夜が割れそうになっている。
扉の枠が、ぎしりと鳴った。
板が軋む音じゃない。枠ごと歪ませる音だ。
押し込む力が、確実に増えている。
護衛が低く言った。
「……ここで止める」
ヘルミーナ様が侍女の肩を抱き、丁寧に言った。
「大丈夫です。私から離れないでください」
侍女は声を出さずに頷いた。
頷けるだけ、強い。
俺は扉の死角に入ったまま、呼吸を整える。
刃は低い。見せない。
けれど、出せる。
外で、短い金属音。
こじ開け具を差し込む音だ。
次に来るのは、押し込みじゃない。跳ねだ。
護衛が、扉の横から声を落として言った。
「次の瞬間、入ってきた腕を取る。……刃はその後だ」
俺は頷いた。
返事はしない。音になる。
扉が、跳ねた。
歪んだ隙間から、腕が一本滑り込む。
鍵を外す手。枠を広げる手。
指が器用すぎる。職人の手だ。
護衛が掴んだ。
手首。
捻り上げるんじゃない。引きずり込む。
外で短い呻き。
だが叫びにはならない。
同時に、もう一本の腕が入ってきた。
刃が光る。短い。刺すための刃。
俺は一歩出た。
刃で斬らない。鞘で叩く。
鈍い音。
腕が跳ね、刃が床へ落ちる。
乾いた金属音が、部屋に転がった。
外が静かになる。
静かになるのが怖い。
「入れ」
扉の外で、低い声。
複数。近い。
命令の声だ。末端じゃない。
護衛が歯を食いしばる気配。
枠はもう保たない。
「窓だ」
窓側の護衛が言った。
逃げ道じゃない。逃げさせないための道だ。
ヘルミーナ様が丁寧に言う。
「逃げません。ですが、守り方は変えます」
護衛が頷く。
「いい。……動くなら今だ」
俺は刃を鞘へ半分戻した。
抜いたままだと、狭い室内では味方を傷つける。
今必要なのは、刃より位置だ。
扉が、また跳ねる。
今度は枠ごと押し破られた。
板が割れる。
木片が飛ぶ。
影が3つ、流れ込む。
最初の2つは護衛へ。
残りの1つが一直線に侍女へ来る。
速い。
狙いが迷ってない。
俺は迷わず、間に入った。
刃を抜かないまま、体で塞ぐ。
影の肩が俺の胸へ当たる。
押し込む力。
そのまま抱えて持っていく動き。
――攫う。
俺は足をずらし、重心を落とした。
踏ん張る。
押し合いで勝つんじゃない。相手の力を逃がす。
影の体が流れる。
流れた瞬間、護衛の拳が顎を叩いた。
鈍い音。
影が沈む。
次の影が刃を振る。
護衛の腕を狙う。
武器じゃない。動きを潰す狙い。
護衛が受ける。
鎧じゃない場所で受けないよう、角度で逃がす。
それでも浅く切れる。血が見える。
俺の中で、何かが切れかけた。
だが、今抜いたら負ける。
護衛が言った通りだ。
ヘルミーナ様が丁寧に言った。
「セキサメさん。大丈夫です。こちらは守れます。――前だけ見てください」
声が落ち着いている。
その落ち着きが、逆に俺を戻す。
「……分かった」
短く答える。
前だけを見る。
窓側の護衛が、窓を一気に開けた。
夜の空気が流れ込む。冷たい。
外の通りの音が、少しだけ近くなる。
「外へ出す」
護衛が言う。
「出せば、目が増える。……向こうも動きにくい」
ヘルミーナ様が頷いた。
「はい。ここに留まる方が危険です」
侍女が震えながらも、足を動かした。
動ける。偉い。
扉側の影が、舌打ちした。
「……逃がすな!」
声が大きい。
この宿の他の客が反応する。
それが嫌なのか、影の動きが一瞬だけ鈍る。
――騒ぎになる。
騒ぎになるなら、こちらが勝つ場面が増える。
俺はここで初めて、刃を抜いた。
抜く理由が揃った。
守る対象が動いている。外へ出る道を作る。
刃は見せるだけでいい。
刀身が夜の光を拾う。
影の目が一瞬だけ止まった。
その一拍で十分だった。
護衛が影の足を払う。
影が倒れる。
倒れた瞬間に、俺は刃を床へ落とさない角度で突き出した。
「動くな」
低く言う。
脅しじゃない。線引きだ。
影が動きを止めた。
止めるしかない。
刃が近い。
ヘルミーナ様が侍女を連れて窓へ向かう。
護衛が先に外へ出て、周囲を確認する。
「……いける。出ろ」
ヘルミーナ様が丁寧に言った。
「行きます」
侍女が息を呑んで、窓枠に手を掛けた。
俺は刃を戻さないまま、扉側を見た。
まだ2人いる。
倒れてもいない影が1つ。
そして、外に呼ぶ声。
このままだと、増える。
早く出す。
そして――外で“公”を引く。
俺は刃を低く保ったまま、一歩だけ退いた。
退いて、道を作る。
「行け」
護衛が叫ばずに言う。
次の瞬間。
侍女が外へ降りた。
ヘルミーナ様も続く。
そして、俺も窓へ向かう。
背後で、影が動いた。
遅い。
だが、遅いのは危険だ。
遅いほど、刃は乱れる。
俺は振り返り、短く言った。
「……ここまでだ」
刃を、振るう。
――違う。
振るう、じゃない。
止めるために、線を引く。
俺は踏み込みを半歩で止め、刃を低く走らせた。
狙うのは胴じゃない。肩でもない。
足元。
影が一瞬、重心を崩す。
崩れたところへ、護衛の体がぶつかる。
押し倒すんじゃない。壁へ押しつける。
「動くな」
護衛の声は低い。
刃より重い声だ。
影は息を荒くした。
だが、笑った。
口だけが笑う。
「……娘が、前に出たな」
ヘルミーナ様は窓の外にいる。
出た。確かに出た。
だから、向こうの目的は半分達成だ。
俺は答えない。
答えれば、相手の勝ちになる。
別の影が、扉の破れた隙間から身を引く。
逃げる動き。
だが、ただの逃げじゃない。逃げながら見る動きだ。
――見てる。こちらの形を。
護衛が歯を食いしばる。
「追うな」
俺は頷いた。追わない。
廊下に出た瞬間、数で押し返される。
ここで勝つなら、勝ち方を選ぶ。
窓の外から、もう一人の護衛の声が上がった。
「下は通れます! 路地へ!」
ヘルミーナ様が丁寧に言う声が混じる。
「大丈夫です。走れます」
侍女の息が、短く乱れている。
泣き声はない。
泣いたら負けだと分かっている顔だ。
室内に残った影が、もう一度だけ笑った。
「……これでいい。反応は見た」
反応。
やっぱり、本命は誘拐じゃない。
形を崩させること。動かすこと。見切ること。
護衛が影の首元を押さえ、低く言った。
「喋るな」
影は喋らない。
喋らない代わりに、歯で何かを噛んだ。
俺は一瞬で気づいた。
口の中。
小さな物。噛み砕く音。
「……毒か」
護衛が舌打ちする。
指を入れようとしたが遅い。
影の目が薄く笑って、焦点が揺れる。
隊長格に引き渡す予定だった。
口を割らせる予定だった。
だが、向こうは最初から“帰れない手”で来ている。
護衛が言った。
「持っていく。死なせるな」
もう一人の護衛が、影の顎を押さえ、喉を確かめる。
呼吸はある。だが浅い。
外で、足音が増えた。
宿の客が起きた音も混じる。
ざわめきが広がる。
ここに留まれば、こちらが“騒ぎの中心”になる。
それは向こうの狙いでもある。
護衛が俺を見る。
「行け。外へ合流しろ。……姫を守れ」
俺は頷いた。
「分かった」
刃を鞘へ戻す。
音を殺す。
鞘を腰に収める。
そして、窓へ向かった。
夜風が顔を叩く。
下は路地。暗い。狭い。
でも、人の目が少ない。
今はそれが味方だ。
俺は窓枠に手を掛け、外へ降りる。
着地の音を殺すために膝を使う。
石が冷たい。硬い。現実だ。
路地の先に、ヘルミーナ様と侍女がいた。
護衛が前後を押さえ、短い距離で囲っている。
ヘルミーナ様が俺を見て、丁寧に言った。
「セキサメさん。無事ですか」
「無事だ」
短く答える。
言葉が揺れると、全員が揺れる。
侍女が俺を見て、息を吐いた。
安心した顔。
その顔が、敵の狙いだった。
護衛が低く言った。
「今夜は“取る”気じゃない。……見に来ただけだ」
ヘルミーナ様が頷く。
「はい。こちらの配置と反応を測った。そういうことですね」
「そうだ」
護衛が言い切る。
「次はもっと露骨に来る」
俺は柄頭に左手を置いた。
抜かない。
でも、次は抜くかもしれない。
路地の向こうで、鈴が鳴った。
一度だけ。
短く。
さっきの灰の壁とは違う音。
護衛が足を止め、目を細めた。
「……合図じゃない。挑発だ」
ヘルミーナ様が丁寧に言った。
「見られていますね」
見られている。
だからこそ、見返す必要がある。
護衛が言った。
「詰所へ。今すぐだ。……毒を持ってる。口を潰しに来る連中だと分かった」
俺は頷く。
「行こう」
全員が動く。
路地の夜が、俺たちを飲み込む。
騒ぎを起こさない夜は、もう終わった。
路地を抜ける。
抜けた先の通りは、人の声が増えていた。
宿の方角からのざわめきが、波みたいに広がっている。
護衛が先に出て、手のひらを軽く上げた。
止まれ、じゃない。速度を落とせ、の合図。
「ここからは走るな。走れば“逃げてる”に見える」
ヘルミーナ様が丁寧に頷く。
「はい」
侍女は息が上がっている。
それでも声を出さない。
俺は侍女の歩幅に合わせて、半歩前へ出た。
守るためじゃない。壁を作るためだ。
護衛が低く言った。
「尾は、まだいる」
俺は視線を動かさないまま、気配だけ拾った。
遠い。
だが、消えていない。
――見てる。
今も、こちらの形を。
通りの角を曲がる。
石畳の音が変わる。
詰所が近い。
その時。
反対側の路地口で、男がひとり立ち止まった。
荷を担いだふり。
だが、荷が軽い。肩の沈みがない。
男の視線が、ヘルミーナ様へ一瞬だけ寄る。
寄って、すぐ逸れる。
逸らし方が“見た”逸らし方だ。
護衛が口を動かさずに言った。
「……増えた」
増えたのは敵だけじゃない。
周囲の一般人の目も増える。
宿の騒ぎが広がれば、好奇心で人が寄ってくる。
そうなる前に詰所へ入る。
護衛が隊列を少しだけ変える。
ヘルミーナ様と侍女を真ん中。
俺と護衛で両脇。
前後に護衛が一人ずつ。
形が整う。
それだけで、通りの視線が少し引く。
“面倒なもの”に見えるからだ。
詰所の入口が見えた。
入口の衛兵が、こちらを見て眉を寄せる。
宿で何かあった、と顔が言っている。
護衛が声を落として言った。
「怪我人がいる。すぐ通せ」
衛兵が一拍置いて、扉を開ける。
「中へ!」
建物に入った瞬間、外の音が薄くなった。
奥から隊長格が出てきた。
顔色が変わる。何が起きたか、すぐ分かった顔だ。
「……早いな」
護衛が答える。
「来た。宿を割りに。狙いは侍女。ついでに口封じも」
隊長格の眉が寄る。
「口封じ?」
「一人、噛んだ。口の中に仕込み。毒の可能性が高い」
隊長格が舌打ちする。
「連れてきたか」
「連れてきた」
「どこだ」
護衛が短く言う。
「まだ宿だ。押さえてる。だが、長くは保たない」
隊長格が即座に指示を飛ばした。
「担架! 医務! それと、部下を回せ。宿の周囲を押さえろ。逃がすな。……逃げ道は裏だ、裏口を塞げ!」
衛兵が走る。
足音が詰所の中を駆ける。
“公”が動く音だ。
ヘルミーナ様が丁寧に言った。
「ご迷惑をお掛けします」
隊長格が首を振る。
「迷惑じゃない。……向こうが先に線を踏んだ」
その言葉が、少しだけ救いになる。
こちらが悪者にならない。
向こうが“公”を敵に回した。
隊長格が俺を見る。
「お前。怪我は」
「ない」
「刃は」
「抜いた」
隊長格が一拍置いて頷いた。
「記録は取る。だが今はいい。……今夜は“公の中”にいろ。外へ出るな」
ヘルミーナ様が丁寧に言う。
「侍女を休ませたいのですが」
「ここで休ませろ。詰所の奥に小部屋がある。鍵も掛かる」
隊長格が手短に言い、衛兵へ合図した。
「案内しろ」
侍女がヘルミーナ様を見る。
離れたくない顔。
だが、ここで離れるべきだ。
ヘルミーナ様が侍女の手を握り、丁寧に言った。
「大丈夫です。すぐ近くにいます。……呼んだら来ます」
侍女が小さく頷いた。
「……はい」
衛兵が侍女を案内する。
扉が閉まる。鍵の音。
その音が、今はありがたい。
俺と護衛、ヘルミーナ様は廊下に残った。
隊長格が護衛に言う。
「襲ってきた人数は」
「室内に3。外に増援の足音。少なくとも、計5以上」
「顔は見たか」
「二人は見た。三人目は頭巾。だが、手癖が揃ってる。組だ」
隊長格が唸る。
「……鈴役の線より、荒い手が早い。上が焦ってる」
“上”。
言葉が出た。
だが、それが何を指すか、まだ俺には確定できない。
ヘルミーナ様が丁寧に言った。
「こちらが動けば動くほど、向こうも動く、ということですね」
隊長格が頷く。
「そうだ。だから、こちらも一段上げる」
護衛が言う。
「今夜、終わらせられるか」
隊長格は少しだけ笑った。
笑い方が硬い。
「終わらせる。……終わらせるために動く」
その言い方が、今までと違う。
“手順”の話じゃない。
“押さえる”話だ。
隊長格が俺を見る。
「お前、走れるな」
「走れる」
「なら使う。……今夜、もう一つ踏む」
護衛が目を細める。
「どこだ」
隊長格が紙を取り出し、机に広げた。
ムソニアの簡単な区画図。
線が引かれている。
「金鈴亭だ。……今夜、押さえる」
空気が、また一段冷えた。
ヘルミーナ様が丁寧に言った。
「今夜、ですか」
「今夜だ」
隊長格が言い切る。
「宿を割りに来た。つまり向こうは“もう隠す気が薄い”。なら、こちらも隠さない」
「金鈴亭の中を押さえ、帳面と人を押さえる。逃げ道は塞ぐ」
護衛が短く言った。
「……派手になる」
「なる」
隊長格が頷いた。
「だが、派手にするのは“公”だ。お前らじゃない。――そうすれば、こちらが正しい」
俺は息を吐いた。
スカッとする戦いが欲しいと言った。
だが、これは戦いの形が違う。
それでも、今夜は剣が要る。
剣を使わずに済む夜は、もう終わった。
隊長格が言った。
「準備しろ。すぐ動く。……今夜で、窓口を潰す」
その言葉が、はっきりとした終わりの匂いを持っていた。
アマテラス「ほう……やっと街が動いたの。
赤雨は余計な血を足すでないぞ。
斬るなら、必要な時にだけ斬れ」