ぜひ温かい目で見守ってください!
序章1話 読めない違和感、託された選択
博麗の巫女が宮出口瑞霊を管理し始めてから数日、幻想郷は日常を取り戻していた。
勿論、それはこの地霊殿も例外じゃない。
私の館も、ようやく“いつも通り”の温度に戻ってきた。炉の熱は安定し、廊下には生活の音が戻る。遠くから聞こえる足音の癖だけで、誰がどんな気分で歩いているのか――それくらいは分かるほどに。
机に頬杖をついていると、扉の向こうから弾むような声がした。
「さとり様ー! お茶、飲む?」
あの能天気さは、お空だろう。力は大きいのに気持ちは単純で、嬉しいときほど声が大きくなる。炉心のような子。こちらが案じても、本人は案じられていることに気づかないことが多い。
それに対して、廊下を軽く走る足音が追いかけてくる。
「お空、元気なのはいい事だけど、運ぶときはこぼさないようにね。床がべたべたになってしまうから。」
「はーい!」
遠くから明るい声が聞こえる。
声の主はお燐。口は軽いし冗談も多い。でも仕事となると段取りが早い。回収も運搬も、面倒ごとの芽を見つけるのも、地底では彼女が一番手堅い。
……この二人のやり取りを聞いていると、地霊殿は確かに日常へ戻ったのだと実感する。
だからこそ、ふと気づいてしまった。
……まだ
またどこかに遊びに行っているのだろうか……?
嫌な予感というよりも、慣れの中に沈んでいた不安が、遅れて浮かび上がってくる感覚。私は頬杖を解いて立ち上がり、扉を少し開けた。
ちょうど廊下の角から、お燐がこちらを見ていた。猫の目は隠し事に向かない。
「お燐」
「なぁに、さとり様?」
私はなるべく平静に尋ねる。
「こいしを見なかった?」
お燐の耳がぴくりと動く。視線が一瞬だけ逸れて、戻る。――答えは、もう出ている。
「……見たよ。さっきまで…」
「どこに?」
「間欠泉の方。」
お燐は言いにくそうに、でもはっきりと言った。
「旧地獄の見回りの帰りにね。あの子、湯気を眺めてた。……で、次に目を離したら、地上の方へ行っちゃった…」
「……地上に?」
「うん。ひゅーって。気づいたら、もう湯気の向こう側。」
またかぁ…
地底の異変の後、こいしは何も言わず地上へ行くことが増えた。せめてどこに行くかは言ってほしい…*1
お燐は肩をすくめた。軽口の形をしているけれど、視線は笑っていない。
「止めようとはしたよ。でも、こいし様って“止められてる”って気づかないで進むでしょ…?」
私は目を閉じた。焦りは役に立たない。けれど、放っておけばもっと役に立たない。
「いつ行ったの?」
「たぶん、ほんの数分前。」
それならまだ近い。地上の風に紛れる前に追いつける。
私は目を開け、お燐を見る。
「少し心配だから様子を見に行ってくるわ。」
「さとり様が?」
「ええ。今は異変後の少し不安定な時期、博麗の巫女が色々見張っているのでしょう。妹がそこで余計な騒ぎを起こす前に――」
言いかけて、私は言葉を切った。騒ぎよりも、ずっと単純な理由が胸の奥にある。
迎えに行かなければ。
私の“読めない”妹を、私が放置していいはずがない。
「お空には、私が少し留守にするって伝えて。あの子、不安になると炉が荒れるから。」
「了解…。」
お燐は短く頷き、それから少しだけ声を落とした。
「……気をつけてね、さとり様。地上は、地底みたいに“慣れ”で済まないことがある。」
「分かっているわ。」
私は歩き出す。廊下の熱、炉の匂い、石の冷たさ――それらが背中に残っていく。
間欠泉へ続く道の先で、湯気の向こうに外の光が滲んでいた。
妹はその光の中へ行った。
「……こいし」
声にしても届かない。けれど、行かない理由にはならない。
私は熱の流れに身を預けるようにして、地上への道を選んだ。
初めは飛んで行こうとしたものの、体力温存のため歩くことにしたのだが…どれぐらい歩いただろうか…?
地上に出た私はとりあえず、博麗神社に向かうことにしたのだが…元々の体の弱さと、運動不足が祟って既に限界に近い…
それに何より…
「暑い…いくら地上の夏でも、ここまで暑くなかったような…」
最近地上の気温が暑くなっているというのはブン屋から聞いていたが…ここまでとは…
「よくこいしはこの暑さでへばらないわね…」
さすがに少しはこいしを見習うべきか…せめて運動不足は改善していかないと駄目そうだ…
そんなことを考えながら歩き続け、ようやく博麗神社近くの森に入る。
木々が陽光を遮り、風が吹いている。
涼しい…少なくとも先程よりは幾分かマシだ。
木陰に座り少し休息をとる…遠くからは妖精らしき声が聞こえてくる。
思ったより心地がいい、たまには地上に出るのも悪くないかもしれない。
…疲れのせいか眠気が襲ってくる。
その瞬間、風が一度だけ“逆”に吹いた。
木の葉がざわりと鳴り、森の匂いがすっと薄れる。
……まるで、空気だけが入れ替わったみたいに。
耳の奥で、きぃん…と細い音がした。熱でも疲れでもない…もっと別の……嫌な予感に近い感覚。
私は思わず周囲を見回す。
けれど、そこにいるはずの気配がひとつも掴めない。妖精の声さえ、遠のいたように感じた。
……読めない、心がない…。
誰かの心…というより、“境界”そのものが近い。そんな感触…
…それでも眠気が収まることはなく、むしろ強まってくる…
何か嫌な予感が残ったまま、抗うことのできない眠気に身を任せ……私は意識を手放した。
小刻みな振動と、文字通りの“ガタンゴトン”という音で目が覚める。
確か…木陰で休んでいて…その間に寝てしまったのか…
では、これは夢…?にしては意識がはっきりしている…それにここは…?
立ち上がり、辺りを見渡す…見たことのない景色…
「……こいし」
反射で名前を呼んだ。けれど返事はなく、私の声だけが車内に吸い込まれて消えた。
窓の外の景色を見てみる。
「綺麗…」
気づけばそう呟いていた。幻想郷にも、ここまでの絶景はそう多くないのではないだろうか。
水平線が朝焼けの空を鏡面のように反射している。
奥には高い建物…?だろうか。それらが密集し、城のようになっているのが見える。
ガタンッ!
「おっと!」
電車が揺れる。なんとなく感じていたがかなり速度が速い。博麗の巫女の飛行速度と同等なのでは…外の技術は恐ろしく発展しているみたいね…
「…お座りください、先生。」
突如、背後から声が聞こえ、振り向く。
そこには先程までいなかった長髪で青髪の女性が座っていた。
「誰…?それに…先生?私の事…?……いいえ、それは後。」
「まず、貴方…その出血は致命的よ。動かないで。
どこから来たの? ここはどこ? そして……誰にやられたの?」
あまりに怪我が酷い。
口元から落ちた赤が、床で小さく跳ねた。
左肩の布は黒く濡れ、足元には血が途切れずに広がっている。
「私の事はお気になさらず。それに申し訳ありませんが、今はその質問に答えることはできません。とりあえず先生、話をしませんか?」
「気にするな…?……随分と勝手ね。」
「あなたが答えられない事情があるのは分かったわ。――でも、そのまま喋れば本当に死ぬわよ。」
「それでも…きっとこの話は“今後の先生”にとって重要なものになりますから」
「……“今後の私”にとって重要…」
一度だけ目を伏せ、床に落ちる血を見る。明らかに広がり続けている。
「分かったわ、聞く。だけど一つだけ約束して」
「死なないで。貴方が話す話がこれからの私に重要なら、話し手がいなくなっては困るもの。」
「分かりました。ありがとうございます、先生…」
「……私のミスでした。」
「え?」
ミス…?彼女のこの容体のこと…?それとも……
「私の選択、そしてそれによって招かれたこの全ての状況…」
一体彼女に何が…?
…ここに来てからの違和感…いつもあるものが感じられない…
「…この結果にたどり着いて初めて、貴方が正しかったことを悟ることになったのですから……。」
「私の方が正しい…?一体何のこと?」
「……自分勝手ではありますが、お願いします。」
答えてくれる気は、もうなさそうね。しょうがない、少し探ってみるか…
「さとり先生。」
名前を、呼ばれた…?私が名前を教えた記憶はない。
それに…読めない。彼女の深層心理どころか表層心理すら読めない。違和感の正体はこれか…
その後も彼女は話を続ける。
「大事なのは経験ではなく、“選択”。」
選択…?一体何の…?
「先生にしかできない無数の選択。」
「貴方は、私に何を託そうとしているの…?」
相変わらず、返答はない…
「責任を負うものについて、話したことがありましたね。」
そんな記憶…私にはないはずだ…
…理解が追いつかなくなってくる…
「あの時の私には分かりませんでした……。」
「大人としての、責任と義務。そして、その延長線上にあった、先生の選択…」
「この結末を迎えて、始めて理解できました。」
大人としての責任と義務…地底を管理している身からすれば共感する事は多々ある。
もっとも、こんな状況じゃなければだけど。
こうして話している間にも、彼女の容体は悪くなっているように見える。
「……。」
会話が止まった…
…理解できない状況を理解しようと思考を巡らす。
「ですから、先生。」
「私が信じられる…先生なら。」
「この歪んで修復ができなくなってしまった終着点とは、また別の結果を……。」
彼女の言葉だけでも悲惨な結果になったのは容易に想像つく。
だけど、何故それを私に託す…?
「まだ理解はできていないかもしれません。」
「ですが、先生ならこの複雑になってしまった難題の答えを…」
「この答えに繋がる選択肢を……きっと見つけられるはずです。」
「だから先生……どうか。」
突如意識が離れていく感覚。
目の前が真っ暗になっていく。
「貴方は…一体…何を…?」
そこで再び私の意識は途切れた……。