詰所の空気が、忙しくなる。
走る足音。
紙をめくる音。
鎧の留め具が鳴る音。
全部が、同じ方向へ向かっていく音だ。
隊長格が指を折って言った。
「押さえるのは3つ。表。裏。逃げ道。――そして中」
護衛が短く返す。
「中で暴れたら」
「暴れさせない。暴れた瞬間、こちらの名目が立つ」
名目。
“公”の剣は、刃より先に理由で動く。
ヘルミーナ様が丁寧に言った。
「私たちは、どこに」
隊長格は即答した。
「お前はここに残れ」
護衛の眉がわずかに動く。
当然だ。狙われた直後に外へ出すのは危ない。
だが、ヘルミーナ様は落ち着いたまま、丁寧に言った。
「囮として残す、という意味ではありませんね」
「違う」
隊長格が首を振る。
「ここは鍵も人もある。……外よりマシだ」
護衛が言った。
「セキサメは」
隊長格が俺を見た。
「お前は動ける。……だが、先頭じゃない。目だ。壁だ。刃は最後だ」
俺は頷く。
「分かった」
ヘルミーナ様が丁寧に言う。
「セキサメさんは、私の護衛です。ですが、今は“公”の動きを優先してください」
「……分かった」
短く返す。
雇い主の命令だ。
そして、理屈も合っている。
隊長格が机を叩いた。
「行くぞ。金鈴亭だ。――詰所の印で押す。扉は開けさせる」
衛兵が数人、入口へ集まる。
鎧は重い。
その重さが、今は心強い。
護衛が小さく言った。
「俺たちはどう動く」
隊長格が答える。
「お前らは“外側”だ。逃げ道を塞ぐ。店の中へは衛兵が入る」
俺はそれを聞いて、少しだけ納得した。
俺が中へ入れば、刃を使う確率が跳ね上がる。
向こうの狙いに近づく。
だから外側。
壁になる。
詰所を出る。
夜の空気が、さっきより冷たい。
通りの明かりが少なくなっている。
その分、影が濃い。
隊長格は走らない。
走らないのに速い。
速く見せない動き。
“公”は、慌てたら負ける。
金鈴亭へ向かう道は、真っ直ぐじゃない。
曲がる。交差する。
人波の少ない道を選ぶ。
それでも、目はある。
二階の窓。
路地の奥。
酒場の入口。
護衛が言った。
「……見られてる」
隊長格は頷く。
「見せてる」
その言葉が、実務だ。
隠す気がない。
向こうに“公が来た”と伝えるために来ている。
金鈴亭の前に着く。
鈴の音は鳴らない。
夜の店は静かだ。
静かすぎるのが、逆に答えだ。
隊長格が手を上げる。
衛兵が左右に散る。
表口。裏口。横の路地。
逃げ道の形を潰す。
護衛は俺に目配せした。
裏へ回る合図。
俺は頷き、外周へ回る。
刃は抜かない。
左手は柄頭。右手は空。
歩き方だけで“壁”になる。
裏口が見えた。
小さな扉。鍵が掛かっている。
外からは静かだ。中の気配も薄い。
隊長格の声が、表から響いた。
「衛兵だ。開けろ」
返事がない。
隊長格がもう一度言う。
「開けろ。――令状だ」
令状という言葉は、この街では重い。
重いのに、まだ返事がない。
護衛が小さく呟く。
「……いるのに黙ってる」
次の瞬間。
表で、鈍い音がした。
扉を叩いた音じゃない。
中で何かが倒れた音。
俺の背中が冷える。
中で動いてる。
逃げる準備か、潰す準備か。
裏口の向こうで、床が鳴った。
近い。
護衛が低く言った。
「来るぞ」
来る。
逃げ道はこっちだ。
俺は半歩引いて、扉の真正面から外れた。
真正面に立てば、開いた瞬間に押し込まれる。
古典的でも、効果はある。
裏口の鍵が、内側から外れる音。
扉が、ほんの少しだけ開いた。
隙間から、目が覗く。
目が俺を見た瞬間――閉じようとした。
逃がさない。
護衛が扉を押さえ、声を落とす。
「動くな」
中の男が舌打ちした。
力任せに閉めようとする。
だが、閉まらない。
俺は手を伸ばし、扉の縁を掴んだ。
引く。
無理に開けない。相手の力を使って開く。
扉が開く。
男の肩が露わになる。
男は短い刃を持っていた。
刺すための刃。夜の刃。
俺は抜かない。
抜かずに、距離だけ潰す。
鞘で手首を叩く。
刃が落ちる。
乾いた音が石畳に跳ねた。
男の目が揺れる。
揺れたまま、奥へ叫ぼうとする。
護衛が口を塞いだ。
布で。手で。確実に。
表で、また音。
今度は扉が開いた音だ。
衛兵が入った。
隊長格の声が響く。
「動くな! 床に手を付け!」
中のざわめき。
椅子が倒れる音。
走る足音。
裏口の男が暴れた。
暴れて、身を捩る。
俺は柄頭から手を離し、男の肩を押さえた。
刃を使う必要がない形を作る。
男の体が落ちる。
護衛が関節を固め、動きを止めた。
「終わりだ」
護衛が淡々と言った。
その時。
店の中から、焦げた匂いが漏れた。
紙が焼ける匂い。
俺は一瞬で理解した。
証拠を焼く。
隊長格の怒声が飛ぶ。
「火だ! 止めろ! 帳面を出せ!」
“公”の剣が、今夜初めて刃に近づく。
俺は息を吸い、柄頭に左手を置いた。
――今度は、抜く理由が生まれかけていた。
紙が焼ける匂いが、強くなる。
甘くて、嫌な匂いだ。
火は小さくても、証拠は一瞬で消える。
隊長格の怒声が飛ぶ。
「水だ! 桶を持て! 火皿を押さえろ!」
店の中で足音が乱れる。
乱れるが、乱れ方が“仕事”だ。
慌てているのに、やることが決まっている。
裏口の男が、押さえられたまま目を見開いた。
焦っている。
焦る理由は一つ。――焼けるのは紙だけじゃない。自分の首だ。
護衛が低く言った。
「……中へは入るな」
「分かってる」
俺は短く返した。
外側でやれることをやる。
俺は裏口の内側へ半歩だけ体を入れ、視線を走らせた。
通路。階段。物置の扉。
逃げ道は――上だ。
階段の方から、微かな足音。
急いでいる。だが走っていない。
音を殺している。
「……来る」
俺が言うより先に、護衛が目で合図した。
上から落ちる。
次の瞬間。
二階の窓が、内側から跳ねた。
板が外へ押し出される。
影が一つ、夜へ飛び出した。
逃走役。
俺は抜かない。
抜かずに、距離だけ詰める。
影は地面へ着地し、膝を使って衝撃を殺した。
慣れている。
慣れているから、逃げ足も速い。
だが、逃げ道は潰してある。
表も裏も、路地も。
影が路地へ入ろうとした瞬間、衛兵が槍を横に出した。
通れない。
影は迷わず方向を変えた。
変えた方向に、俺がいる。
影の手が腰へ伸びる。
短い刃。
抜く動き。
俺は刃を抜かず、鞘で肩を叩いた。
叩く位置は骨じゃない。関節の上。
力が抜ける場所。
影の腕が落ちる。
刃が抜けない。
それでも影は突っ込んできた。
体ごとぶつけて、壁を抜けるつもりだ。
俺は半歩退き、ぶつかる力を流した。
そのまま足を掛ける。
転ばせるんじゃない。走れなくする。
影が膝を擦った。
転ばない。だが速度が落ちる。
そこへ、護衛が背後から間合いに入った。
音がしない。近づき方が違う。
「終わりだ」
護衛が低く言って、影の腕を取る。
関節が固まる。逃げられない角度。
影が歯を食いしばり、口元を動かした。
「……焼け」
誰に向けた言葉か分からない。
だが、店の中の匂いがさらに強くなる。
隊長格の声が、店内から響いた。
「帳面を押さえた! 火は止めた! ――まだだ、奥を洗え!」
押さえた。
それだけで、胸の奥が少しだけ落ちた。
護衛が影の口元を押さえ、即座に言う。
「噛むな」
影の目が笑った。
笑って、舌を動かそうとする。
俺は反射で、刃の柄に指を掛けかけた。
止める。
抜けば終わる。抜けば、この場が血の場になる。
護衛が影の顎を掴み、無理に口を開けさせた。
歯の裏。頬の内側。
小さな黒い粒。
「……仕込みだ」
護衛が低く言った。
衛兵が駆け寄り、布を押し当てる。
隊長格が外へ出てきた。顔が硬い。
「奥から帳面と印を押さえた。……複製も、指示書もある。今夜の分は残った」
護衛が頷く。
「火は」
「止めた。だが、まだくすぶってる。水を回してる」
隊長格の視線が、捕まえた影へ向く。
「こいつが“上”か」
影は黙った。
黙って、笑う。
隊長格が言った。
「笑っていられるのは今だけだ。……詰所へ連れていく」
護衛が即答する。
「詰所で割る。だが、こいつは噛む。噛ませるな」
隊長格が頷き、衛兵へ指示を飛ばす。
「口を縛れ。顎を固定しろ。両手両足。……逃げ道は潰した、焦るな」
衛兵が手際よく縄を回す。
“公”の手だ。乱暴じゃない。確実だ。
影が初めて、声を出した。
「……遅い」
隊長格が一拍置いて言う。
「何がだ」
影は顎を固定されながら、喉で笑った。
「娘は……もう別口だ」
その一言で、空気が凍る。
ヘルミーナ様の顔が一瞬だけ変わった。
変わって、すぐ戻る。
だが、戻しきれていない。
護衛が低く言った。
「……お嬢様は詰所だ。鍵付きで守りがいる」
影は笑う。
「誰の話だ。娘は一人じゃねえ」
俺の背中が冷えた。
“娘”。
向こうは正体を言わない。言わずに刺す。
隊長格が即座に言った。
「戻る。今すぐだ」
護衛も言う。
「分かってる」
俺は柄頭に置いた左手を強く握った。
抜く。
抜かない。
今は、走る。
“公”が剣を抜いた夜に、向こうは別の刃を差し込んでくる。
俺たちは詰所へ向かって走り出した。
隊長格が前に出る。
衛兵が道を割る。
夜の通りが、短く揺れる。
金鈴亭の影を離れても、匂いが鼻に残る。
紙が焼けた匂い。
それが、嫌な予感の形を作る。
護衛が低く言った。
「詰所の鍵は硬い。守りもいる。……だが、内側から割られたら意味がない」
内側。
その言葉が一番怖い。
外の刃は見える。内の刃は見えない。
詰所が見えた。
入口の衛兵が、俺たちの走りを見て顔を変える。
ただ事じゃない、と分かった顔だ。
「隊長!」
衛兵の声が上擦った。
その時点で嫌な確信が走る。
隊長格が叫ばずに言う。
「奥は」
衛兵が答える。
「……小部屋。鍵は閉まってます。ですが、さっきから中が静かすぎます」
静かすぎる。
泣き声がないのはいい。
でも、息遣いまで消えるのは良くない。
俺の足が速くなる。
止められない。
廊下を走る。
木の床が軋む。
音が大きい。今は隠す必要がない。
小部屋の前。
鍵は確かに掛かっている。
掛かっているのに、扉の縁がわずかに浮いている。
蝶番側に、薄い紙が噛んでいる。
隊長格が顔を歪めた。
「……外から閉めただけだ」
鍵じゃない。
鍵を使わずに“閉まってる”に見せている。
護衛が扉に耳を当てる。
一拍。二拍。
息がない。
「……開ける」
隊長格が頷く。
「叩くな。押すな。……一気に」
衛兵が鍵を回す。
音が静かに鳴る。
そして、扉が開く。
中は暗い。
灯りが落とされている。
鼻に、甘い匂い。
薬草の匂い。
眠らせる匂い。
床に侍女が倒れていた。
口元に布。
縛られてはいない。だが動かない。
ヘルミーナ様が、壁際に座らされている。
背中が壁。
手首が布で軽く縛られている。
刃傷はない。
それが、逆に怖い。
ヘルミーナ様の目が、俺たちを見た。
焦点は合っている。
だが、呼吸が浅い。
眠りかけている。
「……すみません」
声は丁寧だ。
でも、弱い。
強さが削られている。
隊長格がすぐに命じた。
「医務! 今すぐ! 吸わせたな、これ……」
護衛がヘルミーナ様の縄を解く。
手際は早い。乱暴じゃない。
守る手だ。
俺は侍女の横に膝をつき、布を外した。
息はある。
浅いが、止まってない。
影の言葉が頭に刺さる。
“娘は……もう別口だ”
別口。
つまり、こっちじゃない。
こっちを見せて、別の何かを進める。
隊長格が唸る。
「……やられた。ここは“見せ”だ」
護衛が短く言う。
「時間を取られた」
隊長格は首を振った。
「それだけじゃない。――別口が動いてる」
医務が駆け込んできた。薬草の匂いを嗅いで顔を硬くする。
「吸引ですね。深くはない。ですが放置は危険です。水と換気、それと安静を」
隊長格が頷く。
「ここで守る。……だが、動く者は動く」
ヘルミーナ様が掠れた声で丁寧に言った。
「……あの方は、私に何も聞きませんでした」
護衛が目を細める。
「聞かない?」
「はい。確認だけでした。……私が“ここにいる”と分かったら、それで終わり、という感じでした」
隊長格が小さく舌打ちした。
「位置確認だ。――狙いはお前じゃない。お前の“守り方”だ」
その時、廊下の奥で衛兵が声を張った。
「隊長!」
隊長格が扉の外へ出る。俺たちも続く。
走ってきた衛兵は息を切らしながら言った。
「金鈴亭の裏口を押さえた部下からです。……裏で火を止めた直後、別の荷車が動きました」
「店の荷じゃありません。車輪が違う。――軽い荷です」
護衛が言う。
「どこへ」
「城壁裏の外れ方向です。……灰の壁の方角」
空気が固まった。
隊長格が一拍で決める。
「別口だ。――今夜の本命はそっちだ」
護衛が頷く。
「こちらは守りを残す」
隊長格が即答する。
「残す。鍵も人も二重だ。……今度は“外”で取る」
ヘルミーナ様が俺を見て、掠れた声で丁寧に言った。
「セキサメさん……お願いします」
俺は頷いた。
「分かった」
そして、夜へ戻る。
“別口”の、本命へ。
アマテラス「ほれ見よ、赤雨。
箱の中身より大事なのは、誰がどこから運ばせたかじゃ。
……道を押さえれば、奥まで繋がる。人を斬るのはその後でよい」