。来るなら、ここで来る」
俺は柄頭に置いた左手をそのままに、息を整えた。
抜かない。
でも、抜ける。
角を曲がった瞬間、視線が一つ刺さる。
二階の窓。
すぐに消える。見えないふりが速い。
護衛が小さく息を吐いた。
「……いる」
ヘルミーナ様は声を落とした。
「分かりました。急がず、ただ進みます」
宿の通りに入る。
さっきより人が減っている。
夕方の“戻り”が始まっているからだ。
宿の前に、見慣れた護衛が立っていた。
外に残していた男。背筋は崩れていない。
俺が近づくと、男は短く言った。
「異常なし」
ヘルミーナ様が丁寧に頷く。
「ありがとうございます」
護衛が続けて言う。
「侍女を出す。荷は最小。部屋は捨てる」
店主の目が一瞬だけ動いた。
また厄介事が来た、と言いたげだ。
だが、商売人は顔に出しすぎない。
階段を上がる。
板の軋みが、昼より大きい。
宿が“夜の顔”に移り始めている。
扉の前で、護衛が一度だけ咳をした。
合図。中へ知らせる。
内側から、鍵の外れる音。
扉が少し開く。
侍女が顔を出し、ヘルミーナ様を見て息を吐いた。
「……お帰りなさいませ」
ヘルミーナ様が丁寧に言った。
「ただいま。すぐに移動します。荷物は最低限だけで」
侍女の顔が硬くなる。
理由を聞きたい顔。だが聞かない。
聞かないのは、もう分かっているからだ。
「はい……」
侍女が部屋へ戻り、布袋を一つ手に取った。
衣類。水。小物。
余計な飾りはない。連れていく前提のまとめ方だ。
護衛が言う。
「置けるものは置け。命が先だ」
侍女が小さく頷く。
「はい」
ヘルミーナ様が俺を見て、丁寧に言った。
「セキサメさん。すみません。急がせます」
「いい」
短く返す。
急がせるのは当然だ。
部屋を出る前に、ヘルミーナ様が侍女へ言った。
「外では、私から離れないでください。転んでも、荷を落としても構いません。止まらないで」
侍女が息を呑んで頷く。
「……はい」
廊下に出る。
宿の空気が変わっている。
外の匂いが、少し濃くなった。扉が何度も開いたせいだ。
階段を下りる。
店主がこちらを見て、口を開きかけて閉じた。
聞くな、と護衛の目が言っている。
外へ出る。
夕方の影が、もう夜の影に近い。
護衛が言った。
「宿替えは“逃げ”じゃない。……形を変えるだけだ」
ヘルミーナ様が丁寧に頷く。
「はい。こちらの形を崩さず、相手の形だけを崩します」
俺は少しだけ感心した。
この人は、守られるだけじゃない。
守られる形を理解している。
通りを一つ、二つ。
あえて人の多い道へ出る。
それから、また細い道へ入る。
見られてもいい場所と、見られたくない場所を交互に使う。
護衛が小さく言った。
「……付いてきてる」
俺は視線を上げずに、気配だけ拾う。
後ろ。距離は遠い。
だが、消えていない。
ヘルミーナ様が丁寧に言った。
「撒きますか」
「撒かない」
護衛が即答する。
「撒いたら、次の手が見えなくなる。……今夜は“来るなら来い”でいい」
俺は柄頭に置いた左手に、少しだけ力を入れた。
抜くためじゃない。
身体を落ち着かせるためだ。
新しい宿は、表通りから一つ入った場所だった。
派手じゃない。
だが、入口が2つある。裏口がある。
護衛が選ぶ条件を満たしている。
護衛が店主に短く話し、鍵を受け取る。
説明は最小。金は先に出す。
相手に考える時間を与えない。
部屋へ入る。
鍵を掛ける。
窓を確認する。
背中に壁ができる。
護衛が言った。
「ここで一度、止まる。……今夜、向こうが来るなら、ここに来る」
侍女が小さく震えた。
「……ここに、ですか」
ヘルミーナ様が侍女の手を取り、丁寧に言った。
「大丈夫です。ここは守れます。あなたは私の後ろにいてください」
護衛が俺を見る。
「セキサメ。外の気配を読む。窓際じゃなく、壁際だ。見える場所に立つな」
「分かった」
俺は窓から少し離れた位置に立ち、外の音を拾った。
通りの足音。
笑い声。
遠くの戸締まり。
そして――同じ歩幅。
護衛が続ける。
「今夜の狙いは“人”だ。印じゃない」
ヘルミーナ様が丁寧に言った。
「私を攫う、という形でしょうか」
「それもある」
護衛が言う。
「だが一番楽なのは、侍女だ。……脅しに使える。足にもなる」
侍女の顔色が落ちる。
ヘルミーナ様の手が、その震えを押さえる。
俺は短く言った。
「なら、触らせない」
護衛が頷く。
「触らせない。……ただし、刃で先に騒ぐな。騒げば、こちらが負ける」
俺は息を吐いた。
分かってる。
でも、分かってるだけじゃ足りない夜になる。
外で、木の床が鳴った。
この宿じゃない。通りの音だ。
だが、近い。
護衛が一度だけ咳をした。
合図。
俺は身体を少しだけ落とし、足の位置を決めた。
抜かない。
でも、抜ける。
そして――扉の外で、足が止まった。
止まり方が、自然じゃない。
迷って止まった足じゃない。位置を測って止まった足だ。
護衛が低く言った。
「……来た」
ヘルミーナ様が、侍女の手を離さずに丁寧に言った。
「分かりました。私は動きません」
侍女が唇を噛む。
声を出しそうになって、飲み込んだ。
それだけで十分だ。
俺は壁際のまま、左手を柄頭に置いた。
抜く気はない。
でも、抜ける距離に置く。
扉が、わずかに軋む。
押している。軽く。
鍵が掛かっているか、確かめる押し方。
護衛は扉の横、死角に寄ったまま動かない。
もう一人の護衛は、室内の反対側。窓と逃げ道を見ている。
扉の向こうで、声が落ちた。
「……泊まり客。水、分けてくれ」
声色は整っている。
困っている旅人の声。
けど、言い方が短い。余計な説明がない。
夜に水が要るなら、もっと言い訳が出る。
ヘルミーナ様は答えない。
答えないことが正解だ。
護衛が小さく息を吐き、俺にだけ聞こえる声で言った。
「声を返すな。返した瞬間、人数と位置が割れる」
俺は頷くだけにした。
扉がもう一度、押される。
今度は少し強い。
鍵が外れないと分かって、次に進む押し方。
――来る。
護衛が、もう一度だけ咳をした。
合図は短い。準備の合図。
次の瞬間。
扉が内側へ跳ねた。
鍵じゃない。蝶番側に力を入れて、枠ごと歪ませる。
音を出さないように、布か何かを噛ませていたのか、破る感触が鈍い。
影が滑り込む。
1人。
いや、2人。
最初の影の後ろに、もう一つの影が重なった。
狙いは一直線。
ヘルミーナ様じゃない。
侍女だ。
ヘルミーナ様が、侍女を背中へ回す。
丁寧な動きなのに速い。
その速さが、この人の覚悟だ。
護衛が影の横へ出た。
「止まれ」
声は低い。
怒鳴らない。命令だけ。
影は止まらない。
止まらず、侍女へ手を伸ばす。
俺は一歩だけ出た。
刃を抜かないまま、鞘を前に出す。
通す気がない線を作る。
影の手が、そこで止まる。
止まるが、引かない。
袖が揺れた。
短い刃の光が一瞬だけ走る。
俺は右手で柄を握り、左手で鞘を押さえた。
抜く。
刃を見せるだけでいい。
斬る必要は、まだない。
影が引く。
引くが、その引き方が浅い。
逃げじゃない。誘いだ。
もう一人の影が、廊下へ視線を投げた。
外に誰かがいる。呼ぶ合図。
護衛が即座に言った。
「……扉を閉めろ」
もう一人の護衛が、扉を内側から押し戻す。
枠は歪んでいる。完全には閉まらない。
でも、通路が狭くなるだけで十分だ。
影が舌打ちした。
「……面倒だな」
その言葉が、夜に溶けない。
“仕事”の声だ。
ヘルミーナ様が丁寧に言った。
「あなた方の目的は、私ではなく彼女ですね」
影は答えない。
答えないことで、答えている。
護衛が言った。
「ここで終わらせる。刃を捨てろ」
影が笑った。
「捨てたら帰れねえ」
俺は一歩だけ、間合いを詰めた。
刃は下げたまま。
脅しじゃない。壁だ。
影の視線が、俺の刀へ落ちる。
落ちて、すぐ逸れる。
長く見ない。怖がり方が違う。
――経験がある。
影が動いた。
侍女を取りに来る動きじゃない。
俺の刃を避けて、護衛の肩を抜く動き。
抜かせない。
俺は刃で追わず、体で位置を塞いだ。
護衛が影の手首を掴む。
関節を折らない。だが、動けない角度にする。
「……動くな」
影がもう一方の手で刃を出す。
短い。
刺すための刃だ。
俺は刃を横へ払った。
叩く。落とす。
床に落ちる金属音が、部屋に乾いて響く。
影の肩が跳ねた。
瞬間、護衛が体重を乗せて押さえ込む。
もう一人の影が引いた。
引いて、扉の隙間へ戻ろうとする。
俺は追わない。
追えば、廊下で形を作られる。
代わりに、護衛が短く言った。
「外だ。来るぞ」
扉の外で、足音が増えた。
近い。人数が増える。
宿の階段を上がる音じゃない。一直線にここへ来る足音。
ヘルミーナ様が丁寧に言った。
「……詰所の方は」
「間に合わない」
護衛が即答する。
「だから、自分で止める」
俺は息を吐いた。
今夜は“騒がない”が最優先だった。
でも、相手が部屋へ入ってきた以上、守り方を変えるしかない。
護衛が、押さえた影の口元を布で塞いだ。
叫べないように。
それだけで、外の足音が一拍遅れる。
もう一人の護衛が、窓を見た。
「……逃げ道だ」
ヘルミーナ様が丁寧に言った。
「逃げません。ここで守ります」
護衛が頷く。
「それでいい。セキサメ、扉の前を踏むな。少し引け。刃は見せるな。見せるのは“最後”だ」
「分かった」
俺は刃を低く保ち、角度を殺した。
見せない。
でも、出せる。
扉の外で、誰かが低く言った。
「中にいる。開けろ」
次の瞬間、歪んだ枠がさらに軋む。
押し込む力が増えた。
――数で来る。
護衛が、俺に目だけで合図した。
今は斬るな。
止めるな。
“入らせない形”を作れ。
俺は一歩だけ横へ動き、扉の死角へ入った。
呼吸を整える。
扉が、また動く。
今度は、こじ開ける道具の気配がした。
夜が、ここで割れそうになっている。
アマテラス「くく……赤雨よ。
騒ぐな言うた矢先に、向こうから戸を割りに来おったか。
――よい、童。刃は“最後”でよい。先に割れるのは、あやつらの度胸じゃ」