イメソンはP-MODELより「potpourri」
喧しい鳥の声がボクの目覚めを破る。目をパチパチさせて、季節外れになりつつある羽毛布団を剥いだ。
カーテンの隙間からわずかに漏れる朝陽。ボクはその光に誘われ、遮光カーテンを全開にする。窓際は埃っぽく、厚いガラスの外には虫らしき頭部と羽の残骸が散らばっていた。
「ごほ、ごほっ」
キッチンから寝室まで珈琲の香りが這う。それを嗅いでみればボクの脳はいつも犬みたいに喜んで、いつの間にか香りの元へと向かってしまうのだ。
その気怠げな足音に耳を立て、ウイは台所からボクの方を振り返った。その動きに合わせて長い髪が根元から毛先にかけて静かに波打つ。ボクの立派な寝癖を見たのか、少し口元を隠しつつも彼女の瞳は温かくボクを迎え入れた。
「おはよう」
「…おはよ」
「珈琲、入れましょうか」
「うん」
コンロに置かれたコーヒー・メーカーからカップへコポコポと注がれていく。
ボクは冷蔵庫から取った牛乳をコップに入れ、電子レンジを開いた。紙パックで濡れた指先の不快感をシャツの端に移す。
「ミルクは要る?」
「じゃ、おねがい」
「珍しいね」
「そういう気分だから」
カップの中で小さな渦が生まれては消え、消えては生まれ──ボクはそれをゆっくりと口に含んだ。
「あちっ」
「ふふっ」
「……美味しいよ」
ウイの淹れる珈琲が不味かったことなんて一度もないだろうに。しかし、今日は一段と美味しい気がした。
両手で大事にカップを抱えて飲むその姿。薬指に添えられた指輪が僅かに光を反射させる。十年だって眺めていられるし、実際にそうだった。
一口飲む毎に満足げな笑みを浮かべるウイを見ていると、珈琲がもたらした温度とは異なる熱が、胸の奥底から込み上げてくる。
「…………」
それを合図に、ズキリと痛む。うしろ髪が巻かれながらブチブチと音を立てて引っ張るようなこの感覚。熱はそんな痛みを携えてボクの元へとやってくる。
毎朝、毎朝。ボクはその痛覚を珈琲と一緒に押し込んだ。結婚してから知らぬ間に現れたこの痛みも、とても慣れる気はしなかった。
「──ねぇ、ウイ…」
顔を上げた彼女はそれに続く言葉を待っている。
一方のボクは、カップの水面を揺らしている。
無意識に出てしまった声をどうにか誤魔化せないかと、震える手を股に挟んで目線を逸らした。
「今日一日は休み?」
「ええ」
肯定が返ってくることは当然分かっている。明らかなお茶濁しだが、彼女に不審がる様子は見えない。
「どうする?」
「どうって…」
事実、ボクはこの休みをどう過ごすのかを決めかねていた。会話としては自然な流れだ。
「…読書、かな」
「いつも通りか~」
「文句あります?」
積ん読があるのは否定できない。消化すれば間違いなく充足した休日を送られることだろう。しかし、ボクの心はもう一声を望んでいた。
「……書庫の整理とか、どう」
「…いいんじゃない?」
「よしきた! 先行って始めてるね」
「うん」
ボクはカップをシンクに置き、逃げるように部屋を出て行った。
書庫も掃除は欠かしていない。が、その中身はどこまでも肥え続けている。趣味が共通していること自体は良いが、たまには片付けなければ。いずれ全部屋に本棚を置く必要が出てきてしまう。
──ギィッ。
ドサドサ、バタバタ。
「あー…本棚、物色するか」
眼下に広がった本の波を踏まないよう、慎重に屈んで一冊ずつ拾い上げる。ページに折れが無いかを確認してからサイズ毎に再び積み上げていく。こうしてボクはちょっとずつ足場を広げていった。
ふと、足先に触れた本の冷たさが神経をくすぐる。自然と視線が下へ引っ張られていくのを感じた。
色鮮やかな花々の中、何かが咲いていたであろう土の跡。
我先にと注目を集めようとする雑誌たちに紛れていたそれは、無地のカバーに期間を示した年月日が貼り付けてあるだけの簡素な冊子だ。
「アルバム…かな」
年月日に従えば、一番古くて一九年も前の写真が載っているのだろう。ボクとウイが出会うより以前のもので間違いない。
そしてこれは──ボクの健忘が発揮されていないのであれば──恐らく、彼女のものだ。
気づくとボクは既にそのアルバムを手にしていた。周囲を見回すと、さっきまで抱えていた冊子が床に散乱している。他人事のように唾を呑み、表紙をなぞった。
「扉が開けっ放しですよ」
「──ああっごめん!」
背後を優しい声色が突き刺す。ボクは即座にウイの方へ振り向くと同時、咄嗟にそのアルバムを背後に隠してしまった。
「えっと、驚かせた…?」
「いーや全然。平気も平気」
「…そう。なら良かったけど」
そう言ってウイはテキパキと片付け始めた。どうやら、アルバムには気づいていないらしい。
「重複している子はどちらに?」
「そこに置いたね」
ウイが手元に集中し始めたのを確認し、ボクは奥の本棚へ向かった。
息を整えてからもう一度アルバムと目を合わせる。鉛のような手が鈍い動作で表紙をめくった。
「……ウイ?」
めくる、めくる。めくるもめくるも、そこに居たのはウイただ一人。呼吸を思い出せたボクはその場に座り込んだ。
結局、最後のページまで目を通したが、ウイとカフェと花の他にこれといった写真は収まっていなかった。次第にボクの思考が安堵に支配されていく。
「でも、カフェか」
何枚かに同じ店名がぼやけて写っていた。昔は常連だったのか?
ウイと二人でカフェに行ったのは片手で数えられる程度しかない。珈琲が好きでも、人混みの苦手な彼女が喜んで通う店はなかった。
この写真にあるカフェも、今は無いのだろうか。
「……笑顔」
外に出たがらない、ましてや散歩なんてしたがらないウイが、花木と並んで優しく微笑んでいた。カメラ目線の写真はどれもそんな姿だ。
しかし、そのどれもがボクの目には新鮮な表情に映った。一度も彼女の笑顔を見たことがないかのような──本当に?
「ボクは……」
ウイの笑顔も、照れ顔も、どんな表情だって数え切れないほど見てきた。見ていたはずだった。
戸惑うボクに反して、嫉心だけは驚くほどに湧かなかった。感情の揺れを自覚した次の瞬間には、写真の中の彼女に塗り潰されてしまったから。
ああ、つい見蕩れてしまう。天使さえ形容には物足りない、穏やかな夜空に浮かぶ満月そのもの。
アルバムの終わりには、透き通った黄色の花とマフラーを巻いたウイがいた。冬場に好んで着けているマフラーと同じものだ。
「……?」
それと、見たことのないペンダント。ようやくその存在が目についたボクは、ペラペラと他の写真も確認してみる。
いつも肌身離さず首から掛けてある三日月模様のペンダント。写真越しでも、それが如何に大切なものかがひしひしと伝わってきた。
「ウイ」
「…………」
「ウイ」
「んぇあっ…んんっ、どうしました?」
こちらを見上げているウイの顔には一つ陰りもない。直視していると、なぜだか罪悪感がボクの肩を掴みかかってくる。何かを悟られてしまうのではないかと思わず目を背けたくなるほどだった。
「いや…」
あのアルバムには、何かが欠けている。ウイにこんな素敵な笑顔を向けてもらえる、
しかし、
──誰に撮ってもらったのか──
「……」
──ペンダントを渡したのは──
「…なんでもない」
「本当に?」
分かっている。わざわざ確かめるまでもない。ウイにとっての最愛は
ただ確かめなければ不安で息さえままならなくなってしまう、どうしようもない生き物なのだ。
「だって、言い辛いでしょ。最近ちょっと寂しいなー…なんて」
「…この子たちの前で盛らないでくれる」
「あんまり乗り気じゃなさそうだね」
「そうやって──」
頬に柔らかく触れる。ウイはボクの肩を掴んで引き寄せていた。一瞬だけ抵抗しようと力んだ腕はすぐに掴み返され、萎んだ風船みたいに垂れる。
数秒経って彼女の唇の感触は離れていった。ボクが目を合わせると、欠けた月は頬を赤く染める。バニラの香りが肌を伝って全身に纏わり付く。
「──なんでも言葉にさせたがるところが、嫌い」
「なら良かった」
[newpage]
カラン、カラン。
「カフェラテと…プリンを一つ」
ボクとしては、ちょっとした好奇心で写真にあった名前を検索してみるだけのつもりだった。
店内はやわらかい光で満たされている。店員は無愛想一歩手前ぐらいに口数が少なく、ウイが常連だった理由もなんとなく理解できた。
「ふーっ…」
慎重に珈琲を舌に近づけていく。輪郭を成した苦味、それを阻まずに包むミルクの風味──充分に味わってからカップを手元に置いた。
目の前の椅子に写真を重ねてみる。満月のような彼女はとても不機嫌そうに、ボクではない誰かを見ていた。
不機嫌と言いつつも彼女は今にも笑い出しそうで、それを誤魔化すように口元を手で覆うのだろう。その愛らしい指に指輪の影は落ちていなかった。
「ボクで良かったのか」
写真から目を逸らすと、右手の親指についた噛み痕が見える。
ウイの口から指まで糸が引かれる。歯が食い込んで変色した皮膚に、唾液が絡みついていた。つい先週のことだが、そこにあった熱と痛みはすっかり引いてしまった。
空になった器と底に溜まったカラメルに軽く手を合わせてボクは店を出る。
外からその席を俯瞰してみると、ボクの抜け殻が横たわっているように映った。二回ほどの瞬きでどこかへ消えてしまったが。
スマホを取り出して、メッセージを打ち込む。
〈帰路〉既読。
〈言ってた本買っといたよ〉
〈ありがと〉
〈(スタンプ)〉
〈七時前には着く〉
〈待ってます〉
「──少し冷えるな」
ボクはウイと一緒に来るべきだったのだろう。そう理解していても、彼女がここに来なくなった意図を汲んでしまったボクに、その選択は取れなかった。
これは彼女なりの誠意だ。ボクはそう思うことにした。思うことにしたのだから、これっきりだ。
項垂れながら空を見上げれば月が薄暮の中を漂っている。その欠けた月さえ、満ちることは無かった。お陰で足下には一欠片の光さえこぼれていない。壊れた街灯が、嘲笑うように明滅するだけだった。
満ちることの無い彼女を、ボクは一生かけて抱き続ける。
ボクは月を恨んでなどいない。
前途は既に決まっていたから。