禪院家の忌庫に、呪具は1つも残っていなかった。
「親父…!!」
何もない忌庫に座り込んでいたのは、禪院扇。
禪院家の中核となる面々の一人であり、真希と真依の実の父親だ。
「ここに呪具はないぞ、真希。オマエ達の動向を見越して空にしておいた」
扇が立ち上がる。彼の背後には、力なく横たわる真依の姿があった。腹部から出血している。扇に斬られたのだ。
脂汗の滲む顔を真希へと向ける真依。彼女は、睨みつけるようにこちらを見上げる。
「なんで来たのよ、馬鹿」
「真依!!」
真依の言葉に真希は思わず叫んでいた。どうして真依がここにだとか、真依を助けなければとか、とりとめもなく思考が錯綜する。
扇はそんな真希を、無感情な瞳で見下ろしていた。彼女の隣に立つ呪霊など一瞥もせず、口を開く。
「呪霊よ、真希を殺せ」
淡々とした言葉だった。少なくとも真希には、微塵の躊躇も罪悪感も感じられなかった。
扇の言葉に、マハトは目を瞬かせる。
「恐れながら、理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「…やはり、総監部との縛りに認識の齟齬が生まれているな」
マハトが命令にすぐ従わなかったことに、扇は大して憤っていなかった。
「『呪術界に連なる人間に仕え、悪意を持った行いをしてはならない』…それが貴様が総監部と結んだ縛りだ。貴様は真希や伏黒恵を呪術界に連なる人間と捉えているが故に、彼らに協力しているのだろう」
他者間との縛りは、自らが自らに科す縛りよりも煩雑でリスクの高いものとされている。縛りがあくまでお互いの認識に基づき結ばれるものであることが、その理由の一つだ。
例えば『誰も傷つけない』という縛りを結んだとして、この縛りが文字通りの効力を果たす可能性は低い。当事者自身は含まれるのかや、どこまでの物理的接触が許容されるのかなどがこの文言では曖昧であるからだ。当事者間で認識の擦り合わせを行わなければ、あるいは縛りの抜け道にも成り得てしまうだろう。
そういう意味で、『悪意を持った行いをしてはならない』という縛りは解釈の余地がない。総監部は総監部なりに、マハトに対しての枷を慎重に用意したのだろう。
「総監部は五条悟を渋谷事変共同正犯とし、呪術界から永久追放した。五条悟の封印を解く行為も罪と決定している」
扇は、正そうとしているのだ。
総監部とマハトの間に生じた、認識の齟齬を。
「真希達は五条悟解放を企てた謀反者であり、呪術界における懲罰対象に該当しているのだ」
「だから、テメェの子供も殺せるってか」
「ああ、これは誅殺だ」
本当に、反吐が出る。
何よりも気色が悪いのは、扇が全て己の保身のために理屈を捏ねていると分かることだ。
恐らく、彼らの本命は伏黒だ。次期当主である彼を消す口実が欲しかっただけ。
真希と真依は、そのついでとして殺そうとしているのだ。
「これで理解したな、真希を殺せ」
繰り返された扇の命令に、マハトは黙っていた。彼は、能面のような笑みを張り付けている。
扇は顔を顰め、再び口を開いた。
「何度も言わせるな、真希を殺すのだ。真希だけではない、貴様には真依や伏黒恵も殺してもらわねばならない。私達には時間がない、さっさと殺せ」
「…真希様」
マハトはちらと、側に立つ真希を見やった。
「私が言ったことは、間違っていませんでしたね」
「そうだな、オマエが正しかった」
噛み締めるような真希の言葉。マハトはただ微笑んでいた。
微笑んだまま、右手が肩にかかる外套に触れる。
「があ゙ッ!??」
直後に何が起きたか、真希にはすぐには理解できなかった。単純に、マハトの動きがあまりに速かったから。
扇の悲鳴、忌庫の壁に叩きつけられた彼の姿、黄金の剣を手に持つマハト。それらを見て、遅れて理解した。
マハトが扇を、一撃で下したのだ。
「はぁ゙ッ…はぁ゙……」
「右腕を潰しました。これで刀は振れませんね」
「何、故ッ……!?」
真希は真依の元に近寄りつつ、壁にもたれかかる扇を見やった。
扇にはもう、マハトへと抵抗する余力は残っていないように見える。右腕を根元から断ち切られ、彼はただ必死に浅い息を繰り返していた。マハトは彼の元へ、ゆっくりと歩き始めている。
「貴方は、悠仁様の敵なのでしょう」
マハトが呪霊であるが故に、総監部と結んだ縛りは意味を成していない。真希は九十九からその推測を聞いていた。だがこうも目に見える形で、それを実感することになるとは。
マハトの言葉の意味を、理解できているのかいないのか。
扇はぎょろりと、その眼を真希へと向けた。
「お゙っ…オマエの゙……オマエ達のせいだ…!!」
血反吐を吐きながら、扇は真希たちを糾弾する。近づいてくるマハトになど目もくれず、彼女らへと唾を飛ばす。
「オマエ達はッ…い゙つも私のことを陥れる……!」
扇は見るからに重体だ。右肩の切断面からの出血が止まらず、叩きつけられた壁によりかかったまま立ち上がることも出来ていない。もしかすれば右腕だけではなく、どこかしら骨も折ってしまったのかもしれない。
それでも、扇は口を開くことを止めない。
「凶兆として生まれ…私を当主の座から引きずり下ろし…あまつさえ家に呪いを持ち込むなどぉ゙……」
とめどない怨嗟は、真希には最早呪いの戯言と大差ないように聞こえた。
そもそも。
「この゙ッ…出来損ない共……何度…私の足を引けば気が済む……? 何故…大人しく死ねない゙ッ………!!」
「真希様」
扇の首に、マハトの剣が添えられる。
「殺しますか?」
───そもそも、扇は目の前の
最初は、呪霊と目すら合わしたくないのかと思っていた。禪院家の術師として、呪霊を強く嫌悪しているのかと。だが扇はマハトに危害を加えられ重傷を負った今ですら、彼とまともに目を合わせていない。だから、真希は気づいてしまったのだ。
扇はただ怯え、マハトから目を逸らし続けているのだ。
「まだだ、マハト。コイツから呪具の在り処を聞かなきゃならねぇ」
「失礼いたしました」
マハトが剣を引き、真希へと小さく頭を下げる。足元に転がる扇など、いつでも殺せるかのような振る舞いだ。
扇とて、禪院家、いや呪術界の中で見ても屈指の術師であるはずだ。呪術高専から特別一級の地位を与えられた実力は確かなもの。仮に真希1人で扇と戦うことになっていたのなら、持ち込んだ呪具込みでも一筋縄では行かなかっただろう。
それほど、マハトが隔絶した実力を有しているというのか。
「真希ぃ゙…!」
「元気そうで何よりだぜ、親父」
苦痛に身を震わせながら、扇は尚も口を開く。彼の口元は夥しい血で汚れ切っていた。
「澄ま゙した顔を…していられるのも…今の内だぁ゙……!」
扇が吐いた言葉に、真希は違和感を覚えた。
今までのような闇雲な罵詈雑言ではない。扇の言葉には、何か確信があるように感じられた。
「万が一に備え…既に警鐘は鳴らしてあ゙る……」
「!」
真希の耳が無数の足音を捉える。振り向くと、口元を布で隠した男たちが忌庫に押し入ってきていた。彼らは真希とマハトの姿を認め、一斉に腰の刀を抜き放つ。
「忌庫に真希と呪霊を確認! 双方正体不明の武具を所持している! 固まって距離を詰めろ!!」
じりじりと近寄ってくる彼らを一瞥し、マハトは真希へと視線を向けた。
「真希様、彼らは」
「躯倶留隊…禪院家の下っ端達だよ」
『躯倶留隊』は『炳』の下部組織。術式を持たない禪院家男児は入隊を義務づけられており、真希も高専入学前まで籍を置いていた。日夜武芸を叩きこまれている彼らは、剣術や体術を呪霊を祓う術とする。
『躯倶留隊』はこちらの出方を伺うばかりで、マハトや真希へと攻撃を仕掛けてこない。
マハトの気配に気圧されているのか、あるいは。
「すまない、少し遅れた」
躯倶留隊の男たちをかき分けて、三人の男がマハトに相対する。
禪院甚壱、禪院蘭太、禪院長寿郎──彼らは皆高専資格条件で準1級以上の実力を認められた術師たちだ。
禪院家最強の術師集団である『炳』の面々。
「終わりだ…真希ぃ゙……」
勝ち誇るように扇が宣言する。この人数、恐らく家に不在の術師以外の全戦力がこの忌庫に集結しているのだ。特に『炳』の甚壱は扇と同じ特別一級術師であり、特級呪霊すら祓い得る確かな実力を有している。マハトと真希が圧倒的に不利である、扇にはそのように捉えたのだろう。
死に体でありながら真希を誹る扇の姿を見た甚壱は、重々しく口を開いた。
「…信朗、躯倶留隊を扇の元に向かわせろ。適切な処置を施せば命は助かる」
「へいへい」
「敵は、炳で叩く」
一歩。
上着をはだけさせ半裸となった甚壱が、マハトへと近づく。同時に蘭太と長寿郎が呪力を滾らせ、マハトへと構える。彼らの殺意が、忌庫全体へと立ち込め始めていた。
「では、行くぞ」
甚壱が拳を振りかぶる。マハトへと術式を発動せんと腕に力を籠める。
その、直後。
「『
真希には、やはりマハトの呪術の発動が見えなかった。
気づけば全てが黄金に変えられていた。『炳』も『躯倶留隊』も、真希たちのいる忌庫も、きっと忌庫の外──禪院家全域すら。
一夜にも満たぬ一瞬で。
1000年の歴史を誇る御三家の一角、禪院家は壊滅したのだ。
「………あは、ははははっ!」
黄金の床に這い蹲りながら、笑い声をあげる真依。真希はその姿を、何も言わず見つめていた。
「何なのよ、コレ。皆アイツの呪術に殺られたっての?」
真依の言葉に、返事をする者はいない。扇や甚壱は、黄金に変えられたまま固まってしまっている。まるで彫刻や銅像のようだ。つい先ほどまで喋り、動いていたものとはとても思えない。
「呆気なさすぎて、馬鹿みたいじゃない…!」
身を捩りながら、真依が彼らを嘲笑う。彼女は目尻に涙すら浮かべていた。
真希にとっても視界一面に広がる黄金は、あまりに現実味のない光景に思われた。
『炳』は真希に立ち塞がる壁であり、同時に乗り越えるべき高みでもあった。どれだけ気に喰わない性根をしていようと、真希には彼らを捻じ伏せる力がなかった。だからこそ真希は家を出て、高専で力を磨く選択をしたのだ。いずれ家に戻り、彼女を見下していた連中を見返すために。
それが、この様は何だ。
「何が禪院家よ! 何が呪術師よ! こんな
高専に来た真希は知っている。五条という、禪院家をも歯牙にもかけない最強を。禪院家は決して、強さという面で頂点には位置していない。
それでも、だとしても。
「ほんっと、馬鹿みたい…」
真希の人生を縛り続けた枷は、こんなにも脆いものだったのか。
「…申し訳ありません、真希様」
黄金の地に立ち尽くす真希に、背後からマハトが声を掛けた。
この惨状を生み出した下手人は、さも当然といった風に恭しい態度を保っている。
「この数の術師相手、術式を使わなければ真希様達を庇いきれないものと判断しました」
「オマエは悪くねぇよ。悪いのはコイツらだ」
真希の返答にマハトは微笑み、真依の方へと顔を向けた。
「真希様、真依様は何故ああして笑っているのでしょう?」
「…さぁな」
純粋な興味なのだろうか。マハトから投げかけられた問いかけに、真希は自嘲気に顔を歪めた。
「分からねぇから、私はアイツに嫌われてんだろ」
今年の交流会に至るまで。
真希は真依の内心を、理解できていなかった。理解したつもりになっていた。家を出て高専に来るという真希の選択。それがどれだけの重荷を真依に科していたのかも知らず、無邪気に高専に通ってしまっていた。
だからせめて、真依の居場所を作ってやりたい。
そう、願っていたのに。
「…呪具の回収はこれじゃ無理だな。家を出て今後の動きを練り直すか」
「いえ」
真希の提案をマハトは退けた。
彼の手には、未だ黄金の剣が握られている。
「まだ直哉様が残っています」
自身の生まれ育った禪院家が瞬く間に壊滅したことに、『炳』筆頭たる禪院直哉は特に未練を抱いていなかった。
マハトの力量を測り間違えた家の連中が自滅した。それ以上でもそれ以下でもない。精々家の調度品が黄金に変えられたことを鬱陶しく感じているぐらいであろうか。
直哉にとって、禪院家当主の座は過程であって目的ではない。
「直哉様」
黄金に変えられた池泉、そこに架かる橋に直哉は立っていた。
視界の先には、気味の悪い笑みを浮かべるマハトがいる。
「扇様達をけしかけたのは、貴方ですね」
マハトは、何やら勘違いをしているようだった。
彼は東京でも直哉に一度会っているし、直哉は甚壱たちに手を貸さなかった。どちらもマハトとは直接戦闘せず、身の回りの人間を差し向けた形だった。考えてもみないことだったが、確かに客観的に見れば直哉は各地で暗躍し裏で糸を引く黒幕のようにも見えるかもしれない。
実態としては、ただ直哉が独断専行を続けているだけなのだが。
「禪院家の企みをお教え下さい。真希様達を殺そうとしたのは、総監部、あるいは羂索の意向によるものなのですか?」
口調こそ丁寧なものではあるが、明らかにこれは脅迫だ。
禪院家全域にマハトの術式は行使された。この範囲、展開速度から見て発動条件は特にないのだろう。五条家の無下限呪術が思い起こされる、足し引きの成り立たない法外な術式性能だ。総監部や五条が彼の術式情報を秘匿したのも頷ける。この規模の呪術を扱える呪霊が手駒に加えられるとなれば、呪術界はマハトを巡って骨肉の争いを起こすに違いない。
今直哉が生きているのは、マハトが彼の持つ情報を求めたから。
「教えたら、俺のことは殺さないでくれるんか?」
「それは真希様次第かと」
その気になれば、直哉はすぐに黄金に変えられてしまう。
正に、俎板の上の魚。
「非道いなぁ」
理解した上で、直哉はマハトへと軽薄な笑みを浮かべる。
「人の心とかないんか?」
「ええ、だからこそ理解したいのです」
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