IF もしも、最初からヒカルが囲碁を打っていたら。 作:天使乃あくび
ヒカルは、ランドセルが少し大きく感じる小学一年生の春を過ごしていた。
周囲の子供たちがゲーム機や公園での遊びに興じる中、ヒカルの心は常に盤上にある。幼い頃から祖父・平八の家にある囲碁盤に座り続けるのが習慣だった。彼にとって、黒と白が織りなす宇宙は、呼吸をするのと同じ、生きるための必須行動そのものだった。
ある土曜日の午後。ヒカルは祖父の家を訪れていた。
畳の部屋で、縁側から差し込む温かい陽光を浴びながら、二人は対局していた。盤面は中盤の入り口。平八はすでに額に汗を浮かべ、必死に思考を巡らせている。対するヒカルは、背筋をピンと伸ばし、全く動じることなく盤面を見つめている。
その瞳には、子供らしい純真さなどなく、ただただ盤面を分析する棋士の目があった。ヒカルの読みは、小学一年生という年齢からは想像もつかないほど深かった。
「……参った」
平八が絞り出すように呟き、碁石をケースに戻した。
「ありがとうございました」
ヒカルは小さく告げると、表情を崩すことなく、深く頭を下げると、ヒカルは用意されていたジュースを一口飲む。
「いや、ヒカル。お前さん、相変わらず強すぎる。本当に、小学一年生か?」
平八は町内会囲碁大会で優勝するほどの腕前だが、ヒカル相手にはまったく歯が立たない。
「小学生だよ。ランドセル、買ってくれたじゃん」
ヒカルは小さく笑った。ランドセルはまだ少し大きく、背負われているような格好になっていたが、その中には囲碁の対局集が詰め込まれていた。
「うーむ。やはり、子供の囲碁大会に出てみたらどうだ?」
平八は、ヒカルの才能を世に知らしめたいという欲求に駆られていた。これほどの才能を、たかが縁側の趣味にしておくのは、囲碁界にとって、いや、ヒカル自身にとっての損失だと感じる。
「大会には、出ないよ。あんまり興味ないし。こうやって、おじいちゃんと気楽に打ってる方が好きだもん」
ヒカルにとって囲碁は、勝敗を競うスポーツや、誰かに認められるためのツールではなかった。黒と白の石が織りなすパターン、その流れ、盤上に広がっていく一つの「宇宙」を鑑賞し、創造することそのものが楽しかったのだ。
「勿体ないの〜。ヒカルなら、プロにだってなれるかもしれんぞ」
平八は残念そうにため息をつく。ヒカルは平八の熱情を受け流し、片付けを始めた。
「今日は、もう帰るよ」
「おぉ、そうか。明日も来るのか?」
「多分」
ヒカルはランドセルを背負い直すと、祖父の家を後にした。夕暮れ時の街並みを歩きながら、ヒカルは頭の中で、先ほどの対局の終盤戦を再構成していた。あそこであのシマリをしておけば、もっと綺麗な形になったかもしれない。そんな思考の遊びが心地よい。
家に帰ると、ヒカルは真っ直ぐに自室へと向かった。ランドセルを投げ出し、机の引き出しから一冊の本を取り出す。表紙には『囲碁の歴史』と書かれている。彼は栞を挟んであったページを捲り、読み始めた。
今日、彼の目に留まったのは「本因坊秀策」の名前だった。江戸時代末期、囲碁界を席巻した伝説的な棋士。ヒカルは現代の流行りの定石も好きだが、昔の定石の独特な美しさや、棋譜から漂う当時の対局者の息遣いを感じるのが趣味の一つだった。
次の日の日曜日。
ヒカルは自室で、秀策の棋譜を眺めながら、自分ならどう打つかを検討していた。
「ヒカルーー! アカリちゃんが遊びに来たわよー!」
階下から母の明るい声が響き、ヒカルの思考の宇宙が遮断された。ヒカルは少し気だるげに階段を下りていくと、玄関には幼なじみのアカリが立っていた。彼女は黄色いワンピースを着て、少し緊張した面持ちでヒカルを見上げていた。
「ヒカル! 一緒に遊ぼう!」
アカリは元気いっぱいに言った。ヒカルは少し眉をひそめ、申し訳なさそうに頭を掻く。
「悪いけど、今からおじいちゃんの家に行って囲碁をするんだ」
「えっー! ヒカルは、昔から囲碁ばっかり!」
アカリは頬を膨らませ、ムスッとする。ヒカルと遊びたくて週末を楽しみにしていたのに、またもや囲碁に時間を奪われることに不満を隠せない。
「だって、好きだから」
ヒカルの純粋で嘘偽りのない言葉に、アカリはそれ以上、文句を言うことができなくなってしまう。ヒカルの頭はいつも囲碁のことでいっぱいで、そこに嘘や悪意が全くないことを、彼女は知っているからだ。
アカリは寂しそうに俯く。それを見たヒカルは、少しだけ胸が締め付けられるのを感じ、追加の提案をした。
「一緒に行く? つまらないかもしれないけど」
その言葉に、アカリの表情がぱっと明るくなる。
「うん!」
アカリは嬉しそうに頷き、ヒカルと共に祖父の家へと向かった。
ヒカルとアカリが平八の家に着くと、ちょうど平八が和服を着て出かけようとしているところだった。
「お、ヒカルか。……アカリちゃんも一緒か? デートなんて、最近の子供はマセとるなぁ」
平八が目を細めてからかう。
「デ、デートなんて、そんなこと……!」
アカリは一瞬で顔を真っ赤にし、恥ずかしそうに下を向く。密かにヒカルのことが好きなアカリにとって、その言葉はあまりに刺激的だった。
対するヒカルは、平八の言葉の意図を全く理解していないかのように、平然としていた。
「おじいちゃん、打とうよ」
「すまんが、今から町内会の集まりがあっての」
「……そうなんだ。なら、蔵の中、入ってもいい? 棋譜とか本とか見たいから」
「構わんが、蔵は暗いから気をつけろよ」
「うん」
平八はそれだけ言い残し、急ぎ足で去っていった。ヒカルはアカリを連れて、庭の奥にある古びた蔵へと向かった。
扉を開けると、カビ臭いような、古い紙の匂いが立ち込める。蔵の中は薄暗く、昼間でも外の明かりはほとんど届かない。
「暗くて、怖そうだよっ」
アカリはヒカルの背後に隠れるようにして、その服の裾を掴む。
「大丈夫だよ」
ヒカルは怖がるアカリを安心させるように、アカリの手をしっかりと握った。ヒカルの手は、子供らしい柔らかさの中にも、毎日碁石を触っているせいか、しっかりとした感触があった。
蔵の中には、古い家具や段ボールが積み上げられていた。その中で、ヒカルは何かを探すように視線を走らせる。
「ヒカル、何探してるの?」
「おじいちゃんが昔使ってた、変わった棋譜がないかと思って」
その時、ヒカルの視線が、部屋の隅にある布が掛けられた物体に留まった。勘が働いた。ヒカルがその布を引っ張ると、埃をかぶった古めかしい碁盤が姿を現した。
「碁盤だ!」
アカリが声を上げる。
「これって、囲碁をする時に使うやつだよね!」
「うん……でも、何か汚れてる」
碁盤の盤面、隅の方に、茶色いシミのような汚れがこびりついていた。それは単なる土汚れやカビのようには見えず、まるで長年放置された血の跡のように見えた。
「汚れてる? 見えないけど……」
アカリは不思議そうに顔を近づけるが、薄暗い中ではその汚れは認識しづらいようだった。
「え? そんなはずは……ここだよ」
ヒカルはそう言うと、アカリの手を離して、汚れの場所をポケットから出したハンカチで強く拭く。しかし、汚れは盤の木目に深く染み込んでいるようで、何度拭っても取れることはなかった。
その時だった。
『……見えるのですか?』
静寂な蔵の中に、突然、どこからともなく声が聞こえてきた。
「……!?」
ヒカルは驚いて動きを止める。辺りを見渡すが、蔵の中にはヒカルとアカリしかいない。扉は閉まっており、平八も出かけている。
「どうしたの? ヒカル?」
アカリは、何も聞こえなかったようで、不思議そうにヒカルの顔を覗き込む。
『聞こえているのですね』
またも、頭の中に直接響くようにして声が聞こえる。
(アカリには、聞こえてないみたいだ……。まさか、幽霊?)
ヒカルは現実主義者だった。幽霊の存在など信じていないし、怖いと思ったこともない。しかし、この頭の中で響く声の正体は、どうしても論理的に説明できなかった。疑念が恐怖に変わりかけたその時。
その声の主が、ヒカルの視界に現れた。
薄暗い蔵の空間が、歪む。そこからゆっくりと現れたのは、平安時代のような、高く盛った烏帽子に狩衣姿の、男の霊だった。ふわふわと浮遊している。その幽霊は、驚愕に目を見開くヒカルを凝視していた。
『あまねく神よ、感謝します。私は、一度現世に戻る』
幽霊がそう言って感動に咽び泣く中、ヒカルはあまりの現実離れした光景にキャパシティオーバーを起こした。冷たい汗が背中を伝う。
「ひ……」
口から声が出ない。ヒカルは、その場で糸が切れた人形のように、意識を失って倒れ込んだ。
「ヒカル!? どうしたの!?」
倒れたヒカルにアカリが慌てて駆け寄る。その悲鳴に近い声を聞きつけて、近所の人々や、ちょうど戻ってきた平八が蔵へと走り込んできた。
ヒカルは薄れゆく意識の中で、自分を見下ろす幽霊の、切なげな表情を見た気がした。