朝は、勝手に来る。
薄い光が、窓の隙間から床へ伸びていた。
宿の木造は夜の間に冷えていて、布団の中もまだ少しだけ冷たい。
俺は目を開けたまま、天井の節を数えていた。
眠ったはずなのに、深く沈めた感じがしない。
廊下の向こうで、足音がひとつ。
止まる。
小さな金具の擦れる音。見張りが交代しただけだろう。
――護衛は、ちゃんと仕事をしている。
それが分かっただけで、胸の奥のざらつきが少しだけ落ちた。
俺は上体を起こして、部屋を見回す。
狭い。壁が近い。だが、鍵がある。
森の夜と違って、世界が勝手に襲ってくる気配が薄い。
最初に目が行くのは、刀だ。
寝台の横。鞘ごと立てかけた大神降ろしは、倒れていない。
アイテムボックス。革袋。
前金の硬貨が入っている。これがあるだけで、今後の行動の幅が変わる。
だが、借りた金だ。使うなら、必要なものからだ。
水差しに触れる。
昨日よりぬるい。夜の間に常温へ戻ったらしい。
口をつける。喉がようやく落ち着く。
階下から、音が上がってきた。
鍋を置く音。皿が擦れる音。誰かが笑う声。
油の匂いが、ほんの少しだけ混じってくる。
朝飯の準備だ。
街は、昨日の続きを当たり前みたいに始めている。
俺だけが、置いていかれそうになる。
俺は息を吐いて、ベッドの縁に座り直した。
身体が重いわけじゃない。
ただ――頭のどこかが、まだ夜のままだ。
布団から出て、服のしわを伸ばす。
装備の留め具を一つずつ指でなぞる。緩みがないか、確認する。
“護衛”。
昨夜、ヘルミーナ様と契約した。
つまり今日から、俺の動きは俺だけのものじゃない。
守る対象がいる。
それを考えると、背筋が自然に伸びた。
廊下で、また足音。
今度は止まらない。巡回だ。
部屋の前を通り過ぎて、少し先で止まり、引き返す。
……徹底してる。
俺は鍵の方へ目を向けた。
壊されていない。覗かれてもいない。
大丈夫だ。
その“当たり前”が、昨日までの森では当たり前じゃなかった。
だからこそ、今の静けさがありがたい。
俺は刀へ手を伸ばし、鞘を腰に戻す。
抜かない。ただ、いつでも抜ける位置に置く。
そして、ドアの前に立つ。
外へ出る前に、もう一度だけ息を整えた。
今日、動く。情報を取りに行く。
その前に、まず――顔を合わせる。
ヘルミーナ様たちは、もう起きているだろうか。
扉を開けると、廊下の空気が少しだけ冷たい。
木の床が軋む音が、やけに大きく聞こえた。
朝の宿は静かじゃない。けど、部屋の中より音が整理されている。人の気配が一定だ。
角のところに、護衛の片方が立っていた。
壁に寄りかからず、背筋を伸ばしている。視線は通路の先。俺の方へは、気配で分かっているのに、必要以上に見ない。
俺が近づくと、男は短く頷いた。
「起きたか」
「起きた」
「朝食は下だ。……お嬢様はもう動ける」
“動ける”。
昨日の戦いの後に、その言葉が出てくるのが、この人たちの現実なんだろう。
俺は頷いて、階段へ向かう。
護衛も一歩遅れてついてくる。距離は詰めないが、逃がさない距離。
階下に近づくほど匂いが濃くなった。
焼いた肉と、香草と、パンの焦げる匂い。
腹が、遅れて反応する。
食堂は思ったより狭い。
卓がいくつか並び、旅人が朝の顔をして座っている。
俺たちが降りた瞬間、視線が数本刺さった。装備と、護衛の立ち姿と、女連れ。
目立つ。
意識した途端、肩が固くなる。
だが護衛は何でもないように歩いて、奥の卓へ進んだ。
壁際。出口が見える位置。背中を預けられる配置。慣れてる。
そこに、ヘルミーナ様がいた。
銀髪を簡単にまとめ、昨日のドレスではなく、落ち着いた旅装に変わっている。
派手さはない。けれど布地の質が違う。安物じゃないのが一目で分かる。
隣には侍女。
顔色がまだ青い。手元の湯気の立つ椀に両手を添えているのに、指先が微かに震えていた。
俺が近づくと、ヘルミーナ様は椅子から立たずに、視線だけを上げた。
「おはようございます。眠れましたか」
口調は柔らかい。
昨日みたいに張り詰めた“決裁”の声じゃない。けど、芯は同じだ。
「……それなりに」
嘘ではない。
眠りは浅かったが、目は開いた。起き上がれる。
ヘルミーナ様は小さく頷く。
「十分です。今日は長くなります」
侍女が俺を見て、慌てて頭を下げた。
声は出ない。だが、礼だけは崩さない。必死に形を保っている。
俺は軽く手を上げた。
「大丈夫。座ってていい」
侍女の肩がほんの少しだけ落ちる。
それでも視線は俺の腰――刀に行ってしまう。怖いのは当然だ。
ヘルミーナ様が、俺の向かいの席を指で示した。
「ここに」
俺は腰を下ろす。
背中に壁があるだけで、呼吸が楽になる。森ではなかった感覚だ。
護衛の2人も左右に座った。
ひとりは入口側。もうひとりは窓側。互いに視線を散らして、周囲を読む。
店主が近づいてきて、言った。
「朝は、パンと粥と、肉でいいかい」
護衛が答えるより先に、ヘルミーナ様が短く頷いた。
「それでお願いします。水も」
店主は俺の方を見て一瞬だけ迷い、護衛の顔を見て頷いた。
金は払われる。責任もある。だから出す。そういう計算。
料理が運ばれてくるまでの短い間。
ヘルミーナ様は声を落とした。
「昨夜言った通り、今日は情報を取りに行きます」
俺は頷く。
「どこから動く」
「まず、街の空気を拾う。その後、確度の高い窓口へ」
護衛のひとりが、低く補足した。
「街は広い。だが耳は多い。……お嬢様の名は出すな」
ヘルミーナ様はそれを否定しない。
ただ、俺を見て言った。
「あなたにも頼みます。今日から私は、あなたの雇い主です。遠慮はいりません。必要なものがあれば言ってください」
必要なもの。
真っ先に浮かぶのは、地図と情報だ。どこが危なくて、どこが金になるのか。
次に、回復できる手段――薬か、宿か、休める場所。
装備のことは……後回しにした。今は手にある。だから、まずは動ける。
装備のことは……後回しにした。今は手にある。だから、まずは動ける。
俺は視線を上げて、ヘルミーナ様を見る。
この人の前では、変に格好をつける意味がない。必要なことだけ言う。
「地図。それと、噂が集まる場所。あと、回復手段。薬屋があるなら、場所だけでも知りたい」
ヘルミーナ様はすぐに頷いた。
「分かりました。地図はこの後すぐに買いましょう。薬屋は、護衛が把握しているはずです。噂については……朝は教会、昼以降は酒場が良いでしょう」
護衛のひとりが、短く肯定するように頷く。
「薬屋なら、大通りに1軒。材料屋も兼ねてる。回復薬は高いが、効く」
俺は胸の中で、少しだけ息を吐いた。
“回復”がアイテム頼りだと分かった以上、薬屋の位置は命綱になる。
ヘルミーナ様は声を落として続ける。
「ただし、今は私の名は出しません。教会でも、酒場でもです」
「分かった。必要なら、俺が前に出る」
護衛が小さく頷いた。
俺が前に出る、というより、俺に“出させる”形にして人目を散らす。そういう仕事のやり方だ。
店主が料理を運んできて、卓に置いた。
粥の湯気が立つ。パンは硬い。肉は塩が強い。
腹がきゅっと鳴って、俺は一口目を急いだ。温かさが喉を落ちていく。
食いながら、頭の中で今日の流れを組む。
地図屋。教会。必要なら薬屋。
それから、金鈴亭を外から見る。癖を掴む。客層、出入り、見張り。
夕方の北の小広場――そこまで行けるかは、教会での手応え次第。
護衛のひとりが、周囲へ視線を散らしたまま言う。
「……店の中に、こっちを見てる目がある。露骨じゃないが」
俺は匙を止めずに、視線だけを動かした。
入口近く。旅装の男。飲み物を手にしてるが、食べていない。
もう1つ。窓側。帽子を深く被った女。顔が見えない。
尾行か、ただの警戒か。
どっちでも、今は“確定”しない。確定した瞬間に、動きが硬くなる。
ヘルミーナ様が、湯気の向こうで淡々と言う。
「油断は禁物ですね」
「うん」
短く返し、俺はパンをちぎった。
食べ物の味がする。人の生活の味がする。
だからこそ、ここでの戦いは森と違う。
ヘルミーナ様は食器を置き、俺を見る。
「食べ終わりましたら、すぐに出ましょう。人が増える前に動きたいです」
「分かった」
侍女はまだ硬い顔のままだが、さっきよりは呼吸が整っている。
食べられた。それだけで、今日は少し前に進める。
俺は最後の一口を飲み込み、革袋の位置を確かめた。
見せない。出さない。必要な時だけ使う。
椅子を引き、立ち上がる。
護衛も同時に動く。音が揃う。訓練の癖だ。
ヘルミーナ様が静かに言った。
「では、参りましょう」
俺は頷き、刀の位置を確かめる。
抜かない。けれど、抜ける。
その状態のまま、宿の扉へ向かった。
外の光が、扉の隙間から差し込んでいる。
朝は勝手に進む。街も勝手に進む。
だから俺も、止まらず進むだけだ。
扉を開けると、ムソニアの朝の匂いが、もう一度ぶつかってきた。
石畳の冷たさが足裏から上がってくる。
人の声が、昨日より少しだけ多い。露店の呼び込み。荷車の軋み。パンを焼く匂い。
この街は、何事もなかったように回っている。
護衛が左右に散った。
俺とヘルミーナ様を挟み、前と後ろに気配を置く。距離は詰めすぎないが、切らない。
守る形としては綺麗だ。
俺は視線を上げずに、気配だけを拾う。
宿の前の通りに立っていた男が、こちらの動きに合わせて歩き出した。さっき食堂で見た旅装。
窓側の帽子の女は――見えない。外にはいない。
尾行。
断定はしない。けど、存在は覚えておく。
ヘルミーナ様が小声で言う。
「まず、地図屋です」
「分かりました」
俺たちは大通りへ向かう。
視線が刺さる。鎧の光沢。刀の鞘。護衛の立ち姿。
目立つ要素は多い。だからこそ、動きは淡々と、一定にする。
角を曲がった先に、紙とインクの匂いが混じった。
小さな店。入口の上に雑な札。“地図”。
「ここです」
護衛が言い、先に一歩入る。店内を見て、問題がないと判断してから、俺とヘルミーナ様が続いた。
店主は椅子に座ったまま、目だけを動かしている。
「朝から、また旅人か。今日はよく来るね」
よく来る。
偶然かもしれないし、こっちが呼んでいるのかもしれない。
俺が言う。
「街の地図。詳しいやつ」
店主の目が俺の腰からヘルミーナ様へ移った。
一瞬だけ止まり、すぐ何でもないふりをした。
服の質。姿勢。護衛の配置。
どれか1つじゃない。重なって、匂う。
「詳しいのは高いよ」
「構いません。必要です」
ヘルミーナ様はですますのまま、言い切った。
店主は肩をすくめて、棚の奥から巻物を引きずり出した。
机の上で広げる。
通り、路地、橋、広場。教会、騎士団詰所。
質屋の印もある。
俺はその印を見て、視線を止める。
金鈴亭。位置は中心寄りから少し外れ。人の流れが混ざる場所だ。
護衛が地図を覗き込み、低く言った。
「北の小広場は、この辺りだ」
俺は少し眉を上げた。
「北の小広場って、どこだ」
護衛は指で示す。市場の外れ。人が増える時間が決まっている場所。
“受け渡し”が起きるなら、こういうところだ。
店主が、聞こえたのか聞こえてないのか分からない顔で、口を挟む。
「北の小広場は、夕方が賑やかだ。荷が動く。人も動く」
「……詳しいな」
「商売だよ。知らないと死ぬ」
笑い方が軽い。だが目は軽くない。
ヘルミーナ様が硬貨を必要な分だけ置く。
見せない。足さない。過不足なく。
「ありがとうございます」
「まいど。……裏道を使うなら、ここは避けな。今朝は妙に目が多い」
俺は地図を巻き、鞄へ入れた。
店主の忠告は、冗談じゃない可能性が高い。
店を出る。
朝の光が目に刺さる。
ヘルミーナ様が俺を見上げた。
「次は教会です。噂の流れを、できるだけ穏やかに掴みたいです」
「分かりました」
護衛が前に出て、通りを選ぶ。
人通りが多すぎない道。けれど逃げ道がある道。
こういうのは、俺より護衛の方が上手い。
歩きながら、俺は背後の気配を確かめた。
旅装の男は、まだ距離を保ってついてくる。
尾行で確定していい。けど、ここで振り向いて睨んだら、相手の思う壺だ。
俺は何もしない。
足だけを、少しだけ早める。
護衛の動きが変わる。さりげなく、こちらを囲む形が締まった。
教会の尖塔が見えた。
石造りの門。出入りする人々。祈り、相談、施し。
善意の顔をして、噂が集まる場所。
入口の前でヘルミーナ様が足を止める。
「ここからは、言葉が武器になります」
「……分かった」
俺は刀に触れない。
代わりに、視線を上げて、人の流れを読む。
護衛が短く言った。
「入るぞ」
俺たちは教会の冷たい空気へ踏み込んだ。
蝋の匂い。石の冷え。静かな祈りの声。
ここなら、血の匂いはしない。
だからこそ、胸の奥のざらつきが、ほんの少しだけ浮く。
受付に修道服の女性がいる。
侍女が一歩前へ出かけたが、ヘルミーナ様が軽く手で止めた。
「私が話します」
そして、丁寧に頭を下げる。
「ご相談したいことがございます。神官の方に、お時間をいただけますか」
修道服の女性はヘルミーナ様の声を聞いて、視線を一瞬だけ止めた。
店主と同じ反応。やっぱり隠し切れてはいない。
「……少々お待ちください」
控えの椅子に通される。
その間にも、人が出入りする。
俺たちはその人波の端に座り、目立たない顔をする。
護衛のひとりが、視線だけで後方を示した。
入口の近く。例の旅装の男が、教会の中にまで入ってきた。
祈るでもなく、施しを受けるでもなく、壁際でこちらを見ている。
俺は息を吐いた。
「……ついてきてるな」
護衛が頷く。
「確定だ。だが、ここで動けば“こちらが”悪目立ちする」
ヘルミーナ様が、声を落として言った。
「今は、相手の目的を確かめる方が先です。こちらが慌てる必要はありません」
俺は頷いた。
その落ち着きは、強がりじゃない。判断の落ち着きだ。
やがて、奥の扉が開く。
中年の神官が姿を見せ、修道服の女性が案内した。
「こちらへ」
俺たちは席を立つ。
旅装の男の視線が、僅かに強くなる。
――来い。来るなら来い。ここで“尻尾”を掴む。
小部屋に通され、扉が閉まる。
外のざわめきが薄くなり、声が通る空間になった。
神官は椅子に座り、俺たちを見た。
「ご相談とは、何でしょう」
ヘルミーナ様が一度だけ息を整え、丁寧に言った。
「ある物を探しています。表沙汰にはできません。ですが、取り戻さなければならないのです」
神官の目が、わずかに細くなる。
「……物ですか。それとも、事情ですか」
護衛のひとりが、前に出た。
声は低いが、言葉は丁寧だ。慣れている。
「“当主の意思を示す印”が奪われました。こちらは回収が目的です。騒ぎにするつもりはありません。流れを知りたい」
神官は沈黙した。
机の上で指が一度だけ動き、止まる。
「……
ヘルミーナ様の目が一瞬だけ動いたが、すぐ戻る。
「……あります。関わっている可能性が高いです」
神官は小さく息を吐いた。
「なら、簡単ではありません。あそこは物だけではなく、人の弱みも扱います。正面から行けば、証拠は消えます」
俺は頷いた。
「だから、正面からは行かない」
ヘルミーナ様が、静かに続ける。
「こちらは、取り戻すことだけが目的です。騒ぎを大きくするつもりはありません」
神官は少しだけ考えてから、低く言った。
「……夕刻、北の小広場で荷が動きます。金鈴亭に繋がる者も、そこに出ます」
来た。
地図屋の話と繋がった。偶然じゃない。線になる。
「ただし」
神官は言葉を区切る。
「そこで捕まえようとすると、街が動きます。相手も動きます。あなた方が先に壊される」
俺は息を吐いた。
「尾行だな」
神官は頷いた。
「尾行です。できれば二重に。気づかれれば終わりです」
ヘルミーナ様が、丁寧に頭を下げる。
「教えていただき、ありがとうございます。助かります」
神官は首を横に振った。
「礼は要りません。……ただ、街で血を流すのは最終手段にしてください」
俺は短く答えた。
「分かってる」
小部屋を出る。
教会の空気が戻り、ざわめきが戻る。
入口の旅装の男は、まだいる。
さっきより距離が近い。隠す気が薄い。
護衛が、俺にだけ聞こえる声で言った。
「どうする」
俺は答えた。
「……泳がせる。今日の夕方まで、尻尾の先を繋いでおく」
ヘルミーナ様が、横で静かに言った。
「では、次は外から金鈴亭を確認しましょう。近づきすぎず、癖だけ掴みます」
「分かりました」
俺たちは教会を出た。
街の光が、さっきより眩しい。
夕方までにやることが増えた。
やることが増えるほど、頭の中の夜が薄くなる。
それが少しだけ、救いだった。
アマテラス「くく……赤雨よ。尻尾が付いとるの。
あやつは獲物を追うつもりでおるが、立場は逆にもなり得る。追われておる時ほど、歩みを乱すでないぞ――乱れた足音は、喉元を晒す音じゃ」