羂索は無事赤子を出産した。
特に大きなアクシデントもなく、赤子は無事にすくすくと育っている。
「ほら、これがマハトだよ」
手の内に赤子をおぶる羂索、彼は赤子の顔を側に立つマハトへと向ける。
マハトは困惑した表情で羂索へと話しかけた。
「香織様。悠仁様は非術師です。私の姿は見えないのでは」
「分かってるさ、ちょっとした戯れだよ」
赤子の名は虎杖悠仁。
1000年生きた怪物の腹から生まれた彼は、その出自に似合わぬ溌剌とした表情で笑っている。
「まあけど、今の内から君の気配に慣れておいて欲しいとこはあるかな」
「何か、悪企みをしていますね」
マハトは羂索へと微笑む。この400年でマハトも随分と羂索のことを理解してきているらしい。
「死滅回遊に向けて色々と準備をする必要があるからね、私はじきこの家から姿を消すつもりだ」
死滅回遊成立のための土壌は、着実に整ってきている。
羂索はそれを確実なものとするために更なる
そして、その間のマハトの役割は。
「私がこの家を去った後、マハトにこの子…虎杖悠仁の面倒を見てもらいたいと思っている」
マハトは、僅かに目を見開いた。
「…正気ですか?」
「私はいつでも正気だよ」
あまり拝む機会のないマハトの驚愕の表情に、羂索は含み笑う。
少々唐突な提案だったやもしれない。順を追ってマハトに説明する必要があるだろう。
「まず前提として、虎杖悠仁には君の血が入っている」
「私の血、ですか」
困惑した表情のマハト。
当然の反応だ。そもそも、通常そんな行為は不可能なのだから。
「私は呪霊です。血であれ何であれ、私から切り離されたものは消失反応で塵となってしまうのでは」
「そうだね。だから君から回収した肉片には呪物化をベースとした措置を施してある」
「私の肉片など、一体どこで」
「400年前、私の契約対象との戦闘で片腕を落とされたことがあったろう?」
マハトの血は、虎杖香織の肉体を介して虎杖悠仁に取り込まれている。
直接取り込ませる手は、より強い呪物を取り込んでいる場合にそれに打ち消される可能性がある。だからこそ、虎杖香織という溶液に虎杖悠仁を浸すやり方が最適であると羂索は判断したのだ。
「つまるところ、虎杖悠仁は私とマハト、虎杖仁の間に産まれた子なんだ」
羂索から告げられた事実に、マハトは乾いた笑みを漏らす。
「私は、悠仁様の親なのですね」
「クックッ。何か虎杖悠仁に対して、湧き上がってくる感情はあるかい?」
呪霊は人の負の感情から生まれる。
それ故に親子関係などは存在しない。強いて言うならば、負の感情の元となった対象が親と言えるが、マハトの様子を見る限りその実感は薄いのだろう。
存在しないから、親子間に生まれる感情も理解できない。
ならば、その存在を造ってしまえばよいだけのこと。
「なんの感情も。ですが、香織様の意図は分かったような気がします」
「だったら、この話受けてくれるかな?」
マハトの視線は、ころころと顔を綻ばせる虎杖悠仁に注がれていた。
やがて彼は、胸に手をあてがい羂索へと礼を取った。
「仰せの通りに」
彼の返答に、羂索は満足げに口角を上げた。
「決まりだね。人間社会の煩わしいやり取りは虎杖倭助に
「成長しても悠仁様にこのまま私が見えない場合は、如何いたしましょう」
「その時は何もしなくていい。だがコレは私たちの子だ。君という規格外の気配が側に居続ければ、いずれは君のことを知覚すると思うよ」
羂索の提案を受け入れはしたが、マハトの懸念は尽きないようだ。
現状虎杖悠仁には呪いすら視認できていないのだから、ある意味当たり前かもしれない。
「心配しなくても、虎杖悠仁は君をも凌駕する潜在能力を秘めている。そうなるように私が態々こさえたんだ」
「そうですか」
マハトは不意に羂索を見やった。久しく見ることのなかった怜悧な視線。一体何が、マハトの琴線に触れたというのか。
「ようやっと、私を殺す算段が整ったというわけですね」
まるで、待ちかねていたかのような言葉。
殺しという最後の手段、それを整えたと考える意味。
「そうだね。君が虎杖悠仁にとって倒すべき敵であるならば、彼は君を殺し得るだろう」
「楽しみにしています」
その言葉は、きっと嘘ではないのだろう。少なくとも、400年マハトと過ごしてきた羂索にはそう思える。彼は本気で、自身を殺し得る可能性に期待している。
マハトは探し求める答えのためらば、命すら惜しむつもりはないのだ。
「……フフッ」
羂索は小さく笑みを零した。
マハトに対してのものではない。己がらしくないことをしたから、つい笑ってしまったのだ。
「君を見ていると、私の旧い友を少し思い出す」
「香織様のご友人、ですか?」
「ああ」
記憶の欠片を手繰るように、羂索は目を細めた。
「戦の絶えぬ世に道徳を説いた変わり者で、物腰は柔らかな癖に自分の意見は曲げない頑固者でもあった」
マハト──呪霊を人間の枠組みに当てはめることの無意味さを、羂索は知っている。
それでも、だとしても、マハトの在り方を見ているとアレの姿が過るのだ。
「終いには
己を犠牲に世界を救うなど、素人が作った映画にでも感化されたのだろうか。本当に下らないことこの上ない。思い入れのない人間など調味料や水と同じ。だというのにアレは、それを救うために己が足を止めたのだ。
だから羂索は、この退屈な世界を。
「けれどねマハト。私は君の
両腕の内の虎杖悠仁を揺らしながら、羂索はマハトに語り掛ける。
「自分の理想へと足を踏み出すこと、それは例え人間であっても出来ない連中が多いことなんだ。君はこの400年間、自分の理想へと足を進め続けた。例え何も得られていないのだとしても、その道のりにはきっと価値がある」
マハトは決して、足を止めている訳ではない。むしろ、足を進めるために命すらもかけるつもりなのだ。それには天と地ほどの隔たりがある。
「命をかけたのなら、あとは行動するしかない。君の覚悟を、私は好ましく思っているよ」
マハトはきっと、己の探し求める答えを得るためならば虎杖悠仁のことも無下にはしない。
故にこそ、羂索はマハトに彼を任せることに決めたのだ。
「マハト、君には期待しているよ」
「存じております」
虎杖悠仁には、人に言えない秘密がある。
「ただいま、マハト」
「おかえりなさいませ、悠仁様」
それは
「悠仁様、またマジベガスに行きましたね」
「げ、なんで」
「その顔を見れば分かります」
きっかけは虎杖が小学校に入る前後ぐらいだっただろうか。
当時の虎杖は公園でザリガニを捕ろうとしていた。うきうきで公園を駆け、何でもない所でつんのめった。あわや顔が地面に激突する直前、虎杖は透明な何者かに抱きとめられたのだ。
それから、虎杖に見える世界は一変した。
「あそこは未成年の行く場所ではありません。前にもお話しましたよね」
「マジでごめん! でも違うんだよマハト。俺は行くつもりなかったんだけど、そういうノリになったんだよ」
「お爺様も悲しみますよ」
「爺ちゃん出すのは反則だろ…!」
虎杖は今まで見たどの動物とも似つかわない異形が見えるようになった。中には自動車以上の巨体のものもいた。周りの人間が何も気にしていないし、祖父も何も言わないということはこれは自身にしか見えていないのだろう。
虎杖の家にも、それは棲んでいた。
「…マハト、本当にごめん。これからはああいうとこには行かないようにするよ」
「期待しています」
それは、己の名をマハトと名乗った。
姿形は大きな角が生えているものの人間とほぼ同じであり、他の異形と比べれば親しみやすくはあった。眉目秀麗な顔立ち、腰の低い態度は、テレビから飛び出してきた有名人を思わせた。
マハトは名乗った後、虎杖に見え始めたそれらについての説明を始めた。
「ところで、悠仁様はもう入る部活を決められたのですか?」
「うーん、まだ迷い中だけど…」
この世界には呪いが実在する。
その事実を当時の虎杖はあっさりと受け止めた。今にして思えば、現実と空想の区別がついていない年頃だったからでもあるだろう。
呪いはいたるところから生まれ、マハトによればそれを祓う人間もいるらしい。なんだか漫画やアニメみたいだと、晴れて高校生になった今の虎杖は思っている。
マハトもまた呪いであり、人間と共存するために虎杖に仕えることにしたとのこと。
「今んとこ、オカ研にしようかなって思ってる」
「おかけん、ですか?」
「ごめんごめん、略称じゃ分かんないよね。オカルト研究会だよ」
どうして虎杖に仕えることにしたのかは、虎杖から見るとあまり釈然としない。理由を深堀りしようとしても、マハトはそれっぽい言葉を並べてきてはぐらかされてしまう。
虎杖が知っているのは、マハトが血縁が祖父しかいない虎杖の私生活をこれまで支え続けてきてくれたことだけだ。
「成る程、高校にはそのような部活もあるのですね」
「先輩見えてないっぽかったし、別に呪いを祓うとかしてるわけじゃないと思う。心霊スポットとか巡るって先輩は言ってた」
「運動部には入られないのですか?」
「入ったら爺ちゃんの見舞い行けないじゃん。オカ研はそこら辺緩いみたいなんだよ」
虎杖にとって、マハトは年齢不詳の親戚のような立ち位置だった。
なぜかは分からないがひたすらに良くしてくれる謎の存在。虎杖は当初随分困惑したが、今ではもう慣れてしまった。
それに祖父が肺がんで入院してしまった今、マハトが家での唯一の喋り相手だ。
「それに、心霊スポットに行くってことは呪いに遭いやすくなるってことだろ」
「そうでしょうね」
「先輩ら良い人だったからさ、もしやばそうだったら助けてあげたいんだ」
マハト曰く、呪いは呪いでしか祓えない。
虎杖は呪いは見えるが、呪いを扱うことが出来ない。故に呪いは祓えないが、彼には人並外れた身体能力がある。
仮に呪いと遭遇しても、人を一人二人連れて逃げ切ることは出来るはずだ。
「悠仁様、くれぐれも無理はなさらないで下さい」
「分かってるよ」
マハトは基本家に引きこもり、学校などに来ることはない。見える人間に目をつけられたら面倒だかららしい。虎杖の様子を見に割と遠くにある公園まで顔を出したのは、本当にきまぐれだったのだろう。
「…今度さ、マハトも病院来てくれよ」
「お爺様の見舞いですか? ですが私は呪いです。病院に行けば、弱っている人間に追い打ちをかけかねない」
「そうだった。ごめん、抜けてたわ」
虎杖が床を見つめる。マハトは心配そうな顔を形作った。
「悠仁様、お爺様は…」
「俺には隠そうとしてるけど、大分弱ってきてると思う」
親代わりであった祖父が着実に衰弱している事実を、虎杖は上手く吞み込めないでいた。
心ここに在らずといった様子の虎杖を慮るように、マハトは彼に声をかけた。
「そう悩んでいてはお体にも障ります。お爺様も、悠仁様の息災を願っていると思いますよ」
「だからさ、爺ちゃん出すのはずるいって」
そんな言葉を吐かれては、虎杖は前を向くしかなくなってしまう。
これは、マハトなりの励ましなのだろうか。
「とりあえず、晩飯食おっか」
「そうしましょう」
虎杖は台所へと向かった。
いつまでも、このような日常が続くと信じて。
一ヵ月も経たない内に。
「オマエは大勢に囲まれて死ね。俺みたいにはなるなよ」
虎杖の祖父、虎杖倭助は息を引き取った。
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