IF もしも、最初からヒカルが囲碁を打っていたら。   作:天使乃あくび

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第2話

意識の縁が、微睡みから急速に現実へと引き戻される。ヒカルはゆっくりと瞼を開けた。視界に飛び込んできたのは、自宅のものではない、冷たい白色の天井だった。ツンとする消毒液の匂いが鼻を突く。

 

(確か……俺は、おじいちゃんの蔵で幽霊を見て……それで)

 

ヒカルは、現状を把握しようとまだぼーっとする頭を必死に動かす。

倒れる前の記憶。あの平安の格好をした霊。ここが病院であることは、消毒液の匂いで分かった。カーテンが開き、看護師がやってくる。

 

「目を覚ましたのね。貴方は、倒れて救急車で運ばれたのよ」

 

その言葉で、ここが病院のベッドの上だと確定する。

「痛い所とか、無いかしら?」

 

看護師の問いかけに、ヒカルは自分の体を確認した。

 

「はい……大丈夫です」

「良かった。今、先生を呼んでくるわね」

 

看護師は、ヒカルの言葉に安堵すると先生を呼びにカーテンを閉めて行ってしまった。

ヒカルは、疲れたように目を閉じる。だが、見られているような視線を感じて目をあける。すると、ヒカルの顔を覗き込む蔵で見た幽霊が心配そうにしていた。

 

「……!」

 

ヒカルは、悲鳴を上げそうになるが此処が病院だと思い出してシーツを強く握って耐える。

 

『目を覚ましたのですね』

「……だ、れ?」

 

ヒカルは震えながらも問い返す。

 

『私は、藤原佐為。貴方に取り憑いたのです』

 

サラッととんでもない事を言う佐為に、聞き返すヒカル。

 

「俺は、進藤ヒカル……取り憑いた?」

 

取り憑く。その言葉の重みに、ヒカルは霊の実在を確信した。現実離れした出来事だが、それを冷静に受け入れるだけの器が、彼の幼い心にはすでに存在していた。

 

『はい。私の昔話を聞いて下さい』

 

佐為は、扇子を優雅に広げると語りだした。

 

 

 

 

佐為は、平安時代に天皇に指導碁をする程の腕前を持った棋士だったが、対局中に卑怯なイカサマに合い、汚名を着せられ耐えられなくなって入水自殺をした。

そして、幽霊になったが、囲碁が打ちたくて江戸時代の本因坊秀策に取り憑いた。そして、本因坊秀策の代わりに囲碁を打っていたが、本因坊秀策は病に倒れた。そして、佐為は、ヒカルに出会うまであの蔵で彷徨っていた。

 

 

ヒカルは、「囲碁」や「本因坊秀策」の名前に反応する。

 

「本因坊秀策……って。佐為が代わりに打っていた……?」

 

その事実に、ヒカルは唖然とする。自分が大好きで、何度も棋譜を並べ、その一手一手に感銘を受けていた、あの最強の棋士。その棋譜を、目の前のこの霊が打っていたなんて。

 

(つまり、この霊の棋力は……)

 

「はい。彼を知っているのですか?」

 

佐為は、希望を見出したかのように嬉しそうに扇子を動かした。

 

「知ってるも何も、有名な棋士だよ」

『私は虎次郎と呼んでいました』

「それで、どうして俺に取り憑いたの?」

『お願いがあるのです』

「お願い?」

『はい。今一度、私に碁を打たせて欲しいのです』

 

それは、過去から漂流してきた魂の、切実な願いだった。

 

「どうして、そこまで囲碁に執着するの?」

『私は……私は、まだ───神の一手を極めていない』

 

神の一手。

 

その言葉に、ヒカルは目を見開く。

囲碁をする物ならば、誰しもが追い求めている、盤上の絶対的な真理。

 

「囲碁が好きなんだね」

『はいっ!』

「良いよ、俺も碁を打ってるだ」

『何と……!貴方も棋士なのですね』

 

佐為は、喜びのあまり狩衣の袖を揺らし、明るく笑った。その姿は、幽霊であることを忘れさせるほど人間味に溢れていた。

すると、カーテンがシャリシャリと音を立てて開き、白衣を着た医者がやってくる。

 

「うん? 今、誰かと話していたかい?」

「いえ、独り言です」

「そうかい?」

 

医者は不審に思いながらもカルテを見つめる。佐為はヒカルのすぐ隣に浮かんでいるが、医者には見えず、声も聞こえないようだった。

 

「それで、体調はどう?」

「大丈夫です」

「うん、特に問題もないし、帰っても大丈夫みたいだね」

 

医者はそれだけ言うと、後を看護師に引き継ぎ、慌ただしく部屋を出て行った。

その後、売店にいた祖父の平八が戻ってくると、そのまま祖父の車に乗り、送ってもらう事になった。

 

『ヒカル! この、馬車は何なのですか!? 馬が居ないのに動いてますよ! それに、速いです!』

 

佐為は、初めて見る車に窓に張り付いて興奮している。平安時代には存在しなかった鉄の塊。当然の反応だろう。

 

ヒカルは、そんな佐為の様子を可笑しそうにに眺めていた。

 

『車だよ』

『くるま?』

『現代の馬車だよ』

 

ヒカルは、声に出さず心の中で、佐為に説明する。

 

「本当に大丈夫か? ヒカル」

「大丈夫だよ。心配かけて、ごめん」

 

祖父がバックミラーで、後部座席にいるヒカルの表情を心配そうに窺う。

 

「それなら、良いが……」

「危ないから、運転に集中して」

 

ヒカルは車窓を流れる景色を見つめながら、これからどうなってしまうのか、と考えていた。

 

 

 

そうして、着いたヒカルの家。

 

「ヒカル! 大丈夫なの? おじいちゃんから電話があってびっくりしたのよ!」

 

玄関を開けるやいなや、母親の心配そうな声が響く。

 

「大丈夫だよ。ちょっと、疲れてただけ」

 

それだけ言うと、ヒカルは母親の問いかけを軽く受け流し、階段を上がり自室へ向かった。

部屋に入り、ドアを閉めると、佐為がふわりと部屋の中央に舞い降りた。

 

『ヒカル! ここが貴方の部屋ですね!』

 

佐為は、珍しそうに部屋の中をキョロキョロと見渡す。

そして、目敏く落ち着いた色のカーペットの上に置いてあるある碁盤を見つける。

 

『碁盤です!早速、対局しませんか!?』

「良いよ。俺も佐為と打ちたい」

 

ヒカルは頷いた。かの有名な本因坊秀策の影で盤を操っていた最強の霊。その実力の深淵を覗いてみたいという好奇心が、彼の胸で静かに炎を灯していた。

ヒカルが整然と碁盤の前に正座をすると、佐為もその正面に正座した。狩その佇まいは凛としており、一国の頂点に立つ棋士の威厳を放っている。

 

「俺が、黒でいい?」

『はい、構いません』

 

佐為は即座に答える。黒の先手。それは、ヒカルがこの対局を主導するという合図でもあった。そこでヒカルはふと思った。

 

「佐為って、碁石持てるの?」

『……持てません。虎次郎に取り憑いていた時は、言葉で指示していて、虎次郎が石を置いていました』

「そうなんだ。なら、それでやろう」

 

ヒカルは、二つの碁笥を自身の側配置し、重厚な蓋を開けた。黒の美しい光沢と、白の清廉な輝きが、部屋の明かりを反射して煌めく。

佐為は碁石の輝きに目を細め、かつて虎次郎と共に戦った日々を追憶するような表情を浮かべた。

 

「『お願いします』」

 

二人の声が重なった。

そして、ヒカルと佐為の初めての対局が幕を開けるのだった。

ヒカルは深く息を吸い、盤面を見つめた。最初の一手。どこに置くか。天元か、隅か、あるいは……。

迷いが生じたその時、ヒカルは視界の端で佐為の身体が微かに震えていることに気づく。ヒカルが顔を上げると、佐為は扇子で顔を隠しながら、瞳から静かに、次々と涙を流していた。

 

(また、碁が打てるのが……本当に嬉しいんだね)

 

ヒカルは、その涙の理由を瞬時に理解した。声を掛けるなんて野暮な事はしない。ただ、ヒカルは目の前の盤面に対し、最大限の敬意を払って黒石を握った。

ヒカルは迷うことなく、右下の隅、星へと黒石を置いた。

その確実な一歩は、盤上に響く乾いた音と共に、物語の始まりを告げた。

 

『良い一手です』

 

佐為は扇子で口元を隠しながらも、その目は煌々と輝き、まるで盤上の星座を読み解くかのように楽しげに盤面を見つめていた。平安の雅を纏うその声には、技術的な賛辞ではなく、対局そのものへの純粋な歓喜が込められている。

 

『……では、こちらはどうですか?』

 

ヒカルは震える手で自身の右上に白石を置く。それに対するヒカルの二手目、左下の小目。

対局は静かに、しかし急激な加速を持って進んでいく。

序盤、ヒカルは現代の流行りの定石をベースにしつつも、ところどころに自分独自の鋭い感覚を盛り込んだ。しかし、佐為が打ち出す白石は、そのどれもがヒカルの予想を遥かに超える場所に置かれた。

盤上の情景は、瞬く間に複雑怪奇な迷宮と化した。

右辺の攻防で、ヒカルが隅の陣地を固めようとした時だった。

 

『ここに、打ち込んでみてください』

 

佐為の指示は、一見すると無謀な場所だった。白の勢力圏のど真ん中。ヒカルは一瞬躊躇したが、その指示に従った。

盤上に置かれた黒石は、たちまち白の石に取り囲まれる。しかし、次の瞬間、ヒカルはその一手の真意に気づき、背筋が凍るような感覚を覚えた。

その一手は、白の陣地を分断し、全体のバランスを崩すための、まさに「神の一手」の片鱗を見せるような場所だったのだ。

 

「……すごい」

 

ヒカルは思わず呟いた。自分の読みでは絶対に到達し得なかった、盤上の景色。

対局が進むにつれ、ヒカルは徐々に追い詰められていった。佐為の打つ白石は、どれほど複雑な局面であっても、常に最も効果的な場所へと置かれる。黒石が少しでも陣地を広げようとすれば、白石がそれを優しく、しかし強固に遮断する。

中盤、黒の地は急速に縮小していった。ヒカルは必死に頭を働かせ、活路を見出そうとする。これまで祖父に圧勝してきた実力を持ってしても、佐為の棋力はあまりに高く、そして深い。

 

(この人は……平安時代からずっと、こうして神の一手を追い続けてきたんだ……!)

 

その執念が、白石の一手一手に現れているようだった。ヒカルが最後に勝負を賭けた、中央への大攻防戦。黒石が白の龍を分断しようと試みた瞬間、佐為は冷徹に盤面を見つめ、最後の一手を打った。

その白石が置かれた瞬間、黒石の逃げ道は完全に塞がれた。

盤上には、白の優雅な、しかし圧倒的な勝利の図式が完成していた。

 

「ありません」

 

ヒカルは、静かにそう告げた。

部屋の中には、ただ石を並べる音だけが響いていた。

 

「負けた……。佐為、本当に強い」

 

ヒカルは、悔しさよりも、その圧倒的な棋力に対する驚愕と、尊敬の念を抱いていた。これが「神の一手」に近い棋士の強さ。

 

『いえ、ヒカル。貴方の力も凄まじい。この私をこれほどまでに追い詰めるとは……』

 

佐為は扇子を閉じ、嬉しそうに、そして少し誇らしげにヒカルを見つめた。

負けはした。しかし、ヒカルの目は、次なる対局の可能性に輝いていた。

 

 

 

 

 

 

その後、夕飯の時間となり母親に呼ばれた。ヒカルは、佐為と検討したい気持ちをグッと抑えて、部屋を出て階段を下り、リビングへと向かう。勿論、ヒカルに取り憑いている佐為も当然のように付いてくる。ヒカルは、自分の席に座ると「いただきます」と礼儀正しく挨拶をして箸を持ち、食事を開始する。

隣では、佐為が興味深そうに母親が作った料理を見ていた。

 

『美味しそうですね。食べれないのが残念です』

『美味しいよ。佐為、食べ終わったらさっきの対局の検討をしたいんだけど、良い?』

『はい!勿論です!』

 

佐為は、ヒカルの提案に嬉しそうに返事をする。

 

「ヒカル、今日、倒れたんだって?」

 

唐突に、正面の席に座っていた父親が心配そうに言う。ヒカルは、食べる手を止めて「うん、でも大丈夫だから」と少し、笑ってみせた。そして、残っていた白米を少し行儀悪くかき込む。

 

「ごちそうさまでした」

 

それだけ言うと、椅子から立ち上がり部屋へと向かう。

夕食の喧騒が終わり、部屋に戻ったヒカルは、カーペットの上に座り直した。さきほどまで盤上に広がっていた熱戦の残影は、まるで、激しい戦いの後に静まり返った戦場のようでもあった。

 

「さあ、検討しよう」

 

ヒカルの言葉に、正座していた佐為がふわりと少し姿勢を浮かせ、盤面を見下ろと、扇子を閉じた。

 

『はい。素晴らしい一局でした。……ですがヒカル、この局面、覚えていらっしゃいますか?』

 

佐為は扇子の先で盤面の中央、八の七あたりを指し示した。黒が白の勢力圏に侵入し、分断を試みた中盤のクライマックスである。

 

「ああ。ここだ。……俺の読みでは、この黒のコスミが絶対の活路だった」

 

ヒカルはその場所を指し示す。そこに黒石が置かれた瞬間の、盤上の景色を鮮明に思い返していた。白の陣地が裂け、黒の目が確保できたと確信した、あの瞬間を。

 

『そう。それこそが、この一局を分けた罠でした』

 

佐為は優雅に微笑みながらも、その視線は鋭い。

 

『貴方は、ここへの侵入に意識が集中するあまり、全体的なバランスを失っていた。……ご覧なさい、ここに白を打たれると、黒のここは、逃げ道を失うのです』

 

佐為が指す場所の盤の隅、三の四へ白石を仮想的にヒカルが置く。

 

『確かにヒカルのコスミは局所的には強い。しかし、白がここに石を置いていれば、黒全体が攻められ、最後には中央で死滅していた』

 

ヒカルは息を呑んだ。

 

(なんてことだ……。俺は、自分の目先の陣地を守ることしか見えていなかったのか)

 

局所的な損得ばかりを追い求め、大局的な視点を失っていた自分自身の未熟さが、盤上に白日の下に晒されている。それは、佐為に指摘されるまで、決して気づくことのできなかった弱点だった。

 

「俺……負けだ。完全に」

 

ヒカルは悔しさを噛み締め、黒石を盤から外すが、その目は、悔しさよりも、新たな真理に触れた高揚感に輝き始めていた。

 

『いえ、まだです。ヒカル、貴方のこの一手は非常に高い力を秘めていました。……この手ではなく、例えばこちらにノゾキを入れていたらどうなっていたでしょう?』

 

佐為は再び扇子で、今度は盤の左辺を指し示す。その一手から始まる展開を、佐為はまるで未来を読み解くかのように、次々と盤上に並べていく。黒と白が激しくぶつかり合い、誰も予想しなかった複雑な変化へと発展していく。

 

「すごい……。こんな手、思いつきもしなかった」

 

ヒカルは驚愕のあまり、言葉を失った。佐為が示す手は、現代の定石からすれば異端であり、しかし盤上の道理に完全に適ったものだった。

検討は深夜まで続いた。二人は盤面という宇宙を旅し、互いの読みを共有し、新たな可能性を模索し続けた。

 

『この一手は、秀策も好んだ形です。ヒカルの読みと合わせれば、まさに最強の手になるでしょう』

 

佐為が誇らしげに言う。その声には、かつての自分に憑依していた棋士への敬意と、今、新しい棋士と共に高みを目指せる喜びが込められていた。

二人の検討は、単なる盤面の分析ではなかった。それは、一人の天才が「神の一手」という真理に触れるための、終わりのない修行の始まりだった。夜更けの部屋に、石を置く音だけが響き続けていた。

 

 

 

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