外へ戻る。
灰の壁の白さが、入口の上でまだ浮いている。
今夜は押さえた。
でも、これで終わりじゃない。まだ奥がある。
俺はもう一度だけ、穴の上を見た。
ここから先は、街の外だ。
隊長格が言った。
「荷を運ぶ。口も運ぶ。……噛ませるな」
衛兵が頷き、縄を増やす。
顎を固め直す。口を二重に塞ぐ。
捕縛者は喉で笑ったままだ。
護衛が低く言う。
「笑ってても油断するな」
俺は箱を見た。
小さいのに、重く見える。
箱は開けない。
今は運ぶ。
入口の石が戻される。
衛兵が上から押さえ続ける。
誰かが下から押しても、開かない形。
隊長格が俺を見る。
「お前は荷の横につけ。目を離すな」
俺は頷いた。
「分かった」
地上へ戻る道は、静かだ。
静かなまま、忙しい。
荷車が引かれる。
箱が布で包まれる。
封の束が胸の内にしまわれる。
森を抜ける。
灰の壁の外れを抜ける。
街の灯りが見える。
灯りがあるのに、落ち着かない。
ここまで来ても、まだ遅いって言葉が耳に残っている。
詰所へ入ると、空気は張り付いたままだった。
守りの忙しさ。
そして、狩りの忙しさ。
隊長格が机を指で叩く。
「まず口。次に封。箱は最後だ。……医務も呼べ。箱の中身が粉なら、吸ったら終わる」
衛兵が走る。
「はい!」
捕縛者が椅子に縛られる。
手も足も固定される。
顎も固められる。
護衛が囁く。
「噛み毒は全部回収した。だが、隠してる可能性はある」
隊長格が短く返す。
「口を開けさせるのは最後。まず話させろ。……詰所の奥でやれ」
捕縛者は笑ったままだ。
笑いの種類が変わっていない。
隊長格が椅子の前に立つ。
「ここで何をしてた」
返事はない。
口は塞がれている。だが、首は動く。目は動く。
隊長格が続ける。
「箱の行き先はどこだ」
捕縛者の目が、ほんの少しだけ揺れた。
たぶん、それが答えだ。
護衛が言う。
「揺れましたね」
隊長格が頷く。
「揺れた。……行き先がある」
隊長格は衛兵に目で合図した。
衛兵が布を少しだけ外す。口が開く程度。噛めない形は残す。
捕縛者が息を吐いた。
「……遅い」
またそれだ。
同じ言葉。
同じ笑い。
隊長格が声を落とす。
「どこが遅い」
捕縛者は笑う。
「ここを押さえても……上は止まらねえ」
護衛が低く言った。
「上、ですか」
捕縛者は口元を歪めた。
「俺たちは……ただの手だ」
隊長格の指が机を一度だけ叩く。
「手なら、誰の手だ」
捕縛者は黙った。
黙って、舌を動かす。噛もうとする癖。
護衛が即座に顎を押さえ、布を戻す。
固定し直す。
「……危ない」
隊長格は息を吐いた。
「いい。口は割れなくてもいい。封がある。箱がある。……手は繋がってる」
封の束が机に広げられる。
印。書式。紙質。
同じ線が見える。
隊長格が言う。
「金鈴亭。灰の壁。地下の入口。……全部が一本だ」
衛兵が封の端を指差す。
「この印は……」
護衛が短く返す。
「同じ型です。押し方も似てる」
隊長格の視線が一瞬だけ止まった。
嫌な止まり方。
「……印が揃う場所は限られる」
護衛が言う。
「内側、ですね」
隊長格は頷く。
「内側だ」
俺は箱を見る。
開けるのは明け方。
今は守りを固める。
隊長格が言った。
「箱を運び込む。鍵付きの部屋へ。守りは二重。……誰も触るな」
衛兵が頷く。
「はい」
箱が布で包まれたまま、奥へ運ばれる。
扉が閉まる。鍵がかかる。
さらに衛兵が二人、前に立つ。
護衛が小さく言った。
「……ここまで押さえたのに、まだ終わってない顔ですね」
俺は短く返した。
「終わってない」
夜の外は静かだ。
静かなのに、悪い予感だけは消えない。
隊長格が俺を見る。
「休め。10分でいい。……明け方に箱を開ける。その場に立ち会え」
俺は頷いた。
「分かった」
廊下を歩く。
小部屋の前を通る。
扉の向こうは静かだ。
守りの足音がある。
それが、今は一番安心できる音だった。
俺は壁にもたれ、目を閉じた。
10分だけ。
息を整えるために。
――でも、頭の中は止まらない。
地下の白い灰。
封の束。
小さな箱。
そして、遅いという言葉。
俺は目を開けた。
箱の中身が、次の夜を決める。
明け方はまだ遠い。
でも、詰所の中はもう朝みたいに動いていた。
足音。
水の音。
紙を束ねる音。
眠るための音じゃない。起きているための音だ。
隊長格が廊下に出てきた。
目の下に影がある。だが、動きは鈍っていない。
「起きてるな」
俺は頷く。
「起きてる」
隊長格が短く言う。
「箱だ。医務も来た。……立ち会え」
鍵の部屋へ向かう。
扉の前に衛兵が2人。さらに廊下の端にも1人。
守りが厚い。
隊長格が鍵を受け取り、確認する。
封はされていない。封に頼らない。人の目で守る形だ。
「開ける」
衛兵が息を飲む。
護衛は布を握ったまま、箱から視線を外さない。
俺は左手を柄頭に置いた。
抜くためじゃない。体を落ち着かせるためだ。
箱の蓋が外れる。
中は暗い。
布が敷かれている。
その布の上に、小さな核みたいなものがあった。
白い。
灰の壁と同じ白さ。
でも粉じゃない。固い。石でもない。
医務が一歩だけ近づいて、匂いを確かめる。
「……灰。ですが、固めていますね。吸い込む危険は小さい。触るのは避けた方がいいですが」
隊長格が言う。
「固めた灰。……何に使う」
護衛が小さく言った。
「売り物じゃないですね」
俺は核を見た。
見ているだけで、指先が冷える。
嫌な冷え。理屈じゃなく、体が嫌がる。
隊長格が封の束を机に置く。
「封は“受け取り”のためだ。……なら、中身は“渡すため”」
護衛が言う。
「渡した先で、何かをする」
隊長格は頷いた。
「そうだ。……ここで形を整えて、外へ流す」
医務が一言だけ言った。
「これ、薪や紙の灰じゃありません。……焦げの匂いがないのに、粉の匂いだけ残っています」
隊長格が核を布ごと包ませ、箱を閉めた。
すぐに閉める。見た分だけで十分だ。
「これは証拠だ。……だが、証拠だけじゃ足りない。誰が流してる」
護衛が言う。
「封に印がある」
隊長格が封をめくる。
印の押し方。紙の質。
金鈴亭と同じ。だが、いくつかだけ、少し違う。
隊長格の指が止まった。
「……これ」
護衛が覗く。
「違いますね。薄い。押し方も浅い」
隊長格が言う。
「同じ型を使える場所で、押せる奴が違う」
護衛が低く言った。
「内側ですか」
隊長格は頷いた。
「内側だ。……だが、名を出すには足りない」
俺は封を見た。
紙が薄い。押しが浅い。
急いで押したか、慣れていないか。
それでも型は同じだ。触れる場所が限られる。
隊長格が言った。
「雇い主に聞く。今すぐだ」
護衛が俺を見る。
俺は頷いた。
「分かった」
小部屋の前。
守りが2人立っている。顔が硬い。
扉の隙間から、薬草の甘い匂いがまだ漏れている。
隊長格が言った。
「入る。長くはやらない」
守りが頷き、扉を少し開けた。
中は灯りが弱い。
ヘルミーナ様は椅子に座っていた。
顔色は白いが、目は合う。意識ははっきりしている。
侍女は寝台で横になっている。呼吸は浅いが安定している。
医務がすぐに言った。
「会話は短く。息が荒くなったら止めます」
ヘルミーナ様が丁寧に頷く。
「承知しています」
隊長格が机の上に、封を1通だけ置いた。
広げない。見せるだけ。
「この封だ。蝋印に見覚えはあるか」
ヘルミーナ様は封を見た。
近づかない。視線だけで確認する。
「……クライブ家の封蝋印と型が同じです」
護衛が言った。
「押し方は違う。手が違う」
ヘルミーナ様が小さく頷いた。
「はい。位置も違います。癖も違う。……それに、押しが浅い」
隊長格が言った。
「同じ印章に触れられる人間は限られる。――心当たりはあるか」
ヘルミーナ様は一拍だけ黙った。
迷っている沈黙じゃない。選んでいる沈黙だ。
「……兄上です」
隊長格の目が細くなる。
「名は」
ヘルミーナ様が丁寧に言った。
「エドガーです。エドガー・クライブ。今はクライブ公爵家の実権を握っています」
空気が重くなる。
護衛の指が少しだけ動く。
俺は柄頭を握り直した。
隊長格が続ける。
「エドガー本人が押したとは限らない。だが、印章に触れられる。……それだけで線になる」
ヘルミーナ様が、呼吸を整えながら言う。
「城です。印章は城の管理下にもあります。兄上は、城に顔が利きます」
隊長格が頷いた。
「十分だ」
医務がすぐに言った。
「ここまでです。休ませます」
医務がそう言って、椅子の背に手を添えた。
もう終わり、という動きだった。
ヘルミーナ様は一拍だけ目を閉じる。
そして、静かに開いた。
逃げない目だ。
「……待ってください」
医務が眉を寄せる。
「お嬢様」
ヘルミーナ様は丁寧に言った。
「私も行きます」
部屋の空気が止まった。
守りの兵も、扉の外で息を止めたのが分かる。
医務が即座に首を振る。
「無理です。吸引は浅いとはいえ、今は――」
「承知しています」
ヘルミーナ様は遮らない。
遮らずに、言い切る。
「ですが、兄上の顔を見ておく必要があります。……ここで隠れていては、次の手が読めません」
隊長格が低く言った。
「顔を出すだけだ。長居はしない」
医務が視線を鋭くする。
「“だけ”で済む保証はありません」
ヘルミーナ様が、ほんの少しだけ息を整える。
それでも声は丁寧だ。
「倒れそうなら、その場で止めてください。……短時間で済ませます」
医務が歯を噛む。
反対したい。だが、本人の覚悟が固い。
「……分かりました」
医務が言った。
「条件があります。水を持たせます。口元は布で覆ってください。息が荒くなったら、すぐ引き返します」
「はい」
ヘルミーナ様は頷いた。
隊長格が言う。
「護衛は厚くする。だが人数は増やしすぎない。目立てば相手は引く」
護衛が短く返した。
「了解」
俺は柄頭に左手を置いたまま、ヘルミーナ様を見る。
目が合う。
「……セキサメさん」
「はい」
「追い詰めたら、何をするか分かりません。どうか、気をつけてください」
俺は頷いた。
「分かった」
隊長格が扉へ向かう。
「行くぞ。城へ」
護衛が先に出る。
廊下の角を押さえる。目の動きが速い。
俺は最後に出て、扉が閉まるのを見届けた。
守りの兵がすぐに位置へ戻る。
小部屋は守れる形になった。
廊下を歩き出す。
足音は抑える。だが急ぐ。
急いで見せない速さだ。
隊長格が前を見たまま言った。
「……そういえば」
俺は視線だけ向ける。
「何だ」
「お前の名、聞いてない。呼ぶ時に困る」
理由は短い。
今みたいに動くなら、必要だ。
俺は答える。
「セキサメだ」
隊長格は一拍だけ間を置いて、言い直す。
「セキサメ。……分かった」
護衛が小さく言った。
「隊長も名を」
隊長格は歩幅を変えずに言った。
「ガイゼルだ。詰所では隊長で通ってる」
俺は頷く。
「ガイゼル。分かった」
護衛も続けた。
「俺はロルフです」
「ロルフ。分かった」
ガイゼルが言う。
「城の中では名を連呼するな。必要な時だけだ。目が多い」
「分かった」
詰所の門を出る。
昼の光が強い。
夜と違って、人の目が多い。
ヘルミーナ様は上着の襟を整え、口元の布を軽く押さえた。
顔色はまだ白い。
それでも歩幅は崩れない。
医務が水袋を渡して言った。
「苦しくなったら、すぐ飲んでください。……無理はしないで」
「はい。ありがとうございます」
丁寧に答えて、ヘルミーナ様は外へ出た。
通りは広い。
商人の声が途切れない。
馬車が通り、すれ違う人が多い。
ロルフが半歩前へ出る。
道を作る。ぶつからないための動きだ。
俺はさらに半歩後ろ。
壁の位置を崩さない。
ガイゼルが低く言った。
「刃は抜くな。抜かせるな。……名目が要る」
ロルフが頷く。
「了解」
王城の壁が見えてきた。
高い。重い。
近づくほど空気が固くなる。
門の前には槍が揃っている。
目が揃っている。
詰所の目とは違う、城の目だ。
ガイゼルが前へ出て、詰所の印を見せた。
「騎士団だ。公爵家の件で報告がある」
門衛の視線がヘルミーナ様へ移る。
顔色を見て、眉が動く。
「……ご体調は」
医務が一歩だけ出た。
「長くは留まりません。顔を出して戻します」
ガイゼルが続ける。
「公爵令嬢をお送りする。短時間で済ませる」
門衛が頷いた。
「承りました。ですが武具の制限があります」
「緊急だ。携行は必要最小で通す。問題が出たら俺が責任を取る」
門が開く。
中の空気は外より冷たい。
石の匂いが強い。
廊下を進む。
窓から光が差し、床に影が伸びる。
足音が響きやすい。余計な音が出る場所だ。
奥から、笑い声が聞こえた。
高い声。軽い声。
宴の声だ。
扉が開いている。
甘い香りが流れてくる。料理と酒と香水。
全部が“何も起きてない”顔を作る匂い。
ガイゼルが小さく言った。
「顔を出すだけだ。……見たら引く」
ヘルミーナ様が頷く。
「はい」
広間に入る。
天井が高い。
燭台の灯りが多い。
貴族が集まり、笑って、乾杯している。
その中心に、男がいた。
背が高い。肩が広い。
服が整っていて、笑みが丁寧だ。
手にはワインのグラス。
ゆっくり口に運ぶ。
急がない。怖くない。
勝っている人間の飲み方だ。
ヘルミーナ様の指先が、一瞬だけ止まった。
すぐ戻る。だが、その一瞬で分かる。
ロルフが息を殺して言った。
「……エドガー」
エドガー・クライブ。
ここにいる。王家の宴の中心に。
ガイゼルが前へ出る。
空気を割らずに進み、輪の手前で止まった。
「クライブ公爵家ご嫡男、エドガー・クライブ様」
エドガーが視線を向ける。
笑みは崩れない。
崩れないまま、ワインをもう一口だけ含んだ。
「これはこれは。騎士団の方ですか」
ガイゼルが低く言う。
「話がある。――少し同行を願う」
周りの笑いが止まる。
グラスの音が消える。
空気が一段だけ冷える。
エドガーは微笑んだまま言った。
「ここで、ですか。王家の宴の最中に?」
ガイゼルは封の写しを一枚だけ見せた。
広げない。見せびらかさない。必要な人にだけ見せる。
「灰の壁の外れで押さえた。……封の蝋印が、クライブ家のものと同じだった」
エドガーの目が、ほんの一瞬だけ細くなる。
次の瞬間、また笑いに戻る。戻し方が上手い。
「物騒な話ですね。ですが、印など誰でも真似できる」
ロルフが静かに言った。
「真似じゃない。同じ印章で押してる」
エドガーは肩をすくめる。
「それが何を意味するのか、私には」
ヘルミーナ様が一歩だけ前へ出た。
声は丁寧だが、逃げない。
「兄上」
エドガーの視線が、ゆっくりこちらへ移る。
笑みは、薄くなった。
「……顔色が悪いですね、妹よ。詰所で休んでいればいいものを」
ガイゼルが言った。
「同行を願う。拒否するなら、この場で押さえる理由を作る」
エドガーは、余裕のままワインを飲み干した。
そして、グラスをテーブルに置く。音は小さい。だが全部の耳に届く。
「騎士団の人間は、いつから貴族の肩を叩けるようになったのですか」
口調が変わった。
丁寧なのに、刃が出る。
ガイゼルが返す。
「“公”だ。必要なら叩く」
エドガーは笑った。目が笑っていない。
「あなた方は、掴んだつもりなのでしょう。……ですが掴んだのは端だ」
そして、袖の中へ手を入れる。
俺の背中が冷える。
嫌な冷えだ。灰の壁と同じ冷え。
エドガーが小さく言った。
「いいでしょう……では、見せてあげましょう」
指の間に、白い欠片が見えた。
ヘルミーナ様の息が、わずかに止まる。
「……それは……」
エドガーは笑う。
「少し、予定を変えます」
「この国が崩れるところを、お見せしましょう」
ガイゼルが踏み込む。
「押さえろ!」
ロルフが動く。
俺も動く。だが――一拍、遅い。
エドガーが欠片を握り潰すように力を入れた。
白い光が、指の隙間から漏れた。
広間の灯りが負けるほどの白さ。
近づいた衛兵が、足を止める。
息が詰まるみたいな圧が、肌に当たった。
エドガーは逃げない。
堂々とその場に立っている。
「焦らなくていい。どうせ勝つ」
白い光が床へ落ち、模様みたいに広がっていく。
そしてエドガーは歩いた。広間を壊さず、庭へ抜けるために。
ガイゼルが低く言った。
「追う。……庭へ出すな」
俺は柄へ手を滑らせる。
「止める」
扉の向こうに、外の光。
王城の庭が見えた。
戦いは、もう始まっている。
アマテラス「ほほう、赤雨よ。
人が笑う場で、神の欠片を弄ぶとは――随分と趣味が悪いのう。
じゃが安心せい。おぬしの刃は、そういう余興を“終わらせる”ためにある」