街道の先に、城壁が見えた。
森の境目とは違う。石の線が、世界を区切っている。
――ムソニア。
それがその街の名前らしい。
門前は人で詰まっていた。荷車、商人、旅装の集団。
兵が列を仕切り、順番に通している。
護衛の片方が先に出て、低く言った。
「ここからは余計なことを言うな。聞かれたら『旅の途中だ』で終わらせろ。余計に喋るな」
俺は頷く。
「分かった」
ヘルミーナと侍女は、少し後ろ。
護衛が自然に壁になる位置取りをしている。慣れてる。こっちが口を挟む必要もない。
列が進む。
門が近づくにつれて、空気が重くなる。視線が増える。
森と違って、ここは“人のルール”がある。
兵が俺たちを見て、声を掛けた。
「止まれ。通行の目的は」
護衛が前へ出る。
「街へ入る。用はある。急いでいる」
雑だ。けど余計な情報は出さない。
兵の目が細くなる。視線がヘルミーナへ――行きかけて、護衛が一歩ずらして遮った。
「名は?」
護衛が一拍置く。
その間に、俺はヘルミーナの横顔を見る。表情は崩れてない。だけど呼吸が浅い。
護衛が答えた。
「事情があって、家名は伏せる」
護衛は懐から小さな印章を取り出し、掌に乗せて示した。
隊長格の兵がそれを見る。
顔色が変わり、声が落ちた。
「……了解した。通れ」
兵たちが道を開ける。
俺は無言で、ヘルミーナたちの動きに合わせて進む。
門をくぐった瞬間、匂いが変わった。
汗。油。焼いた肉。埃。
人の生活の匂いだ。
石畳に足が当たる音が、やけに硬い。
森の土と違う。踏みしめた感触が返ってくる。
――街だ。
ヘルミーナが侍女の腕を支え直し、静かに言った。
「……参りましょう」
俺は頷く。
「うん」
ここから先。
俺はこの街で、何をする。
考えた瞬間、頭の中が空白になる。
入ることだけに意識を使ってた。出た後が、真っ白だ。
……まずい。
宿。飯。水。
情報。全部いる。
俺は歩きながら、視界の端――いつもの場所に意識を向けた。
数値が並ぶ。HP。MP。ステータス。
「……レベル9か」
さっきの戦いで上がった。
後でポイントを振り分けよう
護衛が横目で俺を見る。
「今、なんと言った」
「……いや、何でもない」
俺は息を吐いて、ヘルミーナの横へ視線を寄せた。
言いにくい。けど、言わないと詰む。
「ヘルミーナ様」
「何でしょう」
「俺、金がない」
護衛の視線が一瞬だけ俺に刺さる。
当然だろ、って顔だ。
「仕事を探したい」
俺がそう言うと、ヘルミーナ様は立ち止まらずに答えた。
「では、私が雇って差し上げます。セキサメさんなら即戦力です」
護衛が即座に声を上げる。
「お嬢様!」
反射みたいな制止。
それだけ危うい判断だと分かっているんだろう。
でもヘルミーナ様は、歩みを止めない。
ただ、声だけを落として言った。
「承知しております。……だからこそ、条件を付けます」
護衛の視線が鋭くなる。
俺の方じゃない。周囲だ。聞き耳を警戒している。
ヘルミーナ様が、俺を見る。
「セキサメさん。手伝ってほしいことがございます」
一拍置いて、赤い瞳が揺らがないまま続く。
「今はまだ“誰が関わっているか”までは言えません。けれど――頼みたいことがございます。受けてくださりますか?」
断れば、今晩の宿も飯もない。
それ以前に、ここで一人になるのは危険だ。
でも、受けるなら受けるで、筋は通す。
「……受ける」
護衛がまだ渋い顔をしている。
それでも、ヘルミーナ様の決裁が降りた以上、覆せない。
ヘルミーナ様が視線を前へ戻す。
「では参りましょう」
ヘルミーナ様は歩みを止めずに言った。
「まずは――契約です。今日から、私付きの護衛として雇います」
護衛が目を見開く。
「お嬢様……!」
ヘルミーナ様は視線を前に置いたまま、静かに言い切る。
「即戦力が必要ですの。今は、迷っている時間がありません」
俺はその言葉を、ただ“現実的な判断”として受け取った。
金がない。寝床もない。状況も分からない。
だったら、答えは一つだ。
俺は頷く。
「分かった。契約する」
ヘルミーナ様の指先が、ほんの少しだけ緩んだ。
表情は崩れない。けれど、決裁が通った時の空気がある。
「条件は、先ほどの通りです」
ヘルミーナ様は懐から小さな革袋を取り出し、俺に差し出した。
「前金です。好きに使ってください」
施しじゃない。前金。
そう言われると、受け取れる。
俺は受け取って、言った。
「働いて返す」
「ええ。期待しています」
宿へ向かう道すがら、革袋の重みが掌に残っていた。
中身は硬貨だ。これで今夜は寝られる。
――助かった。
そう思った瞬間、ふと遅れて気づく。
俺は今、契約した。
護衛として。
ヘルミーナ様付きの護衛として。
……いや、深く考えるのは後だ。
今はまず、今日を越える。
護衛が先を歩き、時々だけ振り返って周囲を確認する。
街の視線を切る歩き方だ。人混みに溶けながら、守る位置だけは崩さない。
その横で、侍女がまだ落ち着かない様子で、ヘルミーナ様の袖を小さく掴んでいた。
ヘルミーナ様は歩幅を合わせてやっている。
優しいというより、“当たり前の責任”として。
角を曲がったところで、護衛の片方が低く漏らした。
「……レベル9、だったな」
俺は前を向いたまま答える。
「聞こえてたんですか」
「ああ……信じられん」
心底理解できないという戸惑いが混じっている。
「賊をあれだけ斬って、ブラッドスニフの群れを捌いて……9はあり得ん」
もう1人の護衛も続けた。
「ブラッドスニフは単体でもC級。群れならB級相当だ。普通の9なら、護衛どころか足手まといになる」
侍女が小さく息を呑む。
「……あ、あの狼……そんなに……」
ヘルミーナ様が静かに言った。
「だからこそ、今ここにおります。命を救っていただいた事実は変わりません」
護衛は口を閉じる。
ヘルミーナ様の決裁は揺らがない。揺らがせない。
俺は短く言った。
「俺も、状況は分からない。……ただ、戦える」
言った後で、自分の言葉が薄いと感じる。
戦える理由を説明できない。説明しても通じない。
沈黙が続く前に、ヘルミーナ様が話題を切り替えた。
「宿は、ここでよろしいですね」
看板には素朴な宿の名。
門から遠すぎず、繁華からも少し外れている。逃げるにも守るにも都合がいい。
護衛が頷いた。
「人目が少ない。裏口もある」
中へ入ると、店主が顔を上げた。
値踏みの目が一瞬走る。ドレスと護衛、そして俺の装備。
ヘルミーナ様が先に声を掛けた。
「部屋を2つ。できれば隣で」
店主は即座に頷き、鍵を出しかけた――が、俺の方を見て止まる。
武器持ちの若造は厄介だと判断したらしい。
護衛が低く言った。
「問題は起こさん。こちらが責任を持つ」
それで店主の顔が少し緩む。
金が置かれると、さらに早い。
ヘルミーナ様が硬貨を数枚、台に置いた。
迷いのない手つきだ。
「前金ですわ。食事もお願いできますかしら」
「……へい、承りました」
鍵が渡される。
俺の手の中の革袋が、余計に重く感じた。
階段を上がる途中、護衛が俺の隣へ寄る。
「一つだけ確認だ」
「何だ」
「お嬢様に刃を向けるな。――向ける理由ができたとしてもだ」
言い方が、脅しじゃない。
“仕事”として言っている。
俺は頷いた。
「向けない」
護衛はそれ以上言わず、先に進んだ。
廊下の奥で、ヘルミーナ様が立ち止まる。
侍女へ鍵を渡し、短く指示する。
「部屋に入ったら、まず水を。落ち着いたら、衣服の汚れを落としなさい」
「は、はい……」
侍女が震えながらも頭を下げ、部屋へ入っていく。
残ったのは、俺とヘルミーナ様と護衛2人。
ヘルミーナ様が俺を見る。
さっき契約を結んだ時と同じ目だ。落ち着いているのに、芯がある。
「セキサメさん」
「はい」
「今夜は休んでください。明日、動きます」
俺は頷いた。
「分かった」
ヘルミーナ様はほんの少しだけ声を落とした。
「当主の意思を示す“印”が――奪われました。それを取り戻さなければ、私は二度と前へ進めません」
俺は迷わず頷いた。
「取り戻す。やることはそれだな」
「……ありがとうございます」
ヘルミーナ様は一瞬だけ目を伏せ、すぐに戻す。
「ですが、今はまだ詳しく話せませんわ。耳が多すぎますもの」
「明日、ムソニアで情報を集めます。まずは“どこにあるか”を知ること」
「そして――わたくしの名と行き先は、他言しないこと。これだけは必ず」
「守る」
言ってから、ヘルミーナ様の指先が微かに緩むのが見えた。
表情は変わらない。けど、息が少しだけ軽くなる。
護衛が咳払いをして、場を締める。
「お嬢様。まずは休息を。……見張りは我々が」
「ええ。頼みます」
ヘルミーナ様は鍵を握り、部屋の前で一度だけ俺を見た。
「セキサメさん。――契約は、今夜からです」
扉が閉まる。
廊下に残った俺は、息を吐いた。
思ったより、疲れていたらしい。
それでも――やることは増えた。
生きる理由も、増えた。
俺は自分の部屋の鍵を受け取り、扉を開けた。
中は狭い。けど、ベッドがある。水差しもある。
俺は革袋をアイテムボックスになおし、腰の刀へ手を伸ばす。
鞘ごと外して、そっと寝台の横へ立てかける。
部屋は静かだ。
外の喧騒が、壁一枚で遠くなる。
それだけで、肩がふっと軽くなった。
森の中みたいに、いつ襲われるか分からない空気じゃない。
まだ油断はできない。
でも――今夜だけは、休んでいい。
俺は息を吐いて、背もたれに体重を預けた。
身体の奥に溜まっていた熱が、じわっと下がっていく。
喉が渇いていたことに、今さら気づく。
水差しに手を伸ばし、コップへ注ぐ。
一口。冷たい。
……生きてる。
その実感が、遅れて腹の底に落ちた。
机の上の革袋を指で押す。
硬貨が擦れて小さく鳴る。たったそれだけで、今夜の寝床が確定する。
立てかけながら、刃が抜けないかを確認する。
癖みたいなものだ。安全の確認。
――それで、ようやく視界の端に意識を向ける。
ステータス画面が開く。
レベル欄。
――9。
俺は小さく息を吐いた。
「……9か」
声に出すと、数字が急に現実味を持つ。
この世界でも、レベルは“強さの目安”として通る。だからこそ、余計に違和感がある。
9にしては、俺は強すぎる。
理由は分かってる。装備だ。
装備欄を順に撫でるように追っていく。
大神降ろし。雷雲の軌跡。不死鳥の羽根。赤龍の具足。深淵のマント。黒無垢の腕輪。耐性の指輪。
どれも、手放した瞬間に終わる。
俺は指先を止めて、ステータス欄へ戻した。
装備があるから戦える。逆に言えば――土台はまだ薄い。
視界の端に、未使用ポイントの表示が残っている。
――未使用ステータスポイント:80
数字があるだけで、少しだけ現実味が増す。
振らなきゃ意味がない。振れば、今日から変わる。
序盤に欲しいのは火力じゃない。
大神降ろしがある。攻撃は足りる。
足りないのは、耐える体力。
回す魔力。
俺は配分画面を開く。
VIT。最大HP=VIT。
INT。最大MP=INT。
迷う理由がなかった。
VITに50。INTに30。
指先で確定。
数値が更新される。
STR:100 +180(装備)+0= 280
VIT:50 +227(装備)+50= 327
DEX:70 +230(装備)+0= 300
AGI:90 +170(装備)+0= 260
INT:10 +135(装備)+30= 175
LUK:50 +138(装備)+0= 188
最大HP:327
最大MP:175
数字を見た瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
俺は画面を下へ送る。
そこで、見慣れた項目が――見慣れない状態で表示されていた。
【職業】修羅
【職業レベル】1/100
「……1、か」
職業は残っている。
でも、職業レベルは最初からだ。
職業レベルが上がれば、スキルが手に入る。
戦い方が増える。生き残り方が増える。
逆に言えば――今の俺は、修羅としては何も持っていないに等しい。
装備で殴れているだけだ。
ここで気づく。
さっきまでの戦いは、危なかった。
もし相手が賊じゃなく、耐久も回避も要求してくる相手だったら。
もしスキル回しが必要な相手だったら。
“修羅”の土台がないまま、俺は刃を振っていた。
俺は一度、画面を戻してHPとMPの表示を見る。
最大HP:327
最大MP:175
……まだ足りない。
けど、最初の一歩としては悪くない。
俺は指先を止めた。
明日、動く。
ヘルミーナ様の“印”を取り戻すために。
そのための情報を、ムソニアで拾う。
そして、その動きの中で――職業レベルも上げる。
この世界で生きるなら、装備だけに頼り続けるわけにはいかない。
装備は強い。
でも、装備だけじゃ足りない瞬間が必ず来る。
例えば、武器を奪われたら。
例えば、狭い場所で振れなくなったら。
例えば、守るべき相手がいて、攻め手を選べなくなったら。
今夜はその現実を、ようやく飲み込めた気がする。
俺はもう一度ステータス画面を閉じ、部屋を見回した。
狭い。けど、鍵がある。壁がある。ベッドがある。
森とは違う。
外からは人の声。
遠くで笑い声。
食器の音。馬のいななき。荷車の軋み。
ムソニアの夜は生きている。
つまり――ここでは、人間のルールがある。
俺は革袋を手に取り、硬貨を数える気にはなれず、アイテムボックスになおす。
金は借りた。働いて返す。
それでいい。
寝台へ腰を下ろし、背中を預ける。
瞼を閉じると、戦いの場面が勝手に蘇った。
賊の叫び。
血嗅ぎ狼《ブラッドスニフ》の牙。
刃が走った瞬間の、空気の裂ける感覚。
……俺は、殺した。
画面の向こうじゃない。
“本物”を。
胸の奥に、鈍い重さが沈む。
消えない。消えていいものでもない。
俺は息を吸って、吐いた。
それでも――止まれない。
ヘルミーナ様の“印”を取り戻す。
そのために明日、動く。
やることを一つずつ並べる。
情報を取る。
誰が動いているか掴む。
金の流れを掴む。
そして、指輪の所在に繋げる。
そこまで考えたところで、眠気がようやく勝ってきた。
緊張がほどける。
刀は手の届く場所。
鍵も掛けた。
俺は布団に潜り、最後に小さく呟いた。
「……寝る」
俺は布団に潜り、最後に小さく呟いた。
「……寝る」
そう言ったのに、目は冴えたままだった。
部屋は暗い。
外の喧騒も薄れて、宿の木が軋む音だけが時々混じる。
それでも、頭の中は静かにならない。
瞼を閉じると、さっきまでの光景が浮かぶ。
賊の逃げる背中。
斬撃が届いて、体が崩れる瞬間。
森へ倒れる音。
――俺は、殺した。
正当防衛だとか、護衛だとか。
理由はいくらでも並べられる。
実際、放っておけばヘルミーナ様たちはどうなっていたか分からない。
それでも、やったことは変わらない。
“画面の向こう”じゃない。
ここには、血があった。重さがあった。熱があった。
俺は喉の奥が乾くのを感じて、唾を飲み込んだ。
布団の中で握った指先に、力が入る。
怖くはない。
震えてもいない。
……それが、逆に気持ち悪い。
俺は起き上がって、水を一口飲んだ。
冷たい。
味がする。
ちゃんと現実だ。
机の横に立てかけた鞘を見て、息を吐く。
大神降ろしは、静かなままだ。
まるで、俺の迷いなんて関係ないみたいに。
「……割り切れ」
小さく言ってみる。
部屋に声が落ちるだけで、何も変わらない。
割り切らないと、前に進めない。
前に進まないと、明日も生きられない。
分かってる。
分かってるのに、胸の奥が重い。
もし、あの賊に家族がいたら?
もし、あいつらが“今日だけ”腹を空かせていたら?
……そんなことを考え始めたら、切りがない。
でも俺は、逃げる背中を斬った。
逃がしたら、また誰かを踏みにじると思ったからだ。
そう判断した。
判断したのは、俺だ。
俺は布団に戻って、仰向けになった。
天井を見つめる。木の節がぼんやり揺れる。
人を斬ったのは初めてじゃない。
ゲームの中なら、何百回もある。
でも、ここは違う。
違うのに、体はゲームみたいに動いた。
迷いが邪魔をする前に、最短の手が出た。
それが、怖い。
俺はもう一度、自分に言い聞かせる。
割り切る。
割り切らないといけない。
……割り切ろう。
守るために斬った。
止めるために斬った。
ここで止まったら、次は守れない。
俺は息を吸って、吐いた。
ゆっくり。深く。
外から、どこかの部屋の笑い声が一瞬だけ聞こえた。
酒の席だろう。今夜を楽しんでいる人間もいる。
その生活の音が、妙に腹に落ちた。
ここでは、明日が来る。
普通に。勝手に。
俺だけが立ち止まっても、世界は待ってくれない。
……だったら。
俺は目を閉じた。
脳裏に浮かぶ背中を、無理やり押し流す。
明日、動く。
情報を取る。
取り戻す。
そのために、今夜は寝る。
そう決めて、何度目かの深呼吸をした。
胸の重さが消えることはない。
でも、少しずつ沈んでいく。
俺は布団の中で手を握り、ほどき、また握った。
指先の感覚を確かめるみたいに。
――目を閉じたまま、意識が少し遠のく。
ムソニアの夜が、静かに俺を飲み込んでいった。
アマテラス「赤雨よ。
人を斬ったことを、あまり気にするでないぞ。
忘れろと言うておるのではない。
胸に置いたまま、前へ進め。迷いは刃を鈍らせるが、痛みはおぬしを人のまま繋ぎとめる。
守るために振るうたのなら、それでよい。
今夜は息を整えよ。明日、また歩めるようにな。
……ふふ、面白うなってきたわ」