決戦まで残り十日。夜の校庭で、五条悟と吉田さりは二人きりで語り合っていた。
「……さり。君は、僕が負けると思ってる?」
五条が不敵に笑いながら、六眼の奥でさりを見つめる。
「あんたが勝つか負けるかなんて興味ないわ。ただ、あんたが『最強』として一人で抱え込みすぎたツケが、今度の試合で出るんじゃないかって心配してるだけよ」
吉田さりは、使い古されたホイッスルを指先で弄んだ。
「あんたは術式の極致。でも私は肉体の極致。あんたの戦いは、どこまで行っても個の戦いよ。でも私は、この一ヶ月であの子たちに私の重みを分け与えてきた」
「……厳しいね。でも、確かに。君の言う通りかもしれない」
五条は空を見上げ、独り言のように呟いた。
「もし僕が『最強』の役割から降りることになったら……その後のレフェリーは任せたよ、さり」
「言われるまでもないわよ。あんたの負け分くらい、私が筋肉で回収してあげるわ」
決戦三日前。
吉田は一人、かつて伏黒恵が特訓していた道場にいた。 そこへ、虎杖悠仁がやってくる。
「さりさん。……伏黒、戻ってこれますかね」
吉田は、伏黒が愛用していた木刀を手に取った。
「恵は、自分の人生を誰かのために投げ出す癖がある。あいつの魂は、今も宿儺の底で自分を罰し続けているはずよ。……だから、物理的に引っ張り出すしかないの」
吉田は虎杖の胸を指差した。
「悠仁。あんたの黒閃は、魂を打つ。でも、逃げ回る魂を打つのは至難の業よ。……だから、私が宿儺を『固定』する。一分子の隙間もなく、魂ごとクラッチして、あんたに最高の的を提供してあげるわ」
「……はい。絶対に、外しません」
吉田は虎杖に、自身の「内燃」の極意を最後に伝えた。
「呪力は感情じゃない。肉体の律動よ。あんたの心臓の鼓動と、呪力の流れを完璧に同期させなさい。そうすれば、あんたの拳は『概念』すらも粉砕できる」
2018年12月24日、新宿。
五条悟が「世界を断つ解」によって分断された、その瞬間。 モニター室には、吐き気を催すほどの絶望が充満していた。
静寂。 モニター越しに見守っていた高専の面々
乙骨、真希、日下部たちは、あまりの絶望に声すら失い、その場に凍りついていた。
「……五条、さんが……負けた……?」 猪野が震える声で呟く。
「……いや、まだだ。レフェリーが、まだ笛を吹いてない」
日下部が、モニターを凝視しながら拳を握りしめた。
その絶望の荒野に、一歩、また一歩と、使い古されたジャージを脱ぎ捨てた一人の女性が歩み出る。 紺色のシングレットから剥き出しになった、彫刻のような筋肉。特級術師、吉田さり。
その背中には、一ヶ月の合宿で彼女が後輩たちに叩き込んできた、「肉体の絶対性」という名の希望が宿っていた。
「カカッ……。五条が消えて、真っ先に飛び出してきたのは貴様か。死に急ぐなと言ったはずだが」
宿儺は血に塗れた顔で、愉悦に瞳を細める。
「良いだろう。その肉体、世界ごと切り刻んでくれる」
宿儺が指を振るう。空間を断裂させる不可視の刃。回避不能、防御不能。 だが、吉田さりは逃げない。一歩も引かず、むしろ宿儺に向かって踏み込んだ。
「キィィィィィィィン!!!」
新宿の街に響いたのは、肉を断つ音ではない。超高密度の呪力を纏ったダイヤモンドが、次元の歪みに激突して弾け飛ぶような、耳を劈く硬質な反響。
「なっ……弾いた!? 日下部さん、今、さりさんの体が光ったように見えましたが!」
虎杖がモニターに身を乗り出す。
「光ったんじゃない、共振したんだ」
乙骨が、六眼を持たずとも感じ取れるほどの呪力密度に戦慄した。
「彼女は、斬撃が届くコンマ数秒の間に、全身の呪力内燃を極限まで加速させた。空間が断たれるよりも早く、細胞同士を呪力の芯で結合し、衝撃をそのまま外に跳ね返したんだ……。あれはもう、生物の強度じゃない」
宿儺の驚愕が、モニター越しにも伝わってくる。
「貴様……術式という理を、ただの質量で蹂躙するか……!」
「あんたの『世界』は、私を断ち切るには少し軽すぎるわね。……一ヶ月、あんたの魂を『固定』するためだけに、全細胞を内勁で練り直してきたのよ」
吉田の「内勁」を乗せた一歩が、新宿の地盤を物理的に陥没させた。
それは術師たちが信じてきた「呪術の理屈」が、一人の女性の「鍛錬の質量」によって完全に崩壊した瞬間だった。
吉田の神速のタックルが、宿儺の腹部を捉える。 「ぐ、は……っ!!」 呪いの王が、初めて「物理的な苦痛」に顔を歪める。
吉田はそのまま宿儺の四本の腕を、背後から完璧な「フルネルソン・ホールド」でロックした。
「悠仁!! 早く!! このクラッチで、宿儺の魂の波長を固定したわ!!」
彼女の筋肉から発せられる超高速の震動が、宿儺の神経系を直接麻痺させ、伏黒の肉体に無理やり癒着していた魂を、物理的に「浮かせて」いく。
「あのホールド、呪力だけじゃない。魂の形そのものを筋肉で『固定』してやがる……!!」
日下部の絶叫。
「さりさん……!! おおぉぉぉぉぉ!!」
駆け込んできた虎杖悠仁。吉田さりという「最強の盾」に完全に固定され、回避も術式発動も封じられた宿儺の胸元へ、魂を穿つ黒い火花――「黒閃」が炸裂した。
虎杖の拳が宿儺の魂を捉え、伏黒恵の深奥を打ち砕いた。 吉田の「固定」があるからこそ、虎杖の打撃は一切の逃げ場なく宿儺の深奥へと届いた。
「……あ、が……貴様ら……人間風情が……!!」
宿儺の魂は剥離され、千年の執念は塵へと還った。 吉田さりはゆっくりと腕を解き、気を失った伏黒を虎杖に預けると、ボロボロになったシングレットのまま、空に向けてホイッスルを長く吹き鳴らした。
ピーーーーーーーッ!!
それが、呪術の歴史における最悪の終焉を告げる、タイムアップの合図だった。
数ヶ月後。 復興の進む東京都立呪術高等専門学校。
「はい、腰が高い! 恵、自分の足で立ちなさい! 悠仁、タイヤ引き追加!」
ホイッスルを鳴らす吉田さりの横には、かつてないほど逞しくなった教え子たちの姿があった。
「……日下部先生、今日もさりさん飛ばしてますね」
乙骨が苦笑しながら尋ねると、日下部は静かに煙草を燻らした。
「いいんじゃねえか。あの人が笛を吹いてる間は、この国も安泰だ」
吉田は五条のサングラスが置かれたベンチを見やり、不敵に笑った。
彼女がこれまで参戦しなかったのは、日本という国そのものを守るため。
彼女が最強であるのは、術式に頼らず、自分という個体を極限まで研ぎ澄ませたから。
「さりさん、いつか俺たちも、その域に行けますか?」 虎杖が汗を拭いながら尋ねる。
「……さあね。でも、あんたたちの根性は、私の筋肉でも簡単にはへし折れそうにないわよ」
霊長類最強の盾は、これからも若者たちを守り、鍛え、新しい時代の幕開けを告げるホイッスルを鳴らし続ける。