IF もしも、最初からヒカルが囲碁を打っていたら。 作:天使乃あくび
ふぁ〜っ……」
薄明かりの立ち込める登校路に、ヒカルの間の抜けた欠伸が響いた。昨夜は、佐為との検討が果てしなく続き、ついには月の光が沈むまで盤面を囲んでいた。眠気でとろんとした瞳を何度もこすりながら、重い足取りで学校へと向かう。脳の奥底には、まだ盤上の黒と白の軌跡が残像のように揺らめいていた。
『ヒカル、 貴方の言う「がっこう」とは、どのような場所なのですか?』
佐為は不思議そうに、ヒカルの隣を歩く。その姿は現代の街並みの中で異彩を放っているが、ヒカルにしか見えない。
『昔でいうと、寺子屋かな? 子供が集まって、先生から勉強を教えてもらう場所さ』
『なるほど〜! 文字を学び、理を解く。学ぶことは良い事ですね!』
佐為は目を輝かせ、平安時代にはなかった学舎という空間に思いを馳せているようだった。その純粋な好奇心に、ヒカルは少しだけ眠気が晴れるのを感じる。
そんな会話を交わしているうちに、あっという間に学校の門をくぐった。佐為は、その巨大なコンクリートの校舎や、広大な校庭の広さに驚愕し、何度も扇子で隠しながら感嘆の声を上げている。しかし、ヒカルは毎日見慣れたその光景に特に反応することなく、下駄箱で古ぼけた靴を脱ぎ、白い上履きへと履き替えると、慣れ親しんだ教室の中へと入っていった。
教室の扉を開けると、その瞬間にヒカルの姿に気づいたアカリが、まるで小鳥が飛ぶように駆け寄ってきた。その表情には、昨日の出来事に対する不安がまだ色濃く残っている。
「ヒカル! 昨日は大丈夫だった!? 蔵でいきなり倒れたから、もうすごく心配したんだよ……?」
「あはは、大丈夫だよ。心配かけてごめんね」
ヒカルは少し気まずそうに頭を掻きながら、アカリの言葉を軽く受け流した。会話をしながら、自分の席へと向かい、ランドセルを机の上に置いてから椅子に腰を下ろす。
「本当にびっくりしたんだから」
「だよね、俺も色んな意味で驚いたよ。……あんなことになるなんて」
ヒカルは、倒れたことよりも、幽霊である佐為に出会った事の方が衝撃だった。しかし、アカリや他の人に「蔵で千年以上の幽霊に取り憑かれたんだ」と言ったところで、誰が信じてくれるだろうか。論理的に説明しようのないその現実を、彼自身の心の中に閉じ込めることが、この先ずっと続く日常になるだろうと理解していた。
そうしている内に、教壇に先生がやって来たので、アカリは少し不満そうな顔をしながらも自分の席へと戻っていった。先生が必要事項を生徒に手短に伝えると、静寂が破られ、本格的な授業が始まる。
ヒカルは、黒板に書かれる算数の数式を、どこか退屈そうに見つめていた。ヒカルは元々頭の回転が速く、基礎的な学習には苦労を感じない。授業の時間が、盤面に向かっている時間よりも遥かに長く感じられる。
『佐為、学校が終わったらおじいちゃんの家に行こう。おじいちゃんと対局してみて』
ヒカルは退屈しのぎに、心の中でそう佐為に話しかけた。
『是非是非! 対局したいです! がっこう?は、いつ終わるのですか!?』
佐為は、子供のようにルンルンと喜び、周囲をくるくると回りながらはしゃぐ。その無邪気な姿を見て、ヒカルはついさっきまでの気だるさを忘れ、優しく微笑むのだった。
『一年だから、二時頃に終わるかな』
『楽しみです! 』
その声は、対局への渇望に満ちていた。ヒカルは、佐為のその純粋な情熱に応えるように、授業の終わりのベルを静かに待ち続けた。
そうして、退屈という名の牢獄のような時間は、終業のチャイムと共に終わりを告げた。ヒカルは掃除もそこそこに、ランドセルを背負い、誰よりも早く学校の校門を駆け抜けた。心はすでに、祖父の家のあの静かな畳の間にあった。
「おじいちゃん、来たよ」
古風な玄関を潜り、使い慣れた襖を開ける。そこには、縁側から差し込む柔らかな陽光を浴びながら、古い囲碁雑誌のページを捲る祖父・平八の姿があった。平八は視線をヒカルに向けると、穏やかに目を細めた。
「ヒカルか」
「碁を打ちに来たのか?」
「うん、相手して」
(まぁ、打つのは佐為だけど)
「良いじゃろ」
ヒカルは、黒塗りのピカピカなランドセルをそっと床に置くと、碁盤へと真っ直ぐに歩を進め、碁盤の前に正座をした。
「ワシが握ろう」
平八が碁笥から無造作に白石を掴み、盤上に転がす。その数をヒカルが数える。偶数。
結果は、ヒカルが白石、祖父が黒石を使う事になった。つまり、ヒカルは後攻だ。
『佐為、存分に打ってね』
『はい、勿論です!』
「「お願いします」」
二人の声が重なり、盤上の戦いが始まった。
平八は一礼すると、自分の番である黒の石を盤の右上、星の点へ音高く置いた。
平八は、ヒカルの初手を見て、少し眉をひそめた。星の点に対し、ヒカル(佐為)は、小目へ低く構えた。それは現代ではやや古典的な、しかし極めて堅実な構えだった。
続く平八の黒の二手目、左上。それに対し、ヒカルは秀策流を彷彿とさせる、右下へのカカリを見せた。
盤面に白石が配置されるたび、平八は微かな違和感を覚え始めた。
(……何だ? この妙な圧迫感は)
ヒカルの打つ手は、常に平八の予測の斜め上を行っていた。現代の流行定石をなぞるのではなく、盤面全体を俯瞰し、古い定石の中に、全く新しい解釈を組み込んだかのような、独自の棋風。
中盤の入り口。平八が左辺に大模様を築こうと黒石を展開した瞬間、ヒカルの白石がその中央に、まるで空から降ってきたかのように鋭く打ち込まれた。
「こ、ここに打つのか……?」
平八の呟きが、静かな部屋に響く。そこは、黒の勢力が強大で、プロであっても侵入を躊躇するような場所だった。しかし、ヒカルの白石は、周囲の黒石との絶妙な連携を見せ、たちまち白の陣地へと変貌し始めた。
『この局面、本因坊秀策の棋譜に似た形がございます。秀策なら、ここに置く』
佐為の指導がヒカルの脳内に流れる。ヒカルはそれに従い、盤上の隅の、目に見えない「急所」へ白石を落とした。
その一瞬、平八は愕然とした。黒の陣地が、まるでお湯に溶ける氷のように縮小し、逆に白の陣地が巨大化していく。
(この一手は、なんじゃ…!)
平八は冷や汗を流し始めた。自分の孫が、まるで違う存在に思えてくるかま、その目は、盤面の深淵を覗き込んでいるかのように、かつ楽しげだった。
対局は加速度的に進んだ。黒が抵抗を試みるたび、白はその先手を読み、絶妙な位置に石を置き、封じ込めていく。中央の攻防戦で、平八が白の大龍を分断しようと仕掛けた最後の一手。しかし、それはすでに佐為の罠の真ん中だった。
ヒカルがその罠の心臓部へ白石を置いた瞬間、盤上の白石は全てが繋がり、黒石は行き場を失った。
圧倒的な差だった。
盤上には、白の優雅で、しかし圧倒的な勝利の図式が完成していた。
「……降参じゃ。参った」
平八は、最後の一手を見つめたまま、静かにそう告げた。悔しさよりも、そのあまりに高尚な棋力に対する驚愕が、彼を支配していた。
「あはは……。どうだった、おじいちゃん」
ヒカルは子供っぽく頭を掻きながら、心の中で佐為の勝利を誇らしく思った。
「……参った。ヒカル、お前さん……一体どういうしたんじゃ?まるで、江戸時代の名人の棋譜を見ておるようだったぞ」
平八は信じられないものを見るかのように、盤上と孫の顔を交互に見つめていた。ヒカルは何も答えず、ただ微笑むだけだった。
『素晴らしい対局でした、ヒカル! おじいちゃんも、なかなか良い手でしたよ』
佐為は、昨日に続き対局できた事が嬉しく、楽しいひと時を過ごすことができた。
「ヒカル、本気でプロを目指さないか?」
平八は、先程の一局の残影を盤上に追いながら、これまでにない真剣な眼差しでヒカルの瞳を射抜いた。その言葉には、孫に対する愛情だけでなく、一人の棋士が新しい才能に触れた時の敬意と期待が込められていた。
「え……?」
「今までもお前さんは強かった。だが、まるで昨日の今日とは別人のような……いや、何百年もの時を潜り抜けてきたかのような、深みと鋭さがある。お前さんなら、プロになれる」
「おじいちゃん……」
ヒカルは、いつもは見せない真剣な平八の眼差しを正面から受け止め、どう答えるべきか思考を巡らせた。
『ヒカル、ぷろ、とは何ですか?』
『プロっていうのは、簡単に言うと強い人たちが碁を打って勝負して、お金を稼ぐ人のことだよ』
『何と……! では、強い者同士が死力を尽くして打てる場所なのですか!? なりましょうよ! ぷろに!』
佐為は、強い者と絶えず碁が打てると知ると、狩衣の袖を振って喜び、ヒカルにプロになるよう懇願する。その姿は、千年の時を漂流してきた霊の、切実な渇望そのものだった。
『囲碁のプロになるって、そんなに甘いものじゃないんだ。凄い人たちが何年もかけて勉強して、やっとになれる世界なんだよ』
ヒカルは現実的な難しさを口にする。
『そんな〜〜!』
佐為は劇的に肩を落とした。だが、ヒカルは佐為を見つめながら、別の可能性を感じ始めていた。
(……いや、佐為の実力なら、プロの頂点だって、ひょっとすると……)
「どうじゃ、なる気はないか?」
「……考えておく。でも、僕まだ小学生だし、年齢的に早いと思うよ」
「院生になるなら、早いことに越したことはないじゃろう」
ヒカルは、平八の言葉に確かに、と納得した。
日本棋院の院生は原則14歳まで。そして、プロ試験に挑戦できるのは原則23歳未満とされている。囲碁の世界において、若さは最大の武器であり、早くその道に足を踏み入れることに損はない。
ヒカルは、今も隣で「プロになりたい、強い相手と打ちたい」と駄々をこねている佐為の姿を見た。
佐為は、囲碁を打つためだけに、あの暗い蔵の中で、何百年もの孤独を耐え抜いたのだ。きっと、限界を超えた強い相手と、心ゆくまで打ちたいだろう。
それなら、自分一人で悩むよりも、佐為と共にプロの道を目指すのが最善だろうと、ヒカルは思った。