神殺しのデミゴット   作:ののじん

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第9話 灯りの下を抜けて

 宿へ戻る道は、さっきより短く感じた。

 実際に短いわけじゃない。頭が先へ行っているだけだ。

 

 箱を抱えた男は、護衛の間に挟まれて歩く。

 走らせない。押し倒さない。

 ただ、逃げ道だけを消す。

 

 男の呼吸は浅い。

 箱の紐を握る指が白い。

 守っているというより、手放せないように縋っている。

 

 俺は周囲を見た。

 右手は動かさない。代わりに、左手だけを柄に添える。抜くためじゃない。手を遊ばせないための癖だ。杖代わりみたいに、そこに置いておくと呼吸が落ち着く。

 

 追手が来るなら、背後。

 来ないなら、先回り。

 街は森と違って、道が多い。だから敵も多い。

 

 宿の看板が見えたところで、俺はようやく息を吐いた。

 街の灯りが増える時間帯。人は多い。耳も多い。

 その中で“無事に戻れた”だけで、ひとつ勝った気がした。

 

 箱を抱えた男は、護衛に挟まれて扉をくぐる。

 走らせない。押し倒さない。

 ただ、逃げ道だけを消す。

 

 店主がこちらを見て、一瞬だけ目を見開いた。

 すぐに表情を整える。商売人の顔だ。

 でも手元が忙しい。椅子を引く。客に目配せする。余計なことを聞かせないための動き。

 

 護衛が短く言った。

 

「部屋を1つ追加で借りる。鍵も」

 

「……あ、ああ。分かった」

 

 店主は素早く鍵を2つ、布で包んで差し出した。

 視線は箱へ行きそうになるのを、必死に押し戻している。

 見たくない。見たら巻き込まれる。そういう顔。

 

 ヘルミーナ様は声を落とした。

 

「侍女は?」

 

「上だ。別室で待機」

 

 護衛の返事は端的だ。

 それで十分だった。今は“混ぜない”のが正解だ。

 

 俺は箱を抱えた男を見た。

 顔色が悪い。息が浅い。

 逃げたいのに、逃げた先がないと分かっている目だ。

 

「……頼む。俺は、ただの運びだ。殺される」

 

 男が掠れ声で言った。

 

 護衛が答える前に、俺は左手を柄に添えた。

 抜くためじゃない。手を遊ばせない癖だ。

 杖代わりみたいに、そこに置いておくと呼吸が落ち着く。

 

「殺されない場所にいる間に、吐け」

 

 言葉は冷たく聞こえる。

 でも、今のこいつにはそれくらいでちょうどいい。

 

 護衛が男を促す。

 

「上だ」

 

 階段を上がる。

 木の軋む音が、やけに大きい。

 宿の廊下は狭い。狭いから、守りやすい。逃げにくい。

 

 追加で借りた部屋に男を入れる。

 護衛のひとりが中へ入り、もうひとりが外に立つ。

 扉が閉まる。鍵が回る。

 

 隔離。

 これでまず“線”は切れない。

 

 ヘルミーナ様が、静かに言った。

 

「ここから先は、急ぎません。急げば崩れます」

「分かった」

 

 俺は短く返し、廊下の端へ視線を流した。

 気配は、ない。

 けど、ないから安心はできない。街の敵は、見えない時ほど近い。

 

 護衛が言う。

 

「聞き取りは俺がやる。お前は――外だ。廊下と階段。誰も近づけるな」

「了解」

 

 俺は頷いて、壁際に立った。

 背中に木の冷たさ。

 左手は柄に添えたまま。

 

 抜かない。

 でも、抜ける。

 

 扉の向こうから、男の荒い呼吸が聞こえた。

 次に、護衛の低い声。質問が始まる。

 

 夜が近い。

 灯りの色が、窓の外で濃くなっていく。

 

 この宿で、今夜は眠れないかもしれない。

 そう思っても、俺は目を逸らさなかった。

 

 扉の向こうから、男の荒い呼吸が聞こえた。

 次に、護衛の低い声。質問が始まる。

 

 俺は廊下に立ったまま、音を拾いすぎないようにした。

 聞けば頭が動く。動けば視線が遅れる。

 今の俺の役は、耳じゃない。目だ。

 

 階段の下から、食堂の笑い声が上がってくる。

 それが余計に現実だった。

 こっちは箱ひとつで命のやり取りをしているのに、下では酒が回り、皿が空になる。

 

 不意に、扉の向こうで椅子が軋んだ。

 男が身じろぎした音。

 続いて、護衛の声が少しだけ鋭くなる。

 

「誰に渡す予定だった」

 

 返事がない。

 沈黙。息だけが荒い。

 

 護衛が続ける。

 

「“知らない”は通らん。お前は箱を受け取った。持って運んだ。……受け取り場所と渡し場所は言える」

 

 男の声が、やっと漏れた。

 

「……言ったら、俺は……」

「言わなくても、殺されると言ったな」

 

 護衛の言葉は短い。

 慰めじゃない。現実の整理だ。

 

 男が、喉を鳴らした。

 

「……北の小広場から、路地を3つ。裏手の倉庫だ。番号は……壁に白い線がある。二本。そこだ」

 

 倉庫。

 目に見える目印。

 こういうのは現場の連中の符丁だ。読み書きより早い。

 

 護衛が、すぐ次を重ねた。

 

「倉庫の中は」

「俺は入らない。外で渡すだけだ。……中のやつは、顔を見せない」

「誰の手だ」

「……金鈴亭の、使いだって言われた。俺は、そう聞いただけだ」

 

 “金鈴亭”。

 やっぱりそこに繋がる。

 

 廊下の空気が、少しだけ冷える。

 この街で名前が出た時点で、相手も同じだけ動く可能性がある。

 

 護衛が一拍置いて、言った。

 

「箱の中身は知っているか」

 

 男が、息を詰めた。

 

「……知らない。知らないって。開けたら殺すって言われた。俺は、持てって――」

 

 言葉が崩れる。

 震えが、伝染するみたいに床へ落ちる。

 

 護衛が落ち着いた声に戻した。

 

「いい。なら今ここで確認する」

 

 鍵の音。

 護衛が扉を開ける気配がした。

 

 次の瞬間、扉が僅かに開き、護衛が顔だけを出した。

 

「セキサメ。中へ」

 

 俺は一歩で入った。

 部屋は狭い。椅子が1つ。小さな机。灯りの皿。

 そして中央に、箱を抱えた男。

 

 男の目が、俺の腰の刀へ行って、すぐ逸れる。

 怖いのは当然だ。俺だって、自分が怖い時がある。

 

 護衛が机の上へ箱を置かせた。

 男の手が離れた瞬間、肩が落ちる。

 重さだけじゃない。責任が抜けた顔だ。

 

 護衛が紐に手をかけ、ヘルミーナ様を見た。

 

「確認します」

 

 ヘルミーナ様は頷く。

 

「お願いします。手早く」

 

 護衛が紐を解く。

 ほどく指先に迷いがない。

 結び目は固い。だが固いからこそ、開けた痕跡も残る。

 

 布が外れる。

 木箱の蓋に、封蝋が押されていた。

 

 俺には紋は分からない。

 でも、ヘルミーナ様の目が一瞬だけ止まった。

 止まって、息がわずかに浅くなる。

 表情は変えない。変えないまま、指先だけが硬くなる。

 

 ――本物だ。

 

 そう言い切る言葉は、まだない。

 でも、あの反応が答えだった。

 

 護衛が封蝋を割る。

 割る音は小さい。

 それでも俺の中では、やけに大きい。

 

 蓋が開く。

 

 中にあったのは、布に包まれた小さなもの。

 護衛が布を解き、掌に乗せる。

 

 印。

 紋が刻まれた、重い塊。

 

 ヘルミーナ様はそれを見て、ほんの少しだけ目を伏せた。

 勝った顔じゃない。安心した顔でもない。

 ただ、ようやく“戻った”という沈んだ静けさ。

 

「……間違いありません」

 

 声は落ち着いている。ですますの丁寧さも崩れない。

 けれど、言葉の重さが違った。

 

 男が震える声で叫ぶ。

 

「……だから、俺は関係ないって言ってる! 俺は知らなかった! 知らなかったんだ!」

 

 護衛が淡々と言った。

 

「知らないなら、生きる方へ動け。今からでも遅くない」

 

 男は泣きそうな顔で、首を振った。

 

「遅い……。見られた。俺はもう……」

 

 ヘルミーナ様が男を見る。

 

「あなたの罪は、ここで決めません。ですが、あなたが助かりたいなら、助かる手段を提示してください」

 

 優しくはない。

 でも、切り捨てもない。

 逃げ道を“取引”として置く声だ。

 

 男の唇が震える。

 

「……倉庫。あそこに渡せば終わりだった。けど、今夜……今夜、取りに来る。印が戻らないって分かったら、必ず」

 

 護衛の目が細くなる。

 

「今夜、誰が来る」

 

 男は、喉の奥で言葉を噛んでから吐いた。

 

「……兵みたいなやつらだ。腕に、同じ印をつけてた。俺みたいな運びじゃなくて、ちゃんとした……」

 

 “ちゃんとした”。

 つまり、暴力の質が違う。

 

 ヘルミーナ様が、印を包み直しながら言った。

 

「では、今夜は宿を変えます。ここには留まりません」

 

 護衛が即座に頷く。

 

「賛成だ。……印は隠す。運び役は連れていくか、置くか」

 

 視線がヘルミーナ様に集まる。

 決裁の時間。

 

 ヘルミーナ様は一拍だけ考え、静かに言った。

 

「連れていきます。置けば口封じされます。こちらに置いても危険は増えますが……増えるなら、こちらで管理します」

 

 護衛が短く返す。

 

「了解」

 

 俺は左手を柄に添えたまま、扉の外へ視線を投げた。

 宿の廊下は静かだ。

 静かすぎる。

 

 夜は、もう始まっている。

 

 ヘルミーナ様が言う。

 

「セキサメさん。印は取り戻しました。ですが、ここからが本番です。……守れますか」

 

 俺は頷いた。

 

「守る」

 

 言葉は短い。

 でも、今はそれでいい。

 

 印は戻った。

 だから相手は、次に“取りに来る”。

 

 この街の夜は、森の夜よりずっと騒がしい。

 なのに、刃の気配だけは静かに近づいてくる。

 

 護衛が素早く段取りを組んだ。

 宿を変える――それは“逃げる”じゃない。位置をずらす。相手の手順を崩す。

 

「店主には金を払う。口止めはしない。……余計な誓約は逆に目立つ」

 

 護衛の判断は淡々としている。

 俺は頷いた。余計な言葉を重ねない。

 

 ヘルミーナ様は印を布で包み直し、さらに小さな革袋へ入れた。

 そして、それを自分の胸元ではなく、護衛へ渡した。

 

「私が持てば狙われます。持つなら、守れる人が持ってください」

 

 護衛が受け取り、衣服の内側へ収める。

 

「了解」

 

 箱を抱えていた男――運び役は、椅子の上で縮こまっていた。

 目線は床。肩が小刻みに震えている。

 

 ヘルミーナ様が静かに言う。

 

「あなたも来ます。歩けますか」

「……歩ける。歩けるけど……」

 

 男は顔を上げた。涙が滲んでいる。

 助かりたいのに、助かり方が分からない顔だ。

 

 護衛が短く言った。

 

「喋れ。倉庫の場所。見張り。合図。知ってるだけ吐け」

 

 男は必死に言葉を繋げた。

 

「白い線が二本の壁だ。裏に小さい戸がある。……中に入ったことはない。けど、夜になると灯りが一つだけ点く。消えるまで誰も近づかない」

「見張りは」

「……路地の端に、いつも座ってる。物乞いみたいな格好。けど、目が違う」

 

 護衛が頷いた。

 十分だ。これで“夜に起きること”が形になる。

 

 俺は扉の外へ出た。

 廊下の空気が冷たい。

 左手を柄に添えたまま、足音を拾う。

 

 下の階はまだ賑やかだ。

 笑い声と皿の音。

 それが普通に続いているのが、逆に怖い。

 

 階段の踊り場で、俺は一度だけ止まった。

 宿の入口が見える位置。

 扉の隙間から、外の灯りが差している。

 

 人影が一つ、通りを横切った。

 ただの客かもしれない。

 でも歩き方が違う。寄り道をしない。迷いがない。

 

 俺は目を細めた。

 

 もう一つ影。

 今度は立ち止まり、宿を見上げる。

 見上げて、すぐ去る。

 

 ――確認。

 ただの確認で終わってほしいが、確認で終わらないのがこの手の連中だ。

 

 背後から、護衛の足音が近づいた。

 

「外に目がいるか」

「いる。数はまだ分からない」

「今は見せるな。……動くのはこっちだ」

 

 護衛の声は低い。

 今夜の勝ち筋は、刃じゃない。先に動くことだ。

 

 俺は頷いた。

 

「どこへ移す」

 

「この宿のままじゃない。……表通りへ出て、一度人に混ぜる。宿を変えるのはその後だ」

 

 ヘルミーナ様が廊下へ出てきた。

 侍女も一緒だ。顔色は悪いままだが、足は動いている。

 

「準備はできました」

 

 言葉は静か。

 でも視線は鋭い。

 印が戻ったからこそ、次の危険を正しく見ている。

 

 護衛が頷く。

 

「では出る。順番を決める。……お嬢様は真ん中。侍女も真ん中。セキサメは前。俺が後ろ」

 

 俺は左手を柄から離さず、前へ出た。

 

「分かった」

 

 扉の前。

 鍵を外す音が、やけに大きい。

 

 開ける。

 

 夜の匂いが流れ込んだ。

 昼より冷たい。

 でも、どこか甘い。酒の匂いと、灯りの油の匂い。

 

 通りは賑やかだ。

 だからこそ、紛れられる。

 そしてだからこそ、紛れ込まれる。

 

 俺たちは歩き出した。

 走らない。騒がない。

 普通の旅人の顔で、普通に見せる。

 

 だが、俺の背中は知っている。

 視線が一つ、二つ、三つ。

 遠いまま、同じ速度で付いてくる。

 

 護衛が、ほとんど口を動かさずに言った。

 

「……来るぞ。今夜、どこかで仕掛けてくる」

 

 ヘルミーナ様が小さく頷く。

 

「ええ。こちらも、仕掛けます」

 

 その一言が、冷たく強かった。

 逃げるためじゃない。取り返したものを守るために、夜に入る。

 

 通りの向こうで、鈴の音が鳴った。

 今度は気のせいじゃない。

 合図だ。

 

 俺は息を整えた。

 

 夜の戦いが、始まる。

 

 通りの向こうで、鈴の音がもう一度鳴った。

 音は小さい。けど、人のざわめきの上に乗る鳴り方だった。

 わざとだ。耳に残すための鳴らし方。

 

 護衛が歩幅を変えないまま言う。

 

「……合図が早い。今夜はもう動いてる」

「分かった」

 

 俺は返して、視線を落とした。

 石畳の反射。ガラス窓の映り込み。

 正面を見てるふりをして、後ろを拾う。

 

 影が3つ。

 距離は一定。

 一定だからこそ、役割が決まっている。

 

 前に出るやつ。

 横から塞ぐやつ。

 後ろで追い立てるやつ。

 

 街の喧嘩の形じゃない。

 狩りの形だ。

 

 護衛が言った。

 

「曲がるぞ」

 

 次の角で、俺たちは露店の列へ滑り込んだ。

 果物。布。香草。串焼き。

 匂いが強くなる場所は、視線も散る。

 

 そこで、護衛がほんの少しだけ速度を落とした。

 落とすことで、後ろの影の動きが見える。

 

 影が――止まらない。

 同じだけ速度を落とす。

 距離を保ったまま、離れない。

 

 護衛が小さく舌打ちした。

 

「……徹底してる」

 

 ヘルミーナ様の声が低い。

 

「こちらの宿替えを読んでいます」

「読んでるというより、監視の数が多い」

 

 護衛が返した。

 耳の多さじゃない。足の多さだ。

 

 俺は左手を柄に添えたまま、前へ出た。

 抜かない。

 でも“邪魔”にはなる。

 

 護衛が次の指示を飛ばす。

 

「このまま表通りを抜ける。人の多い広場を一度通る。……そこで振り分ける」

「振り分ける?」

 

 侍女が小さく声を漏らした。

 ヘルミーナ様がすぐに答える。

 

「私たちは分かれません。ですが、見せ方を変えます。追う側に“迷い”を作る」

 

 護衛が頷く。

 

「そうだ。……同じ道を歩かせない」

 

 角を曲がった先、灯りが増えた。

 小さな広場。屋台が並び、酔った笑い声が混じる。

 ここは人が多い。多いから、見失う。

 でも多いから、衝突も起きる。

 

 広場へ入った瞬間、空気が一段だけ硬くなった。

 

 視線が来る。

 さっきまで遠かった影の一つが、僅かに距離を詰めた。

 人混みに紛れて“触れる”距離へ。

 

 護衛が咳を1回。

 合図。

 

 俺は歩幅を変えず、屋台の列へ寄った。

 人を避けるふりをして、進路の角度だけ変える。

 ヘルミーナ様と侍女はその内側。

 護衛が後ろを締める。

 

 影が詰めてくる。

 詰めて、横へ回ろうとする。

 囲む気だ。

 

 ここで走れば負ける。

 叫べば負ける。

 相手が欲しいのは“騒ぎ”だ。騒ぎが起きれば、力が出せる。

 

 俺は足の位置を少しだけ変え、影の進路を潰した。

 ぶつからない距離。

 でも通れない距離。

 

 影の男が、俺の横を抜けようとして肩を入れてくる。

 酔客のふり。

 乱暴な客のふり。

 そのふりが下手だ。重心が違う。

 

 俺は鞘を軽く押し当てた。

 押すんじゃない。置く。

 置くだけで、相手の肩が止まる。

 

 男が低く言った。

 

「……邪魔だ」

「通り道だ」

 

 俺はそれだけ返した。

 

 その瞬間、別の方向で声が上がった。

 

「おい、何だよ!」

 

 酒場の客同士の喧嘩。

 ……違う。

 喧嘩に“見せた”音だ。

 

 視線がそっちへ寄る。

 寄った瞬間、俺たちの後ろの影が二つ、動いた。

 

 護衛が低く言う。

 

「来る。押し込むぞ」

 

 押し込む。

 広場の端、路地へ。人の少ない方へ。

 人の少ない方へ行けば、相手は刃を出しやすくなる。

 

 ヘルミーナ様が、息を吐いた。

 

「……誘われています」

「誘われてる。だから、誘われない」

 

 護衛の声が短く切れた。

 

「逆へ」

 

 俺は即座に足を切り替えた。

 屋台の灯りが強い方へ。人が密な方へ。

 相手が嫌がる方へ進む。

 

 影の男が舌打ちする。

 その舌打ちが、答えだ。

 

 だが、次の瞬間。

 

 屋台の灯りの向こうで、別の影が立ち上がった。

 前にいた。

 こちらの進路を読んで、先回りしていた。

 

 男は布の下から、短い刃を覗かせた。

 覗かせただけ。まだ出してない。

 出したら騒ぎになる。だから、“出せる”と見せる。

 

 俺の呼吸が一段だけ冷える。

 抜かないと決めていた。

 けど、出されたら――。

 

 護衛が低く言った。

 

「……セキサメ。止めろ。抜くな」

 

 止めろ。抜くな。

 矛盾じゃない。

 俺の役は“刃”じゃなく“壁”だ。

 

 俺は左手を柄から離し、鞘を前へ出した。

 刃じゃない。鞘だ。

 ぶつけるんじゃない。置く。

 

 前に立ち上がった男の足が止まる。

 止まった瞬間、周囲の客が「何だ」と顔を上げる。

 

 見られた。

 相手は動けない。

 

 俺は低く言った。

 

「やめとけ。ここは明るい」

 

 男の目が細くなる。

 

「……旅人が偉そうに」

「目立つのが嫌なだけだ」

 

 男の視線が一瞬だけ横へ流れた。

 合図を待っている。

 だが合図が出ない。出せない。見られてるから。

 

 護衛が、後ろで一拍だけ咳をした。

 2回。

 “引く”。

 

 俺は鞘を引き、半歩下がった。

 下がることで、道を空ける。

 男が踏み込むか、引くか。

 

 男は踏み込まない。

 踏み込めない。

 ここで踏み込めば、喧嘩じゃ済まないからだ。

 

 俺たちはそのまま、屋台の灯りの中を抜けた。

 抜けながら、護衛が低く言う。

 

「……宿替えは無理だ。このままだと、どこへ行っても追われる」

 

 ヘルミーナ様が頷く。

 

「では、こちらから終わらせます。倉庫へ向かいましょう」

 

 倉庫。白い線が二本。

 運び役の男が言った場所。

 

 攻めに転じる。

 逃げる夜じゃない。

 

 俺は息を整えた。

 抜かない。

 でも、抜ける。

 

 次に抜くのは――

 暗い場所だ。人の目が届かない場所だ。

 

 だから、そこへ行く。




アマテラス「くく……赤雨よ。灯りの下で抜かずに通した、見事じゃ。
じゃがここから先は闇よ。鞘で誤魔化せる相手ではない。
抜くなら迷うでない――妾を呼べ。
刃を見せるのは、相手が“見せていい場所”に入った時だけじゃ」
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