教会を出ると、光が強かった。
石畳が乾いていて、足音がよく通る。人の声も増えている。祈りの声じゃない。商売の声だ。
俺は胸の奥に残っていた重さを、息と一緒に吐いた。
剣を抜かない戦いが始まる。そう思った瞬間に、背中が少しだけ固くなる。
視界の端。
さっきまで入口の近くにいた旅装の男が、外にも出てきた。距離は一定。目線が一定。
偶然じゃない。
護衛のひとりが、前を見たまま口を動かした。
「……付いている」
俺は頷くだけで返した。
振り向かない。見たと悟らせない。街ではそれが先だ。
ヘルミーナ様が、声を落として言う。
「今は、動かない方が良いでしょうか」
「はい。動けば、こちらの意図が漏れます」
返したのは護衛だ。
俺はまだ、この街の手順を知らない。頼るべきところは頼る。
ヘルミーナ様は小さく頷いた。
「分かりました。では、次の確認へ進みます。金鈴亭を外から見ます」
「分かった」
俺たちは歩き出した。
護衛は左右に散り、俺とヘルミーナ様を中心に“囲い”を作る。詰めない。離れない。
街の護衛は、森の護衛と違う。
通りを一つ、二つ。
人の流れを裂かない。裂けば目立つ。
護衛は俺たちの周りに“空間”を作るんじゃなく、流れの中に紛れ込ませる。肩が触れそうな距離で通り過ぎる人間を、手で押し返したりはしない。代わりに、半歩のずれで位置を変える。視線だけで先を読んで、危ない角度を潰す。
俺はその動きを見ながら、妙な感覚になった。
森では“脅威”がはっきりしていた。茂みの向こう。足音。鳴き声。
街では脅威が薄い。薄いくせに、どこにでも混じれる。
息を吐いて、視線を上げないまま背後の気配を拾う。
まだいる。旅装の男。距離が一定。歩幅が一定。
気づかれてもいい位置で、気づかれたくない顔をしている。
護衛のひとりが、前を見たまま口だけ動かした。
「こちらの動きを見せたいんだろう」
「誘ってる?」
俺が短く返すと、護衛は首を縦に一度だけ振った。
「誘うか、確かめたいか。どちらにせよ、焦らせたい」
焦らせたい。
分かりやすい。けど、そう言われた瞬間に背中の熱が引いた。
焦らなければ、相手の狙いは半分潰れる。
ヘルミーナ様が、声を落として言った。
「金鈴亭へ向かいます。位置は地図で掴んであります。外から見るだけにします」
「分かった」
俺は余計な言葉を足さない。
街では、言葉がそのまま相手の餌になる。
通りの匂いが変わる。
焼いた油の匂いが薄れ、乾いた木と、金具の匂いが混ざる。
店が密集して、看板が増える。視線も増える。
俺はなるべく視線を落とし、看板の端だけを拾った。
見上げる動きは目立つ。慣れてない旅人に見えると、余計に絡まれる。
角を曲がると、護衛が歩幅を少しだけ落とした。
俺とヘルミーナ様の速度を揃える。全員が同じ“速さ”で動く。
その揃った動きが、逆に目立ちそうになるのを、護衛は人波のタイミングでずらして消した。
街の護衛は、細かい。
細かいのに、見えない。
やがて、視界の先に小さな看板が見えた。
鈴の絵。金色の縁。
文字は控えめだが、妙に目に残る。
金鈴亭《きんれいてい》。
俺は足を止めない。
止めたら“見ている”と教えるだけだ。
入口の脇に、男が1人。
客に見えない立ち方。柱の影から、通りを眺めている。
視線は泳がない。泳がない目は、仕事の目だ。
窓はあるが、内側がよく見えない。
薄い布が垂れている。中を隠すためじゃない。中を見ようとする視線を躊躇させるための布だ。
俺は反射だけで、中の影を拾った。奥の扉の近くに1つ、カウンターの奥に1つ。
護衛が小声で言う。
「外に1。中に2。今の時間は薄い。夕方は増える」
ヘルミーナ様が頷いた。
「常駐ですか」
「常駐です。ここは、客より先に“見張り”がいる」
俺は喉の奥で息を鳴らして、飲み込んだ。
森の敵より、面倒だ。
背後の気配が近づく。
旅装の男が角を曲がった。俺たちを見て、看板を見て、視線を逸らす。
隠す気がない。見せている。
護衛が言った。
「見せることで、こちらが止まるかどうか試してる」
俺は短く返す。
「止まらない」
止まらない。
それだけで、相手の狙いは少し崩れる。
金鈴亭の前を、そのまま通り過ぎる。
俺は敢えて視線を落とし、石畳の模様だけを見るふりをした。
数歩離れたところで、ヘルミーナ様が小さく息を吐いた。
「確認できました。次は、備えです」
護衛が頷く。
「薬屋へ。買う」
俺はそこでようやく、腰の革袋の位置を思い出した。
昨日の前金。借りた金。だが、今は“命の金”だ。
薬屋は大通りの端にあった。
香草と油の匂いが濃い。乾いた葉と粉。瓶が並び、光を受けて鈍く光る。
店主が俺の装備を見て、次に護衛を見る。
怖がるより先に、値段を計る目になった。
「回復かい。赤か、青か」
護衛が短く言う。
「レッド。ミドルを2本。ロウを3本。ブルーはロウを2本」
店主は棚から瓶を取り出した。
濃い赤、薄い赤。青が2本。
瓶の形が違う。ロウは細く、ミドルは太い。割れにくいように厚い。
「銀貨(小)で13枚だ」
俺は革袋を握り直してから、口を開いた。
「分かった」
革袋の口紐を解き、銀貨(小)を数えて机に置く。
小さい銀貨が並ぶ音が、やけに大きく聞こえた。
金が減る音。
それだけで、この街で生きるって現実が、また一段近づく。
ヘルミーナ様は何も言わずに見ている。
止めない。代わりに、落ち着いた声でだけ言った。
「足りなくなりそうなら、言ってください。無理は不要です」
「……分かった」
「落とすなよ。……割れたら終わりだ」
俺は受け取って、すぐアイテムボックスを開いた。
手元に置けば目立つ。盗まれる。落とす。
しまうのが一番安全だ。
包みが消える。
店主の目が一瞬だけ大きくなる。
だが、すぐに何でもない顔に戻った。街の商売人は、驚きを長く見せない。
護衛が低く言う。
「……今のは」
護衛の声が、いつもより一段低い。
視線は俺じゃなく、さっき包みがあった位置を見ている。周りに聞かせないための確認だ。
「アイテムボックス、か」
俺は頷くだけで返した。
護衛の眉が僅かに動いた。
驚きはそれだけ。だが、動いた時点で十分だった。
「あまり人前では使うな」
「分かった」
アイテムボックスは、リゼイルファンタジアじゃ当たり前だった。
チュートリアルを終えた時点で、誰でも手に入る。荷を抱えずに済む、便利な機能。
――だから油断した。
この世界では、それを“当たり前”として見てくれる相手はいない。
今の一瞬で、俺の手札が1枚見えた。
見えた以上、噂になる。噂になれば、狙われる。
俺は息を吐いて、指先を握り込んだ。
次からは、隠す。必要な時だけ使う。
薬屋を出る。
尾行の男はまだいる。今度は少しだけ距離が近い。
わざとだ。こちらの反応を見ている。
ヘルミーナ様が、前を見たまま言った。
「付いてきている方は、金鈴亭の方でしょうか」
護衛が答える。
「濃い。だが、兄派閥の可能性も捨てない。……今は区別しない」
俺は短く言った。
「泳がせる」
護衛が頷く。
「同意だ。こちらも目を増やす」
護衛が露店の前で一瞬だけ歩幅を変え、路地口に立っていた男へ視線を送る。
同じ“仕事の目”が返ってきた。
言葉はない。合図だけ。
その男が人波に溶けて、尾行の後ろについた。
二重になった。
これで、夕方に繋げられる。
ヘルミーナ様が静かに言う。
「では、宿へ戻ります。夕刻に備えます」
「分かりました」
俺たちは人波に紛れたまま、来た道とは違う道を選んで歩き出した。
護衛が先頭を歩く。
道は狭い。露店は少ない。代わりに、洗濯物が干された裏路地が続く。
人の生活の匂いが濃い。石畳の間に落ちた水が、乾ききらずに残っている。
俺は背後の気配を拾う。
尾行の男は、まだ付いてくる。距離は少し遠い。こちらが道を変えた分、慎重になったのだろう。
その後ろに、さっきの“目”がいる。見えない位置で、見えている。
護衛のひとりが、視線を動かさずに言った。
「宿へ戻る前に、周囲を一度だけ回す。……尻尾の動きを確かめる」
護衛の声は小さい。
だが迷いがない。街の手順として言っている。
尻尾の動き。
宿の場所なんて、もう見当が付いているだろう。
確かめたいのは別だ。あいつが単独か、どこで合図を飛ばすか、どこで誰と繋がるか。
「分かった」
俺は短く返して、歩幅を変えないまま呼吸を整えた。
護衛は人波の濃い通りへ入った。
露店が並び、立ち止まる人間が多い。視線が散る。音が混ざる。
尾行が何かするなら、こういう場所だ。
角を一つ。
次に、もう一つ。
わざと同じような路地を選ぶ。
景色が似ると、尾行は焦る。焦ると、どこかが動く。
俺は視線を落とし、足元の石畳を眺めるふりをした。
反射と影で、後ろを拾う。
尾行の男はついてくる。距離は崩さない。
だが、角を曲がる度に一瞬だけ立ち止まる。
確認している。俺たちが本当に宿へ戻るのか、それとも撒きに入ったのか。
その“一瞬”が、癖だ。
護衛が露店の前で立ち止まった。
干し肉を手に取るふり。値段札を見ているふり。
その間に、視線だけで後ろを見る。
尾行の男は、少し手前で止まった。
同じく露店を見るふりをしている。だが、買わない手だ。
指先が、布の端を弄っている。
俺はその動きを見て、嫌な予感を覚えた。
合図だ。
護衛が、ほとんど口を動かさずに言う。
「……来るぞ」
何が、とは言わない。
けど、俺には分かった。これから“何か”が起きる。
次の角を曲がった瞬間。
向こうから、荷車が来た。
狭い路地にしては大きい。通りを塞ぐように、ゆっくり寄ってくる。
荷を積んだ男が2人。
目線が、こっちの護衛じゃなく、俺の腰――刀に一瞬だけ走った。
ただの荷運びじゃない。
“通せんぼ”だ。
護衛が俺たちを一歩下げ、荷車との距離を取った。
ぶつからない距離。逃げ道が残る距離。
荷車の男が、わざとらしく言った。
「悪いな。道を空けてくれ」
声は雑だ。けど、足は雑じゃない。
踏み込みやすい位置に立っている。
護衛が淡々と返す。
「狭い。先に通れ」
「いや、こっちが急いでる」
荷車が、さらに寄る。
後ろからも、人の気配が近づいた。
尾行の男だ。距離を詰めてきた。
挟む気だ。
ヘルミーナ様が、声を落として言った。
「……ここで揉めるのは得策ではありません」
「分かってる」
俺は短く返した。
剣を抜けば終わる。けど、終わらない。ここは街だ。
護衛が、ほんの少しだけ角度を変えた。
俺とヘルミーナ様の前に、体を入れる。
「通れと言っている」
荷車の男の目が細くなる。
「……怖い顔すんなよ。俺たちは運び屋だ」
運び屋。
その言葉が出た瞬間、俺の中で線が繋がった。
夕方の小広場。荷が動く。運び屋。
ここで俺たちの動きを止めて、夕方の準備を崩す。
そういう嫌がらせでもあるし、確認でもある。
護衛が、露店の影へ一瞬視線を送った。
さっき二重尾行にした“目”が、通りの向こうで動いた気配がする。
――見ている。
――記録している。
荷車の男が、わざと一歩前に出た。
「金持ちの連れならさ。通行料くらい――」
言い終わる前に、護衛が低く言った。
「黙れ」
声だけで、空気が止まる。
俺は呼吸を整えた。
剣を抜かない。
でも、抜ける位置にいる。
ヘルミーナ様が、静かに言う。
「私たちは急いでいます。道を空けてください」
ですますじゃない。命令でもない。
ただ、通ると告げる声。
荷車の男は笑った。
「へえ。通るってか」
笑いながら、荷車の陰からもう一人が出てきた。
薄い革鎧。短い棒。
武器だ。隠してない。
――戦闘になるか。
そう思った瞬間、護衛が一歩だけ前へ出た。
「ここで手を出すと、街が騒ぐ。お前らの得にはならない」
荷車の男の笑いが消える。
そして、尾行の男が背後で小さく舌打ちした。
俺はそれを聞き取って、確信した。
こいつらは“喧嘩”がしたいんじゃない。
俺たちの反応を見たいだけだ。
護衛が続ける。
「道を空けろ。今はそれで済ませる」
沈黙が一拍。
荷車の男が肩をすくめ、荷車をわずかに引いた。
通れる幅ができる。
だが、完全には空けない。いつでも詰められる位置だ。
「……通れよ」
俺はヘルミーナ様の横を一歩だけ前に出た。
目立つ役。ここはそれでいい。
刀には触れない。
視線だけで、荷車の男を刺す。
通り抜ける瞬間。
荷車の陰の男が、俺の腰を見た。
何を見たのかまでは分からない。だが、確認する目だった。
――見られてる。
通り抜けたあとも、俺は振り返らなかった。
振り返った瞬間に、“効いた”と教えるからだ。
護衛が短く言う。
「……今のは牽制だ」
「分かった」
ヘルミーナ様が静かに息を吐いた。
「夕刻までに、こちらの動きが読まれます。急ぎましょう」
俺たちは歩き出した。
宿へ向かう。
夕方へ向かう。
鈴の音は、まだ聞こえない。
だが、影は確実に濃くなっていた。
宿の裏手の通りに入ると、空気が少しだけ落ち着いた。
人の流れが細くなる。声も低くなる。
それでも視線は消えない。消えないから、逆に分かる。
尾行の男は、まだ付いてきている。
距離は遠い。近づけば、さっきみたいに“触れる”ことになるからだろう。
代わりに、通りの端で止まって、俺たちを見送る形に変わった。
護衛が小さく言う。
「……宿前で止まる。夜に動くか、夕方に合わせるか」
「夕方だろ」
俺が短く返すと、護衛は頷いた。
「その可能性が高い。……今の牽制は、こちらの動きを測るためだ」
宿の扉が見える。
俺は足を止めない。止めないまま、位置だけ確認する。
入口。階段。窓。裏口。
森と違って、出入口が多い。だから守る場所も増える。
中へ入る。
扉が閉まると、外の音が一段遠くなる。
護衛のひとりが先に上がり、俺たちを待った。
もうひとりは最後尾で、階段の下を一度だけ見る。
入ってくる気配がないのを確かめてから、上がる。
部屋に入る。鍵をかける。
この“鍵”があるだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
ヘルミーナ様が椅子に座り、落ち着いた声で言った。
「今の件で、相手は“触れる”気があると分かりました。ですが、まだ斬り合いにはしたくない。そういう動きでしたね」
「うん。反応を見てた」
俺はそう言って、壁にもたれた。
背中に硬い感触がある。硬いだけで、安心する。
護衛が続ける。
「尻尾は宿を見ている。こちらは二重尾行を維持する。夕方、小広場へ向かう前に合流の癖が出るはずだ」
ヘルミーナ様が頷く。
「侍女は、このまま宿に残します。危険が増えました。護衛の方、1名を付けてください」
「了解」
返事は護衛がした。
この人は“守る”を仕事として割り切っている。割り切れているから信用できる。
俺は聞いた。
「俺は?」
護衛が即答する。
「お前は小広場で“外”を見る。近づきすぎるな。目立つ装備は、遠目の抑えに向いてる」
「分かった」
ヘルミーナ様が俺を見る。
「撤退も選択肢です。危険になったら、躊躇なく引いてください。あなたが倒れたら、私は前に進めません」
言い方は丁寧だ。
でも内容は実務だ。
「分かった。守るのが先だ」
護衛が、小さく頷いた。
「合図を決める。言葉は使わない。咳払い1回で“動く”。2回で“引く”。目が合ったら頷くだけ」
俺は頷いた。
こういうのは分かる。戦闘の合図と同じだ。
ヘルミーナ様が静かに言う。
「時間はどのくらいありますか」
護衛が窓へ目をやった。
「あと1刻ほど。先に位置を取る」
1刻。
体感で言えば、短い。
でも街では、その短さが勝負を分ける。
俺は腰の刀を確かめた。
抜かない。
ただ、抜ける。
……ポーションも確認しておく。
革袋を開けて、減った硬貨の重さをもう一度確かめる。
次に、アイテムボックスを開く。
視界の端にだけ、整列した瓶の表示が出る。
レッド(ロウ)3本。
レッド(ミドル)2本。
ブルー(ロウ)2本。
そして、最後に。
ハイエリクサー、1。
神話級ダンジョン攻略時に残った最後の一本だ
使う場面は、来ない方がいい。
最後の保険だ。
俺は表示をすぐ閉じた。
見て落ち着くのはゲームの癖だ。だが、ここで長く見れば、頭がそっちに寄る。
「参りましょう。軽く食べてから、日が落ちる前に位置を取ります」
「分かった。……先に整えよう」
アマテラス「おぬし、背筋が硬いの。
夕方だの尻尾だの、真面目に考えすぎじゃ。
飯を食うのじゃ、宿で腹いっぱい食え。
温い飯をきちんと腹に入れてから、鈴だの尾だの考えい。空腹の判断は、刃より危ういぞ」